モーニング娘。
L. Althusser
iPhoneをめぐる様々な議論はいろいろ考えさせられるものがある。これはPC文化とケータイ文化との葛藤に他ならない。
PC(汎用機)・インターネット・フリー・難しい
携帯端末(専用機)・ケータイサイト・お仕着せ・簡単
そしてこのように解釈するとiPhone支持者が、iPhoneこそが閉ざされたケータイ文化を切り開く新しい流れだ、といいたくなるもの分かる。この場合のiPhone支持者とはPC文化の支持者でもある。たとえば本田雅一氏のコラム「不満を抱えながらもiPhoneから離れられない理由」もこのラインで書かれている。そして本田氏はワープロ専用機からパソコンへと移っていった時代を振り返る。
しかしそれは少し違うような気がする。ワープロ専用機がパソコンに敗北したのは、「ワープロ」という分野において自由度が低かったから、ではないと思う。私の記憶では、ワープロ専用機のパソコンに対する敗北が決したのは、本田氏が振り返るWindows3.0時代ではなく、Windows95時代ではなかったか。そしてこれが一般ユーザにとってのインターネット時代の幕開けであった。
つまり「ワープロ」という一つの目的に対する道具として、専用機と汎用機が覇を競って専用機が負けたのではなく、その目的とは全く別の未知の目的が現れたが故に、専用機にはなすすべがなく、破れていったのだと思う。
iPhone(的な機械)が日本のケータイ端末に取って代わる可能性があるとすれば、それは今のケータイには想定外の目的が現れ、iPhone(的な機械)がその流れに乗れた場合だろう。そしてそれは既存のインターネットではない。なぜなら、ケータイ文化はPCインターネットの存在を知った上で、それとはあえて違った文化を創り上げたからだ。ケータイ文化圏にとってインターネットは未知の存在ではなく、既に乗り越えた存在に過ぎない。
いかにもケータイ文化はPC/インターネット文化にくらべて自由度がない。だからPC/インターネット文化を主とする人間からすれば不便で劣っているように見える。不自由な世界から自由な世界へ。それは自然な流れのように思えてくる。しかしそれは違うのだ。
これはおそらくある種の世代間葛藤なのだ。自由が不自由よりも優れている、というのは一つの価値観・文化に過ぎない。そしてケータイ文化圏に属する人はそれとは違う価値観を持っているのであって、不自由で何をするにも課金されるケータイサイトをあえて選択したのだ。
iPhoneは何事にも「自由」を渇望するPC世代が、PC/インターネット文化を保持したまま、いつでもどこでもインターネットという利便性を追求するための機械に過ぎない。それはPCの目指すべき道の上にあり、その限りで「新しい」ものをもっているが、ケータイ文化の先を行くものではない。