某IT関連企業の仕事がらみでとあるパソコン「スクール」の講師と知り合う。そのスクールとは物理的な教室を持たず、ネット上で教えるシステムを作ってフランチャイズ展開をしている会社の、そのフランチャイズ先のひとつである。ウェブトレーニングの講師資格みたいなのを自ら作って、その資格取得者を講師と認定し、事業展開させる。資格取得にはその会社の開講する講座を受講料を払って受講しなければならない。
こういう商売を「資格商法」というのだそうだ。自分で資格を造って、その資格取得のための金を取る。限りなく詐欺に近い。実際そのスクールの講師氏も、せっかく開業したスクールには閑古鳥がないている雰囲気だ。それはそうだろう。ネットでバーチャルにパソコン習うのに金払うか?ネットには、必要とあれば、大概の情報にただでアクセスできる。そのネットにアクセスするためのスキルは必要だろうが、そういう人はネット経由で受講できない。パソコンスクール自体が斜陽だが、その中でもバーチャルなスクールで金儲けできるとは信じられない。結局、講師になりたい人間に、資格取得を餌に、受講料をふんだくっているだけの話だ。要するにそのシステムの主たる「受講者」は、純然たる客ではなくて、将来それでお金をもうけたい講師希望者に過ぎない。そんなマッチポンプな商売、やばいに決まっている。
などと書いたが、それを言うなら究極の資格商法って大学だよね。
学会に単に出るだけ(ネットでいうROM)ではしょうがないもので、せっかく出た以上は何か質問なり何なりしたほうがよいのだが、今回は一言もしゃべらなかった。
学会会場で、臨時会員として受付をする(関西社会学には未入会)。所属と名前を書かされる。「所属???」。思わず「無所属」とか「フリーター」とか書いてやろうかと思ったけど、逃げて非常勤先を所属欄に書き込む。でも非常勤ってそこに所属していない、んだよね。それでも受付でどう書こうとどうでもいいのだが、質問するときにも所属を名乗れ、という。私が質問したかったのは非常先の院生さんの報告のときだったりすると、私がその大学の所属だと名乗るとなんとなく話がおかしくなる。完全に「他人」だし。内輪での質問と部外者としての質問はなんとなく意味が違うような気がするし、私がしたかったのは部外者としての質問でしかないし。さりとて「無所属の・・・」と名乗るほど心臓が強くはない。外部委託扱いなのにそこの名刺を持っている某IT関連企業の名前でも出してやろうかと思ったが、そこで笑いをとっても仕方ないので止める。
というか「社会」学会でしょ。なんで「社会」から隔離されたる蛸壺大学とか文部省管轄の研究所とかに所属しているのが前提化しているわけ?
途中まで書いて、疲れて寝てしまい、数日が過ぎる。古証文だが続き。
ジェンダー部会の報告のうち、修士論文報告ではない一本。「育児放棄」問題における階層の問題を取り上げた報告。育児放棄の問題は主に母親・女性の問題として問題化され、働く女性が育児の代行を求めることまで「育児放棄」とされる。いわく母性の欠如・未熟な母親などなど。そこで見落とされているのは虐待としての育児放棄が持っているはずの階層差である。というのが報告の骨子。研究自体はそこから虐待につながらない育児の代行サービスの利用(それをも「育児放棄」と呼ばれたりするが)・そうした場へのアクセス可能性の問題をフィールドワークから探ろうという方向性を見せる。そのアクセス可能性のなかに階層差があるのではないか、という仮説。
学会報告は研究全体の途中なので、仕方ないのだが、少しバランスが悪い。多分この研究のミソは後半部、フィールドワークの部分にこそあるはずで、それ以前の階層差の実在を証明する論考は前振り程度の重みでなければならない。ここに力点をおくと、多分報告者の興味関心や、実際に持っているデータなどと大きくずれた部分で勝負をしなければならなくなる。たとえば階層差の実在をまじめに論証しようとすれば、どうあっても統計データを使わなければならないし、またそれで十分だ。ひとつ統計データが引用されていたが、言ってみればそれが一番説得力があり、それ以上のものは出てこない。新聞などのいわゆる「言説」研究が報告資料の半分を占めていたが、あまり必要性を感じられないのだ。
少し「敵」がはっきりしていないような気がするのだ。「育児放棄(虐待)」と階層差は、言説レベルでその存在を証明する必要があるほど、その存在が認知されていないものだろうか。確かに一方で「育児放棄(虐待)」と母性・女性性の問題との結びつきも色濃く存在する。しかしそれとは別に階層の問題が知られていないとは思えないのだ。それがいかなるゆがみや偏見を含んでいるかはともかく、テレビドラマでも小説でも、虐待の問題には家庭環境・貧困などのテーマが複線として、多くの場合張られているように思える。もちろん新聞などのニュースでも同様で、だからそれを引用して「階層差が存在する」という結論では、それこそ言説の反復でしかないのではないか。もちろん言説は虚偽意識ではないのだから、言説の反復が間違いだ、というのではない。ただ研究としてはその先からが重要なはずで、それがバランスの悪さという印象を醸し出している。
翌日は理論部会に出たが、体調が悪くて、きちんと落ち着いて報告を聞くことができなかった。その中でひとつ、マルクスとフロイトのフェティシズム論をラカンを用いて解釈しようという壮大な研究、かなり意地の悪い視点で楽しみにしていたが、思いのほか、悪くなかった。結論の「(フェティシズムは)社会を、人間を突き動かす得体の知れない力である」は端的に無意味だし、結局マルクスとフロイトを連結させて何が言えるの?という問いに対する回答がこの程度では、あまりなのだが、一応理論の「ジグソーパズル」という感覚で見れば、まあ、破綻がない。もちろん実際やっていることは岩井克人とジジェクの切り貼りでしかないが、修論報告の切り出しとしてはこんなものだろう。
一般に博士課程に進んで最初の学会報告は、修士論文の切り売りであるため、概して完成度は高い。長い時間をかけ、いろいろ調べ、そしてそれを一度文章にした後のものだからだ。それに対して、その後の学会報告は、調べ途上の、これから文章にしていく前段階のものを報告するので、完成度は実は一般に下がる。それでも「新人」に負けてばかりいるわけにも行かないのであって、完成度の低さを補うだけの目新しさや説得力を出さなければならない。それを可能にするのは、借り物ではない、自身の理論だ。
ジェンダー部会の、出身大学での知り合いの報告3人のうち、誰が修論報告なのか、ちょっと自信がない。修論報告の人も一人はいたはずで、その分については非常勤先の知り合いの報告と同じ土俵で勝負ということになる。しかし正直「完成度」という部分で勝っている報告はなかった。とりあえずざっと報告を聞いて(レジュメを読んで)、データと結論とが無理なくつながり、一貫した文章として読むことができるものと、データと結論がばらばらに見えてしまうもの。別に母校愛とかはないつもりだが、しかし釈然としない。それでもチャレンジしてまとまらず失敗、というのなら、仕方ないとは思う。しかし修論報告と思しき2報告、いずれも自分でデータを集めてきたのはえらいが、議論自体はチャレンジングなところもない。
一方は10年以上前からやられつづけている内面化批判とそれに対する「相互行為」論。理論水準は知れているのだから、データの面白さで勝負すべきなのに、せっかくのデータを内面化論批判のための素材の羅列に終始してしまっている。
もう一方は女性のいわゆる「二重労働」をなぜ引き受けてしまうのか、そしてそこから脱する方途はどのようなものか、をアンケート調査とインタビュー調査で論じようとするもの。せっかくのアンケートデータの分析結果を、表層的・常識的に読み取り、失敗している。アンケート調査の結果から一般的な因果関係など、普通は読み取れないのだ。「原因」とか「結果」とかいう言葉が不用意に報告の中に出てくるが、統計それ自体は因果は語らない。重回帰分析だって、分析者が勝手に一方を説明変数、片方を被説明変数と置けば勝手に結果を出してくれるだけで、その結果を持って両者の因果関係が説明されたことにはならない。だから因果を語るためにはよほどの周到さが必要なはずなのに、それがない。分析結果から何かを言おうとせずに、あらかじめ用意されていた常識のなかで何か言おうとするから、何の疑いもなく自らが知らないうちに用意していた因果関係を勝手に前提にしてしまうのだ。
両者に共通して欠如しているのは、データを読み解き、そしてそれを提示するための「物語」=理論だ。それならばたとえ借り物であっても、「近代的言説の矛盾」をつむいで見せた報告のほうがずっとよい。
今年の関西社会学会。知り合いが報告する、というのでジェンダー部会に出る。すると思いもかけず非常勤先で情報処理の授業をTAとして手伝ってもらった学生さんも報告者の一人であることを知る。
その報告者は、私の初めての非常勤の授業に登録していた学生でもあった。その学生が、大学院に進み、TAとして手伝ってくれ、そうして学会報告をする。私がかかわった部分(情報処理)とは何の関係もない分野での再開とはいえ、それでもとても感慨深いものがある。
そのジェンダー部会。報告者はその学生のほかは、出身大学の(学部は違えど一応)顔見知りばかりで、あまりに私にとって「内輪」な部会であった。
非常勤先の方の知り合いの報告。直接感想を聞かれて、「手堅く、うまくまとめられていました」という返事をしたのはお世辞ではなくて、本心でそう思った。大正期の「新しい女」を担った「婦人解放論者」たちの言説がみずから「性」への国家の介入を招くものであったという議論。この手の逆説的な落とし方は、新規さはないが、無難だ。また先行研究としてあげられている牟田和恵の研究のなぞりでしかない、という気もしないでもないが、それはそれなりだ。自分なりに資料を選別して、まずまず無難なストーリーの中に押し込んでまとめ上げる。一年間に50本(適当)は生産されているであろう典型的な「言説研究」の水準には達している。もちろん誉めているのである。それでも今後へのヒントを勝手に書く。
討論の中で、素材にされた言説に偏りがあるのではないか、というような指摘があった。この手の質問は、いかなる言説研究に対しても成立する。質問するほうも大概だが、もちろん質問されるほうに責任はある。そしてそれに対して、「もっと幅広く見ます」などと答えるようでは駄目だ。なんとなれば、それではきりがないからだ。たまたま見たのが某という雑誌だけだったので、他も見ます。雑誌だけで足りるのですか。新聞も見ます。その言説が一般に受け入れられていたか分かりませんね。読者の投稿なども見ます。投稿する読者ってかたよりありません?・・・きりがない。
こういうやり取りをせざるを得ない研究は「言説」研究とは言わない。「言表」研究というのだ。「言説」とは構造である。個別の言葉が問題なのではなくて、言葉は違えど同一の形式が反復される、その形式の中に社会が現れるのだ。
「新しい女」言説のなかに、家父長制から脱する「進歩的」な方向性と、国家の介入を招く「保守・反動的」な方向性があったという事態は、一見そう見えるような言説内部の矛盾ではない。またその言説の中に国家主義的なるものが見えたからといって、それが当時の女性解放論者の負の側面と見るべきでもない。そうではなくて、そうした矛盾は近代社会自体に内包されている矛盾なのであって、したがって言説として同様の矛盾はここ彼処で、今なお反復される類の矛盾なのだ。売春論争、ポルノグラフィー、フェミニズムに限定しても、今なおテンポラリな話題として、ある種の解放と国家の介入が裏表で語られ続けている。
その負の側面をぬぐい去れば、真にラディカルな言説が誕生するか、というとそうではない。近代社会における「進歩」、前近代的な規範からの脱却は、近代国家の存在と同一の地平にある。近代化のロジックはナショナリズムを生み出し、ナショナリズムは帝国主義を支え、かつ抵抗の拠点となる。言説とはそうした社会的な矛盾そのものを指示しているのである。
重要なのは因果律を安直に設定しないことだ。「新しい女」言説が、国家の性への介入を招く原因となった、といえば、たぶん嘘になる。また逆に、当時の国家の強力さのために、「新しい女」言説は限界付けられてしまった、というのも、あまり正確ではない。今のように、たとえば国家と言説とを直接に向き合い、関係しあう、というモデルでは、言説の構造を取り逃がすのだ。言説を何か他の社会的なものと直接関係を持つことができるような具体的・実体的な存在として捉えてしまうと、上で見た言説研究批判−君が引用した「言説」には偏りがある−が実効性を持ってしまうことになるのだ。
授業で使うExcelの練習問題につかう一定数の人名。モーニング娘。とメロン記念日のメンバーの名字を借用。ただし6期面は使わず、脱退面の名前を使っていたので、学生さんがこっそりと「古い」とつぶやくのが聞こえる。バレてる。メロン記念日の分まで気づかれていただろうか。
ただし「平家」はあえて入れない。「加護」でもぎりぎりなのに「平家」ってそんな名字のひと、あの人しか知らないし。あまりあからさまなのは美学に反するのだ。ネタはさりげなくやらないと。というほどあからさまではないのか。
先週の日曜日のハロプロは、もちろん録画してみた。藤本加入スペシャル。なっち憮然たる表情。なのに藤本通選手権とかいう企画でなっち優勝。なっちますます憮然。
やっぱモーニング娘。最高。
だらだらと忙しい日を送っている。土日がなく、半日のみの仕事の日が週に半分。まとまった思考をするのには適さない。
秋の学会報告の申し込みがきている。去年、締め切り後にその存在に気づいた。さて、今年はどうしよう?一銭にもならない学会報告に時間を費やすひまが今の私にあるのか?
それでも明日はまたも休みをつぶして関西社会学会に行く予定。こちらは報告はしない。単に見に行くだけ。
看護学校の授業、相変わらずストレスがたまるが、それでも私なりに「誠実」にやろうとしている。
私は自分が頭で「知っている」理論なり考え方なりをかれらに提示して、その思考をなぞらせる、という授業に終始したくはない。それが駄目だとは言わない。しかしそれはどこまで行っても借り物の思考を押し付けるだけだ。社会科学を学ぼうという意志のある学生相手なら、そういう思考実験も練習としての意義は大いに認める。しかし目の前にいる看護学生たちはそうではない。
たとえば世の中に「男女差別」なるものがあるといわれている、ということすら意識していないかれらに、たとえば「ジェンダー」なる概念を与え、差別の実在を提示してみたとして、それでどうなるのだろう。もともとフェミニズム的な物言いを知っている学生の中にはわが意を得たり、と思うものもいるだろう、しかしそれは「もともと」知っていたことが反復されただけだ。そうではない学生は、頭ごなしに(教師のしゃべることは常に頭ごなしなのだ)、お前たちは差別されている(している)と指摘されて、あるものはそんなものか、と思い、あるものはぜんぜんピンと来ないやと黙殺し、あるものは差別されているという物言いに含まれている「お前たちは不幸なのだ」というメッセージに反発をする、ということになるだけだ。
かれらにはかれらの生活実感がある。理論は時に(というよりほとんどの場合)それと対立する(さらに言えばそうでない理論は理論ではない)。こうした中でかれらに何らかの理論を伝えようとすれば、
のいずれかに陥りかねない。
もし理論を授業で扱おうとするのならば、断固として生活実感などとは別の次元で理論が成立していることを伝えるよりない。「男女差別」でいえば「男が得か、女が得か」という生活実感のレベルでは決して「差別」は語りえないということ、そこからの絶対的な飛躍を持ってしか差別などを語ることはできないということを伝えなければならない。となればできることはただひとつ、理論を頭ごなしに・借り物の思考として、伝えるのではなく、また実感に擦り寄る形で理論を歪曲するのでもなく、実感からの跳躍を、ともに経験させることだけだ。逆説的だが、理論から出発すれば、かれらの到達点は「実感」になる(「理論ってくだらない」という実感、あるいは逆に実感を追認するタームとしての理論)。実感から出発することで実感の限界を浮かび上がらせることができる。
看護学校であえて「男が得か、女が得か」というテーマで作文させた。7割近い学生が「女が得」と答えた。双方の根拠を議論させた。少数派の「男が得」派は主に職につく際の利益を指摘し、「女が得」派は(女性専用者などに見られる)サービスされる際の利益を指摘した。この能動系と受動形の中に、あからさまに差別の構造が生起しているのだが、しかしそれを指摘した瞬間、私は「頭ごなし」な教師になる。後もう一歩なのだが。
抑圧され、埋葬された痕跡が今語りだす。
「アエラ」。今週もまた何を狙っているのか、怪しげなジャックで読者の目を引き付けようとする(実際に引き付けられるかは別問題)。20代の性行動調査。過去に付き合ったことのある人数、平均4人。セックスしたことのある人数、平均8人。おお、性の解放!という物語をまたぞろつむぎたいのか知らん。まあそれはどうでもよいのだが、いずれも0人が0人(ん?分かりにくい?)とはどういうことか。世にはびこる「モテナイ」君はその統計からなぜ排除されたのか。かれらを排除して出された統計的平均とは何を意味するのか。
同じ号に「最強」イラク大統領精鋭部隊はどこに消えたのか、という考証記事がある。一般兵はそれなりに「健闘」したのに、精鋭部隊は跡形もなく消えてしまった。ちょっとしたミステリーではないか。
記事はアメリカと密約があったのではないか、という推測をする。そしてそれはある種の裏切り行為ではないか、とちらりと皮肉。その評価はさておき、それが事実なら私はある種とても安心する。精鋭部隊が跡形もなく消えた。それがアメリカの空爆などで殺戮されたのではないか、という想像は、やはりどうにもキツイ。本当に密約なり何なりがあって、「戦わずして」消えたのなら結構なことではないか。
週末更新しなかったのは、五月病だったから、ではなくて、保田脱退に絡めてネットでモーニング娘。の情報をあさりつつ、「物語」妄想に時間をつぶしていたからだ。
保田はテレビに出ていた安倍なつみを見て、「この子を守りたい」と感じ、モーニング娘。にあこがれたという。もちろんそのころの安倍なつみは、今のある種「お局」化した安倍なつみではなくて、「守りた」くなるようなひ弱な雰囲気を漂わせていた安倍なつみである。
しかし安倍は保田にフレンドリーではなかった。先輩などという自覚のない安倍は、後輩に何かを教えることをすることもしなければ、自分から心を開くこともしない。「新メンバー怖い」などといって従来からの仲間の陰に隠れるようなヘタレなのである。年上の後輩保田と打ち解けようはずもない。
そうして何年もの時が流れる。二人で関西のラジオ番組に出て、初めて二人は打ち解ける。すでに後藤真希はソロデビューをし、一時騒がれた安倍・後藤の確執(あったかなかったかは知らない)などとうに忘れられた後の話。対立も確執もない、長いすれ違いの後の交流。そしてそれからしばらくたっての保田の「卒業」。安倍は、市井・後藤では全く流さなかった涙を保田のラストコンサートでは流したという。
社会学のスローガンたる「脱常識」が無効だと感じるのは、「脱常識」は所詮「常識」に従属してしかありえず、その常識なるものが確固として存在しているなどと想像しているのがほかならぬ社会学者ぐらいであると思われるからだ。社会学者は「常識」なるものが社会を覆っていて強い力を持っていると妄想する。そしてそれを覆すこと、人々が抱いているもろもろの妄想から意味を奪い、そこから解放することが大変意義深いことだと自らに言い聞かせる。それは端的に社会学的意義の捏造に過ぎない。
信念の体系としての常識なぞ存在しない。存在しているのはただ脈絡のない、退屈な、細切れの事象の集積のみだ。そのゴミの山に不断に働きかけ、意味を持たせること、それこそが社会的な行為(=実践)なのであり、科学・理論もその意味で実践でなければならない。大事なことは、意味を奪うことではない、意味を妄想せしめることだ。
「大きな物語の解体」なんてことをいまさらことさらに指摘することに価値はない。「大きな物語」なんて最初から捏造の産物に他ならないし、「解体」後もわれわれは不断に物語をつむいで生きているのだ。保田が脱退し、平家やりんねが姿を消し、安倍が自己中であってもなお、「なっち、天使」なのだ。
保田が卒業するということで、モーニング娘。がらみのビデオを見返したり、サイト訪問をしたりしていた。
真夏の光線のPVを見る。第二期安倍なつみの姿を思い出す。市井も元気だった。なんだか懐かしくなって市井のファンサイトを巡る。2,3見た限り、とてもトラウマに満ちた、複雑な心情がつづられていた。安倍の「推し」も兼ねているサイトに至ってはとても居たたまれないものを感じる。
安倍関連で「ハロモニ」の企画「モーム素の部屋」での安倍がネタになっていた。やらずもがなの突込みをしては黙殺される安倍。さすが「天使」で済ますべきだが、やはり居たたまれないものを感じる。
安倍のソロプロジェクト。売れ行きはさっぱりのようだ。あんな糞企画、当然だろう、と思うが、でもテレビでの笑顔はどこでも好評でよいのだが、やはり売れ行きに関しては居たたまれないものを感じる。
そんなこんなでいろいろ感慨深いものを感じるが、保田がまったく関係なかったことに気づき、居たたまれないものを感じる。
松浦亜弥は「第4回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション」の合格者である。ちなみに「第1回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション」の合格者は三佳千夏。ぜんぜん売れずに引退してしまっている。ついでに「第2回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション」の合格者は数が多かったようで、メロン記念日+シェキドルがその出身だという。シェキドル、名前しか知らない。
では「第3回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション」の合格者は誰でしょう?
安倍なつみがソロプロジェクトという名のデュエットを出したり、メロン記念日の新曲がテレビで流れたり、ちょっとだけその周辺が面白い。
安倍なつみの曲はまったくもってどうでもよいのだが、とりあえず文句なくかわいいので、よろしい。
後藤真希加入当初、モーニング娘。一番人気を「ゴマキvsなっち」で煽る向きがあったが、その当時ははっきり言って勝負にはならなかった。なっち派としては並べられるほうがつらかった。モーニング娘。を支える「大きな物語」抜きでは安倍なつみは後藤真希の対抗馬ですらありえなかった。ただ彼女の地位の不安定さこそが彼女の支えとなるモーニング娘。の原基的歴史を生起させるという矛盾した円環の中に安倍なつみはいた。
時は移ろい、それでもいまだに安倍なつみは後藤真希のいないモーニング娘。の中心的役割を担う。そしてかつて不安極まりない不在の中心を担った彼女が安定して中心的役割を担えば担うほど、彼女自身はモーニング娘。とは疎遠な存在になる。もはや不安定なものはどこにもなく、かくしてモーニング娘。は大きな物語を失い、凋落の一途をたどり、しかして安倍なつみは自信たっぷりに輝く。
出身大学の文学部のT教授につづいて、わが出身学部の出身研究科でも同様のことがあったらしい、というようなのが今日付けの新聞に出ていた。そういえば去年のいつかに、「某さん、辞めたの?」と聞かれて、「え、そうなんですか」と己の情報力のなさに恥じ入ったものだが、それがそういう話だったとは。
T教授と違って、もともと悪評の高かった人ではない。お堅く、まじめな研究者という感じの人で、それだけにT教授のときとは違った感慨を抱く。もちろん同情とか、そういうのではない。ただ、世間的には堅く、厳しく振舞ってきた人が、何かしらバランスを崩した結末。松本清張の世界によく描かれていたような「無残さ」。ただそれだけを感じる。
戦犯の日もとい、みどりの日もあっさりおわり、憲法記念日。ニュースでは改憲派がどうとかやっているが、身の回りではそういうことは話題にもならない。小中学校の通知表に「国を愛する」などという項目が入っていたりするだとか、自民党がまたぞろ国を守る義務みたいなのを盛り込んだ改憲案とやらを出しているだとか、拉致被害者家族を売り物にする人が基本的人権を守るために改憲すべきだと言ったとか、そういうきな臭い話が満ち満ちているが、それに対抗する言説はあまりに脆弱だ。いまやそういった策動に真正面から対抗する戦略よりも、それを無化する戦略しかあるまい、と思っている。「大きな物語」の解体はいかんともしがたい、それに乗って右派は「自己責任」の旗の下、見事に再結集を図った。ならば左派のなすべきは、右派が、というよりそれに知らずの内に糾合せられている人々がこっそり温存してしまっている「原物語」を掻き乱し、別な形に接合しなおすことだ。「自分が犯罪(テロ)被害者になるのが怖いから、改憲賛成」「Noといえるなんてかっこいいから石原マンセー」というナイーブな心性を、そのものとして受け止めつつ、そのエネルギーの行き先を変えるような言説を編成しなければならない。
「ならぬ、ならぬ」ばかり言っていてもどうにもならない。お昼寝もそろそろ限界だ。でもまだ眠たい。