R. ジェファーソン 「諸制度、制度効果、制度主義」

Ronald L. Jepperson
Institutions, Institutional Effects, and Institutionalism

マイヤーらの新制度学派の議論は具体的なレベルでは、非常に説得力があるように思えることが多い。各国の豊富な資料を基に、緻密な比較研究から、従来の常識的な機能主義的説明とは全く違った説明をしてみせる。それは実に簡潔で、鮮やかな印象を持たされる。しかし、後で何か説明されていないことが残っているような気がすることもまた事実である。

マイヤーらは、社会の諸事象を、「個人」という実体的な存在を軸に捉えずに、「制度」レベルで捉えようとする。個人の合理的な利害追求の集積として諸制度を捉えることは、マイヤーが「制度」という言葉に込めた、広範な意味を大きく限定してしまうことになる。握手などのほとんど無意識の水準でなされる実践(practice)や、国家間のシステムまでもマイヤーの射程に入っているのである。しかしだからといって、マイヤーらの議論が「制度」を個人の主観から離れた、客観的な実体として把握されているわけでもない。主観と分かちがたい「正統性」の問題を重視しているのである。制度とは、個人の主観と客観的実在という二つの実体の対立の間に立ち、両者を生起せしめるなにものか、として考えられているようである。そして「制度」がこのように非実体論的=関係論的な概念であるかぎりにおいて、「制度」は説明の安定的な帰着点たり得ないのである。関係論を志向したこの議論の主要概念の「制度」に安定性や、明確さを求めるのは、この概念の実体化の弊を招くことは避けられない。しかし、明確さを避けてこの概念を聖域に囲い込んでしまうのもつまらない。「制度」を先験的に設定するという新たな実体論を招くだけのことである。そこで次のような問いかけをしたい衝動に駆られることになる。「いったい制度とは何か」。

私たちはすでに主観と客観の対立を止揚する概念として「構造」を知っている。この概念は主観と客観のいずれをも実体としてみる見方を拒否し、関係論的な思考方法を強く押し出した。こうした関係論的思考は、社会科学の領域では、もはや「常識」となっているし、実体論的思考に戻ることはないだろう。しかし、私は未だに次の問いかけに明確には答えられない。「いったい構造とは何か」。

「構造」というこの概念のわかりにくさのために、構造主義に対して様々な「誤解」がなされてきた。「構造主義は科学主義、客観主義的に過ぎる」。あるいは「構造主義は反唯物論的、超越論的議論である」。関係論の意義は分かったつもりでも、私たちの日常的な経験を支える思考は実体論的なそれであり、論者が関係論的な枠組みで提示した概念も、実体論的な枠組みの中で理解しがちなのである。それゆえ、ここから逃れるためには、とりあえず実体論的な思考に乗りつつ、それからの差異化をはかるという戦略を採るのは有力なやり方の一つであろう。先の批判のいずれかが当たっているかどうかはともかくとして、「構造主義」の側もいったんかっこにくくった「主観」をもっと積極的に取り込もうとする流れが出てきたことは自然と言えよう。私たちの主観的な経験にこそ、社会的なリアリティは存在するのであって、ここをゆるがせにはできない。こうした流れを受けた構造主義理論の拡張バージョンとしてブルデューの「再生産論」が代表的な存在として位置づけられよう。

一方、マイヤーの「制度」の議論も、関係論的思考を取りつつ、かつ主観的なリアリティを重視する点でこの流れとの相同性を見ることもできるだろう。

あるいはまた「変化」との関わりも問題がある。関係論的な概念はしばしば、共時的なシステムを想定する。あるシステムが、時間の経過を通じて、なおかつ同一のシステムであると主張することは、システムの諸要素の諸々の変化にもかかわらず、システムの性質を決定する重要ななにものかが同一性を保持しているということである。こうした思考は関係論と反する。それゆえこうした通時的なシステムが存在するという考え方は関係論においては棄却されるのである。しかしこの共時性に対する批判が、関係論においてしばしばなされる。すなわち、「変化の問題を扱えない」ということである。スタティックな「構造」を普遍的なものとして扱うことは新たな本質論を招きかねない。

このような評価からは、「制度論」も逃れられないようにも思えるi。「構造」を無意識の領域に追いやらず、日常的な経験のなかに見出すとき、この「構造」を普遍的なものとして扱うことはできない。主観を行為者のなかに取り込んだ再生産論は、スタティックな複数の「構造」の連鎖をその行為者でつなぐことで、変化の問題を扱おうとしている。「制度論」もこの「変化」の問題をなおざりにはできないであろう。このとき、構造主義以降の理論として、再生産論と制度論の違いはどこにあるのか、という「制度」概念の独自性が問題となる。

この学派の多くの論文は、具体的な分析が多く、扱う主題、分析の視点、そして結論など、独自性にあふれているが、「制度」概念自体が主題として論じられていることは少ない。そのなかでジェファーソンのこの論文は、「制度」概念自体に焦点を当て、その意義を説明しようとする論文である。この論文では再生産論との比較自体はそれほど積極的に取り上げられているわけでは必ずしもない。しかし制度と変化、あるいは制度と行為者との関わりが論じられたこの論文から、再生産論と制度論との比較という作業の手がかりを得ることは十分可能であるように思える。以下、こうした点を中心にジェファーソンの議論を追っていくことにしよう。

ジェファーソンは「制度」概念がさまざまな学問領域に広がるに際して、意味内容が多様になり、曖昧になってきたことを憂える。こうした「制度派」の亜流とも言うべきものが教科書に成文化されるなどして「制度化」されてしまう前に、「制度」の概念化をきっちりとしておこうというのがこの論文のもくろみなのである。

「制度」とはなにか。これに対してジェファーソンは以下の具体例を挙げる。

  結婚------------大学在任期間
  セクシズム------大統領職
  契約------------休暇
  賃労働----------大学への出席
  握手------------企業
  保険------------ホテル
  公的機関--------学問的ディシプリン
  軍隊------------投票

この多様だがとりとめのないように思える例はいかなる共通点を持っているのか。これらはいずれも絶えず繰り返される行動順序の安定した設計図を意味しているとジェファーソンは言う。ここからジェファーソンは以下のように制度を概念化する。制度はある状態や属性を達成した社会的な秩序や型を表す。そして制度化はそうした達成の過程を表す。秩序や型という語によって、ジェファーソンは標準的な相互作用の結果を指し示していると述べる。制度は特定の再生産過程を表す社会的な型なのである。型からの離脱が、報酬やサンクションによって、減少すると、型が制度化されたというのだとジェファーソンは説明するのである。

こうした説明は、語られている事柄自体は十分理解できるし、取り立てて異を唱えることもない。しかし「制度」の持つ独自の意味についてはいまだ語られていない。ここまでのジェファーソンの叙述からは、「制度」とは諸々の行為が報酬やサンクションによって制限され、固定化したものと理解される。しかし、おそらくここからが重要なのだが、「制度」は「行為」によって再生産されるものではないとジェファーソンは述べているのである。

ここが「行為Handeln」を理論の軸においたウェーバーの理論と分かれる点である。マイヤーらの議論は「正統性」に着目することによって、たしかに主観的な意味作用をその理論のなかに取り込んだ。しかし主体的な「行為act」を、再生産過程の帰着点にすることは拒否しているということになる。

主体的な行為の集合として制度が存在しているとするならば、それがいかにルーティン化して実質的意味を損なっていようとも、制度自身に何らかの意味が存在していることになる。制度は環境の変化に対抗して維持される根拠を内的に持っていることになる。しかし、ジェファーソンは次のように言うのである。制度が維持されるのは、それを取り巻く環境の変化に対する強固さを制度自身が積極的に持っているからではないと。そしてまた、かれらの理論においては、制度的な振る舞いpracticeも主体的な意味作用の水準で捉えられてはいないのである。制度はそれの持っている価値が行為者に内面化され、意識されて維持されるのではない。むしろそれは行為者に対して当たり前のものとして無意識の水準で存在しているのである。

制度とは何かしら実質的内容、意味、機能を持った実体的存在ではなく、漠たる環境の中から特定の状況に応じてその都度、析出されてくるものなのである。こうして制度が関係論的な概念として提示されることになる。

しかし、前にも述べたように、「関係論的」であるとか、あるいは「特定の状況に応じて」とかいうもの言いは曖昧でわかりにくい。そこでジェファーソンは「関連性」を以下のように分類して説明する。まず、ある組織の第一水準は第二水準にとって制度として立ち現れるという「関連性」がある。この説明として、コンピューターを例に出して次のように言う。

オペレーティングシステム(OS)はワープロソフトにとって制度として現れる。

この例も関係論の説明としてはわかりにくいが、おそらくこういうことだ。OSはハードウェアに対しては制度ではない。なぜならハードウェアを適切に操作する上でOSの持つ機能なり、構造なりは相当の必然性を持って立ち現れてくるからである。ハードウェアはOSが意図し、指示したとおりに動くだろう。しかしワープロソフトにとってOSは制度である。OSはワープロにとって所与のものとして存在している。 OSの提供する機能は、ワープロソフトにとって必然的なものではないが、OSからはずれた世界はワープロソフトにとって存在しないし、その制約の中でワープロは機能するのである。OSはワープロソフトが動作する環境を提供し、その結果としてその動作を規定してはいるが、直接一定の意図のもとに操作しているわけではない。

このメタファーは組織の水準と制度との関わりについてだけではなく、「自明性」と「必然性」の違い、あるいは制度がいかに機能するかについてのメタファーとしても有効であろう。ジェファーソンはあとの叙述で、制度は諸構造に能力付与と統制を同時に行うと述べている。制度はある構造の同一性を確立するプログラムの枠組みであり、自明性に支えられているというのである。何らかの権力作用が統制と同時に能力付与をなすという議論は、さして珍しくもないし、それほどわかりにくい議論でもないが、「自明性」が制度の機能(権力作用)を隠蔽し、許容するというよりも、「自明性」がそうした機能を生み出しているのだということを確認して、元の「関連性」についての議論に戻ろう。

つぎにジェファーソンは個別の局面に応じて制度が立ち上がることがあるという。たとえば両親はその子どもにとって自明の存在であるが故に、他の子どもにとってよりも「制度」的である。しかしその親の権威に対して異議申し立てをするのも、他ならぬその子どもなのである。

最後に、ある対象が制度であるか否かは「中心性」に関連するという。中心は外部に対して「制度」として存在する。ある特定の組織は、その中心的存在としての組織の一員より、外部の人間にたいして、より「制度的」なのである。

こうした分類自体の意義はともかく、「制度」自体の持つ「関係論的性質」は構造主義の「構造」概念の関係性とは若干異なっているのであり、それが重要であると言ってよいだろう。構造主義の「構造」の場合、構造内部の「要素」が関係の連鎖の中で捉えられていたが、そうして見出された「構造」自体は、関係の総体として、いわば関係の連鎖からは特権的な立場にいた。それに対して「制度」はそれ自身が関係性の中にある存在として考えられているのである。

前にも述べたように構造主義は主観と客観の二分的対立の克服をテーマとした。しかし「構造」は客観性の方に傾斜しているという評価がつねにつきまとったのも事実である。それに対して「制度」概念は、その場、その場で立ち上がりの契機が見いだされるため、安定的な実在とはみなされにくい。

このような、「構造」自体が構築されるとする構造主義の立場はブルデューの再生産論などにもみられるが、そのいずれも構造が構築される契機に主観性を取り込もうとし、構造主義と現象学の統合をそのモチーフにおいているようである。ジェファーソンも制度派のこうした特徴をかなり強調している。このような構造主義的立場をブルデューは「発生論的構造主義」と呼んでいる。そしてこうした理論が従来の「構造主義」に対する優位点として強調するのが、前にも述べたように「変化」の問題を扱えるということである。

ここでは「構造」は複数想定されている。ブルデューの場合、まずそれはハビトゥスという行為者の水準で切り出される。そしてここを中心として主観と客観の矛盾と統合、「構造」の再生産と変化といった課題が説明されることになる。ブルデューの仕掛けは十分周到ではあろうが、行為者を主体とする伝統的な議論に乗っているような印象を与えることも事実である。

行為者概念に構造化と構造変革の可能性がたくされるとき、ブルデューの意図とはおそらく異なっているのだろうが、行為者は同一性を保持した存在であるように受け取られ得るし、社会構造はその行為者を起点にした利害獲得闘争から説明されることになる。これではせっかくの構造論のモチーフが後退してしまい、功利主義的な理論になりかねない。「構造」の複数性という点を踏まえて、なおかつもう少しマクロな水準でこうした問題を捉えることも可能であろう。そうすれば「構造」のもつ構造論的、関係論的な性質が見えやすくなる。そして「制度」とはまさしくそういう概念であった。

ジェファーソンは「制度」概念を説明するために、逆に制度ではないものを挙げていく。ひとつは秩序が存在していない状態である。これは詳しく説明するまでもない。次に挙げているのは社会的な型が存続している状態でも、再生産過程が存在していない場合も制度とは区別されると言う。しかし最後に、「制度」はある種の再生産とも区別されると主張するのである。それはたとえば「内面化」に代表される社会化に基づく再生産モデルである。そしてここで問題になるのが制度と「行為」の関わりである。

行為とは行為者が自覚的になす行動である。こうした行動が再生産をなすためには行為者の内部に何らかの価値が「内面化」されている必要があることになる。

こうした行為は、制度に比較してより弱い再生産の形態であるとジェファーソンは言う。握手が挨拶の伝統的な形態であるとき、握手をすることは無自覚な振る舞いなのであって、逆に「行為をなす」とは握手を拒否することなのである。こうして自覚的な行為と「自明性」に立脚する制度とが対比される。

制度とは「自明性」に立脚して、絶えず繰り返される行動順序の安定した設計図である。この行動の安定性を保証するものとしてジェファーソンは三つの担い手を挙げる。公的な機関、体制、文化、である。公的な組織が制度的な効果をもたらす研究は数多い。そしてさらにそうした装置がなくとも、成文化された規則や罰則といった何らかの中心的なシステムにかかわるものとして体制が位置づけられる。たとえば法律も体制として機能しうるが、さらに職業、あるいは犯罪のシンジケートも体制となりうる。さらにそうしたシステムによる罰則、監視などなしに制度化をなすものとして文化がある。文化によってもたらされる規則は慣習や因習などがある。制度とはこうした要素が絡み合った複雑な存在なのである。

このように制度は場面、場面に応じて立ち現れてくるものであり、その制度を取り囲む環境やそのほかの制度ともともと整合的であるとは限らない。それゆえ矛盾が次第に大きなものになることがある。そこに変化の可能性を見ることができる。

ジェファーソンは「制度論」は変化の問題を扱えるという点を強調して、そこに一節をあてている。この節でジェファーソンはそれを四つの主要な型に分類している。制度が形成される場面、制度が発展する場面、制度から脱していく場面、そして再び制度化される場面である。

ここでもジェファーソンの記述は分類に多くが割かれていて、従来の議論に比べて制度論の扱う変化の問題がどのような特徴を持っているのか、どこがすぐれているのかについてのつっこみが足りないように思える。

制度論は現象学と構造主義双方を重視し、秩序が強固なものであると考えながら、しかもその構築的側面を強調するという立場をとっている。そして「制度」概念を状況に依存して見出されるものとして規定することによって、「構造主義」が重要視しなかった主観性と変化の問題を取り込むことができた。もっともこれは前にも述べたように「制度論」独自の持つ方向性ではない。ジェファーソンは現象学的であるか否か、構造主義的であるか否かでマトリックスを作っているが、これによって制度論と比較されるのは相互作用論や新古典派経済学、社会生態学などであって、構造主義をふまえ、そこからの脱却を目指した諸論ではない。

ともあれ、これまで見てきたように構造主義に現象学的な存在論を踏まえると、構造概念が複数のものとされることになる。ブルデューの場合それはハビトゥスとして概念化されていたし、「制度」もそういう概念なのである。そしてこうした構造把握によって構造間の矛盾、葛藤、止揚などといったダイナミズムの説明が可能になるだろう。しかしこれによって見失われたものも存在するはずである。

構造主義の「構造」は社会全体に関わるかなり一般的な概念として提示されたはずである。それにたいして「構造」を個別的な状況に依存するものとして捉えてしまうと、もはや一般的な広がりを持つことをやめてしまうことになる。マイヤー派の多くの論文が具体的な事象に着目して論を立てているのはその意味でも一貫して筋が通っているのかもしれない。そして、もしそうだとすると、それはそれで十分誠実な立場であると評価すべきである。しかし世界システムまで分析対象とするこの学派の議論の広がりを見ると、一般化の志向を捨てていないようにも見えるのである。

ここがブルデューの言う「発生論的構造主義」のジレンマである。相互作用論などならば個別的出来事を実証的に、丹念に記述することに全力を追求するだろう。しかしその個別的状況を支えているさらに大きな空間に目を向けたとき、個別性を追求し続ける誠実さに限界は見えてこないだろうか。はたして「個別的状況」とは本当に個別的で偶発的なものなのであろうか。

ブルデューはハビトゥスの背後に資本格差の存在する社会空間を据えた。こうして各行為者の実践(プラティーク)は資本を巡る利害闘争という形で一般理論のなかに組み込まれることになる。

こうしたブルデューの議論は、「行為者の資本を巡る闘争」という捉え方が、実体的な行為者概念や利害概念に立脚しているようにも見える。この問題は微妙であるし、ブルデューを論じる場ではないのでここでは立ち入らないが、マイヤー派はブルデューよりこうした概念の扱いに慎重であることは事実である。ジェファーソンは言う。行為者や利害は制度によって構築されたものであり、それ自体が制度なのである。行為者の同一性を否定し切れていないようにも見えるブルデューよりこの点は明確である。

しかしおそらくここからが問題なのである。行為者や利害を「制度」というこの学派における分析の対象に引き下ろしたとき、それを含めた諸々の制度のあり様の必然性を説明しようとすれば、制度の背後に別なものを想定しなくてはならない。

マイヤー派のこの問いに対する解答は「合理化」にあるようだ。この概念は、近代社会に対する実証的な分析に基づいているようであるし、それなりに周到な概念である印象は受ける。しかし、もちろんマイヤー派もこの「合理性」の実在性など信じてはいない。この概念もまた近代社会の生み出したフィクションなのである。すると「合理性」もふたたび分析対象としての制度の水準に降りてくるようにも思われてくる。どうもこの「合理性」をめぐる説明にトートロジックにはぐらかされた印象を持ってしまい、「制度」概念のわかりにくさにつながっているような気がする。

ジェファーソンの議論はここまでは踏み込んでいない。彼はこの論文においては、ただ「制度」概念が様々に用いられたことによって概念規定が曖昧になっていることから、その曖昧な理解に対してなされる誤解をなくすべく、整理をもくろんだにすぎないのである。したがって最後の議論は少し先走りすぎたかもしれない。

ジェファーソンがとりわけ強調したかったことは、制度は変化の問題を十二分に扱えるということである。しかもそれは主体的な行為に基づく意図的な変化ではない。構造主義に現象学の成果を取り入れながら、主観と客観の矛盾という説明を取らず、あくまで構造論の水準で変化の問題を扱う点がおそらく、いわゆる再生産論と区別されるべき点なのである。

i 「本質的に個人の理性による選択を認めずに教育社会の秩序の維持をはかる、新保守主義的な社会理論であると言ってよい」藤村正司『マイヤー教育社会学の研究』、風間書房、1995。
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