重層的非決定

モーニング娘。
L. Althusser
No.23
2003/8/3-2003/9/25

★復活の兆候

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■ただの日記

学会から帰ってきたら気が抜けたか、思いもかけず長い時間がたっていた。

月曜日は早速お仕事復帰。学会報告で休んでいる間にたまっていた矛盾の穴埋めに奔走。ほとんど徹夜でメール書き。23日は予定通りネットワーク講習。講師募集したが応募なく、私が勤める。内緒話で私もド素人なのだが、IT教育界は本当に人材不足なのだ。まあ、受講者のレベルがそれほどでもないので、私でも十分勤まったりするということだ。24日はいろいろ疲れがたまっていたのか、1日寝て暮らす。翌日の非常勤の準備を1時間ほどで済ませる。

今日は1日非常勤。前期からの続きの午前の部は不調。そもそも4月段階で「悪しき雰囲気」だったので、一度そうなれば修復は難しい。何かを学ぼうという姿勢が学生側に見られないと教師としては「押さえ込み」にかかる。そうしないと「学級崩壊」の恐れを割と真剣に感じるからだ。しかしそうすると今度は「よき」関係は築けなくなる。私はあからさまにぴりぴりした雰囲気を出すし、学生からすれば楽しい雰囲気では絶対にない授業。一方、後期から開始の授業は、普段教えている授業の学生とは学科が違っていて、あまりクレバーな感じではないが、その分なんというか「素直」でかわいい。つまらないことでも反応してくれる。ちょっと気分が晴れる。

(2003年9月25日)

■毒電波

今回の学会と直接どうということでもないのだが、言説研究について少し思ったことをまとめておく。

多くの(広義の)言説研究とは、言説を社会的事実の反映もしくは表象と見て、翻って言説を見ることで社会的事実を明らかにしようとする、というのが一般的である。もちろんこれもこつこつ題材を集めれば、その題材の面白さ次第では、駄目な研究とは言わない。が、理論的には重大な欠陥を抱えている。ここでも何度もいっていることだが、それではどの語りが社会的事実をよく反映しているのか、またその語りの反映度合い(逆に歪み度合い)はいかほどのものなのか、という回答しようもない問を呼び起こしてしまうからだ。言説研究がこの水準にとどまる限り、「社会的事実」そのものを見られると自負しているその他の研究(たとえば統計的研究)に対して自ら劣位の立場にたつことになる。実際この手の研究をやる人の多くは統計コンプレックスを持っていたりするのだが。

少し誇り高い言説研究になると言説の社会的な機能を論じようとする。かくかくしかじかの言説が立ち上がった(あるいはかくかくしかじかのふたつの言説が拮抗している)。これにより社会秩序(共同体、近代社会、教育可能性、性規範)は維持(生成、正統化、再生産)されているのだ、というような理論構成。言説の「結果」が言説の外にあるのか、内にあるのかでも微妙に異なるが、いずれにせよこれは機能主義。機能主義が悪いわけではないが、機能主義批判から出発したはずの構築主義な人がこれをやっているとなんとなく可笑しい。

両者に欠落しているのは言説の構造を見ようという視点だろう。別に構造主義的転回とか振りかざす気はないけど、フーコーとかに言及したりする人が構造主義*以前*の議論しか知らない、というのは恥ずかしい話だと思う。

(2003年9月21日)

■学会感想

自分以外の報告についての簡単な感想文。備忘録代わりに。

「カリキュラム」部会。メハンというエスノでちょっと有名な人が共同研究に名を連ねている報告があったので顔を出す。といってもメハンは名前を貸したぐらいの感じだったが、さすがにそれはまずまず面白かった。教育の平等化を達成せんとする理想を掲げた新しいカリキュラムを行政が中心になって推し進めたその功罪について。とてもありがちな落とし穴がリアルに描かれる。日本の「教育改革」を考える上でも格好の素材となる感じ。それ以外の研究は特に記すべきところなし。小学校の先生の報告があって、意欲とかはすごく買いたいのだが、「自分の実践をアカデミズムでも認められたいんです」というなんというか卑しさが表に出てしまって、正直痛々しかった。実践者なのだから、その立場でもっとアカデミズムにけんかを売る気概が欲しいところ。

「理論」部会。自分の報告で一杯一杯。他人の報告なんて知らん。ルーマン研究は「メディア」概念がぜんぜんピンと来ないし、もう一方の研究は壮大すぎてついていけなかった。多分私の能力不足。

「教育と進路」部会。学力論争で有名な東大の刈谷さんが加わったグループ研究。日本・シンガポール・イギリスの3国を調査するという大掛かりな研究の中から、日本とシンガポール比較の部分を切り出したもの。早期にトラッキングがなされるシンガポールと高校段階まで先延ばしにされる日本とで、常識に反して競争意欲はシンガポールのほうが維持しつづける、という結果を提示し、その原因を推察する。とても手堅く、面白いのだが、一点トラッキングがなされる以前の日本の小中学校を自己認識で便宜的にトラックを作成して分析を進めているあたり、かなり怪しい。

「逸脱」。面白かったのもあるし、興味をもてなかったのもあるが、ここで書き留めておくべきはひとつ「スティグマ概念の再考」。差別問題を考える上で、私にとっても重要な問題なので。この報告で出された論点、相互行為の場面でスティグマ化をまぬかれる場面があるはずでそれを描き出そう、という試みは全く同意できるのだが、それをひとつのしかもアメリカの研究で紹介された事例を再録して終わるのは中途半端。そうした具体的なやり取りの中の、何がスティグマ化に対する抵抗となりうるのか、その構造を摘出しようという方向性がないと、何ら汎用性のない議論に終わってしまう。差別問題においてカミングアウトの成功例などさして珍しいものではない。しかしでは同じことをすれば成功する、というような処方箋がかけるか、というと絶対そうはいかないわけで、ここにこそ苦心すべき点があるはずなのだ。報告者が唯一提示している、スティグマが「重大な属性」ではなく、指摘で部分的なカテゴリーであると規定しなおす、という論点にしても、言っていることは分かるのだが、では一見似た、しかし事例としては逆の意味を持つ、カムアウト後の「そんなあなたの私的な性志向を何でこの私にわざわざ話すのか」という語りと何がいっしょで何が違うのか、それがわからないのだ。一般的なカムアウト論は報告者の主張とは逆に(もみえる)私的な事柄は政治的な事柄である、という主張を展開してきた。それと報告者の主張はどう交錯しているのか。

課題研究。男性らしさの揺らぎと労働市場、恋愛市場での勝者・敗者についてのお話。いろいろ身につまされました。男性フリーターは経済力もないが、性的魅力もない。逆に恋人のいない男性は、既婚の、あるいは恋人のいる男性と比較して収入が低い。統計データで出てしまうらしい。きつい話だね。

(2003年9月21日)

■デビュー当時の初々しさで

私の学会報告だが、予想通り、司会者には全く受けなかった。司会者の方はルーマン研究で有名な人で、私はルーマンは何度も挑戦しては挫折しつづけたので、たぶん肌が合わないのだ。というのは負け惜しみで、もちろん、通じさせられなかったのは私の敗北だ。

その部会自体、司会者がルーマン研究者で、第一報告者もルーマン研究で、しかもその直後に別の部会で別のルーマン報告がなされるので、さぞかし第一報告が終われば人はいなくなるだろうと思っていたが、思いのほか人の出入りは少なく、これまた思いのほかレジュメがはけた。35部刷っていったが、全部なくなった、とのこと。狭い教室だったので余るかと思っていたのだが。

司会者に受けず、また多分多くの出席者にも通じなかったという気もするが、それでも言説研究方面で非常に刺激的な論文を多数かかれている方が聞きに来てくださって、報告中は首をひねられていたので、ああ、この人に受けなかったらまあ完全に駄目だな、と腹をくくったのだが、報告後望外にお褒めの言葉をいただいた。大学の先輩筋にあたる人なので割り引かなくてはならないはずだが、まず私のことを覚えていてくださったというので驚き、報告内容も、少なくとも私が伝えなければならなかった部分が、その人にはきちんと伝わっていたので、とにかくよかった。

単純な性格で、それですっかり気分がよくなって、研究意欲が湧いてきて、学会堪能モードになった、というのが本当のところかもしれない。なんにせよ今回の報告のテーマ(「教育的シニシズム」)はいくらでも掘り下げられるので、ぼちぼちとでも研究を続けよう、と思う。1年半ぶりぐらいに研究意欲を取り戻した感じだ。

とりあえず、妙に新鮮な今の気分を大切にしよう。そしてその気分をここに記録しておこう。

(2003年9月21日)

■無所属

学会には結局土日の二日、全日程をきっちり出た。秋葉原には結局寄れなかった。

京都を出るときは、まだ残暑を引きずっていて、結構暑かったので半そでだった。しかも東京の天気予報なんて全く見なかったので、雨が降るなど夢にも思わず、携帯に便利な、しかし差すには貧弱な、小ぶりの折りたたみ傘のみを持っていった。それが大雨だわ、しかも寒いわでひどい目にあった。到底外を出歩く気分ではなく、秋葉原によるなんてとんでもなかった。

それでも一日で帰らず、予定外の宿泊をしたのは、学会が予想外に面白かった、というのがある。別に報告がどうというよりは(それも、少しはあるが)、2年前は当事者としてかなりうっとうしかったさまざまな儀礼から解放された感じで、純粋に学会の内容だけを楽しめたのである。真のフリー研究者になる道が少し開けた、かな。今はまだ「所属」を名乗るときは「某大学の非常勤です」と名乗るが、「無所属の(フリーの)」と名乗るのが待ちどうしくなってきた。大学か研究機関に所属するものだけが研究者だという「社会学」からすれば信じがたい固定観念をわずかでも揺るがす日がくるのを楽しみに。

(2003年9月21日)

■落ちるところまで

とりあえず学会から帰ってきた。で、久々にメールを見てみたら、お金をもらっているお仕事のほうが、しばし休んでいる間に絶望的な状況になっていた。おいおい、しっかりしてくれよ。よくサラリーマンとかOLとかが自分が突然いなくなっても会社はぜんぜん困らないし、とかいってアイデンティティクライシスに陥るというような物語があるけど、私は外部委託業者だよ?専任の、社会保障しっかりあって、給料がっぽりもらっている人が何も対処できていないなんておかしいじゃないか。こういうのを給料泥棒というんだ、とかなりいらだって、そういう気分が若干出た、長きお休みをいただいたお詫びメールを書いた。また私の人間的評価が落ちた。

(2003年9月21日)

■いざ、学会

学会行ってきます。報告用原稿

事前に見て、感想とかいってくれる人がいるともう少し質も上がるのだが、などと愚痴ってみても始まらず、研究というのは、時間、資料、人(議論相手)が必要なのだ、改めて思い知る。

それでも完成度こそ低いが、議論の水準はそれなりもののであるはずだ、という自負はある。学会に流布しているたぐいの言説研究、「社会」と「言説」の二元論を採用して、一方を他方の原因とする単純な因果律に基づいた議論ばかりだ。社会と言説は別物であり、あるいは言説は社会の一部としてあり、社会を反映したり、社会に影響を及ぼしたりする。これこれの性言説があるのは社会のこれこれの事態の反映だ。これこれの性言説が語られることは社会にこれこれの効果をもたらす。機能主義的言説研究。

こうした議論の構成をとると、どの言説が社会に近いのか、あるいはさまざまな語りの中で何が言説なのか、という解決しようのない問を呼び起こすだけだ。そうではなくて、あらゆる語りの中に社会は生起しているということ、そうした社会を含みこんだ語りの総体を言説と呼ぶということ、言説は遍在ししかもひとつであるということ、こうしたスピノザ的構造を言説論は踏まえなければならない。この社会と言説の同一性は、何とか描き出そうとしている、表には出さない私の研究の売りである。

(2003年9月19日)

■ブラウザ乗り換え

どうにもOperaがVer7になってから重く、しかも不安定なままで、さりとてMozillaはそれ以上に重いのでどうしたものか、と思っていたら、兄さん、Gechoベースでいいブラウザがありまっせ、というのを聞き込んで、試してみた。

ひとつはSylera。既存のMozillaなりNetscapeなりからレンダリングエンジンだけをいただいて、軽いブラウザに仕立てるもの。IEをタブブラウザにしてしまうオンラインソフトと同じ感覚。早速ダウンロードしてみる。なるほど、重いのはGeckoではなく、そこにへばりついたさまざまな機能だったのだ、と思い知る。Operaよりよほど軽い。またタブブラウザとしての動きもMozillaより真っ当でなかなかいいのだが、やはり軽さを目指したゆえか、若干機能が足りない。決定的に不足なのが履歴管理機能で、一度ブラウザを終了させてしまうとそれ以前の履歴が失われてしまう。常用するにはちょっと不便。

と思ってさらに探したら、本家Mozillaのお膝元にありました。Firebird Browser。Mozillaからメール機能やその他を省いて、いろいろ手を入れたもの。ブラウザとしての機能はMozillaに劣るものはほとんどなく、結構軽い。Syleraよりは重い感じだが、十分使用に耐える。最初からこれをMozillaあるいはNetscape7として出していればよかったのにな、惜しいな、と思うほどの出来。早速これを私のデフォルトブラウザにすることにした。

(2003年9月19日)

いいひと

こうして学会報告に「感けている」間にもお仕事のほうは進んでいたりするわけで、私は今週はずっと休みを取っているが、しかしメールで送られてくる情報などをちらちら見ているといろいろ齟齬をきたしているようなのがうかがえる。月曜に「復帰」したときに穴埋めが可能だろうか。

別にネットもつながらない南の島にバカンスに行っている訳でもないのだから、何か直接依頼があれば動こうと思っていたのだが、しかし私があまりに性格がよいためか、私に依頼せず、状況がよく分かっていないもの同士で、しかし伸び伸びはしゃいだ感じでグダグダことを進めているようで、穴だらけなのが見えているが、口をはさむ気もしない。修復可能な限界を見定めて、じっとしている。

仕事を円滑に進めるには性格改造の必要がありそうだ。しないけど。

(2003年9月18日)

■反省会

学会報告準備は、とりあえずは、終わったわけで、後はこまごまとしたところを気づき次第直す程度、根本的な改定は無理だし、出来不出来はほとんど動かしようもない。まな板に載った心境でいるしかないのだが、しかし正直出来はよくない。議論が穴だらけのくせに言わんとしていることもたいしたことがない。無駄なおしゃべりだけがやたら饒舌だ。議論が緻密か、主張が斬新か、そのいずれかがないと価値がない。

それでも自分の中ではもう一度己の研究スタイルみたいなものが再確認できたことは大きい。私は言説派なのだが、しかし言説の表面にとどまり、そこで勝負するエスノ系(構築主義に連なる)ではなくて、言説の空白を見出し、そこから政治性を引き出そうとするアルチュセール系であるということ、いまさらながらそれを再認する。そうであればこそジジェクにも関心を持つわけで、しかしまたはじめに「欲望」ありきの精神分析派ではなくて、やはりあくまで言説派であるということだ。

今回の報告は確かに雑で、また中途半端で、よくはないが、しかし言説の穴を発見し、そこから政治性を引き出そうとする方向性自体はそれなりものものを含んでいるという自負は持てた。ただしそれだけでは自己満足に過ぎないわけで、それをもっと丁寧にプレゼンするだけの時間と辛抱が必要だ。

(2003年9月18日)

■学会報告宵々々山

とりあえず報告用資料が*ほぼ*完成し、このサイトにもこっそりとUPしてみた。といってもまだ一応工事中なので、無断で編集する可能性は大いにある。

テーマは結局「教育的シニシズム」の誕生、みたいな感じ。もっともあまり「誕生」物は好きではないので、それを前面には出さないようにしているが、まあ、そういう感じ。提出済みの発表題目とは明らかに内容がずれていて、顰蹙もので、さらにこれまた提出済みの要旨ともかなりずれがある。私は例年のことなのだが、もちろん本来よいことではない。

現在の政治的シニシズムの原因(とも言いたくないが、さしあたり)のひとつに「教育的」な語りの弱まりを想定する。教育的「正しい」語りが、語り手にとってさえ疎遠な、「建前」の、空々しい語りとみなされるに至った過程を、教育言説の構造からたどろうというようなお話。そしてさらにその構造が差別問題において反復されるとき、まさに差別の構造をそのままなぞることになる、というところまで行きたかったけれど、分量的にも時間的にもオーバーなので次の機会にまわすことにする。といいながら、次の機会があるのかどうかは不明である。

(2003年9月17日)

■幸福の量は知らぬが

ふと思ったのだが、一人の人間が物を書く量というのは平準化するものではないようだ。一旦何かものを書き出せば、その派生物として、たとえゴミのようなものでも、とりあえず文字が出てくる。逆にただただ消耗するだけの作業をしていると搾り出しても文字が出てこない。この落差。

(2003年9月17日)

■退路

学会報告。いざとなったら当日の朝会場へ電話して、風邪引いたとか何とか言えば報告は取り消せる。もちろん咎なし、と前に書いたし、最終その手段があるか、などと20%ぐらい本気で考えたりしないでもなかったが、よくよく考えたら提出済みの発表要旨にこのサイトのURLを書いていたのだった。当日資料が足りないときに案内しようと思ってかいたものだが、まだ発表原稿のページは作成していなかったので、トップページを案内しておいた。となるとこのページを読む人がいないとも限らないわけで、そうなるとずる休みがばればれだ。

退路は絶たれた。

(2003年9月17日)

■独り言

学会に出席し、報告をするのと、普通に仕事するのとの差額10万円は若干大げさだが、しかし7万円程度になるのは確かであって、それを学会関連に費やした日数で割ると1日1万円以上になるわけで、それだけの費用がかかるレジャーなどめったにない。それだけつぎ込んで特段「将来」につながるわけでもなければ、何か面白いことがあるわけでもない。とてもコストパフォーマンスは悪い。

しかし、それでも、もしその一週間を普段どおり仕事をしたとして、そのときにするべき仕事の内容を思い浮かべ、そしてまたここの更新すらする気がしない「思考停止」状況が続くことを鑑みれば、やはりその7万円だかは支払うべきもののような気がするのだ。

このサイトの更新状況を見れば、どれほど私がものを考えようとする姿勢すらなくしているのか、明らかだ。それは時間的余裕とか、疲労とかとはまた別の問題として、普段にぶち当たる問題の質に関わる問題である。要はただただ思考を消耗していくだけの問題というのが世の問題の大半であって、おそらく一般の社会人の大半がそうした質の問題に思考の焦点を合わせているに相違ない。そこからたとえ1年に一回一週間とはいえ抜け出る機会を得ることは、7万円だかでは買えない貴重なことのはずなのだ、と言い聞かせてみたりする。

(2003年9月17日)

■箱根越え

せっかく自腹切って東京に行くのだから、それなりに有意義なものにしないといけない。

一つの考え方は学会をきっちり満喫すること。一応そういう気はあるから、報告は午後でも朝から会場入りする予定を立てた。微妙なのは報告終了後で、最後まで付き合えばその日18:15まである。考えただけで疲れてくるので、翌日も含めた予定をいろいろ考える。

基本コンセプトは、なるべく宿泊費払いたくない&秋葉原か新宿でごにょごにょしたい、かな。ちなみにごにょごにょというのは単にパソコン見るだけなので変な誤解なきよう。

というかせっかく東京へ行くのだから誰かと会う約束でもすればいいはずなのだが、当日の予定が自分でも分からないので約束しようがない、というか会うべき人がいない。東京に知り合い、いないでもないのだが、こちらから連絡するというのがどういうものなのか、よく分からない。東京圏の人で、私の本名で検索かけてこのサイトにアクセスしてくれている人がいるみたいで、それは間違いなく私の知り合いのはずなのだが、誰か分からない。今でも見てくれているのかどうかも定かではない。

(2003年9月17日)

■躁

ここに書くことでもないのだが、愚痴半分、備忘録代わり半分、ということで当面の私のスケジュールを書いておこう。

何で前期試験に採点締め切りがこんなところに、とか言うのがあるが、そこはもごもごごまかして、授業準備の時間を考えると

Yeah!めっちゃホリディ うきうきな夏きぃーぼおおお

と歌うしかない状態なのだ。

とにもかくにも東京へ行く準備しなければというので、19日夜からの夜行バスのチケットを押さえる。Yeah!新幹線に比べて5000円浮いたぜ!!!一泊することを考えたら相当の儲けだぜ!翌日疲労困憊だぜ!おれはプロレタリアートだぜ!

(2003年9月17日)

■晴れ 雨 のち 土砂くずれ(はぁと)

さくら・おとめのシングル発売。どちらが売れるか、が「この世界」では話題。若干乙女の曲のほうが評判がよい。

私は、なっちがいるとかいないとか別にして、といいながら別には多分できていないのだがそれはそれとして、さくらのほうが好み。おとめの曲は10回も聞けば飽きる。さくらは10回聞いてもまだピンと来ない。だからさくらのほうがよい、とは無理があるか。

というか10回も聞いたのかい。そうだよ、ビデオ何回も見返しているんだよ。報告準備進んでいないんだよ。

(2003年9月17日)

■浪費

学会が迫っている。まさか直前逃亡というわけにも行かないので、結局仕事を休んで報告準備に追われる。「本職」ならば準備だけで3ヶ月ぐらいとるべきものを5日程度で済ませざるを得ない。日常的に本を読んでいるわけでももはやなく、何か特別な資料を探し当てたわけでもない。私の頭の中にある1年ぐらい前に読んだ本の内容と、家の引出しなどをあさって出てきた資料と、後は頭の中の屁理屈付けだけで勝負せざるを得ない。状況は相当につらい。

おまけにこの準備その他で4日間仕事をサボる。その間に稼げたお金5万円程度。学会は東京であるのでその交通費・宿泊費自腹で5万円程度かかる。差し引き10万円費やして、この程度の報告をする。おまけに胃が痛くて、あまり楽しくない。

どう考えても、同じお金を費やすのなら、モーニング娘。の追っかけでもやっているほうが率がよさそうだ。私にとって「アカデミズム」とは何なのか。

(2003年9月17日)

■原理主義者

モーニング娘。の新曲披露。ただし15人の娘。が分裂してさくら組、おとめ組みに分かれての活動。

前曲「シャボン玉」は曲は嫌いでなかったが、しかしあまりになっちのパートが少なかったので、結局ほとんど関心を持たなかった。今度の曲は、十分ではないが、まあ、少しは、パートがあるので、それなりに関心を持って見られる。

ただし断固として言わなければならないのは、私は別に田中がメインの位置にいたことに不満をもったわけではない、ということだ。新メンバーが入るたびにがたがた言う連中がいるが、それを言うなら矢口の存在すら否定すべきことになるはずで、事実原理主義者としてそういう価値判断を一方ではするのだが、しかしそうした原理はあくまで原理として、現実批判に転じてよいものではない。

ネットの「モームス」界では自分が特定のメンバーを強く「押す」ことを指して「右翼」と呼ぶが、もちろん原理主義と右翼は全く別物である。右翼とは、個人的な感情を無原則に敷衍して、それが一般原理であるかのごとく言い募り、その感情で持って現実を断罪する思考形式を呼ぶ。原理主義はそうではない。原理とは現実を超えたところに生起しており、すなわち感情とは異なった地平に存在し、翻って原理と反するをもって現実を批判するべきものではない。さまざまな矛盾をはらんだ現実の中に一般原理へ向かう力学を見出すこと、そしてそれを肯定的に組織化していくこと、それこそが真の原理主義者のなすべきことだ。

だからなっち原理主義者はなっちのパートが少ないとかどうとか言ってはならない。今のモーニング娘。のなかに、その隅々細部に至るまでなっちが生起し、宿っていることを見出すこと、それこそがなっち原理主義者のなすべきことだ。

そうはいっても日本共産党がナショナリズム的である程度には、原理主義を標榜する私もナショナリストなので、つまりやっぱりなっちのパートが多いほうが楽しいわけで、まだまだ修行中の身なのである。

(2003年9月12日)

■近況

ご無沙汰しております。

と特定の誰かに言っているわけでもないのだが、あまりにも更新していないので、とにもかくにもご挨拶を。

大学時代の研究会の案内が送られてくるが、文献が英語なのでとても参加できる気がしない。今は言語といったらプログラミング言語の習得に忙しく、外国語なんぞ読んでいられない。日本語もほとんどまともに書いていない。

機械語は、おかしなことになっても、ひたすら「私」が反省すればそれで済む。他に責任転嫁する余地もないのがいっそすがすがしい。そっちに没頭すればすべての世界がそれで完結するような気がする。

そう入っても後一週間で学会報告がある。要旨送付後一分も準備していない。最悪「当日取り消し」というとても素敵な逃げ道がある。風引いたことにでもすれば何の咎もない。ミミズ以下だと呼んでくれて結構だ。

その後一週間で非常勤。こちらには逃げ道はない。

(2003年9月12日)

■「弱者」擁護の構造

携帯電話のメール機能の使用を電鉄各社が次第に解禁しつつある、というニュースを読む。

心臓ペースメーカがどうたらという話はどうなったのだ?もともとどれだけ問題が生じうるのか、そんなものはある程度検証可能なはずなのに、そういった話はほとんど流通しないまま、それを理由に携帯電話全体を悪者にしていたのだ。

当初は「会話」が他の乗客をいらだたせる(普通の会話以上に)という「不快」が問題化されたはずだったのが、メールなどもあわせて禁止の風潮が高まった。そのときに出てきたのが「心臓ペースメーカ」への悪影響説だ。しかしここのプロセスはあまりに急な印象をぬぐいいれない。この「問題の切り替え」が一気に進んだのは、ベースが携帯へのある種の不信が背景にあったればこそなのだ。

結果が重大なものであるだけに、とりあえず慎重な判断をしつづけた、ということは確かだしそれを否定する気はない。しかし、「問題の切り替え」の経緯の中に、マナーからくる「携帯不信」の心情を心臓ペースメーカを理由付けにして煽ったのがあったのは否定できず、それはかれら(煽った人々)が荷担するかのごとく言った「心臓ペースメーカをつけた人」に対して、結果論とはいえ、自己正当化の道具に利用した可能性があるということは忘れるべきではない。

(2003年8月31日)

■人の死は地球ほど重くはない、しかし国家権力は人の死を決するほど強くないほうが望ましい

私は死刑制度廃止論者である。

宅間被告に死刑判決。死刑廃止論にはこうした時、常に突きつけられる。「遺族の立場にたって、あなたは彼をなお死刑にすべきでないといえますか」

私ならこう答える。「私が遺族なら、・・・・(言える内容はあるが、割愛)だが、それは死刑にせよという要求と同様感情であって意見ではないので無視してください」「私が裁判官なら、現行法制上死刑以外の判決を下すのは著しく他の判決との整合性を欠くので、死刑判決を下すしかないと思うでしょう」「私は、仮に私が裁判官とした場合に、そうした人の死を決定しなければならない過剰な責任を負わざるをえない制度を恨むでしょう」

私は「目には目を」という感情に与する気も、逆に否定する気もない。私の戦場は「制度」であり、国家権力の限界を定めようというものだ。国家権力をイコール悪であると主張するほど私はナイーブなアナーキストではない。しかし、法とは、そして思想とは、この国家権力の限界をまずもって考えるものであると考える程度には私は近代主義者である。

よく「加害者は法に守られ、被害者はそうではない」という主張を目にするが、「法」がまずは何に対して第一義的に存在すべきなのか、それを取り違えている。

(2003年8月29日)

■ほほえましい馬鹿

某パソコンスクールの講師を呼んで、講習会を実施する。

TCP/IPの説明を中心にネットワーク講習をやってくれ、と依頼したのに、Windowsのファイルの共有の話で終わりやがった。

まあ、それはいいとして(よくないが)、その後のExcel講習、Vlookup関数の引数にあるFalse、を「ファルス」と発音。お、ラカンはお好きですか。思わず友達になろうかと思った。

でもそいつのせいで(だけでもないけど)、今日のMusicStationのメロン記念日の出演を見そびれた。首をしめてやりたくなった。

(2003年8月29日)

■ゴキブリ/ごろつき

あほなだけの奴との仕事は、いろいろ文句は言っても、実はそれほどストレスにはなっていない。私はとても性格が良いので、相手を見下せばそれで大概のストレスは解消されるからだ。しかしアホで傲慢でしかも権限を持っている奴との仕事はどうしようもない。

某市(うぐいす以来の古都)の木っ端役人め、ゴロツキみたいな言葉遣いと態度、すべてにおいて「やってやっている」と言わんばかりの口調、そのくせ内輪の暴露話みたいな話をこれまた「俺はぶっちゃけ話をするくだけた人間なんだ」といいたげな表情で話す。一番きらいな人種。半径1Km以内には近づきたくない。というか、こいつには税金、使って欲しくない。

ああ、これが典型的役人なのだ、と身をもって知る。民間で仕事上の話をする人たち、馬鹿はいても、こういう唾棄すべき人間は一人も知らない。

(2003年8月29日)

■なんだ坂

ふと思ったのだが、ここの日記、記事ごとにいちいち題名をつけているのがどうにも邪魔になってきた。題名というのは、それが冠せられる文章に内容上一定のまとまりがあることを要求する。思考なるものをある程度行っているときはそんな要求は何ら意識させられるものではなかったのだが、思考の断片化が進んでいる今、その要求はとても荷が重いことに気づく。足を怪我しているとき、わずかな坂道でさえ、しっかり上り坂であると感じるがごとく。

(2003年8月29日)

■Happy Birth Day to me...

気が付いたら誕生日が過ぎていたわけで。別に誕生日がどうという年齢でもないし、例年別に何がどうということもないが、それにしてもこれだけ本人が知らないうちに日にちが経っていた、というのはやはりちょっと驚きだった。

別に待っているわけではないし、期待もしていなかったが、メール一通来ればよかったのにな、とか思う部分もあったりするわけで、それでメール履歴を見てみたら、来てました。40通も私の誕生日からちょうど、立て続けにメールが。

例によってウィルスメールです。plalaで富士通のPC使っている人、何とかしてください。あちこちのメールを騙っていて、私のアドレスも騙りに利用されているようで、全く厄介なことです。

(2003年8月24日)

■みな兄弟

一転して安倍キモヲタサイトに転じつつある当サイトですが、皆様いかがお過ごしですか。

仕事では変なのに絡まれて、プライベートとか学術系とかだったら「馬鹿、失せろ、しっし」で済ませるところを、我慢して面倒見なければならない。自分では絶対責任を取らなくて済むように伏線を張りまくっていて、ちょっとでも自分が「損」をしそうになると、途端に切れまくる。メールだけのやり取りなので、ぐっとこらえた、そっけない返事を書いて、でも二度とこいつとは仕事するまい、と心に決める。

くさくさした気分でも今日はうたばん、なっち出演。

せっかくの安倍ソロ、うたばん初出演なのに、出番がほとんどないに等しい。くさくさした気分が増幅される。二度とこの番組は見るまい、ということにはならない。なっちが出る限り、しつこく見つづける。それが安倍ヲタの生きる道。

8月18日以降、安倍ヲタサイトの更新が滞りがち。どうも幸せボケに浸っているらしい。幸せな人種である。

(2003年8月21日)

■33歳の私

ようやく学会報告要旨の提出をした。でも学会当日まで後一ヶ月、あまり気を抜けない。

一年に一回だけ、それも片手間に過ぎないけれど、それでも何かをきちんと文字に残すという作業は、多分、大切なことだ。日々質的な蓄積のない、単に単純作業を蓄積していくだけの仕事をしていると、段段「思考」ということをしなくなっていく。別に「思考」などしなくても、というよりしないほうが、多分生きていけるのだが、そうして己が希薄化していくことに少しでも抗したい。そうでなければ、たぶん一般的な世界においては存在そのものが希薄なので、せめて己の妄想の世界ぐらいは濃密なものにしておかなければならない。

報告内容は、教育的な語りが必然的に持ついかがわしさの構造について。ラカン-ジジェクの象徴界・想像界・現実界の構造を背後に置きつつ、アルチュセールの呼びかけの構造を提示する。呼びかけを誘う言説の空白部の持つ性的なるものを抽出しようという趣旨。なんのこっちゃ。いまいちまとまっていない。

作業自体は本当に片手間になってしまった。仕事が忙しかったというのも嘘ではないが、安倍なつみのソロシングルに気を取られていた、というのも本当だ。8月18日は東京まで行こうか、と半分本気で考えたりしていた。でも学会報告準備がまだだったのと、朝早く起きても間に合うかどうか微妙だったのと、さすがにそれだけのために東京までの往復旅費払うのが馬鹿らしいのと、そんなこんなで常識的な判断をした。

おかげで昨日は徹夜。今日は郵便局で原稿を速達で送って、仕事はサボって自宅でマッタリ。フリーターは気楽な家業と来たもんだ。Ah 小さい頃に Ah 描いてた 理想の大人だな。

(2003年8月20日)

■なっちばんざい

なっちでびゅうしんぐる、かっていまいました。ついでにでぃいぶいでぃもかっちゃいました。かっぷりんぐとえいぞうどちらもほしかったんです。

いべんとさんかけんもげっとしました。はちがつじゅうはちにち、もれなくさんかできるそうです。ばしょはもちろんとうきょうです。さんかひむりょうでもとうきょうまでいくのはおかねがかかります。というか、そのひはがっかいほうこくようししめきりぜんじつです。というか、そんなのにさんかするほどのをたでもないんですけどね。すくなくともじっせいかつじょうは。ねっとではどうみえるかしらないけど。しんぐるとでぃぶいでぃをかったあとではせっとくりょくないけど。

(2003年8月12日)

■テレビ人生

「人生」を私はブラウン管を通して生きる。モーニング娘。もそうだし、ドラマもそうだ。「スイカ」は相変わらず楽しい。主人公勤める銀行の「いやな上司」も弱弱しくやさしい。今年の短そうな夏にぴったりの、儚い夏の弱りきったセミの鳴き声のようなドラマ。

「元カレ」。広末がいい。たまらなくいい。内山理名では勝負にならん。

「幸福の王子」。菅野美穂、やはり最高。プライドの高さと傷ついた末の卑屈さ、思いつめた暗さとそれを突き抜けた暢気さと、そうした矛盾した感情なり何なりを見事に演じられている。広末と菅野、どっちを選ぼう、ってそういう問題ではない。

「Dr.コトー」。普通に柴崎コウが良い。ごくごく普通に、とても良い。

何だ、人生も、恋愛もすべてブラウン管で事足りるじゃないか。後はブラウン管からお金が湧き出てくれば、わが人生完結だ。

(2003年8月10日)

■そして誰もいない

知り合いがいない。いまさらながらそのことに驚いた。今、ああ、夏休みか、とか思って、プライベートで誰かに合うという機会など一切ないままであることに思い至り、「知り合いの不在」に気づかされた。他人で顔を合わすのは、ほとんどが授業の受講者(学生・社会人)、少数の仕事仲間、それだけ。気が付いてみたら「友達」が一人もいなくなっていた。まあ、考えてみたら昔から友達、いなかったけど。それがわが人生。

(2003年8月10日)

■Blogもできぬ

8月になってモーニング娘。の話しかしていないのはあまりなので、関係ない話。といっても社会科学系でもない。

このサイトがおいてあるso-netはお仕着せのCGIしか使えない。だから最近流行り?のblogみたいなのりで更新がしにくい。もっとルーティンに思いついた話をだらだらと書く、ぐらいの事をしたほうがリハビリにはよかろう、と思うが、HTMLから書いて、FTPでUPするとなるとなんとなく億劫になる。

さりとて外の日記サービスみたいなのを借りる、というのもなんとなく好みではない。ネットの仕組みなんて一切わかっていないド素人の癖に、自分の自由にならないシステムみたいなのを使うのがいやだ、という素人丸出しのこだわりのせいだ。

最近仕事でPHPを使う。といっても見様見真似で体系的に勉強したわけでも、ましてや研修のようなのを受けたのでも一切ない我流だが、これはこれで結構面白い。仕事先のサイトはPHPがつかえるので、そのサイトの自動更新システムのようなのを作ったりして、まずまず使えそう。自分用にも使いたいな、と思いつつ、もちろんPHPなんてPerl以上に使えるはずもない。ただの愚痴。

(2003年8月10日)

■地球滅亡の日まで・・・

原稿の締め切りが近づいているというのに、学会報告の準備が全くできていない。二束のわらじというのも難しいものだ。物理的に時間がないのではなく、細切れの仕事の集積をこなす「楽」さに逃げて、まとまった思考というものを行おうとしない。

今日はなっちの誕生日。というわけもあって、ソロデビュー曲発売まじかということもあって、テレビで新曲初披露。安倍ヲタ絶賛の新曲。

んー。私は平均的安倍ヲタとは音楽の趣味は共有できないらしい。音楽の趣味なんて大してないけれど、今度の曲はつまらない。なんと言うか、もっとこう、遊びとか仕掛けとかあっていいんとちゃうん?と思う。なぜかモーヲタ一般から評判の悪かった松浦の「夏男」のほうがよほどいい。というか、何であっちは評判が悪かったのか、分からない。

なんかこうもっと洒落が効いていて、笑えるようなのがいいのだが、別にアイドル歌謡で人生なんか歌ってもらわなくていいのだが、そういう志向性というのが人生に疲れかけたオヤジ的精神なのかもしれない、と、ぼんやり思った。

(2003年8月10日)

■ゾロアスター

2chのモー板で、北海道新聞に北原みのりという人がモーニング娘。のコンサートをネタにヲタ批判をしている、と話題になっていた。子どもと性犯罪をネタにした投稿記事で、「『モー娘。』などのアイドルグループのコンサートに親子で行くといい。あまり近づきたいと思えない感じの男たちが『〇〇ちゃん、パンツくれー』って叫んでて、一方で親子連れが来てる」とか何とか書いていたらしい。で、その板のヲタたちは、娘。コンでそんな奴見たことないぞ、北原は一度でも娘。コンにきたことあるのか、と嘲笑。

「事実」はさしあたりどうでもよいのだが、北原みのり、どこかで聞いた名前だと思って記憶を探ったら、数年前に私の出身大学の某研究会(セクシュアリティ系)で呼ばれたことがあったらしくて、その研究会の出席者からすれば女のマスターベーショングッズとかネットで販売しているとか言うので、それなりにラディカルな人かと期待して呼んだら、ただの保守フェミでがっかりしたとか、そんな話だったのを思い出した。

まあ、保守かどうかとかは私は知らないが、この北原という人、文化・社会を批評できる頭の持ち主でないことは確かだな。文化・社会を批評するというのはある現象に何かのレッテルを貼ってそれで安心する、というそれこそ日常的な思考の逆を行くものでなくてはならない。ある現象(それが否定的な含意をもつものであれ)に向かう人々の衝動・力学を全否定してしまっては元も子もない。それを否定する言説こそが「奇麗事」と「本音」という二項対立を産出し、シニシズムを加速化させるのだ。そうではなくて、その力学の中から肯定的な力を引き出すこと、破壊的な衝動の中にもなお「ユートピア的な」力を見出すこと、社会・文化批評(批判)の拠って立つ場所はそこにしかない。

(実際に叫ぶかどうかは知らないが)「パンツくれー」というキモヲタと、「加護ちゃんにあこがれる」とかいう子ども連れとが同じ空間に同居し、ともに声援を送る、そこになぜ「ユートピア性」を発見できないのか。

北原の書いた「エッセイ」で「すいか」が誉めてあった。「真っ当なほどのフェミドラマ」で、「女の友情、女のつながり、女への愛情。私が知っていて、私が大切にしているもの。そんなんをストレートに表現したドラマ」だそうだ。本当に単純な二項対立的思考しかできない人なんだな。善/悪、美/醜、それらは同居していてはならないもののようだ。

(2003年8月03日)

■凛とした

やる気のない日々が続いているが、頭の中はお花畑ならぬ安倍ソロでいっぱいだ。学会報告の準備もぜんぜんはかどらず、ひたすら安倍なつみ(モーニング娘。)を満喫している。

最近は藤本との絡みが微妙に多い。件のうわさ(紅白の後、安倍が藤本に説教をして険悪なムードになった)が頭にあるので、どうにも色眼鏡で見ていると、やはりどうにもきわどい。安倍は藤本に話を振るのだが、どうも「試している」ような質問内容だったり、表情だったりする。藤本は案外けなげで、安倍に気にいられるような回答、そぶりを見せる。安倍の笑顔は引きつり気味で、藤本は安倍の顔色を伺うように話す。なっち、怖い、ミキティけなげ、で両者の株が上がる。仲悪きことは美しきかな。

矢口が保田卒業後のサブリーダーだったと今日のハロモニ。で告白。またしてもなっちスルー。安倍も卒業間際だからだ、という説もあるが、ならさくら組のリーダーをやるのはなぜ、となるので、その説は却下。というか、さくら組は安倍がリーダーで矢口がサブという「逆転」が起こるが、それはそれでしっくりくるのがおのおのの役割というものだ。安倍は、回りに気を使い、取りまとめる役どころはこなさない。逆に周りに気を使わせて、悠然としている、そういう「リーダー」にしかなれない。

娘。という*組織*を中心に見れば、安倍の位置は常に傍流で、新人の「教育係」もやらず、ずっと役なし。無位無官。それに連動するかのように、矢口が飯田や保田、石川と買い物にいった話をしても、安倍はそこには登場しない。安倍は常に笑顔で、愛想振り撒いていると思われている感じだが、娘。内では構造的にも、実質的にも、孤高の人なのだ。

(2003年8月03日)

★合併号

(-2003/07/28)



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