教育社会学における再生産論とは、社会構造(生産様式、階層秩序)の再生産に文化的なシステム(上部構造、象徴システム-教育制度など)がどのような影響を及ぼすかを論じる理論である1。本稿はこの再生産論の中に存在する二つの系−社会構造と文化的なシステム−の連関を、再生産論がいかに説明しようとしているかに着目する。
もともとはマルクス主義経済学で多く用いられた(生産様式の)「再生産」という概念に、「文化的」な要素を含めるようになった出発点は、アルチュセールの「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」であると言ってよいだろう。アルチュセールは、マルクスが資本制社会の再生産を論じるに際して、「労働力の再生産」におけるイデオロギーの重要性を軽視したと指摘し、そこに目を向けようとする。「アルチュセールは土台から上部構造へ再生産の議論を移行」2させたのである。こうして、マルクス主義においても、「教育」を主題に据えることが重要な意義を持つことになる。主にアメリカにおけるマルクス主義教育社会学はこの流れに沿っている。
一方、バーンスタインやブルデューのように、言語使用や教育達成の不平等から階層論へと向かう流れも、再生産論の中に含まれる。この議論はマルクス以外にウェーバーの議論も引き継いでおり、先の流れとは同一視できない。しかし、関心の出発点が文化的な領域からであっても、その背後に階層秩序を見いだした時点で先の議論と同様の枠組みを採ることになる。すなわち階層の再生産に文化的な要因がいかに影響を及ぼすかという議論の組み立てである。
このように理論の出自の違いはあれ、再生産論には階層・階級といった「経済」の系と、教育・イデオロギーといった「文化」の系の二つの系がとりあえず立ち上がっており、その連関が問題とされるところで共通点を持っている。本稿はこの連関を説明するキータームとして「相対的自律性」概念を取り上げる。この概念はマルクス主義の理論展開の中から登場したものであり、なおかつブルデューも引き継いでいる。この概念は文化的な領域の固有性・自律性と、それにも関わらず経済的な領域に規定され、従属している事態を言い当てようとするものであり、階級・階層の再生産を、文化的要因を絡めて説明しようという再生産論では無視し得ない概念となる。
しかしこの「自律性」の内容は、論者によって少しずつ異なっている。アルチュセールは、構造と構造の(一方的な従属関係ではない)結びつき方の説明として、この概念を用いた。ところがその後のマルクス主義の議論においては、教育システムを媒介とした社会変革の契機として自律性が主張され、さらにシステムとその変革の主体としての個人との関係が問題とされるようになる。一方ブルデューは、構造と構造をつなぐ媒介としてのハビトゥスの自律性として問題を立てる。こうしてマルクス主義においても、ブルデューにおいても、構造と個人との関係が議論の焦点となる。
本稿の課題は、教育システムと経済的構造という構造対構造という議論の枠組みが、構造対個人という枠組みで論じられるに至る、こうした議論の推移がなされる内在的なメカニズムと、そこから生じる問題点を指摘することである3。その中で、ブルデューとマルクス主義の関係(類似点、相違点)もあわせて論じることになる。
マルクス主義においては土台と上部諸構造との関係は常に重要な問題であった。ここでは、土台とは生産様式・経済的構造、上部諸構造とは文化的・政治的な諸制度のことである。もっともプリミティブなマルクス主義思想においては、物質的世界の生産・再生産を支える土台こそが第一義的な存在であり、上部構造に属するとされる領域の事象は土台から説明されるものとされた。物質的に基礎づけられた支配階級の利害に則って、国家は形成され、そのもとで様々な諸制度が形作られるのだ。
このようなマルクス主義が、経済以外の領域を軽視し、現実の社会の多様性を理論的に組み込めない、経済還元論だと批判されたのは当然であろう。「上部構造」をいかに理論の中に組み入れるかはマルクス主義当初からの課題であった。土台が上部構造を規定するというマルクス主義の公式をそのまま維持していては、経済還元論から脱却できない。それゆえ上部構造から土台への「反作用」を設定するもくろみは、エンゲルスによって既に試みられていた4。
ここには既にジレンマがある。土台と上部構造が対等に相互作用を及ぼし合うというモデルでは、マルクス主義のアイデンティティは失われてしまう。それゆえ、究極的には土台がすべてを規定しているのだという項目ははずせない。しかしそれでは一部譲歩しただけで、結局は経済的な領域を特権化している還元論であるという批判から免れてはいない。つまり「反作用」を持ち出すだけでは事態は進展していないのである。
この矛盾した事態をとりあえず表現した概念が、アルチュセールの「相対的自律性」概念である。アルチュセールがこの概念で、土台→上部構造というモデルを越える、いかなるモデルを提示しようとしたのか、が課題となるが、これはしばらく留保しよう。そして、先にそのアルチュセールの議論を引き継いだとされるボールズに始まるアメリカのマルクス主義教育社会学の議論の展開をみることにする。というのも、この議論はアルチュセールの目指した方向性を裏切る形で展開していっているように思えるからである。
経済的構造からの教育システムの自律性と従属性を同時に語るとはどういうことか。このジレンマを解消する方法としてさしあたり思いつくのは次の二つである。第一に、最終的には従属を語るために、自律性を正統化のための見せかけとし、従属性が本質的なのだというモデルをたてることができる。このとき反作用も見せかけ、正統化のための道具と捉えられる(従属モデル)。
不平等な教育は階級構造そのものに根ざしているのであり、その階級構造が不平等な教育を正当化し、再生産する役割を果たしているのである。5
第二に、経済的構造が自身の再生産に沿った役割を教育システムに持たせているのではなく、経済的構造が教育システムを結果的に利用しているにすぎないというモデルが考えられる。このとき、二つのシステムの対応は、並列的なものとされる(並列モデル)。
学校が出身階級に関わりなく、すべての学生にある程度共通の社会化を与えることはたしかである。…しかし、現行の制度の枠内では、子供のパーソナリティや価値、期待を変えさせる上での学校の力は、きわめて限られたものでしかない。子供が異なるタイプの学校教育にどう適応していくかは、彼がそれまで家族のなかでどのようなパーソナリティ特性、価値、期待をつくりあげてきたかによってほぼ決まってしまう。
…こうして学校は、家族や近隣社会での社会化の過程に敵対するよりも、それを補い、強化する上でより効果的だということになる。6
このときは教育システムが変容すれば、経済システムが教育システムをいかに利用できるか、その利用の仕方・利用できる程度に影響を及ぼすため、反作用は実質的な内容を持ちうるという議論も可能になるだろう。
ボールズの議論は、この二つのモデルの間で揺れているようである。
第一のモデルは、未だ経済還元論の枠の中にあり、教育システムの自律性を理論から事実上排除している。自律性とは、だまされた個人の意識の中に存在する幻想にすぎなくなる(虚偽意識としてのイデオロギーの注入)。
一方第二のモデルにおいては、いまだ説明されるべき事柄が残されている。二つのシステムはいかに結びつくのか?この点について、ボールズの説明は上記の引用に現れている。二つのシステムを結びつける媒介として、個人が設定されているのである。教育システムは機能的・合理的な構造をある程度持ってはいる。しかし経済システムのなかで、支配的な位置にいる特定の個人の中に、あらかじめ教育達成に有利なパーソナリティ特性が作り上げられている。このことによって、経済的に優位な個人が教育システムにおいても優位を占めることができる、と説明するのである。
こうしてボールズの議論においては、いずれのモデルにおいても、個人の内面化が前面に出てくる。つまり、彼の議論は経済システムと文化的なシステムとの結びつきを、個人のレベルで対応したものと説明し、個人にその役割を持たせるメカニズムとして内面化(社会化)を想定しているのである。教育システムにより、各々の階級にふさわしいパーソナリティを内面化され、各々の経済的地位に振り分けられていくというモデルである。このとき経済システムとは階級構造(階層秩序)と同一視され、しかも階級とは個人の属性とされることになる。こうなると議論の主役は構造から個人へと移る。個人の中に、構造の自律と従属という問題が凝縮されることになるのである。二つの構造がいかに関連しているかではなく、特定の個人が二つの構造をいかに渡り歩くかが議論の焦点となる。ボールズにおいてはしかし、いまだ、この議論の構造/個人という焦点の違いはさほど問題とはならない。それはボールズの議論が基本的に二つの構造の一致を原則的に承認する「対応理論」であり、個人の性質は構造からスムーズに説明されてしまうからである。しかし、二つの構造の不一致・自律性を強調しようとするとき、個人はいずれの構造からも説明し尽くせないゆらぎをもつものとしての固有の性質を持つことになる。すると自律性の問題が、構造に由来するゆらぎなのか、個人に由来するゆらぎなのか、は重要な違いになってくるのである。
対応理論の一致の原則がマルクス主義教育社会学内部で批判的に再検討されたとき、この問題はいかに進展していったのであろうか。それが次節での課題である。
対応理論が、マルクス主義内部においておもに批判されたのは、文化的なシステムが静態的なものとして捉えられているために、文化的な場において変革の契機を見いだせないという点に関してである。この批判は「反作用」の程度に関わるものである。つまり対応理論の欠陥は、教育システムをただ階級関係に基づく価値の流通する場として受動的に捉え、その場内部で生起しうる矛盾・闘争を軽視したところにあるとされる。対応理論は経済とは別領域の教育に目を向けはしたが、自律性への言及が足りなかったことになる。そして教育システムの自律性、あるいは教育システムの及ぼす反作用をより積極的に位置づけようとするのである。
ボールズとギンタスは資本制生産関係と学校改革の結びつきの緊密さを強調するあまり、上部構造が革命的闘争の焦点になることを可能にする自律性をもつ可能性についての視点を失っているのである…。彼らは国家や他の諸装置がラディカルな改革に用いられるという可能性を拒絶している。7
多くの再生産論(アルチュセールがその最初の例であるが)の主たる概念的・政治的弱点のひとつは、『それらが、学校の子どもたちや教師のレジスタンスの能力を正当に評価していない』という点である。8
ここから、階級闘争を内部に含み込んだ上部構造として国家を捉え、そうした国家論をベースにマクロな次元の考察を進めていくアップル−カーノイの流れと、上部構造の中に階級対立見いだすのに、日常的な場面というミクロな次元で捉えようとするジローの抵抗理論が出てくる。そしていずれの議論も、システム変革の契機として個人の主体性を強調していく。「相対的自律性」の問題は、上部構造における個人の主体性による経済システムの変革の契機をどれほど重視するかという問題になっていくのである。
私はイデオロギーや文化が相対的に自律しているということについてまだ強い関心を持っている。というのも、もしレジスタンスと対抗が本当にあるというのであれば、これらの現象を意味ある形に変えるよう文化を動かすことができるからである。…下部・上部構造モデルは、明らかに理論的にも政治的にも限界がある。しかし、私はこの限界をいくつかの確たる方法で乗り越えるつもりだ。私の研究の方向は、文化も経済も重視することであり、知識における生産同様、再生産の原理について吟味することである。9
(相対的自律性という)この概念はヒューマンエイジェンシーという批判概念を構築し支える非再生産的なモメントを指摘する多くの分析から出てきた。…抵抗理論は、構造的な決定要素と生の印象とをつなぐ鍵となる媒介として、ヒューマンエイジェンシーと経験に対して積極的な役割を割り当てる。10
ここでは自律し、かつ従属するというジレンマは個人の中に回収されている。個人がシステムにたいして受動的であるとき、社会の諸システムは経済システムに従属的であり、個人が主体性をもつに至ったとき、社会の諸システムは自律性をもつことになるのである。こうして対応理論においてすでに前面に出ていた個人が、完全に主役となる。対応理論においては、土台と上部構造という二つのシステムをつなぐ担い手として個人が設定され、さらにその個人を担い手たらしめるメカニズムとして、構造主導のイデオロギーの注入(=内面化)が想定されていた。それがいまや、構造を変革しうる、すなわち構造の性質を逆に規定しうる存在となるのである。
見てきたように、対応理論に始まるマルクス主義教育社会学の議論においては、構造間の相対的自律性の問題が、しだいに秩序の再生産と変革の問題に、さらに個人の受動性と主体性の問題にシフトしていくことになる。対応理論が教育システムの自律性を捉え損なったのは、個人を受動的なものとしてしか捉えられなかったからなのであり、受動性と主体性を同時に内包した弁証法的な存在として、個人は捉えられなければならない、とされるのである。単に個人の中に二つの側面があるというだけでは、事実の指摘としては価値があるかもしれないが、そうなるに至るメカニズムについての説明がなければ、積極的な意義は認めがたい。受動性の方は、教育機関をイデオロギー注入のシステムと捉えることで一応説明にはなっている。それに対して、自律性を社会を変革しうる主体形成の観点から捉えるのはいささかユートピア的にすぎるような印象を持たざるをえない。この議論は、仮に社会が変革されるとしたら、いかにしてか、という問いをたてて、その解答として上部構造からの変革の必要性と可能性を「相対的自律性」概念を用いて述べ、さらにその変革を支える個人の主体性の必要性を説くのである。
しかし、第1章で述べたように「相対的自律性」の問題は、再生産が断ち切られる可能性を探る概念として出てきたのではない。むしろ逆に、自律性を孕みながら、再生産がいかになされるかを説明する概念なのである。従って自律性を個人の主体性に帰するのは当初の課題を解決し得ない。
土台=階級関係という「経済」の系と、上部構造=文化的・政治的諸制度という「それ以外」の系との関連を論じる時の課題、経済還元論ではない(自律性を持ちながらの)関連づけ、をいかに論じるか。アルチュセールを受け継いだとするマルクス教育社会学は、この課題を社会変革の可能性という問題へシフトしてしまう。そのもとで経済以外の領域と個人の主体性の重要性が強調されるに至る。しかし、「経済」が重要でなくなったわけではない。それは究極的には回帰されるべきものとして、密かに温存されたままなのだ。結局課題は何一つ解決されていない。
そしてこの課題はマルクス主義固有のものではない。「経済以外」の構造を重視することによって、マルクス主義的な経済一元論からの脱却、あるいはそれへの批判を目指そうとする議論においても、各構造の自律性はまた相対的なものにならざるを得ないのである。なぜなら、もし自律性が完全なものであったなら、構造と構造の間の関係を考えること自体が無意味だということになるからである。そういう議論を行うのであれば、そもそも最初から複数の構造の関係を考察する意味がない。その意味で、たとえばブルデューにおいてもこの課題は重要なものとなるのである。
以下、この課題をアルチュセールはいかに解決しようとしていたのか、そしてブルデューにおいてはアルチュセールの何が引き継がれ、何が異なっているのか、を見ることでブルデュー理論の意味を見いだすとともに、そこからくる問題点を指摘しよう。
マルクス主義教育社会学はしばしばアルチュセールに言及する。ところがこの言及は、ほとんどが「イデオロギーと国家のイデオロギー装置(IAIE)」に集中され、もう一つの主著『資本論を読む』がその内容にまで踏み込んで単独で言及されることはほとんどない11。確かにIAIEは労働力の再生産とイデオロギーの結びつきから、イデオロギーの内在的構造までを論じた重要な論文である。しかし、マルクス主義教育社会学の多くはこの論文を軸にして理論構築をする際、ある難点を抱えているように思われる。それはIAIEの前に既にアルチュセールが批判していた理論枠組みはいかなるものかを見落としているということである。アルチュセールが既に批判した思考様式で、IAIEを読み込んでしまっている点があるように思えるのである。かかる失敗を犯さぬためにも、イデオロギー装置の構造や機能についての議論にはいる前に、アルチュセールが目指した理論枠組みの確認を行う必要があるだろう。
アルチュセールはマルクス主義の経済還元論からの脱却を、経済以外の領域を重視するというやり方ではなくて、経済を捉える新たな理論枠組みを提示することで目指す。従来の経済学は、経済現象を一つの平面上にあるものとして捉えていたとアルチュセールは述べる。それに対して、アルチュセールは経済を複合的な空間の一領域として捉える。
マルクスは…経済現象を、等質的空間の無限性のなかではなくて、領域的構造(これ自身が全般的構造の限定された場所に書き込まれている)によって規定されたひとつの領域の中で提示する。したがって、それはひとつの複合的で奥行きのある空間であり、それ自身がまた別の複合的で奥行きのある空間の中に書き込まれている。…経済現象をその概念によって定義することは、その現象をこの複合性の概念によって、すなわち生産様式の構造(全般的)の概念によって定義することである。生産様式の構造は経済的対象を構成する(領域的)構造を規定し、この限定された領域(これ自身も全体の構造の限定された場所に位置づけられる)の現象を規定するからだ。12
これは、一般に「経済」と呼び慣わされているところのものが、「それ以外」の構造と対等な個別的な構造にすぎないことを述べている。となると「経済」を原因と置くモデルは採られない。するとおのおのの構造はいかに関連づけられているのかが再び問題となる。
ある領域の現象がこの領域の構造によって規定されるのだとわかったばかりの新しい規定のタイプは、どのような概念をもって思考することができるのだろうか。もっと一般的に言えば、どのような概念をもって、あるいはどのような諸概念の総体をもって、構造の諸要素、要素と要素との構造的諸関係およびこの関係の諸結果がこの構造の効果によって規定される事態を思考することができるのだろうか。13
アルチュセールは、こうした構造と構造の間の因果関係についての説明を3つに分類して整理した。機械論的因果律、表出型因果律、構造論的因果律である。機械論的因果律は「原因と結果をビリヤードの玉の動きになぞらえる」14モデルである。これは二つの構造を同一の平面上においている。また表出型因果律は、「全体」構造の内在的本質から、個別的構造における諸現象が表出されるというモデルを採る。
二つの構造が互いに自律し、かつ従属しているという矛盾した事態を、その矛盾をたとえば、個人の内面といったブラックボックスに押し込めることなく説明するためには、二つの構造が相互に自律している層と従属している層の二重性を考慮しなければならない。構造間の連関をひとつの平面上で捉える機械論では説明しきれない。それに対して、構造の連関を二重性のもとで捉えるモデルの一つが表出型因果律モデルなのである。本質としての生産様式が諸要素としての個別的な諸制度を表出させる…。しかしこのモデルは経済を特権化する経済還元論を招き寄せる。「本質」は他からは不可侵の閉ざされた体系を作ってしまう。伝統的なマルクス主義の「土台」と「上部構造」モデルは、この表出型モデルで考えられていた。このモデルの経済の特権化を批判すべく、上部構造の反作用を重視しようとしたのが、対応理論から連なる「マルクス主義教育社会学」なのである。しかし、経済システムと教育システムを同一の平面上において捉えるこのモデルにおいては、二つの構造の関係は、逆に機械論的に捉えられることになってしまう。このとき矛盾は説明されずに残り、構造をつなぐ結節点としての個人の内面に託されることになる。
「土台」を閉ざされた体系として特権化するのではなく、また逆に個別的な構造と同一の平面上に引きずり下ろすのでもないモデルはいかなるものであろうか。
もし全体が構造化された全体として…提起されるなら、事情は違ってくる。分析的で推移的な因果性のカテゴリーをもって構造による要素の規定を考えることができなくなるばかりではない。諸現象に内在する一義的な内在的本質を全般的に表出する因果性のカテゴリーをもってその規定を考えることもできなくなる。全体の構造により全体の諸要素の規定を考えようと覚悟することは、理論上きわめてやっかいな境地で全く新しい問題を自分に突きつけることになる。15
そうして問題は次のように提示される。
どのようにして構造的因果性の概念を定義することができるのだろうか。16
この問題に対して、重要となるのは「表象Darstellung」概念である。これは経済的構造を含んだ諸々の構造が結果として顕現されるその様式を指示する概念、構造論的因果律のもとで全体と諸構造をつなぐ概念である。この表象概念がとりわけ重要なのは、それが意識に現れた(観察可能な「与件」としての)諸現象と意識に現れざる「全体」との関係を示しているからだ。内面化論的な説明では、既存のシステムを自明視する意識を持った主体の存在を、システムを支える必要条件の一つと考える。ここでは「与件」がシステムを構成する重要な一要素とされることになる。しかし、アルチュセールが見いだしたマルクスは、「経済的なもの」とかかる与件とを切り離そうとするのである。
たとえばアルチュセールは与件としての主体を想定する「素朴な」人間学を前提とした経済学を批判して、以下のように述べる。
…経済的事実はその経済的本質に即して、「欲求」のとりこになった人間的主体に根付くものと考えられている。人間的主体とはホモ・エコノミクス(経済的人間)であって、それもまた与件(目に見え、観察可能な与件)である。…したがって経済学に固有の理論的構造は、与えられた現象の等質的空間と、その空間の現象の経済的性格を欲求の主体としての人間(ホモ・エコノミクスという与件)のなかに基礎づけるイデオロギー的人間学とを無媒介に直接に関係づけることである。17
こうした「主体」批判は、一般的な支配関係の説明に通底されえよう。すなわち、アルチュセール流のマルクス主義においては、意識的なもの(権威、正統性など)を主体が受け入れることによって、支配関係が可能になるのではない。主体の意識なるものは当該社会構成体における権力関係に伴って表象されるもの、すなわち結果であるとされなければならない。ここにアルチュセールの理論と、「機械論」的「マルクス主義教育社会学」理論(ここではある意識形態の個人への内面化をある社会関係の再生産の原因あるいは必要条件とされている)との違いをはっきりと見て取ることができる。
しかし未だこのモデルと、先にアルチュセールが批判した表出型因果律との違いがはっきりしないように受け取られるかもしれない。仮に構造論的因果律においても、「全体」が特権的なものとされてしまうのであれば、経済還元論をいかに逃れうると言うのか。この両者の違いは「全体」についての説明の違いにある。表出型因果律は全体がひとつの統一的な性質を持ったものであることを前提としていて、それが個別的に顕現されたものだという論理を採る。それに対して、構造論的因果律のもとでの「表象」概念における全体とは、顕現した結果の総体としてしか存在していない。表象されたものは結果であるが、その結果が全体を形作っているのであって、全体が結果の原因ではない。
構造論的因果律のポイントは因果律を外在的ななにものかにゆだねることを拒否し、「構造の現存全体が、その結果のなかにあ」18るという循環的な因果律を主張する点にある。隠れたところにあるなにものかが原因となって、ある結果を生み出すのではなく、諸構造間の関係それ自体が何らかの結果をもたらしているというのだ。つまりこの考え方のもとでは、構造と構造のあいだに何らかの関係があるというのは、その各々の構造を含む諸々の構造の関係全体から説明されることであって、個々の構造を取り出すだけではその関係は説明できないということである。こうなると、ある構造が別の構造に従属しているというモデルは棄却される。二つの構造を取り出してきたとき、この二つの構造に間には因果関係は見いだせず、互いに自律しているように見える。しかし両者は全体の中で関連づけられている。これがアルチュセールの見いだした「相対的自律性」である。
以上、本稿の主題たる構造と構造の関係について、アルチュセールの採る立場を
(1)問題となる二つの構造を取り出した場合に両者は自律的なものとされ、そのつながりは諸構造の連鎖としての「全体」を視野に入れて初めて見いだせるものであるということ
(2)構造と構造をつなぐ「媒介」として個人の意識内容、「中身」を設定しないこと
の二つにまとめておく。
しかし、これで問題が解決されたわけではない。構造とその総体としての全体性が、各々異なった論理を持っている。全体は構造の総和以上の存在である。しかるに全体「固有」の性質は観察不能である。これは、結果的に「全体」に「本質的なるもの」としての性質を与えることになってはいないか。アルチュセールはそれをかたくなに拒否しようとしているのだが、その代替案がきちんと出されているのか、必ずしも明確ではないのである。
アルチュセールと比べてより具体的に議論を展開しようとしているブルデューは、いかにこの「全体」の欠落を埋めていくのか。この点に関するブルデューの説明から、ブルデュー理論のもつ意義と、逆にそこから来る問題点を検討していくことにする。
ブルデューのマルクス、マルクス主義に対する態度は一貫している。
マルクスは、もろもろの正統性のイデオロギーの下にあってそれを基礎づけている暴力の諸関係を明らかにするのに執着するあまり、支配イデオロギーの効果の分析にあたり、被支配者によって支配の正統性が承認されることもあるという、力関係の象徴的補強の実際の効果を過小にみがちである19
階級についてのマルクス主義理論の失敗…はこの理論が社会世界を経済界だけに還元して、経済的な生産関係の内部での地位だけを参照して社会的地位を定義せざるを得ないという事実に由来する。…マルクス主義は社会世界を一元的なものと、すなわちただ二つの対抗する勢力を巡って組織されるものとみなしているのだ。20
こうしてブルデューもマルクス主義の「経済還元論」を批判し、「相対的自律性」を考察していくことになる。課題はマルクス主義教育社会学と同じである。
支配的階級の利害とかかわらせて教育システムの相対的自律性について十全な定義をおこなうには、この相対的自律性が階級関係の存続にたいして示す特有の貢献を、つねに考慮に入れなければならない。21
そしてブルデューも、まずは対応理論をたたき台として、この理論のもつ還元論を克服しなければならない。既に見たように、マルクス主義教育社会学はこの過程で課題を個人の主体形成の問題にずらしてしまった。それに対してブルデューは、構造間の連関という課題をしっかりふまえて議論を展開していく。
ブルデューはこの問題を社会空間と界の連関として問題をたてる。固有の論理構造を持った各界の総体として社会空間が設定されている。各行為者は社会空間上に位置づけられ、その地位が各界での行為者のプラチックに「表象」される。社会空間といういわば「全体」との関係において各界は従属しており、実際に立ち上がっている界と界との間は相互に自律している。先に二つにまとめたアルチュセールの枠組みのなかで、(1)はブルデューにおいても踏襲されているのである。
問題は、アルチュセールが「全体」=生産諸関係のもつ特権化を充分に克服し切れていないようにも見える問題点を、ブルデューの「全体」=社会空間概念がいかに逃れようとしているかである。この点に関して、ブルデューは社会空間概念を理念的、抽象的な概念であると強調する。
…社会空間は、それが図式の形で示しうるということだけからも充分わかるように、ひとつの抽象的表象である。つまりそれは特殊な構築作業をおこなうことによって作りだされる…ものなのだ。22
社会空間がかかる研究者によって構築される理念的な存在である以上、「全体」=社会空間が「界」として表象されるというモデルはとれない。ブルデューは界の連鎖の中に社会空間を定義づけているのである。つまりブルデューの議論においては、まず存在するのは「界」である。界同士は自律的である。各界は固有の論理を持っており、その中で他とは自律的な競争が行われる。しかしこの自律性は相対的なものであることを説明しなければならない。ブルデューはとりあえず、各界において自律的に存在する資本を想定し、界の間の量的な対応を想定する。
ここでの課題はボールズのところで述べた「並列モデル」とパラレルである。そして、その帰結として、二つの構造の関連づけの根拠となる「全体」をモデルから消し去った以上、逆にアルチュセールが消した、構造と構造をつなぐ媒介が再び議論の前面に出てくることになる。そしてこの媒介概念を巡る議論も、ボールズからそれを乗り越えようとしたマルクス主義教育社会学の議論の推移と同一の構造をとることになる。構造間の自律性を論じる際の、媒介の構造の説明が問題となるのである。
ブルデューは「ハビトゥス」概念によって、この問題を論じようとする。構造の連関における再生産のゆらぎを、構造を変革しようという主体的な意志を持ち出さずに、構造論の水準で説明しようとするのである。
ハビトゥスは、構造化し、構造化される構造としてとりあえず定義される。構造の再生産はこのハビトゥスを媒介としてなされる。ハビトゥスは意識されざる戦略に沿った行為を生みだし、その行為は「統計的に把握可能な」23一定の規則性を示すのである。かかるハビトゥス概念でブルデューは、「主体なき構造主義か主体の哲学かというこの二者択一を抜け出すひとつの方法」24を提示しようとする。つまりこの概念は、構造の再生産とそのゆらぎを説明し、決定論、還元論ではない再生産を論じるために使いうる便利な概念のようにも見える。しかしこの概念は、安易に用いれば、万能であるだけに何も述べていないことになる危険性も多分に持っているのである。
ハビトゥスという概念は、「再生産」を説明するために用いられる。しかし、ハビトゥス概念のもともとの意義は、構造を不変的なものと捉えた「構造主義」に対する批判として、いささかなりとも自律性を持っているというところにあったのだから、この概念は、再生産されないこと、の説明に用いることも十分に可能なのである。ハビトゥスは構造を再生産することもあれば、変革することもある。これは事実の記述であって説明ではない。そこで、この両側面の連関を解明していくことが求められることになる25。しかし、内面化と主体性という二つのモデルの折衷以上の新たな枠組みを提示することにはなかなかなりそうもない。ハビトゥスの中にこの連関を見いだそうとしても、相対的自律性の課題が、構造レベルからハビトゥスという概念の中に移植されただけになってしまう。こうしてハビトゥス概念自体に問題解明の鍵を預けてしまうと、ハビトゥスを構造論、関係論の水準で論じようとした意義が失われてしまう。こうした議論では「自律性」は、ハビトゥスに内在するものとして、結局のところマルクス主義教育社会学の「主体性」と論理的には同値となってしまう。「自律性」は、「主体性」と同様、その語の定義からして、構造から説明しきれないのである。
そこで「自律性」を「誤認」の論理で制約して、再生産される事態に議論の中心を置く方向性もブルデューには見いだせる。しかしこのモデルたるや、ボールズのところで示した「従属」モデルになるにすぎず、全く目新しい議論になるはずもない。
結局のところ、ハビトゥスの形成を論じたところで、それ自体は再生産がなぜ、いかになされるか、あるいは断ち切られるか、の説明にはならないのである。もし「構造化される構造」によって再生産を説明したいのであれば、従来の社会化、パーソナリティ形成、イデオロギーの注入という枠組みでいっこうにかまわなかったし、「構造化する構造」によって再生産の断ち切りを説明したいのであれば、主体的意志とたいして代わりはないということになる。両方の場面を説明できるというのは、両者の折衷でしかない。
ブルデューは再生産を論じるに当たり、全体と個人という先験的なものを設定することを極力避けようとしている。しかしその際に、この両者を関係論的な(先験的でない)社会空間とハビトゥスという概念に置き換えることによって、全体と個人の相互作用によって再生産を論じるという枠組み自体は残してしまった。この枠組みは、再生産される事態の説明には全体→個人の作用を、変革される事態の説明には全体←個人の作用を説明に用いることになる。ボールズは再生産される事態を重視し、それを批判したマルクス主義は変革される事態を重視した。そしてこの全体の構造の(再生産されるか、変革されるかという)一方的な性格付けを嫌ったブルデューは、全体と個人の双方向の作用を対等に論じようとして、折衷的なモデルを提示することになったのである。
アルチュセールは、相対的自律性という概念を、単に構造が再生産されたり、されなかったりという事態を説明するための概念として用いたのではなかった。個別的には自律的に振る舞う行為の集積が、総体として構造を再生産していく事態を説明するための概念だったのである。そして、このことは秩序の内面化の論理からも、逆に個別的な行為の自律性の強調からも説明され得ない。さらにその折衷から説明できるものでもなかったのである。それに対して、アルチュセールが示した方向性は、構造全体を、担い手とその関係に分解することなく、循環的な総体として捉えようとするものであった。
ブルデューはたしかに注入や誤認、あるいは逆に主体性という議論の枠組みを完全に捨て去ってはいないように思われる。しかしボールズ以降のマルクス主義教育社会学のようにそこに安住していないことも確かなのである。ブルデューの「相対的自律性」についての説明は、あくまでアルチュセールに多くを負っているし、アルチュセールの議論からそれほど隔たってはいない。
従ってブルデュー、アルチュセールの相対的自律性の議論を論じるにあたり、これまで見てきた限りで残された課題も両者においてはそれほど異なったものではない。その課題とは、両者において、諸構造を「表象」せしめる「全体」に相当する概念(ブルデューにおいては社会空間、アルチュセールにおいては生産関係)をいかに提示しうるか、である。
本稿では、アルチュセールに関してはイデオロギー論の枠組みを論じたのみであり、イデオロギー、イデオロギー装置と生産関係との連関についての内容には踏み込んでいない。またブルデューに関しても、社会空間での闘争と各界におけるプラチックとの関連については踏み込んでは論じていない。この連関のメカニズムとして、アルチュセールやブルデューが「表象」概念をいかに説明しているか、を見ることが重要となるだろう。これはいずれ稿を改めて論じることにする。
イデオローグたちの次のようなばかげた考えも、このことに関係があります。いわく、われわれは、歴史上ある役割を演じているさまざまなイデオロギー部面にたいして独自の歴史的発展を認めないのだから、それらの部面にたいしてまたどんな歴史的作用も認めていないのだ、と。こういう考えの根底にあるのは、原因と結果を固定的に対立する両極と見る、ありきたりの非弁証法的な考え方、交互作用の完全な忘却です。ある歴史的要因がひとたび他の、究極的には経済的な諸原因によってこの世に生みだされると、それは今や反作用をも及ぼすということ、その環境や、さらにはそれ自身の原因にたいしてさえ、反作用を及ぼしうるということを、この先生方はしばしばほとんど故意に忘れてしまうのです」エンゲルス(p.88)。
5 Bowles,(1971: p.162)。
6 同, (p.178)。
7 Carnoy,(1982: p.112)。
8 Apple,(1982=1992: p.40)。
9 同、(p.263)。
10 Giroux,(1983a)。
11 たとえば、日本でもしばしば参照されるマルクス主義教育社会学のリーディングズ Cultural and Economic Reproduction in Education、Girouxがマルクス主義理論に総括的に言及しているTheory and Resistance in Education、 アップルの『教育と権力』、いずれにおいても「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」に対する言及のみで、『資本論を読む』の構造間の関係性について論じた箇所への直接的な言及はない。
12 Althusser,(1965=1997: p.241-242)。
13 同、(p.289-249)。
14 Jameson,(1981=1989: p.28)。
15 Althusser,(1965=1989: p.251)。
16 同、(p.249)。
17 同、(p.201)。
18 同、(p.256)。
19 Bourdieu, (1970=1991:テーゼ0)。
20 Bourdieu,(1984=1991: p.244-245)。
21 Bourdieu, (1970=1991: p.218.)。
22 Bourdieu,(1979=1991: p.230)。
23 Bourdieu, (1987=1991: p.108)。
24 同、(p.21)。
25 「ブルデューの主観的社会学と客観的社会学の統合という狙いそのものはきわめて妥当なものであるが、それが全面的な成功を達成し得ていないということでもある。そこでは、ハビトゥスの『構造化された構造』という側面と『構造化する構造』という側面を媒介する論理が明確にならない限り、彼の狙いが全面的に成功することはないといいうる」
小内透、(1995: p.109)。
「ブルデューのハビトゥス論は、社会文化的決定作用のもとにある個人が、不可還元的な行為者としてあらわれ、相対的に自律的な行為の組織化の媒介主体となる過程に照明をあてようとしたものと解してよいかもしれない。…選別=排除の社会学のなかでハビトゥス論のもついまひとつの含意も想到されてこよう。それは、上層階級の成員の戦略ばかりでなく、文化資本において劣位にあるがゆえに排除の力をこうむる社会的カテゴリー(中間階級や労働者の子弟)や『女らしさ』のイメージを押しつけられ特定の職業や専攻に『追放』される女性などの個人が、これに抗する行動や表象を生みだしていく可能性の問題である」宮島喬、(1994, p.99)。