モーニング娘。
L. Althusser
日本の「戦争責任」を問うことをいやがり、「責任者」が祀られる靖国神社への首相の参拝を支持するものたちの心性はたとえば以下のような(うろ覚えだが大意は間違っていないはず)櫻井よしこの主張と通じるものがあるのではないか。
曰く、日本が戦争に突き進んでいった道筋は、確かに悲惨な結果をもたらした、しかしその当時の人間がその歴史的な状況において行った選択を、現代の「常識」などから断罪するのはおかしい。その時代に生きた人が行った選択は、そうした善し悪しの価値判断とは別に、一つの歴史的な道程として尊重されるべきだ。靖国神社参拝を否定するとは、この過去の人々のなした選択を一方的に否定することである。
現在の我々の「常識」なんてもので、時代的制約を多分に持った人々の、その時代なりにやむにやまれぬある種の必然的な選択を一方的に倫理・道徳的に断罪するのは間違っている、それは確かにその通りである。
しかしそれを言うのなら、ポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏をし、そして東京裁判をも受け入れた日本の戦後へ向けての歩み、選択こそ尊重すべきものではないのか。そして、その日本がなした選択とは、おそらく現実には様々な政治的な権力闘争などの末につくられていった「軍国主義」体制であったにせよ、「敗戦」という結果には何者かがその責を負わねばならぬ、そうでなければ「日本国」全体で責任を負うべく、国家をなくすかあるいは「一億総懺悔」をなすよりなくなる、そうであればこそ「一部軍国主義者」にその責を代表として負わせるというものであったのだ。それは内部政治的に真に誰が悪かったか、という問いとは独立した、対外的な責任の負い方である。そしてその「一部軍国主義者」から昭和天皇を省き、東条英機はじめとする「A級戦犯」を戦争の指導者とする東京裁判を日本は受け入れたのだ。
敗戦ゆえの強制である、というのは確かではあっても、しかしその結果すべてが強いられた不本意なものである、と考えるべきではない。たとえばおそらくソ連が期待したごとく、「日本人民」が天皇制などという体制を破棄し、昭和天皇こそ過てる戦時体制の責任者であるという選択をする余地とて(アメリカはそれを阻止するためにも天皇を「助けた」訳だが)、意思表明の選択肢としてはあり得たのである。
しかし戦後日本は「A級戦犯」に戦争指導者としての責を負わせ、昭和天皇を免罪化するという選択をし、そしてその結果を享受して繁栄してきたのだ。そしてアメリカもソ連も中華民国も結果的に中華人民共和国もまた、この史観に則って日本との戦後関係を構築したのだ。
前のエントリの補足で昭和天皇と中国の史観は同じである、と書いた。それは偶然でもなんでもない。まさにこの史観こそが天皇の命を救い、かつ日中関係のベースとなるべきものだったのだ。
日本内部において、こうした史観を見直し、真の戦争責任を問うのもよかろう(ただしそれはどうあっても昭和天皇の戦争責任を問い返すことになるだろう)。しかし対外的にはすでに決着をつけてしまった問題である。それにたいして日本の代表である総理大臣がその問題を蒸し返すような行動をするのは「内政」の問題でもなければ、ましてや個人の心の問題などではあり得ない。靖国神社参拝を肯定することは、日本が現実になした戦争責任決着に関する選択を一方的に否定することである。
ナチスドイツと日本の戦前体制とは違う、と言われる。政治史的にはそうであるのかもしれない。しかし戦後体制を形作る上での戦争責任問題における枠組みは明らかに共通するものを含んでおり、戦争犯罪者として裁かれたナチス高官および日本軍人・政治家を詣でるということが同じく外交問題に発展しうることに何ら違いはない。ドイツの首相がヒトラーの墓に詣でれば、フランス・イギリスは今の中国の比ではないぐらいにその行動を非難するであろう。もしヒトラーと東条英機は違う、というのであれば、日本はドイツと同じ戦争に対する結果責任の負い方をドイツとは別の形で示さなければならないはずであり、これまで東京裁判の責任追及の仕方「一部軍国主義者」の責任という結果を受け入れ、それを「享受」しておいて、今さらなにをか言わんや、である。
保守主義者だか「ウヨ」だかは知らないが、左翼が天皇を政治利用するのはけしからん、などと八つ当たりしているのだが、あほかと、左翼だから「利用する」んじゃないか、逆にもし「右翼」が利用したらそれこそ「不敬」じゃないか。
左翼が注意しなければならないことがあるとすれば、それは利用「する」ことではなくて、利用「される」ことの方なのだ。
ついでに孫引きで恐縮なのだが、AERAによると小林よしのりとかいう漫画家がこんなことを言っているらしい。
わしは天皇制は支持するけど、天皇を個人崇拝はせん
天皇個人の身体や発言やらを排除した後に残る「天皇制」とはいったい何なのだ。天皇制とは、まさに天皇個人の身体や発言を通じて、あるいは利用して、作用する権力形態のことではないか。そしてこうした形式は別段「天皇制」固有の権力形態ではない。君主制というのは一般的にそういうものだし、さらにいえばキリスト教が世界を「制覇」するのだって、「イエス」という身体を必要としたのだ。そうしたフェティシズムを一切排除しようとすれば、天皇はもはやスピノザ的神の領域に行くよりない。
愛子ちゃんは女の子なので皇位継承権はありません。ノープロブレム。「すべて在るものは天皇のうちに在る」のであって、個人を天皇などにつけるのはフェティシズムの権化である。
小泉首相が昭和天皇の靖国発言は自身の靖国参拝には影響を与えない、人それぞれの気持ちの問題だから、と説明している。
これは全く持って正しい言い分である。とりわけ「左派」の立場からすれば。
宗教は制度的には「個人」の問題に還元されるべき(社会的には還元できないものを含むが、それはそれ)であるし、ましてや「天皇」という存在がどう言おうとそれが「国民」の思想・行動に影響を与えなければならないいわれは一切ない。昭和天皇には昭和天皇の思いがあって当然だし、それを知ったところで、小泉首相にせよ、誰にせよ、それとは無関係に己の行動は決するべきことだ。
しかしこれはあまりにも「左派」的な言い分ではないのだろうか。靖国神社に参拝するという精神はそのような乾いた、制度的な整理をしてしまうような主張と相容れるものなのだろうか。
「英霊」たちは「靖国で会おう」と言い合って死んでいった、これが参拝施設の移動を拒む精神の根拠となっている。「英霊」なんてものを持ち出すこと自体が制度的な主張とは相容れないものであるし、また「英霊」なるものは、死者であるだけにその精神はある時点で止まっている。止まっているからこそ、「移動」も拒むのだ。
そしてこの「止まった」精神は靖国神社と天皇の存在を分かちがたいものと認識している。かれらは靖国神社がすでに一宗教法人となったなどということを知らない。天皇という絶対的な存在に結びつけられたものとして靖国神社を認識し、そうであるが故に「靖国で会おう」と言い合ったのだ。
そして多くの「英霊」たちにとって、自らの上官に相当する「A級戦犯」よりも、天皇に対する思いの方がより強かったであろう、ということも容易に想像できることだ。そしてその天皇が、戦争に巻き込まれてしまった人たちを追悼しようと思っている場所に、戦争に責任のあるものが「合祀」されるのは納得がいかないと、戦争指導者をいわば「加害者」として、そして戦争で死んでいった多くのものたちを「被害者」として位置づけている。大多数の「英霊」たちにとって見れば、天皇は自分たちの立場に立って自らを結果的に死に追いやった指導者たちを批判している、ということになる。この天皇の「心」を真摯に受け止めない「英霊」がいるだろうか。
もちろん「左派」的な立場からはいくらでも混ぜっ返せる。昭和天皇自身だって「戦争指導者」のしかもその総帥ではないか、人ごとのように言うのはおかしい、などなど。しかしこれは徹底して戦前の天皇制ひいては靖国神社そのものも否定する立場からの主張だ。ネットあたりで首相の靖国神社参拝を支持する立場のものたちが上のような主張をしているのを見ると、いったいこの人たちにとっての「靖国」とは何なのか、それこそ「英霊」の心も何も問題にならず、単に中国韓国が「ケチ」をつけているから、逆にそれを逆手にとって争点化したいだけの人たちなのだろうと思わざるを得ない。
天皇を貶めてまで守られるべき靖国神社とは何なのか。それは単に中国韓国を貶めるための道具に過ぎない。
「ヒロヒト」こと昭和天皇の靖国神社にたいする発言が話題になっている。昭和天皇はA級戦犯の靖国神社合祀に批判的であり、それを靖国神社が行って以来、参拝をやめた、というものだ。
この発言を巡って、テレビでもネットでも様々に議論が飛び交っているようだ。とりわけ「右派」と自認するものたちのうろたえぶりはおかしいのだが、うろたえるついでか、「左派が天皇を政治利用している、けしからん」と八つ当たりする始末。右派の議論は混乱を極めているし、また先の「八つ当たり」に対する左派の反応も見えずらい。まずはいったん双方の議論を整理しておく必要があるだろう。
ここで「右派」「左派」とはさしあたり「靖国神社公式参拝」に対する賛否によって思想的立場を二分するものと位置づけておこう。これは一般的にネットで「ウヨ」「サヨ」などといってののしりあっている言説がよって立つある雑ぱくな政治的・思想的立場とは微妙なずれを見せる。しかしまずは靖国神社言説に絞って、厳密に議論を整理しておかないとますます議論は混迷を増すばかりである。
さてここでいう左派の立場を整理するためには二つの軸を導入すればよい。
この二つの軸によって四つの立場が析出される。
福田康夫は当然のことながらいわゆる「サヨ」ではない。三番目の立場も「中韓の言い分」といいながらそれを対外的に表明しうる政府の主張を重視していないというのはやや矛盾を来しており、実際純然とこの立場をとるものは見かけない。となるといわゆる「サヨ」とは実は中国韓国の主張とは独立して靖国問題に対するスタンスを決定していることがわかる。中国は特に「分祀」をこそ主張しているのであり、4番目の立場は最初から中国の主張とは無関係に成立しているのだ。
さてこの「左派」の立場に、今回の昭和天皇の発言(独り言)をどう見るかに関する主張を加えてみてみよう。
昭和天皇の主張は「分祀」を主張するものとつながる。この意味で天皇を「政治的利用」できる立場にあるのは「アジア協調派」ないしは「朝日新聞」的立場に限られる。改めて確認しておくべきは「左翼」は中韓の言い分も、天皇の独り言も、それ自体としては立場を異にする、ということである。
それでは「左翼」は中韓の言い分や、天皇の独り言にどのように対するのか。これまた厳密には二つに分かれるだろう。原理原則に則って、天皇の政治的利用などを断固拒否する立場と、利用できるものは利用してやれ、という立場。
一口に「左派」「サヨ」「左翼」といってもこれほど複雑に立場は分かれているのである。「サヨは天皇の政治的利用をしてけしからん」という言説の浅はかさがわかろうというものだ。
さて、私はどの立場をとるかというと、実は徹底的に「政治的利用」でも何でもしてやれ、という立場である。「人のいやがることをしましょう」という戦後民主主義の教育を骨の髄まで受けてきたもので。中韓政府の政治的利用はどうやらマイナスの方向にしか働かないようだから、そちらは功利主義的に切り離しておく。一方天皇の方は「ウヨ」たちが困っているようだから、利用する。さあ、偉大なる昭和天皇大陛下様がA級戦犯の合祀は不快だとおっしゃられておられましたぞ、さあ「ウヨ」諸君はどう出る?
こうした「政治的利用」によって、何となく雰囲気で「結束」している体を装っていた「右派」もまた様々な立場に分裂していくことになる。
さて今度は靖国神社における「右派」の立場を整理しよう。
ここから論理的に析出される立場は以下の3つ。
本来ロジカルには「天皇はどうでもよい」「分祀賛成」があるべきだが、これは完全に「左派」の主張と重なってしまうので排除。
第一の立場は実はすでに昭和天皇の発言以前から「分祀」を主張していることが多い。渡辺恒夫を見よ。それはそうだ。現明仁天皇さらには皇太子の姿勢を見れば、まっとうな天皇主義者は「分祀」に傾く方がよほど自然なのだ。
2番目の立場と3(4)番目の立場は実はほとんど等しい。すでに2番目の立場が自らのある政治的立場の正当化のために「天皇」を制度として利用しているに過ぎないからだ。ただしこの二つの立場をあわせて、さらに別の角度から二つの立場に再び分割しなければならない。それは「靖国」参拝さらには「ナショナリズム」そのものをどの層においてとらえるか、である。
一つはナショナリズムを経済的利害闘争の道具として徹底的に利用しようとする功利主義的立場であり、もう一つはナショナリズムそのものを自分自身(そして自身が住まう国家)のレゾンデートルに関わる問題としてとらえる立場である。
前者はまさに小泉純一郎や安倍晋三ら自民党政治家の現主流派の立場である。対米関係を最大限に重視し、中韓との関係においては協力、協調よりも競争的な関係を持ち込むことこそが国益にかなうと信じる立場である。一方後者は自らのナショナリスティックな衝動のままにそれにかなう限りで、自民党や天皇制を支持するが本質的には自身の「自信」を獲得・回復するのに「他者」「他国」の貶めによってしかなし得ず、本質的に「天皇」とも無関係に、単に中韓が反対しているが故に靖国参拝を神聖視するといった、まさしくネット言説に満ちあふれる「ウヨ」のことである。
危険なのは自らのレゾンデートルを求めるといういわゆる「青年期」病を煩うものたちの奏でる漠然とした自愛主義的雰囲気が、伝統的保守主義という正統的言説をまとい、主流化し、小泉的政治を無批判に、迎合的に支持してしまう現在の政治的状況にある。つまり今なすべきはこの三位一体を解体し、分裂させることだ。
再び「左翼」のとるべき立場を同定しよう。この三位一体を突き崩す問いかけ、
「さあ、偉大なる昭和天皇大陛下様がA級戦犯の合祀は不快だとおっしゃられておられましたぞ、さあ「ウヨ」諸君はどう出る?」
これを反復し続けることだ。
ブログ炎上書き込みやいじめにおける「気楽さ」についてもう少し書く。
例えばいじめにおいて、加害者側は「遊び」感覚で「気楽」に行うことがあるとしよう。そうした場合、その行為が「いじめ」として被害者を生み出すというのはどういうことか。行為を行うものの意識は「気楽」なものであり、またその行為単独で取り出した場合、時に他愛無いとも見られるような行為が被害者を生み出す「いじめ」となるというのはどのようなプロセスにおいてなのか。教育社会学における「いじめ」研究はそこに着目してきた。
加害者に罪の意識がないとすれば、その行為の判定は被害者ないし第三者にゆだねられることになる。これは実地レベルにおいては妥当なことだ。いじめの疑いが出たとき、加害者とされる側は必ずと言ってよいほど、「遊び」を装い、そのように主張する。それをそのまま採択するのは危険である。いじめの認定は加害者の意識からは切り離さなければならない。こうした常識を理論化していじめの構築主義理論が出来上がる。いじめは加害者の意識によって生み出されるものではなく、被害者、加害者双方の相互行為の中に生み出されるものである、と。
しかしもっと原理的にいえば、やはりいじめとは加害者の意識によって生産されるものなのではないのか、というのが私のいじめ論に対する考え方である。加害者の「気楽さ」「遊び」感覚を、単に責任逃れの嘘であると決めつけるのは、現実を取り違える。確かに加害者は気楽に、遊び感覚でそれを行うのだろう。しかしその気楽さとは何ら反しない次元で、加害者は被害者を傷つけようとしている、あるいは被害者に対して「傷つけ!」というメタメッセージを発信しているのではないのか。相手が傷つくこと、それこそがいじめと呼ばれる行為によってなされる目的であり、加害者はその行為を通じて被害者に「傷つけ」という命令を発し続けているのだ。加害者は遊びのつもりが結果的にいじめになる、ということはない。そうではなくて、加害者はまさにいじめ行為をこそ行っているのであり、その行為の具体的なものとしてシカトやらなにやら、時に単独では真に他愛無いとしか言いようのない行為も含めて、さまざまな行為がなされるのだ。
構築主義者はそれを取り違える。時に他愛無い行為の集積が「いじめ」になる瞬間をかれらはさがす。しかし逆なのであって、いじめ行為の中に様々な行為、時に他愛のない行為も含めて、が取り込まれるのだ。
このときとりわけ「他愛無い行為」は加害者に自身の行為は気楽な遊びであるという免罪符を己自身に与える。そうしてかれらは人を傷つけるという行為を気楽な遊び感覚で行うことに成功するのだ。
ブログを炎上させる行為もそれと同じ構造を有する。一つ一つの書き込みはくだらないものにすぎない。しかしそうした書き込みを行うものにとって重要なのは一つ一つの書き込みの内容ではない。そうではなくて、かれらがブログ主に対して送り続けるメタメッセージである。それはまさにお前は攻撃されているのだ、というメッセージである。そうしてそのメッセージが伝わることにより、相手が屈服し、謝罪し、ブログを閉鎖することなどを一つの目的においてかれらはそのメッセージを伝達し続けるのだ。
かれらは誰かに(時に自分自身に)己の行為について問われれば、「ただの遊びだ」とのたまうかもしれない。それは確かにかれらの実感にも合う説明なのだろう。そうしてかれらは気楽に、遊び感覚で、人を攻撃するのだ。そしてその気楽さを守ってくれるのがかれらの匿名性である。
大学も夏休みに入り、その他予定の入っていた仕事がキャンセルになったりで、ちょっとだけ時間に余裕が出る。
そうなれば本でも読むかとなればよいのだが、結局別ブログの整備に時間を費やす。Movable Typeいじり。
設置したときにはやや時間がなかったので、ネットで配布されているひな形を使わせていただいたのだが、やはり時間があってじっくり見てみると、どうにも「人の物」という感じがして気持ちが悪い。私の好みからして若干気に入らないところが多数あったので、大幅に変更をする。
といっても見た目はほとんどかえず、単にソースをいじっているだけなのだから、何をやっているのか、というところだが、とりあえずhtml的には大分きれいになった。
と思ってMovable Typeのデフォルトのソースを見てみたら、どうやら元に戻っただけのような。こっちで使っているブログシステムμ-sの時も、作成元とは別に配布されている「改良版」の方がソースは美しくなかった。
本来htmlの論理とサイトの見かけとは融合していてしかるべきものなのだが、現実問題としては対立してしまうことの方が多い、というのは少し残念。
突然大量のアクセスがあり、なんだ?と思っていたら、前に書いた「ネット言論における忍耐力の欠如」に「はてなブックマーク」を張っていただいていたようだ。結構今更の話なのだが、ついでにこちらよりは「誠実さを貫くということ」のほうが個人的には断然気に入っているのだが、いずれにせよ、この手の「炎上」話には一定関心を持つ方がいらっしゃるようだ。
そのコメントをつらつら見ていて、群がったものたちを称して言論潰しなどではなく、「ただ遊んでいるだけ」という評価を見る。それはその通りだと思う。かれらの主観的世界においては。
それをいえば、学校などで行われているいじめだって同じだ。暴力などではなく「ただ遊んでいるだけ」。そうした主観的世界における「気楽さ」とでもいうべきものはこうした問題を考えるときには考慮に入れる必要はある。しかしまた一方で、それが結果としてもたらした効果については軽んじてみるべきではない。
現に件のブログはこの一件以来更新されていない。コメントしている側は「遊び」のつもりでも、それに直面させられたものにとっては、いかにそれがただの「現象」にすぎず、黙殺するのが妥当と分かっていても、少なからぬ「力」となって現れてくるものだ。それは「炎上」したブログにはそれだけの理由がある、という「いじめられる人にはいじめられるだけの理由がある」というのと同質の言説によって引き起こされる力である。
私たちはもう一度(とりわけ「匿名」が跋扈するこのネット言論の世界において)、黒木ルールというものの持つ意義を考えてみる必要があるのではないか。このルールを、ただ一サイトの方針というにとどまらず、様々なネットにおける現象を見て、批評するときに、改めて鑑みる必要がある。
「炎上」させているものたちは一般に「匿名」(黒木ルールによる)である、そうである限りにおいて、炎上させているものたちこそ真にゴミのような存在にすぎないのだ、さらに2chなどの匿名掲示板の言説は、遊び場としての意義は認めても、断じて「言論」足り得ないのだということ、個別に問えばそのように考えるものが多いこの「常識」を、より強力なネット言説として流通させることである。
私のPC環境の変動が激しい。
とりあえず私が使っているPCは以下の四台。
少し前まではThinkPad T40がメインだった。自宅でもメインで使っていたし、出先でも作業量がある程度まとまってあるときはT40を持ち運んでいた。一台で事足りる、というのでデータの同期の観点からもシンプルでよかった。
しかしMac miniを自宅でのメインに据えてから状況が変わった。自宅でT40を(Gyao以外で)使わなくなった、というにとどまらず、出先でもLet's noteで済ませるようになった。
Mac miniをメインで使うようになると、T40には最新のデータはないことになる。どのみちデータの同期をとらなければならないのなら、荷物も軽い方がよい、と軟弱なことを言うようになった。体力は確実に損なわれている、すぐに体は楽な方に慣れてしまった。
一方で、キーボードだとか画面の広さだとか、体力以外のところでは、使い勝手のよいT40でなくても、Let's noteで対応できるようにもなった。長文もLet's noteでほぼ問題なく入力できる、少なくとも出先では画面が小さくてもあまり気にならない。
体力的にはますます楽を求め、しかし身体はPCに対する適合性が高まる。どんどん私の身体はPC化していくようだ。
どのみち「内容」のあることはもう書けないのだから、もっと気楽に、とりとめのない日々見聞きし、感じたことを雑駁に書こう、ととりあえず今そう思ったので、そう書いておく。
今クールのドラマ一推しは断然「結婚できない男」。
偏屈男がすっかりはまっている阿部寛がまたもや当たり役。徹底して、傲岸不遜に皮肉屋っぽく振るまう、人を皮肉ることを人生の喜びとしている、なのに目が悲しい。
出ている女優陣も最高だ。夏川結衣、国仲涼子、高島礼子、もう誰でもいいです。年齢に幅はあるけれど、私ストライクゾーン、広いので、って何の話だ。
久々のドラマ批評。
「下北サンデーズ」。
微妙。というか、期待はずれ、というか、期待通り。
佐々木蔵之介、古田新太が出ているという意味では期待したくなるドラマではあった。また下北沢という(関西人の私にはなじみはないが)独特っぽい土地柄をテーマにしたとか、劇団が舞台とか、その辺りもうまく作ればはまりそうだ。
藤井フミヤが製作に関わった、という意味では元々期待薄。下北沢という土地には思い入れはあるのだろうが、基本的に「いいカッコしい」の人間がこの手のコメディに関われば、必ず「ウザ」くなる。
というので、見る前から、何となくうざったいドラマになるだろうな、と思いつつ、見てみたら、果たしてウザかった。
このドラマに出てくる人たちは、ちょっと変です、でもとても愛すべき人たちなのです、というメタメッセージがこれ見よがしに押し付けられているようで、見ていて何とも不快だった。
役者が語る前に、演出サイドがこのようなメッセージを先に語ってしまう。それが邪魔をして、役者の台詞を殺してしまっている。
メタメッセージまで演出サイドが意図して作り上げてしまってはだめなのだ。演出屋はメッセージ(台詞)をきちんと表現すればそれでよい。メタメッセージは役者の演技やら、見る側の態度やら、ドラマが放送されている社会的文脈やら、そうした諸々の要素から浮かび上がって来るべきものなのだ。
これまでここの別サイトとして場所を借りていた「はてな」のシステムのあり方に私個人として看過できないところが出てきたので、移転。
と勢いで(と言いつつ一ヶ月以上もかかったのだが)、別サイトをまたもやこしらえてしまったのだが、ちょっと冷静になってみれば、自分で何をやっているのだろう、という気がしてくる。そもそもここのサイトを作ったのは「はてな」での読者層が私の想定していたものと外れてしまったので、再度ひっそりと自分の思いを自由に書ける場が欲しくなったからだ。要するに「はてな」のキーワードリンクシステムに恐れをなしたのだ。
そうして切り離してはてなに残したサイトもまたはてなから逃げ出してくる。そうなるとそもそもサイトを分割した意味も失われている。「また一緒になろう」ということで良さそうなものなのだが、そうはしない。
一方のサイトは「モーニング娘。」などといった「大衆文化」のただ中にいる当事者として、そしてこちらのサイトはそこから少し距離を置いた観察者として、おのおのの立場を保持しつつ、そのずれから何かを見いだせはしないか、それに期待して。
ただその割には「当事者」として書いているはずの向こうのサイトもいまだ観察者的立場が残ってしまっているのはいかがなものかと思いつつ。