重層的非決定

モーニング娘。

L. Althusser

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■匿名性という正義

前のエントリの「追記」で書いたことをもう少し掘り下げてみる。

「実名晒し」に関する(はてなブックマークを含む)議論を読んでいて、これはざっくりとした印象なのだが、実名に繋がるヒントを提示したという小谷野さんへの批判が多い、というのは十分理解できるのだが、その反応が何となく全体的にヒステリックに感じる。普段は割と慎重な物言いをする人が一方的に小谷野さんを「いじめ」首謀者呼ばわりしてみたり、ブックマークなどでは小谷野さんへの人格否定発言にあふれていて、しかもそれを異常とも思わない批判派の人々。もし小谷野さんのブログにコメントがつけられたら間違いなく「炎上」していただろう。

なぜかかる状況になったのか。答えはある意味簡単だ。「正義」がかれらにあるからだ。荻上さんの「いやがる」ことをした小谷野さんを叩くのは「正義」にかなったことなのだ。小谷野さんの振る舞いは許されないし、この状況をそのまま放置するのは正義に反することなのだ。ここには「炎上」に繋がる力学が生起している。

そしてかれらの批判が、それ一つ一つは彼らなりの「正義」を確かにふまえているとはいえ、しかし私にはどうにもバランスを欠いているように思えてならない。筆名の荻上さんの実名を、実名主義の小谷野さんと、匿名主義?の2chのものたちが共同で晒しあげたとしよう。実際には小谷野さんは荻上さんがおそれる形(ネットで検索可能な形)では公開はしておらず、それを行ったのは2chの者たちではないか。ともあれ「実名暴露」を批判したければ、私だったら少なくとも小谷野さんと2chの者たちを同時に批判する。同じ強度でもって、同時に批判する。なのにかれらはそうはしない。小谷野さんのみを論難する。

これはどういう力学に基づいているのだろう。筆名者の持つ匿名性を擁護し、それを破壊せんとした実名者と匿名者に対しては実名者により厳しく非難する。自らの匿名性を固守し、顕名性をより保持している者に対して、その「弱み」につけ込むことも含めて、攻撃的になる。それはまさに2chと同じ力学ではないか。

ある意味仕方がないのだとも思っている。なんといってもこの件に言及している者の大半が匿名性を保持した発言者としての立場を最大限に享受している者たちだからだ(私もである)。小谷野さんの振る舞いは単に荻上さんへの攻撃にとどまらず、ネット発言者全体への挑戦と受け止められたのだ。

2007/12/29(Sat) 00:16:44

■匿名*性*をもった発言

クリッピング

乙〇君に告ぐ 猫を償うに猫をもってせよ

何故か今回の議論を読んでいたときにこのエントリを読み飛ばしていた。前半の実名と筆名の話は今の筆名ネットブロガーたちには理解・共感されがたいだろうと思う。でも私は理解も共感も出来るのだな。

実名を義務(法的にではなく倫理的に)づけると内部告発などが出来なくなるとかいう議論があるが、それは暴論だ。内部告発はまさに当事者として事態をうごかさんとするものの行為である。当事者としてその渦中にいる者であれば、相応のリスクは背負う。言論における他者批判とはまた別のものである。

私は筆名での他者批判もあり得べきとは思うが(私もやっているしね)、それはやはり「甘え」を含んでいるとも思っている。確かに実名の相手を批判したからといって、自らの実名を明かされたくはない。それでもそれもやむなしという程度の覚悟は「批判」というものには必要であろうと思う。もちろん「実名」の相手とはタレント・芸能人やスポーツ選手、政治家とて含むだろう。ただ「政治」に関しては発言者も必然的に当事者性も持ちうるので、ある程度匿名性を持たせるのもまた止むなしとは言えるかもしれない。

ところでここまで書いてきて、今更ふと気づいたのだが、「実名」と「匿名」の対立項に対して、「筆名」を「実名」とは別に立て、匿名とは切り離そうとする議論が多いし、それもまた理解できるのだけれど、それでも「顕名」性と「匿名」性の二項対立は以前残されている。「匿名」を何か固定された実体のように考えるから「匿名」の定義を巡って議論が錯綜する。あくまで方向性の問題としてとらえるべきだろう。そして「実名」を隠した「筆名」を匿名性をもったものとして考える立場はそれほど奇特な立場でもないし、それはすくなくともネット普及以前はかなりの程度共有されてきた理念であることもまた確かなのだ。イザヤ・ベンタサンなる匿名性をもった筆名者が「外国人」という特性を押し出して日本論を論じたことがあったが、さてこの人物は本当は誰か?は十分に議論に値する問題であった。今は「テクスト論」とやらの理論的援護射撃も得て、発言者の背景などというものは重視されなくなっているが、それは解釈論の問題であって、発言する者の責任論の次元ではまた別の議論があっても良いはずだ。特に論争的な発言においては発言者の立ち位置に匿名性を持たせるのにはいささか危うさを感じる。

リンク先の後段

インタビューでは「朝日新聞とか毎日新聞とか、新聞社のネットに関する特集って、どう考えても恨み節じゃないですか(笑)」という問題発言が飛び出している。(中略)

「2ちゃんねるに実名を書かれた」といって騒ぐのは、乙〇君の「恨み節(笑)」なのか。私は今回のメールのやりとりで、このことにも触れたが、同君は答えなかった。「炎上はなくならない」と書いたように「2ちゃんねるはなくならない」のか。存在を容認して批判されるのも嫌だが、2ちゃんねるを批判して祭られるのも嫌だという、そこに乙〇君の一貫した姑息さがある。何しろ乙〇君は、ネット群集の暴走の専門家である。そして、そこには群集批判があるわけではない。しごくクールに構えている。しかし、2ちゃんねるの被害に遇った人々、訴訟を起こして勝ったにも関わらず削除もしてもらえず、賠償金も払われずにいる人々が、「恨み節(笑)」などというコメントを見たら、どれほど不快だったか、同君にはそういう想像力が欠如している。そして、自分がネット群集の暴走の餌食になると、困る困ると騒ぎ立てるのである。

このあたりの議論も重要な論点を含んでいると思うが、何故かこの「論争」の「ウォッチャー」たちからはほとんど無視されている。結局この引用部の、少なくとも小谷野氏の立場から見える荻上氏の「想像力」の「欠如」は荻上氏が「匿名」性をもった発言者たることを選択したところと少なからず繋がっているように私には感じられる。

2007/12/28(Fri) 12:39:59

■コミュニケーションの非対称性ー匿名と筆名と実名と

「ウェブ炎上」の筆者でブログ荻上式の運営者荻上チキ氏の「実名」が本人不同意の元にネット上でさらされた件。

飽きの早いネット界の話題、既に沈静化しつつあるが、一時は大いに盛り上がっていたようだ。

だいたいの状況については上記リンク先とそこからのリンク先を見ればほぼつかめると思うので省略。早い話が「実名」で言論を続けている人(今回は小谷野敦先生)が、自分を批判的に言及した人(荻上チキさん)が「実名」を公開せずに「筆名」で発言している人であることを問題にして、たまたま知った荻上さんの「実名」に繋がるヒントを荻上さんの要請にもかかわらず公開した、というもの。全然早くなかった。

論点は明確。

  1. 「実名」を隠した「筆名」で「実名」の人への批判をすることの是非
  2. 本人が不同意であるにもかかわらず他人が勝手に「実名」(に繋がるヒント)を公開することの是非

ネットでまずもって問題にされているのは後者、実名を勝手に公開することの是非である。そしてほぼ大勢は決している。「許されない」。小谷野先生への非難囂々である。

まず第一感、それはそうだろうと思う。誰だって自分の望まない形で個人情報などさらされたくはない。特にネット上での検索システムが発達した昨今、誰がどのような形でその情報を目にし、それがどのような形で己の実生活に影響を及ぼすか分かったものではない。特に今のネットでの常識は「個人情報は徹底的に守れ」である。小谷野さんの振る舞いはそれに対する挑戦と見られることになる。

ネットにおいても、元々はそうではなかった。Webではなく、ネットニュースの世界では実名での発言が常識とされていた。まだネットが研究者が中心で使用していた頃の話、そしてその名残の話である。そしてその文化の支えになっていたのが、先に挙げた論点の前者である。「発言は発言者の責任を明確にして、実名にて行うべし」。そしてこの規範は研究者の世界ではほぼ守られてきたものであった。

小谷野さんはこの「常識」を常識としていた世代の人だ。一方荻上さんはネットが普及し、研究者中心のものでは遠になくなった世代の人だ。そこにも微妙な齟齬があったように思う。

そしてネットは現に今は今ある状況にある。小谷野さんの常識はもはや通用しない。その意味では単純に荻上さんの方に分がある話だとは思う。さらにこの件で意見を述べる人の大半が「筆名」ブロガーである。力学的にも小谷野さんに賛同する人は少数派だろう。

私は世代的にはその中間、「ネットの大衆化」を見守ってきた世代である。私が初めて「インターネット」に触れたのは大型コンピュータの訳の分からないメールシステムであった。WWWも既にあったが、大学のシステムの関係上使えなかった。しかしそれから瞬く間にネットは普及し、ネットでの意見交換もネットニュースが廃れ、WWW上の掲示板が席巻し、それでもメールアドレスをさらすのが常識であった時代があり、今やメールアドレスをさらすなんてとうてい推奨されない状況になった。

昔話はいい。とりあえず私は「筆名」主義者である。この場合の「筆名」とは「匿名」と対比させられるべきものである。黒木ルールに照らした意味での発言者の主体性、責任こそが最も重要であると考える立場である。その意味では実名以上に筆名をこそ重んじる。

その立場から見れば荻上さんの「荻上チキ」という「名」は筆名の中の筆名である。発言者の責任主体としては申し分ないように思う。そしてその筆名を一貫して守りながら、実名の無断公開を嫌がる荻上さんの主張ももっともだとは思う。

ただそれでも小谷野さんの言い分、あるいは心情にも私は分かるものがあるのだ。

筆名主義者として、私は匿名のものとの議論はしたくない。言及をされることも正直不愉快である。ここでの匿名とは必ずしも2chに代表されるいわゆる「捨てハン」だけを意味するものではない。hatenaなどで自らのブログをプライベートモードにして(あ、私もだ)、そのidで他所で発言を行うものも状況によっては含む。

この不快感は、端的に言えばコミュニケーションの際の非対称性とでもいうべきものである。背負うもの、守るべきものを持つものと持たないもののコミュニケーションはどうにも前者に負担がかかる。それなのに後者はもっともらしく「議論の中身で勝負」などという。仮に議論の中身とやらで不利になれば、リセットをかけて逃げてしまえる気楽さを担保したまま、そのようにいう。そのような不快感である。

同じ不快感を実名主義の人も背負っているのだ。そして匿名ならぬ「筆名」といってもやはり実名の人との間にはコミュニケーションの非対称性を生じさせているのだ。そのことは意識しておくべきなのだと思う。

確かに「ネットで発言するときにも実名でなければならぬ」という実名主義は今は受け入れられないと思う。そしてその代替としての黒木ルールには十分な妥当性があると私は思っている。ただそれでもってしてもなお、コミュニケーションの非対称性は逃れがたいものを残しているのだ。

溝は埋めがたいものがあると思う。筆名で実名のものの主張を批判すべきでない、などとすればネットでの言論は成り立たなくなるだろう。ただそれでもやはり匿名は筆名、実名に対して、筆名は実名に対して、多少なりとも甘えているのだ、ということは意識しておいた方がよいのではないかと思うのだ。もちろんそれを意識したところで、批判すべきものは批判するわけだが。ただ上記荻上さんのエントリーにそのような実名主義的立場に対する想像力がほとんど感じられなかったのも確かである。

ということで、私は上記「論争」、ネットでの大勢に反して小谷野さんに同情的なのだ。

2007/12/24(Mon) 16:10:28

■情報化社会における「いじめ」

クリッピング

ケータイメールが奪ういくつかの大切なこと

筆者はIT系のライターだが、いじめ問題についての考察が非常に鋭い。メールによって学校の人間関係が永続的なものになり、家庭に帰っても学校でのトラブルを引きずることになってしまうことに今のいじめ問題の深刻さを見る。

いじめとは個別行為ではなく、メッセージを介した関係なのであり、その関係が時間的・空間的に肥大化させられてしまうのがまさに今のいじめ関係なのだろう。

様々なメッセージが溢れる「情報化社会」、いじめメッセージもまたここ彼処にあふれかえっている。

2007/12/17(Mon) 10:53:27

■またまた大阪府知事選

何だ、結局出るんだ。

私まで振り回されてどうする。

ともあれ、自分の信じる正義以外の正義を掲げるものの価値を敬意を持ってみられない人間が政治に関わるというのはあまりよろしいとは私は思わないので、件の弁護士を政治家にするのは間違っている、と私は思う。

2007/12/12(Wed) 22:32:52

■一人旅行

先月末に広島へ行った話の続き。

原爆ドーム見物後は広島城に行く。アホなことに原爆投下時、広島城がどうなったのかさえよく知らなかった。己の無知ぶりにはあきれる。もちろん全壊している。だから今の広島城は戦後建て直したもの。そんな次元から勉強している。

広島城の中は博物館になっていて観覧料360円。毛利氏から江戸時代にかけての広島の歴史や当時の人々の暮らしぶりなどをざっくりと展示。360円なら安い。

夜は広島市内でライブ鑑賞。ホテルそばの広島焼きとビールで夕食をすませる。

翌日は広島電鉄で宮島口まで行き、フェリーで宮島入り。古き良き日本の観光地、という感じ。ツアー客がごろごろ。とりあえず厳島神社に行く。赤い建物が海の上に浮かんでいる様はやはり壮観。

それでも半日は時間がつぶせそうもないので、水族館に行く。入館料1050円。ちょっと古びた、割とありきたりな感じの水族館。可もなし不可もなし。一点、ウミヘビの説明文に「ウミヘビにはは虫類のものと魚類のものがあって」云々、と書かれていたのだが、魚類のウミヘビって何?それってウミヘビと違うやん、と突っ込みたくなったのだが、「ウミヘビ」と称する魚が本当にいるのだろうか。

さらにまだまだ時間が余ったので、宮島歴史民俗資料館に行く。入館料300円。こぢんまりとして古びた作り。江戸時代の商家を残して資料館にしていて、なかなか風情がある。展示物もなかなかで当時の代表的な民家を再現した展示品があったりして、江戸時代の庶民の暮らしぶりをリアルに想像できる。

特におもしろかったのが、毛利元就と陶晴賢の間で戦われた厳島合戦についての説明展示。かなり前に作られたもののようで、昭和初中期の絵本のような体裁。そしてそこに書かれている説明文が完全に「なき主君を思う忠臣毛利元就が逆臣陶晴賢を討つ」という勧善懲悪ものになっていた。

昼過ぎにフェリー乗り場近辺に戻り、穴子飯を食してフェリーで再び宮島口に戻り、今度はJRで広島市に戻る。そこから新幹線で博多入り。夜は博多市内でライブ鑑賞。夕食は豚骨ラーメンとビール。我ながら健康的な食事だ。

翌日は西鉄特急に乗ろうと思い、行き先を眺める。特急停車駅で比較的近場を探すと途中乗り継ぎで太宰府へ行けば観光も出来るのではないかと思い立つ。というので西鉄特急のゆったりしたクロスシートに座り、これが特急料金不要とはお得だと満足、いつもは新幹線ばかりなので、私鉄による鉄道旅行気分を満喫する。

太宰府天満宮は、当然のことながら梅は咲いてなくて、それでも紅葉はそこそこ綺麗で、久々の寺社見物気分を味わう。そのまま九州国立博物館へ行く。入館料420円。宮島歴史民俗資料館とは対照的で近代的で大仰な作り。展示テーマも壮大で縄文期から現代までの「海」を介した文化交流全般を扱うという。悪くはないが、宮島歴史民俗資料館のほうが面白かった。

昼過ぎに博多市内に戻り、昼食を食べる場所を探してうろつく。「親不孝通り」とか面白いかなと思ってのぞいてみたが、昼間だったためかそれほど面白い店もなく、結局JR博多駅前で地鶏塩焼き定食を食する。食事ということでは無難かつ面白みのない旅であった。

帰りはひかりレールスターの4列シート。車内検札もなく、気分良く大阪に戻る。そういえば前に東海道新幹線で、うっかり座席を間違えて座って、検札でも何も言われず、次の駅でその席の本来の客が来て恥をかいたことがあった。わざわざ客の手を煩わして車内検札する意味がない。山陽新幹線では発売済みのチケット情報と照らして車掌が座席チェックをしているので、間違った席に座っていたらきちんと指摘してくれる。JR東海にも見習ってほしいサービスだ。

広島北九州と中学の修学旅行と似たコース。萩のかわりに宮島、鉄工所工場見学のかわりに太宰府天満宮と博物館、おまけに夜はライブを2回鑑賞、悪くない旅行だった、って中学の修学旅行と比較してどうする。

2007/12/09(Sun) 15:41:01

■大阪府知事選続き

あ、結局自民党の要請は受けなかったのか。

ちょっと評価あがったかも。丸山弁護士みたいにのこのこ出てこなかったというだけでも。

2007/12/06(Thu) 23:20:44

■芸能人大好っき大阪人

大阪府知事選

何だ、太田さんの方が良かったじゃん。

今からでもいいから太田さん、出馬してよ。出馬したら、私投票、・・・しないけど。

選挙権ないし。

何だ、意味ないじゃん。

2007/12/05(Wed) 23:15:59