モーニング娘。
L. Althusser
重層的非決定?で、「はてな」のモヒカン族グループに触発されて、モヒカン族とムラ社会住人の「対立」を取り上げた。これはここでかつて取り上げた「ネット文化の変質」と同質の話である。つまりネットという情報流通の場における文化的な対立である。
モヒカン族とは技術志向・論理志向が強い一派であるとされる。もともと技術系研究者の道具であった時代のネット文化を引き継ぎ、システム的な視点で価値判断を下す。一方ムラ社会とは「世間」「常識」を規範として行動する一派である。自分たちが生活している日常生活世界の流儀をネット文化にも持ち込む。
両者の対立をモヒカン族側から総括すれば、仲間意識や因襲・感情に縛られた「ムラ社会は非合理的である」と主張したくなる。モヒカン族の説明にもあるとおり、システム的な視点とは「合理性」と親和性が高い。それは確かである。しかしまた一方でモヒカン族は「差異性」を尊重・重視するとも書かれている。ここが面白いところだ。
ある種の合理性は「差異性」を抑圧しようとする。均質化した集団こそが合理的な集団である、というのは軍隊やある種の企業をみればその通りである。そしてこうした軍隊や企業がもっとも典型的なムラ社会を形成する。つまり合理性の追求はモヒカン族とムラ社会を隔てる要素とはならないのだ。むしろ合理性を盾にムラ社会を守らんとする言説がネットには満ちている。日本の国益を守らんがためのナショナリズムの高揚、靖国参拝賛成、ネットウヨの主張も合理性に根ざしている。「非合理性」を盾にムラ社会を攻撃したところで、その批判はムラ社会には届かない。
モヒカン族が差異性を重視するというとき、そこで追求される合理性はムラ社会の合理性とはまた別のものになるだろう。両者の違いは合理的であるか否かではなくて、合理性の種類の違いなのである。もちろんネットという場はムラ社会の信じる均質性を支えとした合理性ではなく、差異性を重視した合理性を展開することが可能な場である。なのにムラ社会住民は均質性をネット文化に押しつけようとする、モヒカン族のいらだちはそこにあるのだろう。しかしまずもってモヒカン族は「差異性を重視した合理性」とはいかなるものかを示さなければならない。そしてそれがなぜ均質性を支えにした合理性よりも価値が高いと考えるのかを示さなければならない。その作業なしに「合理性」の有無を競うだけでは水掛け論に陥り、数の力でムラ社会に敗北することになるのは確実であろう。
実際モヒカン族グループの説明文には以下の一文が添えられている。
それに、この文化衝突は最終的にはモヒカン族の文化が数で負ける戦なんだと思うよ。
こうしたアイロニカルな(シニカルではない)姿勢がモヒカン族の「美点」でもあり、所詮ムラ社会に勝てない「ひ弱さ」の原因でもある。
ThinkPad T40に関するメモ。
前にCPUファンの故障について取り上げたが、もう一つUSBにも欠陥があるようだ。USB2.0で認識されず、USB1.0としてしか使えなくなる場合があるというもの。アメリカのサイトでも問題として上がっていたようだが、原因不明、USB2.0カードをPCカードにさして使って、それで解決、とかそんな話で終わっていたらしい。おおらかすぎる。日本のサイトでも話題に上がり、IBMに修理に出した人の話では結局システムボードの交換となったとか。ドライバを更新するとかそういうレベルの問題ではないとなると厄介。私のT40はとっくに保証期間が切れているので、「この程度」のことでシステムボード交換を依頼する気にはなれない。ということで諦めるしかなさそうだ。
それにしても購入して2年半で、CPUファンとUSB、二カ所も故障が発生するとは、しかもいずれもユーザから知られた問題点だとは、何となくがっかりする。
「はてな」のことは「はてな」で、ということで、未成年アイドル喫煙問題とか「はてな」システムにおけるキーワード編集問題とかで考えた内容をまとめたものを「正しさ」を希求する言説に書いた。それに付随するメモをこっちに記す。
今のネット言説の主たる問題点は、それが往々にして自家撞着に陥っており、それが「バッシング・いじめ」言説の拡大に繋がっていくことではないか、そして「世間」「常識」はその言説編成の資源として寄与しているのではないか、という趣旨。
ここではエスノメソドロジーの知見が生きてこよう。社会にある膨大な知識の集合から、ある特定の言説空間において利用可能な知識を資源として用いることでその言説は編成されるのだ。そしてその編成された言説において利用された知識の集合(部分集合)をその言説の内部では「常識」と呼ぶのである。
つまりある言説は「常識」を根拠としてその正当性を謳うのだが、しかしその「常識」とはその言説が生み出したものなのだ。その言説は「常識」という外部の準拠枠組みを持っているようでいて、その実、自己準拠的システムを構成してしまっている。これこそ、まさに定義のレベルで「イデオロギー」である。「イデオロギー対立の時代」終焉後に展開し、イデオロギーから自由であることを標榜するネット言説が典型的なイデオロギーの構造をとる、皮肉なものである。
本日付の朝日新聞で教育社会学の本田由紀さんの「ニート」論批判が載っている。本田さんはずっとこの問題を取り上げ続けている。趣旨としては「ニート」問題を若者の心の問題にすることへの批判。労働市場の構造的問題であるのに、それに手を付けずに問題点をすり替えて若者を悪者役に仕立てているという議論。
本田さんは教育社会学で一貫して労働市場論を扱ってきたスペシャリスト。印象論とかではなくて、統計的データを踏まえた上での主張だけに説得力がある。前に取り上げかけて放置している三浦展の『下流社会』などとは比較にならないだけの実証性を持って議論を進めているのだ。専門分野に根ざして、薄っぺらい常識や印象論(そしてそれの政治的利用)を批判する、研究者かくあるべしというスタンスの人である。
『下流社会』は読んで時間が経ちすぎたために細かな部分はもう忘れてしまった。読み返す気もしない。はっきりしているのは社会意識と社会構造との関係についてあまりにもナイーブかつ扇動的な議論を進めてしまっていることだ。この本は表層的なデータは豊富で、それを駆使して議論を進めること自体は悪くはないのだが、いかんせん社会理論に無知すぎる。この本に出てくるレベルのデータをそのまま読んでも常識の反復にしかならない。社会意識と社会階層には関連があります、それでこの本は終わってしまうのだが、そんなのは1960年代の議論だ。そんなことは社会科学関係者なら全員が知っている。もし「意識」を扱うのであれば、問題はその先、階層意識はいかに構造化されているのか、にまで議論を進めないといけない。
問題なのは「意識」である。「意識」というのは社会の中に埋め込まれて存在しているので、それをそのまま読み取っても「常識」の反復にしかならないものなのだ。だから本田の議論のように意識とは切り離された労働市場構造そのものに焦点を当てる方がずっと深い議論が出来る。それでもあえて「意識」を取り扱いたいのであれば、意識の構造化に関する理論的知見が必須となるのだ。
ドラマの「白夜行」は「時効」を一つのトピックに置いているように、「法律」をベースに置いた「罪」について語っている。法律に反することをした、それに対する恐れがかれらが犯罪を積み重ねていく原動力となっている。
しかし小説の「白夜行」は「法律」などはほとんど問題になっていない。かれらが犯罪に駆り立てられるのも、かれらが「罪」の露見をおそれるからではない。かれらの原動力となっているのはかれらの心の傷である。
ドラマは、彼らが逐一追いつめられて犯罪を犯していく様を描くことで、視聴者にかれらに対する同情的な視点を持たせようとしている。しかしその試みとは裏腹に、己の「罪」を逃れんとする卑怯な人間を描いてしまっている。小説に描かれている二人はもっと利己的で、冷酷だ。単に「気に入らない」「自分の利害に反する」というだけの相手を徹底的に傷つける。しかしそれによってそのような行為を積み重ねていくかれらの傷がその中に浮かび上がってくる。
ドラマが描いているのは、犯罪を犯したものの罪を少しでも軽くしようと情状酌量を訴えるという法廷レベルの世界である。しかし小説は、情状酌量の余地などない(かれらの犯す犯罪はただひたすら利己的だ)絶対的な悪の根源に迫ろうとしているのだ。
なぜドラマはかくも矮小化された世界観しか提示できなかったのか。その薄っぺらさは、まさに今の社会を覆う薄っぺらい「共感」の垂れ流しと呼応しているようにも思える。己の実感にあう次元でのみ「共感」の連鎖を築き、その範囲で狭い「ムラ」社会を構成する。そしてその「ムラ」社会の貧困な想像力を超える状況を理解しようなどという努力は一切せず、それを「ムラ」社会の常識の枠組みに押し込んで解釈し、裁断しようとする。特にネットの言説はそのような「ムラ」社会にしがみつくものたちに蹂躙されてしまっている。
せめてドラマぐらいはそのような貧困な想像力の限界を打ち破る契機となるようなものであっても良いと思うのだが、原作がそのような力を持っているのなら、それを再現ぐらいしてくれても良いと思うのだが、それはテレビドラマなどに期待するべきものではないようだ。実際ブログなどのこのドラマの評を見ても、小説で分からなかったことがドラマを見てよく分かった、などというふぬけた記述で溢れ返っている。
「法律」に代表される明確なテキストと「私」個人の感性から来る共感で終始する状況認識。世界の事象を法廷レベルに押し込める箱庭的世界観。それが今の社会の主流をなす世界観なのである。
ドラマ「白夜行」を観ている。
幼い頃に傷を負い、殺人を犯した男女二人が「時効」が来るのを待ち望みながら、さらに犯罪に手を染めていく、という物語。かれらがさらなる犯罪に手を染めるのも、かれらの過去が暴かれそうになることをおそれるが故。特にかれらの犯罪に気づいた刑事がかれらを精神的に追いつめる。そんなストーリー。
何か違和感があった。幼い子どもの妄想であろうから「時効」が肥大化した、のだろうか。小学生の犯した犯罪に「時効」などというものがどれほどの意味を持つのか。時効後に二人日の当たる場所で手をつなぎたい、というかれらの願いは何となく少しずれている。また刑事の追いつめ方もおかしい。かれらが小学生の頃の犯罪だと分かっているのだから、かれらを精神的に「追いつめる」ようなやり方をまともな刑事がするだろうか。彼がいなければ、二人はこれほどの犯罪を犯さなかったかも知れない、そんな描き方にも読み取れる。
オリジナルの小説を読んだ。
ドラマを先に見てしまったことを後悔した。小説の一番大切なところを、ドラマ初回にすべてネタバレしてしまっている。
それでもなお小説の方が断然面白かった。よく原作者はこの脚本を了承したものだと思う。小説では語られていない二人の心理をドラマは描こうとしている。しかしその解釈があまりに的はずれなのだ。
この小説は、幼い頃に父親を殺された少年と、その被疑者であり、後に事故死した女性の娘が各々の人生を歩んでいくその周囲に起こる様々な犯罪を描いたものである。話が進んで行くに従って、どうやらこの二人が連携しているのではないかという疑いが読者に提示される。むしろ敵同士とも思える二人がなぜ連携などするのか。そしてかれらはなぜ、犯罪を平然と積み重ねていられるのか。これがこの小説における中心的な「謎」である。
ドラマはこの犯罪を犯す二人の心理を描き出そうとしている。時効を待ち望む二人の前に、その犯罪を暴き出そうとするものたちが立ちふさがる。かれらは二人の夢(時効後、日の当たる場所で手をつないで歩く)を守るために、苦悩しながら犯罪に手を染めていく。
しかしこの解釈は小説には全く当てはまらない。実際ドラマも後半になるに従ってその解釈に無理が生じてきている。どう解釈しても過去の犯罪の隠蔽とは無関係な犯罪をかれらは犯していくからだ。それでもドラマはかれらがその犯罪に手を染める心理的必然性を描こうともがく。かれらが犯罪を重ねていくその1回1回に、それを後押しする状況を読み取ろうとする。
この小説が描かんとするのは、そんなものではない。小説はただ一点の謎に焦点を絞っており、一つ一つの犯行の動機など問題にならない。一点の謎さえ分かってしまえば、それ以上の解釈は不要なのである。
小説は、一連の事件の一番最初の事件にすべてを込めている。その最初の事件、それが行われた時点で二人の心はすでに壊れてしまったのだ。最初の事件の傷がトラウマとなって、後のすべての事件を生産し続けるのだ。それだけの重みを最初の事件は持っている。
二人を見つめる刑事はそのことを気づく。そして激しく悔いるのだ。あのとき、私が彼らを救っていたら。事件後のかれらの傷がトラウマとなる前に、私(たち大人)が彼らを救っていたら。
「あのときに摘み取っておくべき芽があったんや。それをほったらかしにしておいたから、芽はどんどん成長してしもた。成長して、花を咲かせてしまいよった。しかも悪い花を」
ドラマでは刑事は二人の人間そのものを、摘み取るべき「芽」だと認識しているかのごとき解釈をしている。しかしもちろん彼の言う「芽」とは二人の心の中にある傷のことだ。あのとき「芽」を摘み取っていれば、二人も、そしてかれらによって傷つけられたものたちも救うことが出来ていたのではなかったか。この刑事の後悔こそが小説の読者が共感すべき社会的な後悔である。
この小説は二人の犯す数々の犯罪履歴の中に二人の傷の大きさを描き出そうとしている。過去による現在への復讐。この小説が描いているのは「時効」だの「純愛」だのそんなこざかしい小細工は一切不要のとてつもなく大きな一つの傷を巡る話なのだ。
重層的非決定?で「監獄」の現代的形態についての考察を行っている。というのは半分は冗談だが、「未成年アイドルの喫煙」を巡る言説批評を行っている。アイドルの「非行」を取り巻く「教育」的言説とその背後にある監視欲望。
いかにも今の言説状況は教育社会学がネタにしてきた「非行」言説を美しいまでに反復している。現実が理論通りに産出される。社会科学の力も見捨てたものではない。
フーコー的教育言説論にさらに「欲望」概念で味付けをしてみた。ネタがアイドルなだけに、容易に「欲望」が読み取れる。大まじめに論文を書けそうなぐらい綺麗な素材が出そろっている。
思考実験1
小泉支持層の中で
いずれがより反中・嫌韓論に強くコミットするか。
ネットウヨに右翼思想的背景はもともとはない、といっても、こうしたところで一貫するのが思想というものだ。日本の他国に対する感性的な優位性を無理からでも求める心性と他国を何かしら理由を付けて貶めんとする心性とは同じものである。
思考実験2
上記組み合わせを満たす人物像を各々具体的にイメージせよ。
ちなみに私のイメージ。1は小泉ファンあるいはただのノンポリ、2は「サヨク」、3はひねくれた保守主義者、4は保守本流、5は小泉信者、6は真性シニシスト、7、8は「ネットウヨ」。
3,6はおそらくほとんど実在はしないだろう。問題なのは5が果たしてどのぐらいいるか、である。私は5もかなり少数派ではないかと思っているのだが、いかがだろうか。
小泉政治はその思考様式においてネットウヨ的シニシズムと大いに親和性を持つが、小泉政治への具体的な賛否、好悪はその思想の中身とはそれほど関係はないだろう。小泉政治を問い直すということは小泉政治への賛否を揺るがすこととは別の次元の問題なのである。
女性・女系天皇問題の一件で小泉ファンと保守・右翼を気取るシニシストたちとの亀裂が徐々にあらわになってきた。あれほど反中・嫌韓感情や「良識」的言説への反感では一致しているかに見えた言説が揺らいでいる。もちろん私の「敵」は小泉ファンではなくて保守・右翼を気取るシニシストたちである。
小泉はある意味でそういったものたちから利用されただけの存在にすぎない。もちろん逆も正しくて、小泉政治もまた(本人が意識しているいないは別に)そうしたものたちを利用した。そういった意味では両者は共犯関係にあった。しかしその蜜月の関係は揺らいでいる。小泉は「売国奴」堀江を応援し、天皇制の美しき伝統を破壊しようとしたものとして、保守・右翼を気取るシニシストたちからの信頼を失おうとしている。
小泉がなぜかくも幅の広い支持を得られたか。それは彼が「タブー」を打ち破る、という振りをし続けたからだ。「タブー」すなわち言説的構築物、それの持つうさんくささが今の閉塞した時代状況においては多くのものにとっての共通の「敵」となる。隣国とは仲良くしましょうとか、過去の戦争は常に厳しく反省し続けましょうとか、そういう「良識」的な主張もタブーなら、利権にまみれている(とイメージされる)自民党もタブーだし、長く続く皇室の伝統とやらもタブーなのだ。小泉はそのすべてに挑戦した(とイメージされた)。それが受けたのだ。
小泉のこうした態度は明らかにシニカルなものである。そうなればシニシストたちにとって小泉の態度は非常に親和性の高いものであったろう。しかし残念ながら(とあえて言おう)小泉とシニシストたちとの間には明確な違いがあった。小泉のシニカルな態度には明確な落としどころがある。彼は現実の政治を担う中で、シニカルな態度を時折織り交ぜているだけであって、シニカルな態度を貫くことの中に何か意味を見いだそうとはしていない。彼がシニカルな態度を取るのは彼の性格的な意味合いもあるだろうし、そうした態度が結果的にであれ、現実の政治の中で受け入れられ、武器となったという意味もあるだろう。いずれにせよ、彼の中でシニシズムは循環・増幅する仕掛けにはなっていない。単に彼が取る様々な態度の、一つの特徴にすぎない。
しかしシニシストたちにとってのシニシズムはそうではない。それを貫き、その中に意味を見いだすこと、それがかれらにとってのレゾンデートルとなるものだ。かれらはシニシズムの中に己の生の実感を見いだそうとする。うさんくさい言説に囲まれ、そうして成立している社会に対する閉塞感・不信感。それを打ち破ることはかれらにとって社会を取り戻すこととイコールなのだ。
だからかれらシニシストたちは逆説的に「確かなもの」を求める。言説などというこざかしいものの外部にある「物自体」を求めるのだ。
もちろん「物自体」など見つけられようはずもない。単に己の実感を「物自体」に触れる何ものかだと誤認するだけのことだ。そうして己の実感にあうものとしてかれらは己に対する肯定的評価を求めることになる。
きれい事に満ちた言説が構築した社会から疎外されたと感じたとき、そうしたルサンチマンに由来する自己肯定は他者の貶めを伴う。他者に比べて優れていると言い張れるものにすがりつき、他者の言い分にことごとく反発する。そうした幼児的な反応をシニシストたちは反復し続けているにすぎない。
例によって仕事がはかどらず。気になる話題がどんどん横を通り過ぎていく。
今、たまたま引っかかった話題。秋篠宮紀子さんが妊娠とか。
基本的に天皇制の話題はほぼ関心をなくしているのだが、それでも女系天皇になるのは何となく楽しみにしていて、この一点に関しては小泉がんばれ、と思っていることもあってこのニュースは何とも複雑な思いで受け止める。この件で、「慎重派」が勢いずくのは確実。とりあえず子どもが生まれてその性別を確認してからでもいいではないか、ということになるだろう。まだ急ぐ理由はどこにもない。これでこの子が男の子だったらあるいは世論は変わるかも知れない。男系天皇を保持したいものたちにとってはまたとないチャンスだと思うだろう。
一応言っておくと、ネットウヨたちは、あるいは誤解しているのか、分かってやっているのか、小泉首相をタカ派として持ち上げようとするが、彼は基本的に思想などと言うほどのものは持たず、しかし感性的にはそれなりにリベラリストを志向している人なのだ。女性天皇・女系天皇を推し進めようとするのも、彼は彼なりに男女平等を社会的に志向しようとしていることの表れと見て良いだろう。彼が靖国参拝に拘泥するのだって、別に右翼思想からではないし、取り立ててタカ派と言うほどのものでもない。深い考えもなく、遺族会の票目当てに参拝すると言ってみたら、引っ込みがつかなくなって、あとは意固地になっているだけだ。そして小泉内閣の支持率が一定の高さを保持し続けているのも、実はこのあたりの空気を読んでのことだ。実際北朝鮮との国交を回復しようとした動きは内閣支持率を押し上げる効果をもたらした。小泉内閣の支持率が高いのは、社会が右傾化しているからではなく、小泉が表現している思想それ自体は微妙なバランスを保っているからだ。
問題なのはその陰に隠れて、竹中ほかが格差社会という名のハゲタカ資本主義を創出しようとしていることだ。そして内実は「負け組」が多いネットウヨたちもまたその肝心要の問題は見ずして、小泉の思想表現のもっとも稚拙なところだけに共感しているにすぎない。
どの社会においても多数派をしめる「保守」的ノンポリからは彼のリベラルチックな姿勢が評価され、社会に不安・不満を持ち、それをネットではらすことしか出来ぬ者たちからは彼の強硬派チックな姿勢が評価される。彼の支持基盤は案外脆弱なのだが、その脆弱さが逆説的に彼の支持率を押し上げる。
月曜日からずっと東京。
おまけに締め切り間際の仕事で、Excelで日本語を入力していたら突然エラー。そういうときに限って上書き保存をしておらず、3日がかりの仕事をふいにする。
それのやり直しに時間を取られて、大学の採点報告が大幅に遅れる。30日締め切りのはずが、今日東京から速達で郵送。催促電話がかかってくるかも。
と、そんなこんなで、ばたばたしていた。まだしばらく仕事が残っている。なかなか落ち着いてまとまった自分の時間が持てない。ちなみに私の思う「まとまった時間」というのは一週間。その間何もやることがないというような状態でようやく、私は自分にとって生産的と思える思考が出来る。もちろんそんなものをまともに社会生活を送っている人間は持てるわけはない、ということは分かっている。
少しは細切れの時間を活用しようと、品川駅構内で三浦展の「下流社会」を購入。前にここでも取り上げた筆者だったので少しは期待したが、全然だった。一つ一つのエピソードにはそれなりに面白いものも含まれているのだが、根本的なところで社会理論の素養不足が露呈していて、考察が浅い。「新書」なんてこんなものか、とも思うが、浅いだけでなく、変にイデオロギッシュな煽動に流されているところがあって、不快。いずれこのほんの問題点も書こう。