モーニング娘。
L. Althusser
イデオロギーについてのほとんど思いつきレベルの素描。
イデオロギーは確かに「機能」をもっている。ただしその存在のあり方は歴史に依存している。
イデオロギーの存在形態それ自体は必ずしも機能的ではない。歴史に依存したその存在形態において、イデオロギーは機能的なのだ。
毎日新聞1月31日付夕刊「中島岳志的アジア対談 結局、「右翼」ってなんだろう?」対談相手は片山杜秀さん。
中島 僕は例えば、右翼とは基本的に一君万民の思想だと思う。天皇という超越を掲げれば、すべての民衆は一般化されるという平等思想ということです。
片山 失われた美しい過去や母なるものへの回帰が、広い意味での右翼の定義だと思います。・・・母なるものや天皇など、弱者としての自分を包んでくれるものが不可欠になる。右翼の右翼たる所以です。
一方、一君なしの万民思想が左翼でしょう。その前提は「自立した孤独な個」が対等に連帯することでしょうが人間はそんなに強いものでしょうか。競争社会に疲れ、個の自立も信じられない人は、誰でも右翼になれる。そう思いますね。
中島 左翼には普遍的な展望を考える理性への信頼がある。・・・それに対して右派は、人間は何かに限定されていると考えます。自分を限定する時代や空間に自覚的です。・・・左派には未来への理想があり、右翼は過去に理想がある。
片山 ところが今は、単なる反左翼や現状追認が右翼や保守とされる。右翼が反近代、反西洋で、アジアへの回帰の思想とすれば、例えば国際関係なら、反米で、インドや中国とのブロックを構想するのが右翼になる。でも今の日本ではそうは使われていませんね。この言葉の混乱が思想の混乱を招いている。
うっそお、と思ってしまった。ここで定義されている右翼とは単にある理想的な「右翼」であってそんなものは特定の思想家の思考の一部分を理念的に取り出したものでしかないのではないか。
「アジア対談」だからナチズムとかは考慮の外なのか。あれって「一君万民」か?「一君」とか「過去のユートピア」が左右を隔てるポイントだというのが理解できない。いや、言っていることは分かるけれど、ものすごく表層的な理解だとしか思えない。一方スターリニズムとか北朝鮮だとか、顕著なまでの権威主義に毒されたアレだって私はやっぱり「左翼」だったと理解すべきだと思う。そしてここにはどこにも「自立した孤独な個」など存在しない。
今の時代の「ウヨ」「サヨ」をとらえる上でも全くこの対談の定義は使えない。それ自体は両者とも自覚的ではあるとはいえ、だとしたら「言葉の混乱」などでごまかさないで、いまの「ウヨ」とは何なのか、少しは触れてもらわないと今の時代が見えてこないではないか。
今の「ウヨ」とは単に「言葉の混乱」の末の誤用に過ぎないのだろうか。「ウヨ」が右翼を名乗るその選択にはそれなりの必然性、納得感はあるのではないか。
「右翼」「左翼」を論じる際にはまずは経済的な立場と思想的な立場(イデオロギー)はとりあえず切り離しておいた方がすっきりする。そしてこの対談の趣旨からしてもここで問題にしているのはイデオロギーとしての「右翼」だろう。イデオロギーと経済的な土台とは整合しない方が普通である。それがイデオロギーのイデオロギーたる所以だ。
こうしていったん切り離した上でイデオロギーとしての「右翼」「左翼」を考えれば、私は「一君」ではなく、「共同体」をキータームに据えるのがよいと思う。閉ざされた共同体の価値を尊重し、そのためなら外部の価値を否定・攻撃することも厭わないのが「右翼」、ある理性的・合理的な価値を措定し、それに従って共同体も編成されるべきだと考えるのが「左翼」。繰り返すが、あくまで「イデオロギー」として、である。経済的土台においては両者はむしろ逆立している。何となればイデオロギーとは経済的土台の積み残しを保管するべきものだからである。
今の日本の「ウヨ」とはまさにこのイデオロギーとしての右翼思想を見事に体現している。経済的なアメリカ的グローバリズムの「被害者」たちが自らの属する(と想像する)共同体的価値を死守しようとして排外主義に走る。もちろんかれらの世代の文化的共同体とは明治以来受け継がれてきた脱亜入欧的価値観に彩られたものである。
ついでに「イデオロギー」概念も今はすっかり評判が悪いが、経済的土台と思想とのねじれ、逆立をとらえる概念としては悪くない。イデオロギー概念をあまりに機能主義的にとらえてしまうと確かに危ないが、経済と社会思想において矛盾対立した事柄が同時に併存する状況を理解する概念装置としては十分有効だと思う。
本当はもっといろいろ突き詰めて考えたいテーマだが、今のところこのあたりが限界。
今更ながら私は恐ろしい捏造に今までだまされていたことに気づかされた。歴史の真実を覆い隠し、ありもしない事件を実在していたかのごとく言い張るその策謀、嘘も百回言えば何とやらということを実感させられた。
この事実を一人でも多くの人に是非知ってもらいたい。そして今までの歴史教育のおぞましさを改めて感じ取ってもらいたい。
いろいろ興味深いエントリ。
否定論者のヘイトスピーチを考える Apes! Not Monkeys! はてな別館
ついでにそこからもリンクされている「南京の真実」なる映画制作を呼びかけるサイトの掲示板の152番目の投稿も併せて読まれたい。この投稿はもしかすると削除されるかもしれない(とはいえ2週間も掲載されていたので、管理者はこの投稿を現時点では問題視はしていないようだ)ので一応保存。
152 Apeman氏のネチネチ捏造・卑怯・無知蒙昧を糾弾する!!
各位、
多くのスレッドで南京問題やその捏造についてこの方のアホな無知かつ日本人ではない論説には抱腹のいたりでしょう。
この方は大虐殺やらはどうでもよいという姿勢で、ようは高見にたったジャッジであるようです。
多くの史料や論説にあるように南京大虐殺派はシナの宣伝説で
しかありません、シナ共産党は共産主義ではなく伝統的なシナ
の変体的資本主義・拝金主義であります。
南京虐殺はまったくなかったのです、Apeman氏はあった・なかったを巧妙にリードしていますが双方の無知を適当に言い募ってこの国を貶めています。
あえて申し上げますがこの方を相手にせずに南京虐殺はバカな
ものとしてください、Apeman氏は平成19年のネット上の
あだ花なのです、海外への英語発信ではJapanes Netizensという名前はシナ・朝鮮名であってそれを日本語文章では日本ネットワーカーと言い換えています。何という偽善で卑怯なものでしょうかね。
卑怯なりApeman氏!、シナなり朝鮮へ帰るべし!!
ではまた、Aki拝投稿者:Aki さん 日時:2007年12月30日 17:20
とりあえず「左派」に対して「お前は朝鮮人だ」という「罵言」を浴びせることには彼らなりに意味はあるのだとは思う。つまり発言者は「朝鮮人」であるから、日中・日韓問題について「偏った」意見を持っており、発言内容には信頼性を持てない、などということで、発言者の客観性を問い直す効果を持っている(とかれらは思っている)。日本人の中から日本にとって不利益なこと(とかれらが思う)を言う人間がいるのはかれらにとっても不利益をもたらす。だからせめて仲間内だけでも、「そんなことを言う奴は朝鮮人なのだ」というレッテル張りを行うことで、自分たちの「論敵」が取るに足らない存在なのだと納得したいわけだ。それ自体は一種の自己防衛手段として理解は出来る。かれらの閉じた論理の中では、それで「論敵」は論争する資格を持っていないことが「暴露」され、かれらは論争に勝利するわけだ。
ただねえ、一応国際社会に日本の正当性を承認させようとする映画を作っている公式サイトの掲示板でこの手の発言を容認するということの「効果」を全く考えていないあたりは私の理解の及ばないところである。
たぶん、結局のところかれらは自身の主張を「外」に向けてアピールすることに対して興味は持っておらず、内輪での鬱憤晴らしにしか興味がないということなのだろうけれど。となると確かにかれらのやっていることはApemanさんのいうところの「単なる情報戦ごっこ」でしかないという事になるのか。
2chにおける右翼的言説の源泉を吉本隆明一派に見る。
これは卓見。竹田青嗣や加藤典洋の名が上がっているが、たとえば宮崎哲弥も吉本の影響を強く感じるし、ネット言説にどれほど影響があったかは解らないが、小浜逸郎もそのあたりの主張と連続性をもっている。
さらに思いつきついでにいうと、これらの反左派言説が雑誌「宝島30」あたりを中心に席巻したのはオウム真理教事件での吉本のオウム擁護にこれらの吉本右派(とでも言っておこうか)が一斉に吉本を見限ったときである。かれらは吉本を切り捨てつつも、彼の自立思想とかスターリニズム批判はしっかり受け継ぎ、それらを敷衍して、「人のため」の戦いを否定し、平等主義的言辞を否定するシニシズムを煽った。こうした言説空間がそのままネットにもスライドしたのではないか。
もうちょっときちんと考えてみたいテーマである。まずはクリッピングとして。