モーニング娘。
L. Althusser
死刑反対の立場に立つ人が死刑囚=加害者への想像力を持つ、というのはもちろん正しいことだ。そしてまた死刑制度を支持する人が犯罪被害者の立場に思いをいたすのも。
しかし本来は逆でなければならないのではないか、と思うのだ。少なくとも死刑反対の立場に立つものこそ、被害者の立場に対する想像力を欠いてはいけない。それを死刑反対論の中に組み入れるのは容易ではないけれど、それでも常にそれは実践しなければならない。
自分の身内なりなんなりが、とても理不尽かつむごい殺され方をしたとしよう。そしてえん罪の可能性が全くない犯人が死刑判決を受ける。
死刑反対論者である私は、自分も一つ間違えれば同じ立場になり得た同じ人間として、その加害者に同情と共感の目を向けるべきなのだろうか、あるいは向けられるのだろうか。そんなのはあり得ない、とおそらくほとんどのものは思うだろう。そしてその「あり得ない」という感覚が死刑反対という立場の持つうさんくさい印象へと繋がる。
それならば、「私」が犯罪加害者になるという可能性と同じレベルで可能性として想像すべき「私」が被害者になる、という事態の中で、死刑制度にどう向き合わなければならないのだろう。
今のところおそらく唯一の、ある意味安直だが、ある意味正しい考え方はこうだ。
近代法制度は、当事者間の様々な紛争を、当事者性を捨象しきることは当然ないにしても、その大半を第三者にゆだねることによって成立している。そして近代以前の、ハムラビ法典とてもその方針は本質的に変わっているわけではない。それは「法」の本質に関わることだ。
そうである限り、被害者である「私」の思いは何らかの形で反映されてしかるべきだが、逆にそれがすべてであってはならない。「私」が加害者を例えば八つ裂きにしてやりたいと願ったとしても、それと同じ「私」が支持すべき法体系とは独立している。あるいは私は加害者に報復してやりたい、と思うかも知れない。しかしまたその報復する私もまた法の裁きを受けなければならない。
法が裁ききれないのなら、自分の手でも報復してやるというような決意はあるいは悲壮でそれだけに人の心を打つこともあるかも知れない。しかしその決意が悲壮で時に気高く映るのは、その報復行為もまた法によって裁かれるべきことを報復者自身も知っているからだ。
死刑制度の是非を論じるに際し、被害者側の心情を当然くみ入れられてしかるべきだ。しかしそれがすべてであってはならない。私が仮に被害者の立場に立たされることになったとき、あるいは私は加害者を死刑にせよ、と主張するかも知れない。しかしそれはやむにやまれぬ状況において私が立たされた一つの立場からの意見表明にすぎず、死刑制度に関する私の思想をもはや代表するものではない。
私が被害者の立場に立ったとき、そのときの私の思想表明はきわめて限定されたものとして受け止めよ、それが死刑反対論者としての私の思想的決意表明である。
山口県光市で起きた母子殺人事件の裁判が大詰めを迎えている。
力尽くでも死刑判決を回避せんとする弁護側の方針に違和感を覚える向きもあるだろう。あくまで「制度」に則ったやり方で抵抗するべきだ。それ以外のやり方は世論の支持も得られないし、結局被告人の不利益にも繋がる。
そうした考え方が間違いだとは思わない。というより、正しいのだろう。しかし何か「抹殺」されんとするものを何らかの形で救わんとするものにとって、その正しさには意味があるのだろうか、と考えたりもする。抹殺される、という瀬戸際においては例えば世論の支持など生ぬるいものなどどうでもよい。むしろ万人から嫌悪の目を向けられなお、そのものの存在を印さなければならぬ、何か制度に抵抗する、というのは往々にしてそれだけの覚悟を要するものなのだと思う。
もちろん「世間」はそれを非難するだろう。そして私もその世間に連なることもあるだろう。しかしそれでもその抵抗する人物の覚悟だけは嗤うべきではない。
しかしまた一方で、この事件における被害者家族の思いもまた重い。「死刑判決以外は納得が出来ない」、それを死刑制度反対の立場から、「まあ、被害者サイドはそういうだろう、しかし公権力がそれを全面的に受け入れるか否かは別問題だ」と切り離すことは出来る。そして法とはそうした切り離しをある程度行わなければならない場でもある。
それでも、私は死刑反対の立場に立てばこそなお、ある意味文学の領域で、被害者家族の思いを想像してみなければならないと思うのだ。
「加害者が謝罪の手紙を送ってくるが、罪を軽くしようという計算にも思えてしまう」、「死刑判決が回避されたとき、一瞬でも被告人がにやりと笑いでもすれば、それは耐えられないことである」、被告人ならずとも人間なれば計算もするだろう、命が助かったと思えば喝采もするだろう、しかし人間として当然してしまうであろう被告人の反応一つ一つが被害者およびその家族の尊厳を踏みにじるように感じられる、それはとても痛ましくもあり、また容易に共感できてしまうことだ。なんの落ち度もなく葬られてしまったものの存在が、加害者の今後の行為一つ一つの中で再び抹殺され続けてしまう。それをとどめる方法は一つしかない。
抹殺されんとする存在を守ろうとするもの、抹殺されてしまったものの存在を守らんとするもの、そのぶつかり合いにはおそらく解などないだろう。NHKがそれをテーマに立て続けにドラマを作った。「慶次郎縁側日記」「繋がれた明日」である。もちろんこの二つはある意味一方的な「許し」を契機としたユートピアを描き出しただけであり、何ら本質的な解は示していない。
ただ解なき根源的なぶつかりあいなればこそ、双方の立場への想像力を最大限に確保しなければならないし、解なき物に解を与えなければならない法制度のあり方とはいかなるものかを考えることもまた重要なのだ。
少なくとも近代法制度はこうした解なき様々な矛盾・対立を織り込んだ上で確立されたものであって、万人が納得できようはずもない妥協の産物としてしか成立し得なかったものなのだし、そしてまた今もそういうものとして存在している。それは死刑制度が存在している、していないにかかわらず、近代法制度を採用する近代国家のとった方策である。しかし今や制度が保持していた留保を最小限にしようとする主張が世間を覆う。
社会の「浄化」を夢見て、厳罰主義を煽る「ネットウヨ」はここでは置くとして、それとは一線を画する立場をとっているつもりでありながら、近代法のもつ複相性を一切黙殺して近代法をハムラビ法典以下であるなどと寝言を言う批評家もどきが「護憲」などと口走るのは他人ながらとても気恥ずかしいことだ。
あまりに更新頻度が下がると閉鎖しているのではないかと思われるもの何なので、ちょっと無理気味に更新。
4月に入ってからほとんどホテル住まいなので、せっかく買ったMac miniもほとんどさわれていない。それでも買ってからいろいろさわってきて分かったMacOSXとWindowsの「性能」についての諸々。
前にも書いたとおり、512MBのメモリではMacOSXは全く足りず、ちょっと複数のアプリケーションを立ち上げ、切り替えようとしただけで、スワップが多発し、またスワップの性能のせいか、windowsの感覚からすると信じられないほど動作が遅くなる。この部分ではWindowsのほうがずっとさくさく機敏に動作する。
しかしWindowsはそれで調子に載ってウィンドウをどんどん開いていくと、大して遅くならないのだが、だんだん不安定になってくる。特にエクスプローラ周りが不安定で、新たにアイコンをダブルクリックしてウィンドウを開こうとしても開かなくなる。こうなると再ログオンするよりなくなるし、再ログオンしても何かと不具合が起こるようになれば、今度は再起動だ。
MacOSXは確かに動作は遅くなる。耐えられないぐらい遅くなる。しかしそれは*安定して*遅くなるのであって、アプリケーションを終了してメモリを解放してやれば、動作はまた元通り機敏になる。ウィンドウを大量に開くことで、動作が緩慢にはなっても、OSの動作が不安定になることはない。
結論。MacOSXに大量のメモリを積むのが一番快適(なのだろう、まだ試していないが)。
いささか古い話題だが、WBCのイチローの言動が一部で話題となっている。韓国野球へのライバル意識をむき出しにした一連の発言だ。
2chあたり(それと「同質」のブログを含む)では例によって韓国バッシングへ結びつけるものがいる一方で、そうした状況を懸念する立場からイチローの発言自体を批判する主張も散見される。
イチローの発言自体は韓国という国家へ向けたものではなく、韓国野球へ向けたものだ。イチローが意識しているのは日本と韓国という国家ではなく、日本野球界と韓国野球界である。つまりイチローの発言を真空状態で取り出してみれば、スポーツにおける他チームへのライバル心、というスポーツ界における言動としてはとても真っ当なものだ。それはナショナルチームだからといって本質的に変わるものではない。
問題があるとすれば、こうした発言は真空状態におかれることはなく、常に発言者の意図を超えた文脈におかれるものだが、今日韓の間に横たわる「文脈」というのが常に政治的な煽動性をはらんだ形で解釈されるというものである、ということだ。それをふまえてイチローの発言を批評すると、先に述べたイチロー発言への否定的評価につながる主張も出てくるだろう。
しかし私はそれとは違う方向性を探る必要があると考える。たしかにある文脈性を踏まえて、発言というものは解釈される。そして言説のレベルでは発言者の意図などよりもこの文脈性こそが意味を規定する。日本社会(の一部)がイチローの発言を喝采して迎え、逆に韓国社会(の一部)がイチローの発言を韓国への侮辱であるととらえるという結果は必然的なものであり、かつ「問題」だ。私(たち)はそうした流れを攪乱する言説を生産する努力をしなければならない。しかしそれはイチローという発言者あるいはそのオリジナルの発言自体への批判によってなされるべきものなのか。
そうではないだろう、と私は考える。むしろそうしたあり方こそが一部の(といってもかなり広範なレベルで)ものたちの「言葉狩りをされた」といった「抑圧経験」とでも言うべきものを生み出したのであり、そしてその「抑圧経験」の反動が「タブーを破る」ことへの憧れを呼び覚まし、「ただしき言説」を疎み、己の快不快に根拠をおいて他者を攻撃する今の言説状況を生み出したのではないのか。私(たち)がしなければならないのはそうした抑圧の連鎖を断ち切ることだ。
あらゆる発言は、発言者の意図を超えて解釈されるし、重要なのはその解釈された結果である。言説論のこの主張は覆すことはできない。だから私はイチローという発言者の意図でもってイチロー発言を「救」おうとしているのではない。しかしまたあらゆる発言が国家、ナショナリズムといったレベルでの文脈で解釈される必然性も無いのだ。そしてイチローの発言は、上でも述べたごとく、スポーツ(観戦)界という文脈でも解釈可能だし、またそのようにも解釈されている。そしてその限りにおいてイチローの発言には何の問題も無い。「何の問題も無い」という言い方がやや傲慢で「検閲」的だとすれば、私個人の主観を交えてこう言い換えよう。イチローの発言はWBCというスポーツの祭典を見るものをより楽しませる効果を持っていた。WBC観客者としての私にとって、WBCに出場して、相手チームへのライバル心をむき出しにするような発言をしたイチローは、たとえばWBC出場を求められながら辞退した松井選手などよりも遥かにエンターティナーとして「上」であった。そしてWBC観客者である私にとって、その評価がすべてなのだ。
となれば、私(たち)がしなければならない作業はある意味明確だ。様々な発言が解釈される文脈を、その発言に見合った場に設定すること。個人と国家が直接向き合うかのようなナイーブ極まりない社会観を廃し、諸々の発言が「国家」言説に吸収されるのを妨げること。ナショナリズム言説が社会を覆うのに対抗するのはこうした戦略においてより無い。
今更ながら私はあえて言おう。WBCでのイチローはスポーツ選手というエンターティナーとして最高であった。イチローの一連の発言も、それを補完する以上のものでも以下のものでもないのだ。
すっかりマカー道を邁進中。自宅での様々な作業(仕事、ネット閲覧、某関連のDVD視聴および動画閲覧除くGyao)のほとんどをMac miniで行っている。ノート型Macを持っていないので、出先ではまだまだWindowsだが。
最初はネット関係とちょっとしたプログラミングをMacで行うことにした。すると文字はきれいだし、CUI環境がえらくまともだし(UNIXクローンなのだから当然だが)、Exposéは快適だし、ファイル操作などのOSの動作がWindowsにくらべてずっとまともだしで、可能な限り作業全般をMacで行いたくなってきた。そうなれば好むと好まざるとに関わらずMicrosoft Officeのファイルが読み書きできないとつらい。Word、Excelのみならず、PowerPointファイルも飛び交うのでそれらをきちんと読み書きできる必要がある。OpenOffice.orgとかいろいろ物色してみたが、結局MicrosoftOfficeを買ってしまった。ちょっと調べてみたらアカデミック版が買えることが分かった、というのが大きい。しかしProfessional版というのはWindowsと違ってデータベースが入っている訳ではなくて、VirtualPCが入っているとは知らなかったし、意外だった。ということでAccessファイルは以前読めない訳だ。もちろんIntelMacではVirturalPCは動かないから、買ったのはStandard版。
OfficeはIntel MacではRosettaでしか動かない。だから動作速度はある程度あきらめなければならないが、それにしても起動の遅さはWindowsでOfficeを使っている感覚からするとちょっと信じられないレベルだ。さらにいえばUniversal版のアプリケーションの起動とてそれほど速い訳でもない。Macでシステム標準のテキストエディタを立ち上げるより、Windows(ThinkPadT40あるいはLet'sNoteR3)でExcelを立ち上げる方が速いのだ。CPU性能は明らかにMacの方が上(MacはIntelCoreDuo1.67GHz、R3はPentiumM1GHz、ついでにメモリ搭載量はどちらも512MB)なのだから、OSの違い、というしかない。どうもMacの方はハードディスクへのアクセスが頻繁で、それがボトルネックになっているようだ。必要メモリがWindowsよりも多いのか、スワップファイルの性能が悪いのか、その両方か。いずれにせよIntel版MacOSはWindowsよりも多くのメモリが必要なのは確かだろう。ビデオメモリ共有の512MBでは明らかに足りない。Webブラウザとメールソフトを立ち上げてそれとは別のソフトで作業をするという程度でも1GBは必要だろう。
Mac miniはメモリの増設が簡単ではないので、メモリ不足は当面目をつぶらざるを得ない。これはかなりのディスアドバンテージだが、それを我慢してでもMacを使いたい、と思わせるものがある。もっともそれはMacOSの力ではなくて、単に私がWindowsに飽きた、というだけのことかもしれないが。
いつの間にやら、4月になっていた。エイプリルフールなんて「行事」も終わっている。例年楽しみにしているイリプレス うおっち、今年よかった記事はこれまた例年のごとく塩田紳二氏の記事。ただの「嘘」ではなく、どこかアイロニカルなひねりが入っている。こういうのを思いつくのならエイプリルフールネタもやろうと思うが、今年は3月がいつ終わったのかさえ記憶にない状況、何も書ける訳もない。
とりあえず今年も5月いっぱいまでは(私にとっては)殺人的スケジュール。ここの更新もほとんどしないことになるかもしれない。いつも思うのは毎日きちんと仕事にいっている人たちがなぜまた毎日に近い頻度でブログなどを更新できるのか、一体どれだけの体力を世間の人間は持っているのか、ということだ。おまけに外で人と交流をしたりするとか、どれほど力が余っているのだ。到底「勝負」にならない。そしてまた私と同様に思う人間も一定割合いるから、「ニート」だとか「引きこもり」だとかが出てくるのだろう。それをけしからん、といってみたって無理なものは無理だ。現状短期的には「まともな」職場での労働環境はどんどん厳しくなり、「ニート」化がさけられなくなりつつあるようにも思えるが、しかし情報機器の発展である程度多彩な労働環境を作り出す状況も整ってきている。メール一本で仕事が進む、家にいてもたいがいの情報は収集できる、ほんの15年前には考えられなかったような環境ができているのだ。実際私もそれを最大限に享受している。午後3時から6時ぐらいまで昼寝タイムをとってもなんとか(なんとかだが)仕事を回せたりしているのだ。世の中、長期的には確実によくなってきている。わたしはその楽観主義を信じようと思っている。そして、そうはあまり受け取られることも少ないが、マルクス主義とは本来楽観主義を基調とした思想なのであって、そうであればこそ私はマルクス主義が、未だに好きなのだ。