ブルデューは、彼の認識論のみならずi、権力論においてもii、主観主義と客観主義の統合を議論の軸に据える。ブルデューのこうした問題設定は、単に主客二元論という認識論上の対立の克服のみならず、彼の再生産理論においても重要な位置を占めることになる。ここで目指されているのは、「構造化する複数の主観性の間になされるcon-sensus」として捉えられる「象徴システム」(=主観的諸構造)と、かかるcon-sensusを可能にする「コミュニケーションの条件としてコミュニケーションを作り出すものとしての客観的意味」の体系としての「象徴システム」(=客観的諸構造)が、統合されたひとつのシステムとして「現実の意味=論理構造を確立・固定化して社会秩序を再生産する」そのメカニズムの解明であるiii。つまりブルデューにとって、主観主義と客観主義の統合という課題は、認識の方法にたいしてだけではなく、認識の対象を同定する際にも重要な意味を持ってくるのである。
ブルデューはかかる二重性を持った対象を、行為者の「主観」にもとづく「生きられた意味」と「客観的意味」とのズレのなかに見いだそうとするのである。主客の二元論という認識論上の対立は、このズレを浮き出させる手段として、議論のなかに導入されることになるわけだ。
本稿の関心は、この「対象」がブルデューの理論の中でいかに位置づけられるか、である。ブルデューの再生産理論にとって、二重性を持った対象とは具体的にどういう存在であるのか、それがどういう形で彼の再生産理論の中で論じられていくのか。
本稿の目指すのは、ブルデュー再生産論において重要な位置を占め、認識論の次元でも主客のズレを含み込んだ複雑な「象徴システム」を概念として構築する際の前提条件を確認し、整えることである。
ブルデューの再生産理論の中で、主観的な意味と客観的な意味のズレを媒介する概念として、中心におかれるのはハビトゥス概念である。それは一般的に、以下のモデルによってまとめられるであろう。
社会空間において、諸行為者の表象は、客観的構造によって構造化されたハビトゥスに従って産出される。そして逆に行為者の表象を生み出すことでハビトゥスは構造化する構造として客観的構造に作用していく。この場合、ブルデューの客観的構造とハビトゥスの関係における基本図式は以下のようなものとなる。
ハビトゥス概念は客観的な構造に依拠した各「場」の様々な条件付けによって産出され、それ自体持続性を持ち、「場」間での移転可能な心的諸傾向の体系として定義される。ハビトゥスは「統計的に把捉可能な」一定の規則性を持っているが、規則に一方的に従属する存在ではなく、行為者の表象とpratiqueを産出・組織する機能を持った「構造化する構造」なのである。
こうしてハビトゥス概念は、「通常の接近では全く接近不可能な」iv、すなわち「表象」の集積には還元不可能な客観的構造と、その構造から自律して「社会的ゲーム」を戦略的に行う「一次的経験・表象」とを結びつける概念として位置づけられることになる。
しかしハビトゥス概念が、どれほどこの問題に対して有効な概念であり得るか。本稿の議論の中心はそこにある。こうしたハビトゥス理解に従うとき、われわれはまず以下のような批判を見ることになる。
ブルデューの"pratique"および"ハビトゥス"の概念はきわめて両義的な概念である。それは客観的側面と主観的側面との両方の機能を備えた媒介概念である。しかし果たしてそれらは十分な検討をへた概念であるか。ambiguousであるよりも、むしろobscureな概念ではないのか。…
最終的にブルデューの社会学的思考は、『客観主義』と『主観主義』双方の逸脱を戒め、限界は指摘するが、従来の『客観主義』と『主観主義』をほぼそのまま前提し、それらを独特の概念“ハビトゥス”または“pratique"でもって接合するという方法をとるv。
ここで中心的な役割を演じているのは、…、ハビトゥスなのだ。それが、構造による社会の解明のささえになっているのである。だが、それにはそれの報いがある。このような不動性をささえにしようとするには、このハビトゥスは、制御不可能なもの、不可視なものでなければならない。…
首尾一貫性、不動性、無意識性、そして領属性(習得したものは世俗財産にひとしい)。このはるかな地は、ハビトゥスに「表現されて」いるのであり、このハビトゥスとは、カビリアの家の屋内さながら、構造が内面化されつつ逆転する不可視の場…なのだ。…しかしながら、このように理論的メタファーにされてしまうと、この指示対象は、真実めいたなにものかでしかなくなってしまう。…だからこそハビトゥスはドグマティックな場になってしまっているのだ。vi
ブルデューはハビトゥスを、「知覚・評価・行為のマトリックスとして機能する持続的で転移可能なディスボジションの体系」として定義しているが、この定義によると、ハビトゥスは行為を発生させるメカニズムのすべてをカバーすることになる。これではハビトゥス概念への理論的負荷が重すぎ、ハビトゥスは一種の「救いの神」的概念にならざるをえない。vii
かかる指摘・批判は、先のハビトゥス理解に従う限りにおいて、十分妥当なものと言うべきであろう。そしてブルデューのテクストのなかにはこうした批判を呼び起こすものがあるのも確かである。しかしハビトゥス概念には、先の理解とはまた別の解釈の可能性が存在するのではないか。ブルデューは、ハビトゥス概念をはじめから主客を媒介する(その矛盾を接合した)概念として、導入したのであっただろうか。
前章で掲げた基本図式に準拠する限り、「表象」は「構造」の反映物・似姿とされる。この図式に「構造」と「表象」のズレを問題として取り込んでいくということは、以下の二つの課題を呼び込むことになる。
認識論の次元においては、基本図式は認識対象としての「客観的構造」と認識者の中間点に「表象」を置くことになる。このとき、「表象」は「客観的構造」の似姿とされ、「構造」において「表象」されなかった部分が残余範疇とされるだろう。
この認識モデルは、二つの課題を抱えることになる。一方で、「理論・モデル」をより精緻化することによって、理論と現実とのずれをなくし、現実をより詳細に捉えていくことが要請されるだろう。しかし他方で、理論・モデルが際限なく複雑化していったのでは、理論・モデルがもとの現実にかえっていくだけで、理論・モデル自体が再び認識不可能な次元に行ってしまうことになる。理論・モデルが現実を認識可能なものとして捉えるための「似姿」であるかぎり、このジレンマは続くことになる。
このジレンマを脱するためには、現実のなかに理論として表象されるべき部分と残余として捨てられるべき部分が元々存在している、と仮定すればよいように見える。認識とは複雑で捉えきれない現実から非本質的な部分を切り離すことであると考えるのである。理論が照らし出していない部分は、理論の不十分さ故捉えられなかったのではなく、元々、不必要なものだったのだ。
この考え方によれば、認識者は現実自体を直接見ることはできない、理論によって切り出された現実の一部を見ているにすぎないわけだが、その現実の一部が現実の重要な部分をどれほど反映しているかによって理論の価値が決まる、ということである。ここで理論が現実をより正確に捉えるための道具だとすると、理論が現実の中から重要な部分を決めるのではなくて、逆に現実のなかに認識すべき、それ故理論として表現されるべき本質とその外部が存在していることになる。認識者が直接知り得ない現実への接近度によって理論の価値が決定されるとしたら、現実を知り得ない認識者はいかに理論の善し悪しを知りうるのだろうか。
これでは問題は元に戻ってしまう。ブルデューが「客観主義」と呼んで批判した問題がそのまま再現されてしまう。「一次的経験」「一次的表象」をいくら理論のなかに取り込んでも、「構造」→「表象」の論理に緊縛されている限り、「客観主義」の限界は再現し続ける。ブルデューの「客観化の客観化」のもくろみを果たすには、もう一歩、論理の転換を進めなければならない。
構造には還元され得ない「表象」の自律性をいかに扱うか。この問題はアルチュセールの「相対的自律性」の概念とともに、マルクス主義を越えて「認識論」「実践論」双方にわたって問題化されてきた。ただし、「実践論」に傾斜した多くのマルクス主義理論の場合、「表象」というシステムの自律性を、社会変革の主体の自律性に読み替えて、アプリオリなものとして設定し、アルチュセールが主として問おうとした認識論的な意味合いは事実上無視されたviii。
この問題こそが、ブルデューが「象徴システム」という概念で論じようとしたことである。ブルデューは「実践」をpratiqueと呼び換えて、「主体」の意志とは切り離した。そのうえでpratiqueを産出する概念として、「主体」に代わり、ハビトゥス概念を用いる。
ハビトゥス概念は「生きられた経験」をベースに記述される点で、個々の行為者の「主観」「表象」を担保に残しながら、その次元では説明され得ない客観的・社会的諸条件を説明できる余地を残した。ハビトゥスは「生きられた経験」「表象」の次元で観測可能でありながら、その背後にある「客観的構造」を照射する。そうなると以下になされるべき作業とは「一次的経験」「表象」を産出する作用―ブルデューが「象徴権力」と呼ぶ−の解明ということになるだろう。
しかし、その前に依然、問題とされるべき困難がある。ブルデューが「客観主義」「主観主義」双方を批判するのは、「客観主義」の見いだす客観的な構造と「主観主義」の見いだす諸行為者の表象との間に見いだせるズレを、「客観主義」「主観主義」双方が黙殺してしまう点にあるix。従って、問題の解決は単に一方を他方に還元する方法によってはなされ得ない。その意味では「客観的構造」を真とし、「主観」をそのゆがみとして説明しているようにも聞こえるブルデューの「誤認」という語り口は危ういものであるというべきかもしれない。
そうであるとすれば課題は、「客観的構造」と諸行為者の「表象」という二つの異なったシステムの間の関係を、再生産されるべき「客観的構造」の存在と、にもかかわらず無視し得ない「表象」の「客観的構造」からの自律とを同時に説明することだ。そしてブルデューにとってこの二つのシステムの間を媒介するのがハビトゥスなのである。
ハビトゥスは一方では客観的・社会的諸条件が内在化されたものとして、その限界内でしかプラチックを生みだし得ない、構造化された構造である。しかし、この概念には、同時に決定論からの脱却(構造化する構造としての側面)も託されている。
このように、ハビトゥス概念は、「主客二元論の克服」、「相対的自律性」を説明する概念として位置づけられていくことになりうるだろう。この解釈の場合、たとえば「こうした(主体的な行動に注目することによる変化の視点と、その行動が結果として構造の維持につながるという)論理は、諸個人の行動を支える内在的な規範システムとしてのハビトゥスが『構造化する構造』としての側面と『構造化された構造』としての側面を併せ持っていることに由来すると考えられる」xといったように、ハビトゥス概念の二重性に、この問題の解決がゆだねられるのである。こうした理解のもとでは、1章で述べたごとく、ハビトゥスが自明的な、すべてを説明する万能の構造として扱われてしまわうことになるのではないか。あるいはハビトゥスという性質にかんして、「自律的」を持ちつつも、客観的構造を再生産するべく、構造化されているのだ、といった同義反復的・循環論法に終わるとみなされるかもしれないxi。いずれにせよ、ブルデューのテクストの中には、このように説明されるべき様々なことがらをハビトゥスというブラックボックスに押し込んでしまっているような印象を与えられることは事実であろう。ハビトゥスとは象徴システム全体の機能がすべて凝縮されただけの概念になってしまうのである。
さらに言えば、社会(客観的構造)と個人(ハビトゥス)の二つのシステムの相互作用、こうした図式に基づく二元論の「乗り越え」の試み自体は何ら目新しいものではない。もしこうした図式こそが重要なのであれば、ブルデュー・ギデンズを待たずともパーソンズさらにはウェーバーからでも同様の図式を抽出することは何ら困難なことではないのである。
次節では、主客二元論の「乗り越え」という課題に即して、ブルデューがハビトゥス概念を、いかなる場面で導入するに至ったかを、理論的に辿り直す。その中でブルデューがハビトゥス概念を必要とした理由及びその役割を、先の理解とは別に、再発見することになるだろう。
ブルデューは従来の構造主義が、一次的経験(生きられた経験)と手を切ることによって、個人とは切り離されたすでに構成された実在として構造を取り扱う「構造の実在論」を招くとして批判する。彼の言う「発生論的構造主義」structuralisme genetiqueがめざすものは、こうした諸個人の「一次的経験」「一次的表象」を重視する「主観主義」の立場と「実在」ないし客観的構造を重視する「客観主義」の立場という対立する二つの理論的立場の統合である。ブルデューはこうした対立する二つの立場が、いずれも実体論的思考にとらわれていて、本質主義・実在論に陥ると批判するのである。では彼はいかなる手続きによって、この二項対立を乗り越えようとするのであろうか。
こうした二項対立の乗り越えという試みはともすれば単なる折衷論に終わる印象をもたれかねない。しかしブルデューの手続きは、両者を対等なものとして併置するという道筋をとらない。むしろ客観主義の意図をより精緻なものにしていく過程の中で主観主義をも必然的に取り込んでいくという手続きがとられるのである。本章ではその道筋をおいながら、その接点とされるハビトゥス概念がいかにこの文脈のなかに組み入れられていくかを理論的に追うことにする。
ブルデューは<社会学的認識論>を記述するxiiに当たり、「認識論的切断」から始める。かかる学的なレベルでの認識論において、最終的に問われていくのは、学的認識者の価値中立性の問題である。すなわち、観察者と対象とが相互に独立して存在しており、相互に影響を与えないという素朴実証主義、さらにはその対象が観察者に対して直接表象されうると考える素朴経験論的な前提にたいする疑いを基礎としている。こうした場合、かかる素朴経験論への疑いに応じて社会学的認識論は、第一に「主観主義的」な文脈―現象学的懐疑―を正面から受け止めていくことになるだろう。認識者と現実との二元論、この問題に真っ向から取り組み、考え方を全く変えたのはほかならぬ現象学なのある。主体の側の認識という実践そのもののなかに現実を生み出すプロセスを見た現象学は、ある意味、すでに問題を解決してしまっているのだ。ただし現象学が解決したのは、認識と現実の一致がいかにして可能か、という認識論の一部に関してだけである。認識された現実、それが複数の主体によって見いだされたとき、いかなる構造を有することになるのか、ひいては客観性の問題は放置されたままである。
一方ブルデューは、現象学的な方法論を十分に意識しつつも、基本的に客観主義の枠組みにとどまって、この問題と取り組んでいく。ブルデューが認識論的切断を述べるときには、なによりもまず「自生社会学」、すなわち社会的世界を「直接に知ることができ、しかもその知は越えがたく豊かであるという幻想をほとんど無償で提供してきた盲目的自明性」xiiiに則った立場、からの切断を意味している。こうしたブルデューの社会学の出発点は、客観主義社会学のながれに位置づけられるデュルケームのそれと同値なのである。デュルケームはいう。
社会的なものは、…、われわれの内なる観念の所産、すなわちこの観念を人間相互間の関係に伴って生じるさまざまな状況に適用したものに過ぎないかのように映じる。…
社会生活のことこまかな事実、すなわち具体的な個々の形態は、われわれの意識から逃れていながら、少なくとも集合生活のもっとも一般的な諸側面だけは大ざっぱに近似的にわれわれのうちに表象されている。この図式的で大ざっぱな諸表象こそが、ほかでもない、われわれが日常生活のなかでなにげなく依拠しているあのさまざまな予断を形成している当のものである。…人はこの予断のうちに真の社会的実在を見てしまう。xiv
それに対してデュルケームはそうした予断から切り離された「きわめて特殊な性格を帯びた一群の事実」の存在を指摘し、それを「社会的事実」として社会学の真の対象であると宣言する。こうしてデュルケームは「主体」の観念・意識から独立した「客観的」な対象を措定して、いわゆる「客観主義」の立場に立つxv。
ブルデューはデュルケームのこの言明に基本的には追随する。しかしまた同時に、「客観主義は現実の説明のなかに現実についての表象を統合することを省いてしまうことによって客観性を欠いてしまう」として、理論のなかに行為者の「一次的経験」の再導入を企画する。
問題なのは…、構造の実在論から逃れることだ。一次的経験から手を切り、客観的な関係を構築する上では必要な契機たる客観主義が、それらの関係を、個人と集団の歴史の外ですでに構築された実在として取り扱うことによって実体化するときには必ずや行き着く構造の実在論を、しかも、社会的世界の持つ必然性の説明力を全く欠く主観主義に陥らずに逃れることである。xvi
デュルケームが「一次的経験」とは独立した対象を作ろうとしたのに対して、ブルデューにとっての「主体」の常識的な観念から切断された対象とは、「一次的経験」を生成するものとしての社会構造なのである。ブルデューにとって「一次的経験」は社会的事実の重要な構成要素となるのだ。
とはいえ、客観主義は前述のような操作を行うにあたって、一次的経験に距離をとり一次的経験の外に立つことのなかに刻印されていること−これは客観化操作の条件にして結果である−を全く考慮しない。身近な世界経験の現象学的分析が呼び起こしてくれるもの、すなわちこの世界の意味が直接に与えられるという見かけを忘れて、客観主義は客観化関係、すなわち社会的断絶でもある認識論的断絶を客観化するのを忘れてしまう。xvii
この秩序と資本配分が社会的存在の客観性そのものにおいて認識(誤認と言うべきか)の対象であるという事実に負っているものいっさいを取り逃がすことなしには、社会科学は、デュルケームの準則に追随して「社会的事象を物として取り扱う」ことなどできないのだ。社会科学は、自分が「客観的」定義をかち取るためにまず破壊しなくてはならなかった対象の一次的表象を、対象の完全な定義のなかに導入し直さなければならない。xviii
このようにブルデューの「主客二元論」図式の乗り越えは、基本的には客観主義的な現実の存在を承認しつつ、その中に行為者の現実についての一次的表象(主観主義的な現実)を統合することによってなされる。
細かな点はともかく、あるいは実際の正否はどうあれ、デュルケームは社会科学においても自然科学と同列に扱える「社会的事実」を対象とすることを宣言することによって、価値中立性の問題を抜け出す。一方、ブルデューの場合はそう簡単ではない。あくまで扱う対象が「一次的経験」に依拠する以上、観察者の視点もまた対象の中に織り込まれざるを得ず、対象は「ものとして」扱いきれないのである。
そうなると観察者の視点をさらに理論に導入していくことになるだろう。デュルケームは社会的な対象を客観化した。しかし、それを観察しているものの立場を客観化するのを怠った、とブルデューは考える。それを考慮に入れた分析(研究者の自己分析)が必要となる。これが<客観化の客観化>なのである。つまりブルデューは、出発点においては「客観主義」の立場に立ち、そこに主観―行為者の表象―を理論的に統合していくという方向性を目指しているようである。
しかし、これで問題は解決したのであろうか。<客観化の客観化>は、さらなる「客観化」を要請するのではないだろうか。そうなると「客観化」は無限に繰り返される必要があることになるのではないだろうか。
ブルデューにとっての認識論的問題は、どうやら「客観」をどう位置づけるか、という問題に帰着しそうである。エスノメソドロジーに対しては、言説が流通する場をとりまく社会構造を論じていないと批判xixする一方で、マルクス主義やデュルケームに対しては、客観的構造を自明視していると批判xxするとき、ブルデューの「客観的構造」がいかに「客観的」たりうるかという問いかけが、当然予想されるのである。
ブルデューは現実を主観的意味と客観的関係の二重性を持ったものとして捉え、両者のずれを一方の意味に還元することなく説明しようと試みる。もし、客観的関係の存在をはじめに宣言してしまうことが出来たなら、主観的意味はただちに客観的関係を正統化するという「客観的」意味が付与されることになるだろう。ブルデューの<誤認−承認>という語り口からは、こうした「真の」客観的意味の存在とその隠蔽=正統化作用としての主観的意味の立ち上がり、という説明で完結しているようにも見える。しかしくりかえすが、ブルデューは客観的関係をアプリオリに語ることを拒否しているし、実際、客観的構造を直接語る理論(例えば正否はどうあれ、マルクス主義の階級論のような)を持ってもいないのである。こうなるとブルデューは、観察可能な「一次的経験・一次的表象」を手がかりに、客観的構造を摘出していくという手続きをとらざるを得なくなる。
行為者の表象は、議論の出発点においては自由であり、自律している。この自律性の限界をアプリオリな客観的構造を持ち出さずに説明していく必要があるのだ。
ブルデューは、この自律性を限界づけるシステムたる「象徴システム」を「イデオロギー生産の場と階級の場の相同性という媒介を通じて、社会諸階級の場の構造を、誤認された形式のもとに再生産する」xxiシステムであるとして、個別的な場と再生産されるべき社会階級の場に分解する。象徴システムとは行為者の持つ「意味」を構築する構造化するシステムでありながら、構造化された構造として<社会的統合>の道具として、社会秩序の再生産に貢献するシステムなのである。
ここで自律性の限界を確定しているのが「イデオロギー生産の場と階級の場の相同性」である。この「相同性」は理論的に提示されたものではない。これに関するブルデューの説明は、実証的な研究からなされる。統計的に把握された職業・収入に対して学歴・文化的選好といった「資本量」の対応関係によって、両者の相同性が確認されるのである。そうなると、課題はこのように統計的に確認された対応関係をいかに説明するか、自律性の限界をいかに説明するか、「抽象的表象」をいかに客観化していくか、である。
そしてこの「場」間の相同性をさらに媒介する概念として、心的諸傾向の体系としてのハビトゥス概念が位置づけられることになるのである。
ブルデューの象徴システム論のもくろみは、客観主義が対象とした「客観的構造」「客観的意味」と、客観主義が見落とした「表象」「生きられた意味」のズレをハビトゥスという概念によって埋めることによって達成される。しかし、2章で見たように、「構造」→「表象」の中間点にこのハビトゥス概念を置くだけでは、問題は解決しない。
ならばブルデューのハビトゥス概念の意義はどこにあるのか。ハビトゥス概念は一見、決定論的な客観主義理論に対する批判概念として、理論的に概念づけられているようにも見える。しかしブルデューは、ハビトゥスがいかなる手順によって、いかなるものとして形成されるのか、そのメカニズムについて、必ずしも理論的に説明しているわけではないのである。
前にも述べたように、ブルデューはハビトゥス概念をむしろ彼の経験的な研究から引き出している。職業や収入、学歴といった個人的な属性と、趣味、志向といった個人的な行動の対応が統計的、経験的レベルで「発見」されたとき、はじめてハビトゥスという概念が措定されたのである。理論的に言えば、ハビトゥスなる概念が構造の再生産を保証してくれるのではなく、逆に構造が経験的レベルで現に再生産されているという事態を「個人」の側で言い換えた概念がハビトゥスなのである。
そうであるならば、「客観的構造がハビトゥスを生みだした」という先の図式はいまだ理論的に何ら説明されたものではないことになる。そこで、例えば以下のような指摘がなされることになる。
ハビトゥスが『存在状態の差異をそのなかに含む』とするなら、どんな機制でそれは生じるのかを納得できる論理で解明しているであろうか。そのことが解明されないかぎり、『存在状態とハビトゥスの弁証法的関係』は、ブルデューの理論体系をその根底のところで『錬金術の基本』としてしまう。
ところでブルデューの諸テクストは、この肝心な問題、すなわち階級の存在状態の差異が心的帯域(ハビトゥスとしての)に「構造化された構造」としてどうやって構造的に組み入れられるのか、あるいは差異を含んだ体系として内在化されたり、転化形成されたりするのか、ほとんど理論的に説明していないxxii。
これはブルデューの理論上の欠陥と言うべきであろうか。ハビトゥスという概念によって社会空間内の循環を説明しようとする限り、そうだと言えるだろう。
しかしこのモデルは1.で示した客観的構造を前提としておくことを拒否したブルデューの意図をそもそも最初から裏切ってしまうことになる。だからブルデューが客観的構造からハビトゥスを説明せずに、逆に個人のレベルの、経験的な観察結果から導き出したのは、彼の議論の流れにおいては全く自然なことなのである。するとブルデューの理論においてハビトゥス概念の役割は先の図式とは異なったものとならざるを得ない。ハビトゥス概念は、客観的構造と個人的主観・表象の連関の内部にあるのではなくて、客観的構造と個人的主観・表象を含み込んだ社会空間の存在を発見し、記述するインターフェイスとしての役割を果たすことになるのである。
実際ブルデューの記述は、プラチックについての記述を丹念に積み上げていくことによって、多様な場のロジックを摘出しつつ、その連関を述べていくことで、社会空間を「特殊な構築作業を行うこと」で概念的に作り出していくものである。
さてこのとき、社会空間と場とのつながりはモデルとしてどのように表現されうるであろうか。もし、場が社会空間の表象形態であると考えるならば、場は社会空間に究極的には規定されているのであり、社会空間は特権的な構造として設定されることになる。そうすると場の自律性はたちまち「誤認」の産物となり、決定論的な議論になってしまう。しかし、ブルデューは周到にそこから抜け出す。ブルデューは、社会空間を場の集積として、理論上見いだされる概念的な産物であると見なすのである。
…社会空間は、それが図式の形で示されるということだけからも充分わかるように、ひとつの抽象的表象である。つまりそれは特殊な構築作業を行うことによって作り出される…ものなのだ。xxiii
社会的世界は…場内部の行為の諸属性を基礎にして構築された(多面的な)空間の形態で表象される。行為者及び行為者集団はその空間の中の関係論的な位置によって定義される。xxiv
このようにブルデューは、社会空間を客観的な実在として先験的に設定することを拒否する。そして、社会空間をプラチックによって構造化された場の集積によって「表象」されるものとして概念化するのである。ここにおいて「表象」という概念の使われ方は逆転させられることになる。いまや「表象」されているものは、直接的な経験として与えられる「主観」ではなく、理論的な作業を通じて構築された「概念」なのである。
従って社会空間上の位置によって規定され、ハビトゥスを構造化する「階級の存在状態」もまた、構築的な概念である。そしてハビトゥス自体が、プラチックの一定のまとまりによって、構築された概念である。つまり、ブルデューの再生産論は、確かに「基本図式」に示された規定関係を語ってはいるのだが、各々の概念はプラチックの実証的な研究をベースに概念的に構築されたものなのである。
ここにブルデュー理論の難しさがある。彼は一見先のプラチック産出過程を現実的、実体的な過程であるかのようにかたる。しかし、既に見たように、出発点たる社会空間を実体視して、自律性の論理が彼の理論から「消える」瞬間に彼はその実体視を戒め、場とハビトゥスによって概念的に構築し直すが、そのハビトゥス概念もまた、プラチックの統計的な規則性から構築された概念なのである。
このようにして、ブルデューは客観的な構造のアプリオリ性を徹底して排除して、この構造をつねに理論的に構築する作業を繰り返していくのである。ブルデューはこの作業を<客観化の客観化>と呼ぶのである。これは客観主義のさらに外に立つことではなくて(そうならば<客観化の客観化>の客観化という無限の繰り返しが要請されることになるだろう)、行為者のプラチックの「一次的経験(=主観的世界)」の分析を通じて、客観的な構造を概念として構築していくことなのである。このとき客観的構造は、一次的経験の分析を練り上げていくなかで、構築されるものとして考えられているのである。
「表象representation」という言葉のなかにはもともと背後の構造を想定し、その構造が認識可能な世界に再現前representationされるという論理を含んでいる。しかしかかる論理は構造をはじめに、絶対的なものとして措定してしまうという理論的難点をもつことになる。ブルデューの客観主義への批判はこの点をついたものであったし、それを受けた彼の「客観化の客観化」のもくろみの焦点は、まさにこの点にある。ここにおいて「表象」の組み替えが要請されるのである。
もしブルデューが「基本図式」の論理の中でハビトゥス概念を論じるのだとすれば、まさしくブルデューが乗り越えようとした客観主義的な枠組みにおける「表象=再現前」の論理の中に入り込んでいくことになる。しかしブルデューが現実にハビトゥス概念を記述した手続きはより慎重なものであった。ハビトゥスが持つとされる性質は、どこまでいっても理論的な説明は完結しない。それは徹底して、経験的・統計的な次元で語られつづけるのである。その意味で、ハビトゥス概念はブルデューにとって理論上の帰着点ではない。むしろそれは出発点なのである。ここでわれわれは再びデュルケームを思い出す。
実地においては、われわれが出発するのはつねに通俗的概念、通俗語からである。xxv
客観主義の出発点にかかる「通俗的概念」を置くデュルケームと、「一次的表象」を理論の支えに残そうとするブルデューとの間にさらなる同質性を読むべきなのかもしれない。「通俗的概念」の積み重ねの上に見いだされる客観的構造―これがデュルケーム・ブルデュー共通の社会学的対象なのだといってもよいだろう。
ブルデューが客観主義理論のなかに、客観主義がいったん切り離そうとした「一次的表象」を再導入するのは、方法論としての主観主義と客観主義の折衷でもなければ、ましてや自立性を持った「主体」概念の復権でもない。ブルデュー社会学の対象たる「象徴システム」を概念として構築していく上で不可欠な要素として、議論の出発点に置かれるのである。
こうして構築された「象徴システム」が社会秩序を再生産する作用、メカニズムについての議論は、「象徴権力」論として論じられていくことになる。これに関してはいずれ稿を改めて論じることにする。
同様な指摘は曽我1994.
xii Bourdieu, 1973など。
xiii Bourdieu, 1973. 27=44.
xiv Durkheim.
xv 「社会諸現象は、それらを表象する意識的主体から切り離して、それ自体として考察しなければならない」Durkheim.
xvi Bourdieu, 1980=1988. p83.
xvii Bourdieu, 1980=1988. P40.
xviii Bourdieu, 1980=1988. p222.
xix Bourdieu, 1979=1990. P.339-340など。
xx Bourdieu, 1984.など。
xxi Bourdieu, 1977=1979.
xxii 曽我、1994。
xxiii Bourdieu, 1979.
xxiv Bourdieu, 1984=1991.
xxv Durkheim.