告白のカタチ

はじめに

「いじめ問題」を通じて、初めて教育言説は自らの対象=「教育主体」を持った。 本報告の結論はこれである。


では、それ以前の教育言説においては教育対象は存在しなかったのか。本報告の主張は以下である。教育言説は一貫して教育対象を産出し続けてきた。教育装置のなかに組み込まれ、その中で作動する道具としての「生徒」。しかし、その段階では未だ固有の「身体」を持たない言説上の産物にすぎない。それが「いじめ問題」を契機に、「生徒」は自律した装置として、自らで自らを語り出す。外部の言説の介入を許さない実体性を帯びた「主体」。「生徒」は他の教育言説に回収されず、独自の言説空間を構成する。その空間において初めて「生徒」それ自身が問題となるのだ。

本報告では、この教育対象の変容の過程を見ていくことにする。言説のなかに置かれ、言説を産出しながら、自らは語り尽くされぬ教育対象の登場。それを教育問題についての当事者の語りの中から見ることにしよう。

校則問題

「教育言説」の典型的な形態は「校則問題」において見いだすことができる。秩序と個性の対立図式とその解決への道筋。一定の秩序に則った個への働きかけを主題とする教育言説において、かかる図式は、定義の時点から原理的に、はじめから、組み込まれている。管理者(=教師・文部省)側が秩序を、生徒側が個性を主張して対立する二つの言説を立ち上げるのではない。もしそう見えるところがあるとすれば、一個の教育言説が二つの立場を表象せしめている、といった方が正確であろう。

A「児童・生徒が心身の発達過程にあること、学校が集団生活の場であることなどからいって、学校には一定の決まりが必要であり、したがって校則それ自体は意義のあるものである」
「校則の意義、役割を考えると、必要以上に詳細な規定を設けたり、社会通念から見て合理的とは言えないような内容を定めたりすることのないよう配慮する必要がある」
『生徒指導ハンドブック』文部省教職研究会編
B「授業秩序や一般の校内生活秩序を守るのは生徒一人ひとりの意思と理解である。いやしくも中学生、高校生である以上、自分の意思で学び行動し個性を伸ばしていくことが大切であろう。教師はできるだけ生徒に自分で考えさせ、自分の意思で自由に行動できるように、そして他人と自分の人権の個性を大切にするように指導しなければならない」
『「校則」の研究』坂本秀夫p.112

Aは文部省サイド、Bは校則批判側から書かれた文章である。そしてこの両者において上で見た図式が、問題の所在を示す定義の時点から、そのまま再現されていることがわかるだろう。

教育の目標として「一定の」きまり、学力=秩序が一方に設定され、そのもとでは「生徒」を一律に扱うのは是とされる。しかし他方、教育においては生徒個人への教育的まなざし、個別化=個性への配慮も常に欠くべからざる原理として組み込まれている。学校はこの対立する要素を、一つの制度として統合する。そして矛盾を止揚する手段として以下の二つの方法が用いられる。


1. 合理性と生徒への説得

校則は強制的に押しつけるものではなく、生徒が自主的に従いうるものでなければならない。校則は理解されねばならない。そのための教育的指導。


2. 懲戒権の弾力的運用

校則に細かな罰則の規定が書かれていることはまずない。刑法において、禁止ではなくて罰則が第一に書かれているのとは対照的である。あくまで、生徒個々人に応じた指導=懲戒がなされなければならない。

ここでは教育の働きかけの対象たる個人=生徒(理解する生徒)が媒体となって、矛盾が統合される。生徒は、教師によって個別的な存在としてみられ、秩序から違反した生徒は、排除の対象ではなく、変容への働きかけの素材となるのである。

しかし、ここでは生徒は素材・道具・客体にとどまる。生徒は装置の一部として振る舞う。生徒は校則問題の定義にのってかたり、自らを語らない。

C「そりゃあ個性ってものすごく大切だと思う。でも、学校で無理に見せなくても、家に帰ってから存分にすればいいじゃない。やっぱり、学校って勉強をするところでしょ。みんなが一定の学力を身に付けなきゃいけないんだから缶ジュース工場になっても、仕方ないと思う。個性って、服装で作るものじゃないしサ」
D「自由服で通学する彼女を異端視扱いする人たちの意見を聞いて、『これは一種の全体主義ではないか』と感じました。残忍な犯罪で世間を騒がす人間の多くが、学生時代に『素直でおとなしい子』だったように思えるのは、僕の思い過ごしかもしれませんが、常に疑問を持ち、自分を通すことのできる彼女は、将来制服組にはできないような素晴らしいことをやってくれる、と信じています」
『先生、涙をください!』保坂展人

生徒の語りのなかにおいても、個性(「自分を通すこと」など)と秩序・規範(「一定の学力」)という一般的な議論の形式がここに再現されている。「個性」までもが一律的な形式において、その限りにおいてしか、存在していない。個への配慮は不十分なものにとどまる。

「他者」を通してのみ語られる「自分」=主体。これは近代民主主義国家の主体像と重なるものであることは確かである。諸個人は、平等に、権利として、その個性は尊重されるべし。しかし、近代社会は、かかる法的=形式的な主体においてのみ、成立しているわけではない。それを「現実」のものとして存在せしめる具体的な<身体>を必要とするのである。これは形式的な主体とは次元を異にして存在している。実はこの両者の結合が、近代社会を実存せしめているのである。

しかしこの結合(及びその裂け目)は不可視なものにとどまっている。ある意味、校則問題は、近代的主体が自明的に存在していた<教育を必要としない>、「理解」が自明視されていた状況の幸せな時代の産物であったと言えるかもしれない。

校内暴力

秩序と個性の対立、それを止揚する抽象的な主体。かかる楽観的な「夢」は、具体的な生徒の身体とぶつかるとき、吹き飛ばされる。生徒はもはや唯唯諾々と「理解」(教育的働きかけに基づく変容)を受け入れる抽象的主体ではない。秩序と個性の間に「暴力」が埋め込まれる。

E「対教師暴力は、児童・生徒による教師にたいする暴力行為であり、校内暴力の一形態である。校内暴力の中でも対教師暴力の持つ問題性はきわめて大きい。すなわち、対教師暴力は、教育の場の基本となる秩序、教師の権威、教師と生徒との信頼関係などを根底から崩壊させる行為であり、ひいては現実の社会の秩序の保持をも否定していくことになるものである」
『生徒指導ハンドブック』文部省教職研究会編

「暴力」は教育においては外的なものと設定されている。「問題」のなかに、もはや解決の方途は存在していない。校則問題が教育内部で、所在と同時に解決されるべき問題と設定されているのとは対照的である。

F「最近の生徒は怖い。人間じゃなくて、野獣だ。目の色を変えて殴りかかってくる。それが理由もなく発作的になんです」
『先生、涙をください!』保坂展人

変容の対象としての生徒がもはやここでは姿を消し、教育の限界を超えた排除されるべき存在が措定される、かにみえる。校内暴力を定義する側からは、「生徒」の語りは不可視化される。しかし、ここにおいて姿を消したのはかつての予定調和的な抽象的な「生徒」である。そして教育言説はその背後に、より細やかな配慮を要する、意志を持った対象を見いだす。

G「学校は、オレたちがちょっと何かをすると、すぐに親に連絡したり親を呼びつけたりする。親に連絡すると言えばオレたちがいうことをきくと思っている。何で学校で起こったことを親にいわなくちゃならないんだ」
「オレなんか授業中に、ただノートをぱちんと大きな音を立てて閉じただけで殴られたこともあったぜ」
『校原病』小板橋二郎

生徒の語りは、生徒の理解不可を訴える教師の語りと鮮やかな対照をなす。「理解」を拒絶しているのは教師の側だとされるのである。教師・生徒がともに「理解」の不成立を訴え、かつその原因を相手にあると主張していることになる。ここでは、「理解」は達成されるべきものとして措定されているのだ。そしてそれを妨げる不幸な状況さえ取り除けば、その達成は可能であるかもしれない。

H「中学の卒業間近に担任を3人で殴ったが、いま通っている高校の先生を殴ろうとは思わない。なぜなら中学の時の先生はぼくらを見捨て無視したが、高校の先生は最後までぼくらを見捨てないからだ」
『先生、涙をください!』保坂展人

「排除」をいやがり、「理解」を求めるという、教師との<対抗>関係の中で作られた生徒の意志。既存の教育言説のなかに容易に回収されてしまう意志。未だこの意志主体は予定調和的な存在にとどまるのだ。

いじめ

「いじめは、小・中・高等学校において広範にみられる問題であり、また、児童・生徒の人格形成に大きな影響を及ぼす深刻な問題となっている」
「いじめの問題の原因・背景には、教師の指導のあり方はもとより、幼少時におけるしつけの問題、社会風潮等、学校、家庭、社会それぞれの問題が複雑に絡み合っており、学校、家庭、社会が一体となった取り組みが必要であるとの認識」
『生徒指導ハンドブック』文部省教職研究会編

学校の秩序などではなく、「人格」に関心。「人格」を中心とした問題の拡散。

「私は、クラスの男子から嫌われています。なぜきらわれているのか、私にもよくわからないのです。顔も美人という方ではなく、はっきり言ってブスだと思います。
2年生のはじめに、組替えをしたあと、新しいクラスのはじめからそういうことになってしまったのです」
「その瞬間、顔を見合わせて笑ってた。こんなことしていいのか、という気持ちもあったけれど、楽しさの方が先だったね」
『先生、涙をください!』保坂展人

論理的な原因の不在。被害者も加害者も「自身」をのみ語る。
教育の論理に還元されない独自の意志=欲望を持った「生徒」
→キレる「少年」・性的な「女子高生」(欲望の装置)


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