重層的非決定

モーニング娘。

L. Althusser

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■言説の内と外

仕事が大量にたまっているのに一向にはかどらない。ライブドア事件が面白すぎて、というわけでもなく、単に鬱状態が直らないだけだ。

まとまったことを書くだけの精神的時間的余裕はない。備忘録代わりにネットウヨの話をざっくり書く。

ネットウヨが敵対しているものは端的に言って「言説的構築物」である。理念・理想そういうものに込められた価値をかれらはうさんくさいものとして否定する。人権・平等、それらは偽善的なものとしてみられる。こうした言説的構築物こそがタブーを作り出す抑圧的なものだと捉えられているのだ。リアルな真実はこの言説的構築物の外部にある。そしてかれらがリアルだと感じるものはかれらのナイーブな感性なのである。

偽善的な言説的構築物の代表的なものが戦後民主主義であり、朝日新聞的言説なのだ。「人は平等です」、「差別はいけません」、そうした言説への拭いがたい不信感と恨みともいうべきものがここで表現されているのだ。恨まれているのは「説教がましい」「教育的な」言説なのだ。それは確かに抑圧されたという経験をかれらの心に刻印したのだろう。

一方、今、中国や韓国が目の敵にされていること自体は取り立てて珍しいものではない。隣国をライバル視すること自体はありふれたことであって、ましてや今中国、韓国とも「アジア一」の「経済大国」を自認する日本の前に強烈に立ちはだかっている。そうした対抗心が、ある閉塞感を持った社会においては、競争相手への否定的感情を呼び覚ますことは当然あり得べきことだろう。

だから「勝ち組」であった堀江氏がアジア関係において「良識」的であったというのも当然のことだ。ライバルの存在を事業のチャンスと捉えられるだけの余裕があるから「勝ち組」なのだ。中国や韓国の存在に脅威を感じ、また恨みを抱くというのはそれだけ今の社会に閉塞感を感じているということの証である。

今の反中・嫌韓感情とはこのような迫り来る、そして場合によっては「私」(の国)を追い落とす可能性を持っている(と妄想する-そしてその妄想自体は何ら「今」という時代に特有のものではない)隣国に対するある種平凡な反応なのである。その感情が言葉として垂れ流され、さらに感情が増幅されるという事態こそが問題なのであって、それはそうした感情の垂れ流し、増幅に釘を刺すべき理念的言説がその価値を失っていることによって歯止めがきかなくなってきているということを示しているのだ。逆に理念的言説の存在は、その言説への反感から、自らの実感により近い中国や韓国への否定的感情を語ることの方がタブーを打破する、革新的な行為だと捉えさせ、一層の「本音」言説を垂れ流させるという効果をもたらすことになる。言説的構築物への否定が、素朴ナショナリズムという感情を言説に編成するのだ。

こうした言説状況への対抗策はいろいろ考えられるだろう。かれらの感情そのものの持つ抽象性に目を向け、さらに具体的な感情を提供すること。理念的言説そのものを再建すること。そして今の感情から言説への単純な編成を混乱させること。

しかしそうした対抗策を講じる前に社会科学関係者として反省すべきことがある。それは言説的構築物の持つ価値それ自体を否定する議論をあまりに社会科学が無定見に重ねたことである。価値相対主義や脱構築といったそれ自体は実質的な価値を持った概念を、日本の社会科学はあまりに安直に消費してしまった。90年代後半の社会学系の学会報告などどこぞの具体的観察対象から「言説的構築物」を見つけてきて、それを指摘して悦に入る、というもので満ちあふれたものだ。

私たちの闘争の場はどこまで行っても言説内部でなければならなかった。言説の価値を言説の外部から攻撃するとき、シニシズムへの扉が開かれる。

2006/01/25(Wed) 00:52:15

■堀江氏への好悪

日曜日のサンデープロジェクトとかいう番組で田原総一郎とかいう斑ボケ老人がライブドア問題を扱っているときに、司会のうじきつよしにむかって「君はホリエモンが好きか嫌いか」とかいう訳の分からない質問をしつこく繰り返し、解答を強要しているのを見た。うじきもさすがに困って、「好きか嫌いかといわれても・・・」と口を濁し(まともな知性のある人間なら当然の反応だ)、それが一層田原のいらだちを駆り立てたようで、なにやら一人で興奮していた。

とそんなことはどうでも良くて、私は堀江氏(あ、今は容疑者なのか)を好きか嫌いか、といわれれば、まあ好きということは別にない、しかし嫌いかといわれても腹の底から別に嫌いではない、とそんな感じ。「腹の底から」と書いたのは、「好き嫌いの問題ではない」という「正しい」ことはさておき、本音の好き嫌いを聞かれてもそうとしかいいようがない、ということだ。さらに付け足せば、別に好悪の感情を持つ対象ではない、というほど突き放してみているわけでもない。そうではなくて、好きではない部分も確かにあって、でも嫌いになれない部分もあって、差し引き0だ、というぐらいの感じだ。有り体に好き嫌いで言えば楽天の三木谷氏のほうが私はよほど好きではない。

別にそんな私個人の好悪など書く必要はないのだが、やや扇情的な言説があふれ出しかねない今の状況、一応堀江氏について物した者として感情レベルのスタンスは表明しておこうと、何となく思った。

2006/01/24(Tue) 01:42:56