モーニング娘。
L. Althusser
小泉靖国参拝を巡る発言の中で個人的に記録に残しておきたいものをここに記しておく。
8月16日朝日新聞朝刊 「靖国問題」解決の道は
インタビュアー「小泉首相は、中韓の反対には左右されない、A級戦犯合祀については特定の人に参拝しているわけではない、政教分離については思想の自由だ、と反論しています。」
野田「論理のすり替えだ。首相があのような言い方をすることで、望ましくないナショナリズムや排外主義をあおっている。『反対するものは中韓の回し者だ』というのは、リーダーとして非常に危険だ。A級戦犯の問題では『死んだら皆同じ』と強弁するが、靖国神社は死者を選別している。祀られているのは官軍だけで、賊軍となった西郷隆盛はまつられていない」
野田毅氏の指摘は重要なはずなのだが、参拝賛成派は忘れているのか、理解できないのか、ほとんど応えようとしない。参拝によって戦争の死者を弔うと言うが、その「死者」は誰なのか。A級戦犯が含まれていること以上に問題なのは、むしろそこから排除されている人は誰かと言うことだ。原爆を含む空襲や沖縄戦で犠牲になった民間人被害者、そして日本軍によって殺害された相手国の被害者は一切含まれていない。そしてむしろA級戦犯がまつられていることにより、後者の被害者の存在を再度軽んじてさえいる。こうした選別を行っておいて、なにが「死んだら皆同じ」だ、何が戦争被害者を弔う、だ。
8月16日朝日新聞夕刊 加藤紘一氏自宅放火事件に対する山口二郎氏のコメント
小泉政治時代に議論の二極化、単純化が進み、対話が成り立たなくなった。靖国問題は典型だ。首相は靖国神社参拝への批判に耳を傾けないばかりか敵視するような問答無用の姿勢をとり続けた。法科の同期に不明なところもあるが、首相の姿勢が右翼を勢いづかせた面はなかったか
放火をするような右翼テロリストはともかく、ネットで言説を垂れ流す「ネットウヨ」はまさしく小泉政治の申し子だ。単純な議論を好み、自分の理解できない話、不愉快な話は「中韓の回し者」的なレッテル張りで事を済ませる。我が国の宰相が「ネットウヨ」と同レベルの頭脳の持ち主とは信じたくはないが、その言説構造はほとんど同じである。
もう日にちがたってしまって今更の話題なのと、そもそもくだらない話なのであっさりと。
我が宰相小泉純一郎氏が15日に靖国参拝。公約を果たしたのだそうな。
今更何を偉そうに。それを言うなら、これまでその公約とやらを破り続けてきたと言うことではないか。それを退陣間際になって、その後のことは責任は負えませんという段階で、外向的にごちゃつくのがわかっているからこれまで果たせなかったその公約を果たすとは。
それは靖国参拝の是非とは別に、ただ単に卑怯なだけではないのか?こんな卑怯者の振る舞いを小泉ファンはそれでも支持するのか。
NHKスペシャル「硫黄島 玉砕戦」を見た。
戦争を改めて考える上で非常にリアルでよい番組だったと思う。なんだかんだ言ってもこういう番組をしっかり作れるのがNHKだ。
もっともこうした番組を見た後、かつての「戦後教育」を身体化したものは、戦後日本の不戦の誓いへの思いを新たにするものだったが、最近では悲惨な戦争を戦った兵士への思いが転じて、だからこそ靖国参拝へと思いがつながるのかもしれない。そしてそうした思いを否定する中国韓国許すまじ。同じ「事実」を受け入れてもなお、それを解釈する言説環境の違いがこれほどにまで価値観を違えてしまう。80年代に一部保守政治家たちが目指した「戦後政治の総決算」、戦前から戦後への価値観の転倒と並ぶとまでは言わないが、相当の価値観の転倒を我々は経験しているのかもしれない。その転倒ぶりはかつて「総決算」を目指した政治家・思想家たちをもとまどわせるほどなのだ。中曽根康弘、渡辺恒雄、秦郁彦、最近こうしたとまどいを感じさせた人たちである。
硫黄島の戦闘に戻る。「玉砕戦」によって、戦闘能力がなくなっても日本軍は降伏しない。アメリカ軍はアメリカ軍で、当初の激しい抵抗に対する恐怖心からか、すでに戦闘能力もない日本兵の苛烈な掃討戦を続ける。硫黄島の悲劇の最大はこの掃討戦にあるだろう。
なぜ掃討戦は続けられたのか。誰がそれを止めさせ得たのか。それを問うことは「戦争責任」を考える上で、決して無駄にはならない。
日本軍が事実上戦闘能力をなくしていたことはアメリカ軍はある時点で知り得ただろう。それにもかかわらず掃討戦を続けたとすれば、その責任はアメリカにもある。それでもってアメリカのやり方を非難するのは正しい。アメリカは沖縄戦でも同じことを犯した。さらに投下する必要のない原爆を落とし、大量の民間人を虐殺もした。これらのアメリカの行為に正義はない。
一方で日本の責任はどうなのか。捨て石であることを承知で時間稼ぎのために「玉砕」を指示した日本の指導者たちの罪は限りなく重い。「現場」で悲惨な末路を迎えた兵士(多くは徴兵された人たち)を死に追いやったことに対して指導者たちには明確な責任がある。「合祀」を行った靖国神社という存在はその責任の区分を曖昧にしてしまった。
もう一点、大本営にいた無責任指導者たちと罪の差は歴然だが、やはり現場にいたものでその席を問われるべき人物が居る。硫黄島守備司令官だった栗林中将である。
栗林中将は一方では捨て石にされた立場でもある。そして司令官として現場に派遣されたからには最大限の抵抗を試みるのも軍人として非難されるいわれはない。しかし彼は最後に過ちを犯したのだと思う。彼はおそらく死に場所を求めて最後の総攻撃を行った。そして彼は負傷し、自決する。こうした結末は往々にして美談として、先に戦死した部下たちへの責任と取り方として礼賛されることがある。しかしそれは違うのだ。司令官には最後に絶対にやらなければならない仕事がある。それは降伏交渉である。まだかろうじて指示系統が残っている段階で、米軍と交渉をし、組織的に自軍の武装解除を行い、投降させること、これが司令官の最後にして最大の仕事なのだ。それが司令官としての責任の取り方というものだ。
戦争責任の問題というのは小泉首相やそれに共鳴するものたちが主張するほど情緒的なものとして考えられるべきものではない。
ちまたではボクシングの亀田選手の試合の件でいろいろ喧しい。
私はというと、その日は9時からドラマを見ることになっているので、9時までは時間つぶしに何となくその試合の中継を見ていて、9時になったとたんにチャンネルを変えた。だから1Rのダウンの場面さえ見ていない。ただ見る前からどのみち亀田選手が勝つことになっているのだろうな、と思い、いつもの反日・天の邪鬼心性から、くだらん、と思い、ドラマを見終わってからネットで結果を確認したら果たして亀田選手が勝っていた、と。私のくだんの試合に関する当日の関わりはそれがすべてであった。
翌日その試合結果を巡って議論が巻き起こっていることを知った。ジャッジが公正ではない、というのだ。さらに写真週刊誌に亀田選手と暴力団との関係が掲載されるという情報も目にする。暴力団がらみの八百長、TBSという大マスメディアぐるみで大きな金が動き、WBAを札束で落としたのではないか、そもそも試合ぶりが無様であった、だいたい亀田選手は敬語が使えない、無礼なやつだ、バッシングの要素はすべてそろっていた。「右」も「左」も叩きごろ、ケチのつけようない見事なバッシング言説が形成されていた。
ブログなどで、個人的な感想として「感動した」と書いただけで、「ネットイナゴ」どもが群がりよる。試合結果の投票では9割が亀田選手の負けだと考えているという結果が出る。
私はというと、すべてが不愉快。この不愉快さはどこに由来するものか、それを自分なりに理解しようとさらに不愉快なネット掲示板などを漁る。バッシング言説が不愉快なのはいつものことだ、しかしそれだけではない。
そもそも40パーセントを超える視聴率をたたき出すまでに仕立て上げたその環境すべてが気にくわない。私にとって今の言説状況は親亀田対反亀田の二項対立ではない。すべて一連・一体の言説として、私にとって不愉快な言説を形成しているように感じられる。
亀田選手は敬語を使えない無礼なやつだというネットの、おそらく私よりも若い世代が言っているとおぼしきじじくさい言説にはうんざりする。そして全く同じ程度において、亀田選手が試合後両親への「感謝」の意を表したことに感動する言説にもうんざりするのだ。
全く持ってよくできた道徳の教科書なのだ。父・兄弟とともに家族愛に支えられての世界挑戦。外向けには敬語を使わないヒール役。しかしその一方で「実は礼儀正しいやつなのだ」という情報が漏れ聞こえる。批判的なものはその予定調和の「悪役」ぶりを批判し、褒めるものはまた予定調和の「本当はいいやつ」ぶりを褒める。そうしてファンもアンチも見事に吸収して道徳を反復し、視聴率を40パーセントを超えるまでに引き上げたのだ。