モーニング娘。
L. Althusser
今更ながらに気づいたことで、訪問者には誠に申し訳ございませんが、ブログシステムに未完成のところがあり、
・日付ごとの表示が出来ない
・レス表示モードでは「追記」部分が表示されない
という状態になっています。
小手先で修正できると思っていじってみたが、そんなに簡単ではなかった。どんどん訪問者が来られている中、ご迷惑をおかけしますが、ご容赦を。
「はてな」のアンテナに再び補足されるようになったようだ。
先日、「はてな」の質問フォームよりこのページが補足されなくなったことについて問い合わせた。それに対する返事はまだないが、このタイミングでの復帰、何らかの技術的な対処がなされたのではないかと推察する。政治的な対処であれば、もう少し時間がかかるだろう、ということでお騒がせしました。
今、関西では「カバチタレ」というドラマの再放送をやっている。女性行政書士が法的な問題で困っている人を助けていく、というストーリーだ。
最後の山場は弁護士との対決。「あなた達のやっていることは非弁活動です。訴えます」と宣告される。そこで女性の勤め先である所長が啖呵を切る。「困っている人を助けるのに資格なんて関係ない」。
西村議員との「違い」は、この行政書士は書類作成題のみを受け取り、相談は単に「友人」としてやっているのだ、と主張する余地を残していること、ただそれだけだ。しかしその相談が書類作成代金を受け取る前提として、いわば「営業」活動であると言われれば、大差はない。
非弁活動、偽札、偽医者、いずれも制度への信用問題という側面を持つと同時に、権限の独占という側面も持つ。もちろん両者は同じことを少し違う角度から表現したものにすぎない。相反する二側面、ではなくて、完全に同じものだ。
西村議員の行ったことは紛れもなく法律には反していたのだろう。おそらくそこには議論の余地はない。しかしそれをさらに踏み込んで、そこに「邪悪な心性」までをも読み込ませようとする言説には違和感を覚える。間違った行為は、必ずしも邪悪な心性から生まれるわけではない。そこは切り分けていく必要がある。
ここで天皇制のことを書いて以降、はてなアンテナからまったく更新情報が取得できなくなったのは偶然か。いや、反語ではなくて、本当に分からない。手動更新をしてみたり、いろいろ試しては見たのだが、すべて駄目。こっちのサーバやブログシステムの設定もまったく変えていない。
もし何らかの必然性が確証できたらはてな自体を止めようと思う。けれど今のところまったく見当がつかない。大体「止まった」おかげでアンテナにはいつまでも天皇制への言及が残り続けるのだから、そういう意味はないはずとは思うのだが。
謎である。
あまりに頭が悪いんで晒しておく。文句があったらコメントによろしく。
二千年続いてる伝統に対して、「人権」なんて発明してから200年にも満たない概念を振りかざしてあれこれ指図できるって考え方はちと「近代人の傲慢」を感じちゃいます。
その「人権」とやらの恩恵を存分に受けて生活している現代日本人がよく言うよ、と思う。「200年に満たな」かろうが、それがどういう歴史的経緯を経て、どれだけの人々の犠牲を払って、「近代」に根付いてきたか、それが根付かない社会がいかに悲惨な社会か、少しは勉強したらどうか。これほど歴史感覚のない人間が「歴史」などと曰うのは恥の上塗りのその上塗りだ。
こういうアホがモーヲタをやっているとモーヲタ全体がアホに見られて困る。モー娘。ほど大きな物語を反復する現象も珍しいのに。まったく持って残念だ。
西村慎吾議員が逮捕。
まあ、もともと政治思想的に評価できるところゼロ、さっさと政治生命たたれてくれていい、のはそうなのだが、それにしても「せこい」ことで捕まったものだ。
「せこい」というのは西村議員に対する評ではない。「非弁活動」という違法行為が「せこい」話なのだ。辻本議員が逮捕されたのと同じレベルで。良いこととはもちろん言わないし、やったことそれ自体は弁解の余地もないことだが、しかしそれはそれほど本質的に「けしからん」ことか、というとそんな気がしない。もっと「けしからん」ことは世の中いくらでもあって、西村議員のやったことは弁護士としては失格だが、政治家としては「せせこましい」話にすぎない。
もちろん「資格」というのは貨幣と同レベルで信用で成り立っているもので、その制度を崩すその手の行為は重罪だ、という主張もあるし、それは正しい。しかし実際の行為の及ぼす効果は、原理原則に比して、たかが知れているものだ。
西村議員の政治生命は、もっと別な次元で絶たねばならない。
仕事で非常に理不尽なことが続いて、精神が荒んでいる。
いったい何で・・・・・。
え、それって私が悪いということになるのか?
そこでそういうことするか?
愚痴り出せば止まりそうもない。といって、もちろんここで愚痴っても、もとより仕方がないし、ここにかけないぐらい具体的に書かないとそもそも愚痴りたいことの内容も伝わらない。
愚痴っても仕方がない、というのは正しいが、それを分かって愚痴るのが愚痴というものだ。そうして精神のバランスを取らなければならないときと言うのが、きっとある。
そうなのだ。今の私の最大の問題は、愚痴れる相手がいない、ということだ。
世の中「無知」で「浅はか」な人間というのはいるもので、例えば靖国参拝に否定的なのは中国韓国だけなどと惚けたことをいう麻生とかいう政治屋それ自体はどうでもいいのだが、そんなのを評価して麗々しくブログで書く奴なんていうのがそれに当たる。
靖国参拝が東アジアの安定に大きな障害になっていることはちょっと東アジア情勢に関心を持っている国ならどこも知っていることで、当たり前のことながらアメリカだって知っていて、小泉が靖国参拝に固執することには否定的だ。そんなことも知らない。「無知」。
それでも直接の当事者は日本と中国、韓国なのだから、当事者として他国よりも積極的にものをいうのは当然。中国韓国と同じレベルで例えばカナダが文句言うはずがない。だからといって肯定的な発言をしているわけでもない。「他から言われたことはない」などと小学生レベルの戯れ言を言う麻生はどうでもいいが、それを肯定的に評価する浅はかさたるや。ネットの「言論人」のレベルたるやこんなレベルなのだ。
鬱状態の間も、ずっと注目していたのがソニー。くだんのSony BMGのrootkit問題ではなくて、Walkman問題。
ソニーが11月19日だかにまたWalkmanの新製品を出したのだが、これが非常に評判が悪い。これまでWalkmanは出すたびにAppleのiPodに負け続けていたのだが、今回の製品に関しては敵はiPodではなかった。
真の敵についての話の前に、20GBハードディスク内蔵型Walkmanの*成長*の過程を概略しておこう。
初代 110g
二代 110g
三代 130g
四代 135g
最新 182g
見よ、この成長ぶり。順調に大きくなっている。わずか一年ちょいのあいだでの成長だ。この成長ぶりを見ただけでも実は敵はiPodではないのではないか、と思えてくる。
しかし今問題になっているのはそんなことではない。この新Walkman、大々的に発売された割には大手ニュースサイトの取り上げ方が寂しい。取り上げるにしても非常に及び腰だ。大体の論調をまとめるとこんな感じ。
ハードウェアは個性的で、評価してもいいような気もする。
付属の転送ソフトの出来は、とても重くて、不安定なことをのぞけば、問題なく使える。
ということで、問題になっているのは、この転送ソフト、Connect Playerである。早い話、動作が耐え難いほど重く、不安定だというのだ。重くなってしまったのにはいくつかの理由がある。一つは「アーティストリンク」なる自分の持っている曲から、似た傾向の曲をWalkmanが推薦してくれるというよく分からない機能に対応するためだという。私が持っている曲はほとんどすべてがハロプロ関係なのだが、それらは当然関連が強いに決まっているのだが、で、何をご推薦いただけるので?と聞きたくなるのだが、そんなパラノイアは放っておいて、自分がどのアーティストの曲を持っているのかさえ把握し切れていない音楽ファンにはありがたい機能なのだそうな。よく分からん。
そんな機能のために、重くなるのは納得できない、とその機能を切れば、多少は増しになるらしいが、それでもやはり重く不安定らしい。そしてその真の原因はどうやらとてもやっかいなことのようなのだ。
技術的な話をくどくど書いても仕方ないので政治的な話を中心にざっくり書く。
なにやらApple社でQuickTimeの開発に関わったというその世界の有名人が壮大な構想を持っていて、それをSonyに売りつけたらしく、Sonyはそれにのってその新技術をベースにこの転送ソフトを開発したというのだ。その新技術とやらはとても壮大な構想を持っているものであるだけに、構造的にリソースを喰いまくる代物なのだそうな。社内の実際の開発者は、そんなもの使わず普通にC言語を使ってプログラミングしたいとかいっているらしいのだが、上の人たちはその壮大な構想に乗ってしまって、その糞重たい開発環境を使うことになってしまったのだそうな。
つまりこの添付ソフトは構造的に駄目なのであって、ここでいう構造とはソフトの構造だけでなく、それを開発する社内の構造という意味も含み込んだものであって、そのレベルで腐ってしまっているWalkmanはもはやiPodに太刀打ちできる余地は全くないのだ、と。
つまり敵はiPodではなく、内部の腐った構造なのだ、とそういうお話。
久々の更新。
ずっと仕事を抱えていて、といってずっと作業していたわけではなく、単にその作業をやりたくない~と鬱状態で精神的に引きこもっていただけである。
実際作業をやり出せば20時間程度で終わった。それでも昨日はほぼ徹夜。今日(25日)の26時回ったところでようやく完了。締め切りは25日だったのだが、これは間に合ったことになっているのだろうか。微妙だ。
しかし終わったものは終わったということで、寝る前の腹ごしらえに喰らうカップチキンラーメンの旨いことよ。
生きていて楽しいかい。
紀宮清子さんが結婚するとかしたとかで、テレビでは自称天皇主義者たちがここぞとばかり、しゃしゃり出ていたらしい。見ていないから実感はないけれど。
「様からさんへ」とか訳の分からないジャックを付けていたのも見かけたが、笑ってしまった。手前たちが勝手に「様」だとか「さん」だとかレッテル貼り付けておいて、「様からさんへ」はないだろう。彼女が何か変化したわけではなくて、手前たちが勝手にレッテルを貼り替えただけではないか。
おお、そういえば今は女性の皇族は結婚すれば皇族を離れるけれど、女性が天皇になれるようになったら、結婚後も皇族に残るとかそんなことを聞いたな。行政スリム化のこの時代に、税金で養う皇族をがんがん増やすのかよ、やっぱ男女平等は大事だが、女性が天皇に付けるようにする、というのは別の意味で時代に逆行しているな、それならやはり私の前からの主張、男女平等のために男性も天皇になれないようにするのがいいんじゃないか、なんてことを繰り返してみたりするのだけれど、じつは前の段落といい、ここの段落といい、記述に力がない。
生粋の天皇主義者としては天皇制の問題は常に中心的な関心を持つべきだと思ってきたのだが、正直もう駄目だ。天皇制に興味が持てなくなってしまった。たしかに天皇がらみの話が出るとしゃしゃり出てくるおっさん、おばはんどもは相変わらずうっとうしいが、いってしまえばその手合いは「死滅」寸前なんだよね。いかにも天皇制とは民主主義とは本質的に相容れない制度であることも間違いはないが、逆に反民主主義的な勢力が常に天皇制と結託するわけでもない、当たり前のことだが。そして今、民主主義の最良の部分を挑発し続ける勢力を支えているのは天皇制とは断絶した連中なのだ。表立っている輩は確かに天皇制に近い。石原慎太郎しかり、安倍晋三しかり。しかし彼らにまとわりついている言説は天皇制のものとは違っている。
天皇制は確かに隠然たる影響力を持っているのは確かだ。それは確かに社会経済的土台を形作る部分に根付いている。しかし言説の次元での天皇制の退潮も明らかだ。
天皇制と戦わんとするものは長期戦で戦い給え。私はさしあたっての言説状況と戦おう。その先に天皇制が見えてくるまでは、しばしのお別れだ。
ソニーが発売するCDにいわゆるrootkitが仕込まれていたというニュース(日本で発売のものではない)。
「著作権保護」をしようとする側は、なんというか、強迫神経症の症状を呈しているように感じるときがある。「俺たちの権利が侵害されている」。その「被害者意識」で凝り固まっているようだ。
2011年に否応なく切り替わると「脅されている」地上波デジタル放送もそうだ。デジタルになったところで、一般視聴者にとってほとんどうれしいことはない。画質が向上するといっても、今のアナログ放送の画質でほとんどの人が満足しているのだ。放っておいても移行が進むはずがない。だから国策としてアナログ放送をぶち切ってデジタル放送に一本化するのだという。大量のゴミとなりかねないデジタル放送非対応のAV機器の山をどうするつもりだろう。今でも売れ続けているアナログ放送対応テレビ録画装置群をどうするのだ。いくら外部チューナを付けたところで、アナログチューナはすべてゴミになる。テレビ本体は生きる道があっても、録画装置はほとんどゴミとなるほかない。誰がそれを望んでいるのか。「著作権者」だ。
著作権などどうでも良い、などといいたいわけではもちろんない。しかしまた今現在の状況が、「かれら」が喧伝するほどひどい状態だとも思わない。大体「iPod課金」といい、「著作権者」と称してしゃしゃり出てくる連中の大半は他人の著作権料を食い物にしているだけで、自らたいした著作物を生産しているわけでもない。
かつて芹澤博文という将棋指しがいた。政治思想的には今の私とは対極にあったが、しかし彼の本の中に忘れられない一節があった。今その本が見あたらないので正確ではないが、概要はこんな感じ。
将棋連盟がプロ棋士が指した将棋の棋譜を「独占」して、何とか金儲けの具にしようとしている。浅ましいことだ。将棋指しは「文化」を職業に出来たこと、それ自体がとても誇らしく、幸せなことなのだ。
あり得べき利益を最大限に見積もり、それから漏れた分を損害と見積もり、被害だと騒ぐ。その被害の回復のためにはrootkitをPCに仕込むことも、ユーザの必要としない機能に無理矢理移行させて、ゴミの山を作ることも、料金の二重取りをすることも恬として恥じない。真に浅ましいことだ。
「住居侵入で罰すべき」 通報住民が証言 政党ビラ配布(asahi.comより)。
住民は「治安が悪くなり、ピッキングなどの不安もある。敷地や建物に住民の許可なく入ってはいけない」と述べた。
尋問は住民と傍聴席をついたてで遮って行われ、住民の氏名、職業も明らかにされなかった。弁護側は「公開の原則に反する」と抗議したが、住民は「私を知ってほしいという気持ちはないし、治安が悪化したので何が起きるか予知できない」とし、裁判所はついたての使用を認めた。
「住人」は「住人」でもかなり偏った思想をお持ちなのでしょうね。
「安全」を旗印にした言論・政治活動の抑圧。この人物はおそらくいわゆる「確信犯」だが、この手合いにだまされて、「安全」を人々が過剰に希求するとき、「民主主義」のバランスは大きく崩れる。そのバランスは元々あまりにもきわどい。ほとんど起こりもしない恐怖への妄想が「安全に越したことはない」という一般論で拡大していく。
その行き着く先は恐怖の管理国家か?いや、それもまた妄想だ。そうではなくて、それ以前よりほんの少しだけ「自由」が失われ、ほんの少しだけ言いたいことが言えない、それだけの状況が到来するだけだ。だから私たちはそれに気づかないふりをしてやり過ごすことも出来る。失ったものはごくわずかなものだ。守ったものは生命というかけがえのないものだ。何を惜しむことがあるだろう。
忙しい一週間だった。今週の労働時間40時間。過労死しそうだ。
そのストレス解消というわけでもないが、リビング用PCを新調。
VAIO VCG-RC70S。デスクトップVAIOの最上位機種の直販カスタマイズモデル。ビデオ編集なんてやらないので、オーバースペックなのだが、最上位機種といってもデスクトップVAIOシリーズでモニタ別で購入できる唯一のモデルなので、かえって安くつく。
メーカー品ならではの凝った筐体で、空冷式なのに静音性が非常に高い。同じ部屋に置いてあるNASの玄箱よりずっと静か。二番組同時録画が出来ることと併せて、非常に気に入った部分。
逆に気に入らない部分。ビデオ出力が省かれている。これは購入するまで気づかなかった。リビングPCとしては場合によっては致命的ではないか。「ある」機能はカタログを見れば分かるが、「ない」機能はなかなか気づかない。
テレビ視聴、ビデオ録画その他諸々統合ソフトのDo VAIO。機能がどうとか、UIがどうとか言う以前に重すぎる。CPUがPentiumD 2.8GHzでありながら、その前に使っていたVAIO R50(CPU Celeron466MHz)で同じくテレビ視聴、ビデオ録画ソフトのGigaPocketを起動するよりずっと起動に時間がかかるというのはどういうことだ。
NEC ValueStarG TypeC(水冷式)との比較検討をもう少し新調にやれば良かったかと微妙に後悔。
月火水と東京で仕事。
仕事先のホテルで同業の企業研修の場に居合わせる。
食事の場所が一緒だったのだが、その後一行様、なかなかマナーをわきまえず、騒々しい。「黙って食べるのではなく、お話をしながら、楽しく食事しましょう。・・・お醤油などをとろうとする時に少し距離があったら、無理に自分でとろうとせずに、近くの人にお願いしましょう」といった「訓話」が延々と続き(しかも大声を張り上げて)、最後に「気をつけ!いただきます」の号令。「ほかにお客様がいらっしゃる場合には少し気を使って・・・」。いや、訓話たれている君がぜんぜん気を使えていないから。
いくら「近頃の若者」相手の新人研修といっても小学校の修学旅行じゃあるまいし、と思って参加者の顔を見るとなんとなくふけている。「教育係」みたいなのがいっぱい混じっているのかな、と思ったが、あとで研修の看板を確認すると、某研修屋の主催する「管理職研修」だった。そりゃ、おっさんばかりだわな。
え~と、再度確認しますが「管理職」研修ですよね。小学校の修学旅行じゃないんですよね。
研修屋選びはくれぐれも慎重に。というか、企業側もわかっていて依頼しているんだよね。就職する企業選びはくれぐれも慎重に。いまさら言うことでもないな。
RSS対応といいながら、そのURLを書いていなかった。誰も関心ないと思うけれど。
http://kyoto-edu.bne.jp/~althusser/blog/index.rdf
これをたとえばFireFoxの「ライブブックマーク」に登録すると、このブログのタイトルが見られるようになる、と。別にうれしくもないけれど。
遅ればせながらの補足。
本サイトはRSSリーダーで読めるようになりました。ま、自己満足だけど。
ついでにはてなの方には自前でカウンタを付けてみました。有料オプションを使わずに提供されているカウンタは、ページが読み込まれると単純にカウンタを回す仕様なので、実際にページ閲覧者数とは大きくずれた数になってしまいます。それを少し補正をかけた、ちょっとまともなカウンタに変更。どのくらいずれるか実験中。
ま、自己満足だけど。
mixiに対する私の違和感は、その何とも言えない中途半端さだ。クローズドとオープンの切り分け方への感覚が私のそれとは決定的にずれている。
クローズドなコミュニティを簡単に作れるツール、というのは、私がそれを必要とするかどうかは別として一般的には、悪くない。本来グループウェアなり、パスワード付き掲示板なりを使えばすむことだが、それを用意するのが面倒なこともあるだろう。それと同等の機能を簡単に提供しますよ、というのはもちろんあり得べきサービスだ(し、そういうサービスも実際いろいろある)。
しかしmixi(というかSNS一般か)はそうした機能に別の機能がついている。それは100万とも言われる会員全体にオープンに出来る「コミュニティ」やら日記やらの存在だ。そしてむしろそちらの方がメインであるように感じる。
私が「あり」だと思う「クローズドなコミュニティを簡単に作れるツール」というのは、コミュニティを作ること自体はオープンに出来、その参加者を作成者の意図に従って制限できる、というものだ。つまりサービスそれ自体は開かれたものであり、その中でプライベートな空間を作れると言うことだ。いわば電子メールの延長線上にあるものだ。
mixiはそうではない。サービスそれ自体が閉ざされたものでありながら、一旦そのサービスを受けられるようになった者は、その空間内でのパブリックなコミュニティに参加できるというものである。なんと言っても参加者100万だ。mixiの作り出す空間はすでにプライベートなものではない。パブリックな場でありながら、その参加者制限を行っているのだ。それはつまりパブリックな情報へのアクセスに、明確な差別を作り出すことに他ならない。
そしてまたこのサービス自体が一つの企業が提供しているものだから、その運営はその企業の思いのままだ。それはもちろん否定されるべきことではない。しかしそれはインターネットが作り出した言論空間とはまったく別のものであって、あくまで特定の企業が提供する情報サービスにすぎず、またそれは多分に情報間格差をもたらす可能性を持ったものである、という限界を忘れるべきでもない。それは断じて「情報のインフラ」として使われるべきものではない。
mixiなるSNS(Social Network Site)が流行っているらしい、というのは耳にしていた。何か閉鎖的なところらしい、という印象を持っていた。会員から招待されなければ入れない、一見さんお断り、あまり好きなやり方ではない。阿漕な会員制クラブのやり口ではないか。mixi八分という言葉もあるらしいが、わざわざネット上にそんな内輪空間を作って何が楽しいのか。
一応内輪(内輪と言うには会員数は膨大だが)という建前だから、例えばそこで書かれている日記への批判もネットでは出来ない。私の思う言論の理想は、読み書きはオープンに、しかしその内容には責任を持って、というものだ。mixiの発言空間はその真逆にある。オープンな批判の対象とされぬ言論など読むに値しない。
どのみち招待してくれる知り合いもいないし、永遠に無縁の場所だろうと思っていたのだが、仕事関係でmixiが話題になり、後学のために入ってみればどうか、とお誘いいただいた。せっかくの機会、軟弱なことに簡単に主張を変えて、入会してみる。
まだ全然全容が分からない。とりあえずは極端に狭くて不自由な空間のインターネット、という印象しか持てない。
狭い空間だから、プライベートなこともある程度は書ける、とかそういうことを聞いたことがあるが、私にとっては逆だ。狭い空間なればこそいちいち取り繕わなければならない。仕事関係で招待された以上、モーヲタとしては振る舞えない。政治ネタも御法度。またどこかのページを見れば足跡が残る。常に行動が筒抜け。とても狭い村社会。
シチーボーイの私には無縁の場所だった。
三笠宮某(漢字を探すのが面倒くさい)という皇族系の人が、天皇相続の件でおもしろいことを言っているようだ。
「男系は古来から守られてきた伝統云々」。
それは前にも聞いた気がする話だから、今回はスルー。で、具体的にどうするよ?
いろいろな案があるらしいのだが、その中の一つがとってもファンキーでラブリーだ。
「側室制度」。
ブラボー。いいじゃん。最高だよ、三笠宮さん。昔から変わった人だと思っていたけれど、最高だよ。
え~と、正妻はなっちこと安倍なつみで、大谷雅恵と高橋愛を側室ということで一つよろしく。
え、おまえは関係ない?それは失礼をばいたしました。
備忘録代わりに、このサイトで本来一番取り上げたいテーマを書いておこう。
「執着」。
前のエントリで書いた「女の欲望」も、女というセクシュアリティに*内在*する執着の問題である。一応よけいな補足だが、*内在*には生物学的決定論的な含意は一切無いので念のため。
私が2chにそれこそ執着するのは、まさにあそこは執着の博覧会場だからである。この「執着」の問題が、政治を含めた社会を語る上で、欠いてはならないものだと感じている。「若者の右傾化」という政治・社会状況もある程度は機能主義で解釈できてしまうが、それはおそらく結果論にすぎない。むしろその結果を支える社会病理としての「執着」をこそ問題化するべきなのだ。
機能主義は時として陰謀論に陥る。しかし「右傾化する若者」にたいして「君はだまされている」などと説いたところで、およそ何の意味もない。諸個人は各々「自由」に己の政治的選択を行っているのであって、その集積としての思想状況を一部のものの思惑でうみだせるものではない。政治的状況と思想状況はいずれかが原因で、いずれかが結果であるというような関係にはない。それらは亀裂をはらみながら、しかし一つとなってお互いを産出しあっている、そういう関係にあるのだ。
今、両者のエネルギーが実に上手くかみ合ってしまっている。そして小泉自民党はまさにそのような状況の中で生まれてきた。そうした中、言説生産者としての「私」ができることといえば、「右傾化する若者」たちのエネルギーの発露を徹底して拡散させること、そのような言説戦略を実践しつつ構築していくこと、それぐらいしか思いつかない。
今から約一年半前、イラクで拉致された青年への「義憤」に満ちた非難が2chのモーニング娘。関連掲示板にも吹き荒れた。「正義」の立場に立つかれらには何を言っても通じない。私はいたたまれず書き込んだ。
「ののたん奇跡!」
そのスレッドにいたモーニング娘。ファン(当然そのための板なのだから数多くそのスレッドにいたわけだ)がたちまちそれにのり、そのスレッドは突然「ぐだぐだ」になった。モーニング娘。に関心なく、単にバッシング目的で来ていたらしきものがぼやく。
「これだからモーヲタは」。
とてもささやかな「成功」体験。
重層的非決定?でモーニング娘。の新曲「直感」を取り上げたが、やや中途半端なものだった。もっと伝わるか伝わらないかぎりぎりの線を狙いたかったのだが、どうもあっちは大通り、あまりにマニアック(アカデミズムというのは所詮マニアのお遊びだ)に走るのもいかがかと思い、自重した。さりとて「下ネタ」としか読まれないのも癪、というのでネタとしても半端なものだ。
ネタ晴らしも含めてもう少し詳細に、言ってしまえばあからさまにここに書き直すことにする。
もともと「直感」という曲は「愛の第六感」という昨年の秋に出たアルバムの収録曲だった。サブタイトルが付いていて、それは「時として恋は」である。そして歌詞自体はサブタイトルから想像されるとおりのものとなっている。「欲望にきりは無く」というフレーズがやや目を引くが、それ以外は割とありがちな詞となっている。
ここで歌われている恋愛は、しかし、かなり抽象的なものであり、具体的な場面を想定しているものではなく、一般論としての「女の恋愛」のあり方を、やや煽り気味に歌ったものである。
このときの詞の中にも「逃した魚は大きいぞ」というフレーズは出てくる。もちろんこの「魚」は恋愛対象のことであり、(詞の世界が具体的な相手を想定しているわけではないところからも明らかなように)抽象化された「男」を指している。そしてこの解釈は、この曲の歌詞を読むなり、ちょっと意識して聴くなりすれば、万人がそのように理解できる。
この曲が、歌詞を変えてシングルとして新たに発売されることになった。そして曲名も若干代わり「直感2~逃した魚は大きいぞ!~」となった。ここで歌詞を字義通り読めば(といっても未だ私は一番しか聴いていないので、その先は知らない)、「恋愛」がテーマではなくなり、一般的なサービスにおいて選択を迷う女心が歌われていることになっている。ここで「魚」は「男」よりもさらに抽象化された「財・サービス一般」を指すことになる。
もちろんこのシングルだけを聴いたものは、よほどのフロイト・ラカンマニアでもない限り、その解釈で終わるだろう。しかしアルバムを持っているものには、オリジナルの残像が残る。「魚」に「男」の残像を残して抽象化すれば、それは「ファルス」を指すものと読める。そしてそれを補強するフレーズに出会うことになる。
「無くなったその後に、ものすごくほしくなる」
教科書どおりの「女の欲望」が描かれているわけだ。
しかしだからといってシングル曲だけを聴いたものが、この曲に込められたメッセージを受け取っていない、ということでは全くない。まさしく「女」が希求する「財・サービス一般」こそがファルスの現実的形態なのであって、結局のところ*同じ*メッセージを受け取っていることには相違ない。むしろ「欲望」の対象を恋愛という次元に押し込んでいるアルバム曲の方がずっと平凡なものになっており、シングル曲の方がよりずっと強烈なメッセージを発しているのだ。
昨日は朝9時半からよる8時半まで仕事。途中昼休憩を挟んで一日十時間労働。移動時間も含めれば食事、労働、睡眠だけで一日が過ぎる。なんと憲法第二十五条の精神に反した生活を送っていることよ、と思っていたが。
仕事が終わると疲れて、とりあえず音楽でも聴こうと、安倍なつみがイベントで歌った「チェインギャング」の映像を入手して聞き込み、日付が変わる前に眠たくなったので寝て、朝5時半に目が覚めて、久々にサイトの更新をする。
という何とも健康的で文化的な生活が送れてしまった。
本日も昨日とほぼ同じ生活を送ることになる。労働の再生産に必要な食事と休息を己の裁量で取る、しっかり資本の歯車となった生活を送っているわけだ。
こうした生活を送っていると、いかにも実感できるのが初期マルクスの「疎外」概念である。後期マルクスの「論理としての資本性」は実感するには精緻すぎる。粗雑なだけに実感レベルに近いのは「疎外」である。
私の仕事はほぼ7割が文章を書くことなのだが、しかしその文章は私の外部からやってきて、私の身体を通り抜け、そして去っていく。決して「私のもの」とはならず、私にとって疎遠な対象物として振る舞い続ける。私は何かを生産しているらしいのだが、それは私とは関わりのないものである。私はそのような排泄物を「生産」し続けるために、日々飯を食らうのである。