題名のとおり。別に自分のためには買いたくはなかったが、ファイルの互換性確保のため、やむを得ず。Officeをはじめて買ったのはver6のとき。この時点で私にとっては機能的にほぼ十分。95対応になっただけのver7(Office95)は買わざるを得ないとして(機能にまったくといっていいほど変化はなかったように記憶している)、次のバージョン(Office97)は結局買わなかった。縦書きとHTML対応にはちょっと惹かれたが、縦書きはその後必要なくなったし、WordのHTML対応はまったく不十分だった。EXCELは確かによくなっていると思う。ただ主に使うのはWordなので、EXCELのためにバージョンアップしようとは思わない。
実際、Word97の評判は散々だったようだ。機能の縮小、バグの山、ファイルサイズの増大、前バージョンとの互換性のなさ。だから本来だったら、Office95をみなが使いつづけられれば、それがベターだったはずなのだ。しかし、あたりまえのことではあるが、新規に購入したユーザーは新バージョンを買わざるを得ない。ファイルの互換性のなさが、「幸い」して、古いユーザーもバージョンアップを強要されるということになる。ひどい話だと思う。それでもぎりぎりまでバージョンアップしなかったのだが、ある事情からどうしてもOffice98のファイルをダイレクトに読む必要が出てきてしまったのだ。
その事情というのが、これまた変な話で、大学のワープロ教室(?)で、Wordのハイパーリンク機能など、本来使う必要もなければ、使いたくもない機能を盛り込んだ文書を学生に作らせ、評価しなければならなくなったことだ。ここで愚痴っても仕方ないのだが、なんら汎用性のない形式のファイルをローカルにリンクさせることの意義が私にはトンとわからない。しかしお仕着せのテキストにそういうファイルを作らせるよう指示してあるのだから仕方ない。ちなみに最終課題はPowerPointを使う。リンクとプレゼンあわせて、HTMLを一本教えたらしまいじゃん、と思うが、仕方ない。Wordで「使える」機能といえば、文末註とアウトライン機能だと思うが、それは教えず、こともあろうにハイパーリンクとは。最終出力先をHTMLだと考えれば、ハイパーリンク機能も無駄ではないのだが、前に書いたとおり、WordのHTML保存は「使えない」。余計なタグをつけすぎる。たとえばフォント指定なんてくだらないことをやってくれる。こうしたものを削る手間と一からHTMLを書くのと、私だったら、後者を選択する。
そんなこんなで、不本意なのだが、仕事とあらばやむを得ず、Office98は買いたくても買えないので、Office2000を買ったのだ。アップグレード版27000円払って、システムが不安定になる可能性におびえつつ、HDの空き容量を減らして、インストールした。ただ2000はさすがに97,98よりはいろいろましになっているらしい。とりあえずバグが大幅に減っているらしいというのは、当然のことながら,まあよかった。あと個人的によかったのがWordがSDIになっていたこと。ハイパーリンク機能を使うとお間抜けさが増すのだが、普段の自分用には使わないので,かまわない。それより複数の文書を同時に見るのが便利になったプラスのほうが大きい。マルチモニターにきちんと対応しているのもよい。95は、仕方ないとはいえ、若干不具合があった。IME2000もIME98に比べて格段によくなっている。これならATOK10(!)と、まあ、対等かな,とは思う。本当はATOK10を使いたいのだが、マルチモニターにまったく対応していないので、使えない。バージョンをあげれば,もちろんよいのだが,IME2000はただでついてきたのだから,まあこっちを使うことにする。
最後にちょっと驚いたのが、Word2000はHTMLで保存しようとするとXMLになる、ということ(いまさらの話だが、OFFICE2000を買う気はずっとなかったのでレビューもあまり読んではいなかったのだ)。確かにWordのHTML保存機能は使えないのだから、それならXMLで、というのはそれなりに理にかなっている気がする。XMLの有効な利用法というのは今はまだはっきりしない感じがするが,将来的には何か見えてくるかもしれない。だとすれば、ハイパーリンク機能もあまり馬鹿にしたらいかんのかな。
このサイトの中でもこのページは*空疎*なページである。ほかのページは、すでに具体的な誰かに向けて書いたものを、ほかに関心のある人が読んでくれればよい思ってウェッブ上でも公開してみた、というだけであって、HTML化とファイル転送の手間を余計にかけただけである。読者はすでに想定済みだし、またこのサイト上での新たな読者もそれとさしてずれることはないと想定すれば、さほど空疎なものではない。しかしこのページだけは全く最初から、誰に対するともなく書いている。読者不在の文章をわざわざ書く、それは端的に無意味というべきか。
ウェッブで日記を公開するとはどういうことか、さらにそもそも個人的な思いを敢えて文字にするとはいかなることか。それは自己の思いを他者にむけて差し出す、ということだ。机の引出しの奥底に閉まっておく全く個人的な日記でさえ、そこには何らかの他者が想定されているはずだ。そうでなければ、自己の思いなぞを文字化=外化する必要など全くないのだ。このとき想定されている他者とは、一般的には、未来の自分であろう。それは半分は確かに他者ではあるが、半分はやはり自分であって、それだけに外化という作業も中途半端なものであってもかまわないということになるだろう。例えば、ただひたすら感情的に書き連ねることも可である。他人には理解不能な文字をだらだら書き連ねることも可である。そこで、もう少し別な他者を欲するとき、例えばウェッブの中にその他者を見つけるとしよう。
その場合の他者が、範囲を限定した具体的に顔を持った他者の場合もあるだろう。それは自分の思いなり近況なりを手紙やメールで送る代わりにウェッブで見てくださいということだ。こうした私的でかつ親密な関係は、外化の重要な一契機をなすことは間違いない。もっともそうした関係性は公開性を原則とするウェッブには本質的になじまないだろう。私信なり、直接会うなり、そういう形態をとったほうがよいはずだ(ページにアクセス制限をかけてもよいが、少し後ろ向きな解決策の気がする)。
さらに、上の親密な関係だけにとどまりつづけるのは、馴れ合いや惰性を生み出すかも知れぬ。そこでもう一段階進んで(というのは本当は正確さを欠く表現だが)、より外部に他者を切り開いてみるとしよう。例えばそれはより抽象的で、絶対的な他者だ。要するに、自己の思いの外化という作業を行う一契機として、理論的に想定された、具体的な存在など捨象された他者である。中にはそうした抽象的な他者を自分の中に確固と持っていて、どこぞに公開などしなくても、外化を問題なくなしうる人もいるやもしれない。しかし私はそこまで修行ができていないので、抽象的な他者の存在の根拠を、可能性としてアクセスしうる無限の具体的な人々の中に求めているということだ。ウェッブとはそうした読者を想定するに絶好の場なのである(そしてこうした手続きは、実はこのページ以外のほかのページでもやっているはずだし、さらに言えばウェッブとは無関係に文章を物すとはそういう手続きを何らかの形で踏んでいるはずなのだ)。
もちろんそうした抽象的な他者が、どこかで具体的な存在に転化する可能性は同時に常に見ているだろう。そしてそのときにたち現れてくる具体的な存在とは、前の直接的に想定された具体的存在とはまた異なった意味を持つはずだ。あくまで、理想としては、ということだが。
さして深い内容のない、他愛ない一通のメールがひどくうれしいときがある。
直接会ったり、電話したり、そういうコミュニケーションのほうが「よい」コミュニケーションでありそうなものだ。より親密であったり、より多くの情報をやり取りできたりする。相手の表情、声のトーン、さまざまにあいてを感じ、深い付き合いが出来るだろう。しかし、純粋に言葉だけのやり取りのほうを、私はどこかしら当てにしているようだ。表情、声のトーンは瞬時に消え去る。あれっと思ったときにはもう確かめられない。それに対して文章のなかにみえるちょっとした言葉遣いは、私にとってはより確たるものに思えるのだ。
かつて、単に安いという理由で割と頻繁に手紙をやり取りしていたことがある(国際電話は高いのだ)。メールが使えるようになって、手紙は使わなくなった。手紙もよかった。メールと違ってまったく速報性はないが、きちんと文を書いた。メールは間をおかないし、また相手の文を簡単に引用できるし、ずいぶん文章は安易になる。時間の点は言うに及ばず、引用するのが簡単なことによる影響もずいぶん大きいと思う。なんなら返事を引用なしで書いてみればよい。よほどきちんと書かないと、うまい返事は書けないはずだ。携帯端末からメールがやり取りできるようになって、ますますメールは電話に近づく。保存性がなくなり、速報性が増す。私は個人的にもらったメールは原則的に捨てないが、一般的にはそういうものでもなくなってくるだろう。
それでもなお、電話のように半ば強制的でなく(電話をかければ相手は一般的に、それなりに相手する*義務*が生じるだろう)、手紙のように構えることなく、気楽に書かれたメールの文章は、私にとっては一番豊かな表情を見せてくれるように思える。私はメールの文字に見える表情、例えばちょっと砕いた文体の中に見える親しさ、を見て取るとき、時に直接対面で話しているとき以上に確かな関係がそこにある、と実感するのだ。その瞬間瞬間にきれてなくなるかもしれない不確かな関係の中で、文字は確かに*ここにある*。何度も繰り返し確かめ、少しの安心を得る。
ゴールデンウィークの中休み、メーデーに京都市内に出た。中休みといっても大半の人は連休の真っ只中のようで、私服姿の人々で街があふれる。「メーデー」とは無縁の世界。みな浮かれた感じで、連休を満喫しているようだ。かくいう私もメーデーとは無縁、浮かれ人の列に加わろうと、京都まで出てきた。仕事帰りに一杯、まったく帰り道ではない三条に足を伸ばす。友人二人とそこで待ち合わせ。普段、観光地にひとりで行って、観光している人を観察していることが多い身ゆえ、自分が華やいだ場の中に加わること自体が不思議な気がする。今日はひとりではない。
瓶ビールをのみ、かつおのたたき、野菜てんぷらなどで腹をふくらし、後はカラオケ。絵に描いたように浮かれたコース。はじめに入った店では、店のおばさんから「あんたら酒飲んでもええ年齢なんかいな」と突っ込まれた。私は一応背広を着ていたのだが、高校の制服にでも見えたのだろうか。あるいはいずれもカジュアルな形をしていた連れ二人に対してだけ言ったのだろうか。だとしたら、この三人はどういう関係に見えたのだろうか、と想像してみたりする。−高校生をなんぱしたサラリーマン?そりゃあ、いくらなんでも浮かれ過ぎだろうって。
確かに私は浮かれた雰囲気を作る人の列に連なっていた。誰かが私を見れば、確かに私はあの場のまぎれもない一員だっただろう。しかし、私はいつものごとく、やはりどこかさめた観察者だった。連れの二人もやはりどこかさめていたようにも思えた。せっかくのゴールデンウィーク、わざわざ呼びたてて退屈させてしまったかもしれない。そう思うと居たたまれない気になる。私は結局浮かれ人にはなりきれなかった。
街にいた大勢の人々も、やはり実はみなさめていたのかもしれない。そうしてそれぞれにさめた人々の群れがあの華やいだ雰囲気を醸し出していただけなのかもしれない。都会の喧騒、孤独な人の群れ、陳腐ないいまわしが頭をよぎる。「 孤独な人!」という呼びかけに、しかし、あの場にいた多くの人は振り返りはしなかったろう。あの場には、たとえ孤独であっても、それを忘れさせるだけの雰囲気がきっとあったろう。そして私もその雰囲気にのまれに行ったのではなかったか。私は単に多くのものを求めすぎているだけなのかもしれない。私は何を期待していたのか。何を求めているのか。時々それがわからなくなる。
気がついたらもう四月も終わり。恐ろしく何もしなかった一ヶ月、という自覚があると、逆にじゃあ、何をしていたのだろうと振り返りたくもなる、というものだ。
非常勤を8日。大学のほうは、まあ、いわゆるパソコン教室。自分が誰からも教わったりしたことのない話を人に教えるというのも妙に難しいが、基本的に頭は使わない。こんなのが大学の授業かねえ、と思うが、飯の種なので文句は言わない。アルチュセールがどうたらというより、ワープロの使い方のほうが需要があるのだから仕方がない。
看護学校は、例年何を教えたらよいのか悩みつづけてはや4年。「社会学」ではなくて、「教育学」なので苦労する。教育制度なんて看護士の卵に教えても仕方ないし、といって「人にものを教えるとは」なんてたいそうな話は出来ない(し、興味もない)。それで、結局今年は、文章の書き方講座みたいなのをやることにした。文章を書くということは人にものを伝えるということであり、教育学だと言い張っても、まあ、何とかセーフかな、ということだ。ここでは雑文を書き散らしているが、元来、文章を書く、ということにはそれなりのこだわりがある。それで、毎回学生さんに課題を提示して30分ぐらいで何か作文を書いてもらって、次回に講評するという形式でやっていくことにした。学生さんがどう受け止めてくれているかはいまだ判然としないが、授業時間が終わって休み時間になっても、書きつづけてくれる学生さんが結構いて、そういう風に文章と格闘している学生さんの様子を見ていると、何かを伝え得ているのではないか、という気がしてくる。
自分の勉強、ということでは読書会が2本。フェミニズム関連読書会とアドルノの『否定弁証法』を(日本語で)読む会。前者ではラクラウとムフを「発見」。ずっと軽視してきたが、結構使えるかも。アルチュセールと言説論を結びつけるような議論。それほど感動的に目新しい議論でもないが、私がやろうとしていることの正当化には使えそうだ。後者ではアドルノが「経験」概念と「モデル」的思考を重視しているのに少し戸惑う。この二つはアルチュセールがばっさり切り捨てた思考様式だからだ。それなのにアドルノを読む限り、アルチュセールと対立している気がまったくしない。いずれも語りえぬ「全体」へのこだわり、みたいなものが共通している感じがする。この辺をもう少し突っ込んで考えていけば、何か面白い話になるかもしれない。とりあえず、この両者をつなぐキーパーソンはF.ジェイムソン。あくまで、無責任なモノローグ。
フェミニズム、に関してちょっと思ったことをついでに書いておく。なんとなく、ある次元のフェミニズムは「ねばならぬ」的思考にとらわれているようで、その点が気に入らない。フェミニズムはそもそも、「女は・・・ねばならぬ」という物言いに対する反発から出てきたのではなかったか。それへの抵抗がやはり「ねばならぬ」なのだとしたら、あまりにもつまらない。そのような不毛な「ねばならぬ」と「ねばらなぬ」の対立を無化してしまう地平に行かなくては、何のための社会理論か。
「遊び」では、今年は何年振りかで花見をした。丸山公園で夜桜見物。マッシュポテトをスープ、牛乳、生クリームで伸ばした手製のビシソワーズを持参したら、結構好評でうれしい。
ちなみにこのWPの訪問者数は、この4月は延べで186人。だからといって別にどうということではないが。
こうして振り返ると、自分で思っていたよりは、ましな一ヶ月だったかな、と思えてくる。
このページに来る人は、基本的にはYahooから来ているはずで、それ以外には多分くる手段はないはず。仲間内や学会関係にリンク依頼はしていない。個人的に知り合いにurlも知らせていない。だから、Yahooで「マルクス」とかのキーワードできてくれた人が多いはずで、看板に偽りありで申し訳ないことだと思っている。で、そういう人は恐らく日記まで読みはしないだろうし、読んでも個人的な話には興味はないだろう、ということで、この日記でもあまり個人的な話は書かないようにしている。しかし今日はちょっとうれしい知らせがあったので、あえてここでも書いておこう。
大学の同級生が大学の講師になった。この場合の「講師」とはきっと常勤のことだろう。ここしばらく連絡がなくて、どうしているのかな、と思った矢先にメールがきた。彼女は日本の大学の院を半年で辞めて(籍はしばらく残していたが)、アメリカの大学でがんばっていた。それでそのまま今度は日本の大学に就職。彼女の前向きな姿勢とバイタリティにはいつも圧倒され、あるいは叱咤激励されてきた。彼女の授業に出てみたいが、まあきっと嫌がられるだろうな。ともあれ、いろいろしんどいこともあったようだが、よかった。とりあえずおめでとう。ここでいってもあまり意味はないけれど、おめでとう。
この日記も定番どおり、「三日坊主」ならぬ「四日坊主」だった。いろいろと忙しかったのもあるし、誰が読むとも知れぬこんな場所に何かを書かなければならないほど煮詰まってもいない、というのもある。WPというのは、無限の人に読んで貰えるという可能性を有している一方で、実際には誰も読んではいないものだ。やはり生身の人間と直接話をしたほうが楽しいに決まっている。今はさしあたりそういう場がかろうじて確保できているので、あまりWPを熱心に更新する必要がない、ということであって、この「三日坊主」状態もあながち悪いことではないのだ。
俗に「両手に花」という言葉がある。幸せな状態を揶揄した言葉だということになっているはずだが、果てさて本当にそうなのだろうか。両手に花を持っている男の図、というのを漫画チックに想像してみると、これが結構間抜け。少なくとも最高に幸せな状態ではないだろう。まあ、不幸な状態でもないのだが。
ところでその逆、つまり男が2人で女が1人の状態を表す言葉ってなんだろう。別に「両手に花」でもよいのだが、あまりそういう使い方はしなさそうだ。なぜこの状態を表す適切な言葉がないのか、と考えてみると、男サイドでものが見られているからだろう、とも思えてくる。男の立場にたってみると、残りの他者は男一人に女一人。両者を対等に置く「両手になになに」というような言葉はできてこないわけだ。
そういえば一時期「ドリカム状態」なんて言葉があったっけ。
自己紹介をするとき、電話で名乗るとき、自分の名前の前に何かしら肩書きをつける。「何々大学(会社)の何某です」。うそでも肩書きがないと、なかなかまともに取り次いでもらえない場合もあるらしい。で、あるフリーライター(だったかな?)は自分の出身地をそのまま肩書きにして、たとえば「京都の何某です」と名乗って、通していたとかいう話を佐高信が書いているのを読んだことがある。
実は私も今、適切な肩書きがない。看護学校の初授業日、講師紹介の際、どう紹介したらよろしいでしょうかと事務さんに尋ねられて、ずいぶん困った。ちなみに同年輩相手の時には「フリーターの」で通している。割と気に入っている。
一応見出しに「モーニング娘。」と銘打っているのだから、看板倒れにならないように、この話題を無理やりにでも書いておこうと思う(という言い訳をしないとさすがに書きづらいな)。
ちょっともう古い話題なのかもしれないが、モーニング娘。を中心にシャッフルユニットなるものがある、その各曲を聴いて思ったこと。
Yahooの掲示板なんかを見ていると、「赤い日記帳」という曲が人気らしい。別にメンバーの人気はどうでもよいのだが、楽曲的にもこの曲が唯一大人の曲で断然優れていると主張する人が多くて驚く。私にはあの曲が優れているとも、ましてや大人の曲なんて全く思えないのだ。お子様に大人気分を味わわせる曲ではあるかもしれないが。
この曲は7,80年代のアイドルポップスの再現みたいな感じの曲なのだが、残念ながらパロディになっているようにも思えないし(本当はパロディだったのかもしれない)、あるいは少しも進歩もしていない。メロディのことはわからないが、詩に関して言えば、阿久悠とか中島みゆきのようなリアリティもなければひねりもない。ひたすらベタなだけ。で、この曲の世界を大まじめに読めば(つんくはさらに上の意図を持っているのかもしれないが、さすがにそこまでは読めん)、要するに古風な(おバカな)女の歌。
で、三曲をおのおのそういう観点で並べてみると、これが結構面白い。赤が昔の女性。青がいまどきの女性。で、黄色が未来の中性。黄色の曲の詩は、じっくり読んではいないのだが、もう題名からしてテンパっていて、いっちゃっているのだ。「黄色いお空でブンブンブン」。もう麻薬にやられてフラフラの世界でしょう。ピンクの象とともにぶんぶんお空を飛んでいきたくなってくるでしょう。
青に関しては一言。市井がよい。いじょ。
ゲームの終わりにはいろいろある。サッカーのように時間で終わる場合もあれば、野球のようなものもある。将棋というゲームが終わるのは、一方が負けを認めたときである。もちろんアマチュアの場合だったら、いきなり王さまをとられたりして終わったりするのだが、プロの場合にはきちんとしかるべき手続きを踏んで、一局が終わるようだ。言うなれば、敗北の確認の儀式が終局前にあるのだ。
完全な「終わり」は「投了」である。敗者が「負けました」という。しかし多くの場合、これは単に儀礼的な手続きに過ぎない。そのまえに対局者双方の合意の手続きというようなものがある。
「投了」の直前に行われるのが、「形作り」である。敗者は見苦しく粘らず、勝者はばっさりと、言うなれば棋譜を最後にきれいに整える手続きである。まさに言葉どおり、形式化の手続きである。
しかしその前に、常にあるわけではないのだが、敗者が負けを再認するプロセスがある。劣勢はわかっている、でも可能性はあるかもしれない、最後に相手の王様に迫ってみる。これを「最後のお願い」なんていったりするようだ。「最後のお願い」うまい言い回しだと思う。手持ちのこまを使って最後の攻撃を仕掛ける。「なんとかならない?」「やっぱりだめ?」、手を変え、品を変え、問い掛けてみる。でも相手の応答ははっきりしている。「あんたの負け」。敗者は己の敗北を再認する。「最後のお願い」、切ない響きがよくはまっている。
サックスの自殺志願者の「誰も助けを求める人がいない」の論考は、「形作り」の次元の議論のように思う。ある結論に至る*適切な*手続きへの問い。それはそれで面白いのだが、なんとなく、切なさ、惨めさがあまりうまく出てこない気がする。その前の、あがき、のようなもののほうに個人的には惹かれるのだ。
卒業しても
白い喫茶店
今までどおりに会えますねと
君の話は何だったのと
きかれるまでは
言う気でした
「公的」な人間関係しかまともには築いてこなかった私には身につまされる詩だ。純粋に私的な関係が、なぜ、いかに安定的なものでありうるのか。彼(女)が「私」との時間を共有することを厭わないという確信はどこからくるのか。その確信が持てない限り、「私」は本質的に「孤独」でありつづけるだろう。
みんなひとりぼっち
海の底にいるみたい
だからだれか
どうぞ上手な嘘をついて
いつも僕が側にいると
夢のように囁いて
それで私
たぶん少しだけ眠れる
誰も嘘をついてはくれないだろう。孤独の再認。