「援助交際は何故いけないか」。この問いかけから議論を進めよう。この問いに対して、たとえば河合隼雄は単純明快、「魂に悪いから」とこたえた。もちろんこうした物言いに対してはただちに批判がなされる。
こうした言説は「魂」という実体のないもの、操作のできないもの、定義できないものを使用している時点で、科学でもないし、有効な処方や解決策を導き出すものでもない。単なる個人的な信念というべきものだ。
「科学」の立場からすれば、まったくその通りである。とくに「心」を「実体」のあるものとして扱いうるという前提にある「認知心理学」という「科学」の立場からすれば。
しかし、ならばわれわれはそれにかわりうる「実体」を提示できるであろうか。妊娠の危険?避妊すればよいのか?犯罪に巻き込まれる可能性?それは特殊援助交際の問題か?などなど「実体」を捉えようとしていけばどんどん逆に逃げていってしまわないだろうか。そうした場当たり的な「科学性」などよりも、時に「魂に悪い」という「ナイーブ」な物言いの方が説得力を持ちはしないだろうか。
こうして、何かそこに「実体」らしきものがあるという感覚を掻きたてつつ、それを捉えようとすると、するりとその手を離れてしまう「もの」。それをいかに捉えるか、というところに「現実界」に関わる議論の焦点がある。
「魂」なんてものが<存在>しないことは今や誰もが知っている。そしてその「魂」の不在を言い立てたのが例えば社会構築主義である。社会構築主義は、その意味では、旧来の道徳を観念論と批判し、テンポラリな<実感>を正当化した。しかしにもかかわらず、援助交際や売春にたいするわれわれの価値判断はなおなにかしら割り切れないものを含んでいるはずだ。構築主義は(そして今時の常識は)言語レベルで、その問題性のなさを主張するかもしれないが、それで自分がほかのサービス業に従事するのと同じ感覚で売春に従事しうるか、と問われると答えを詰まらせはしないだろうか。エクセプトミーの論理では売春の無問題をいいえても、自分を入れたとき残る割り切れなさ。そうした*不在*が及ぼす象徴的効果をいかに考察しうるか。
レイプの問題も同じ問題系にあるだろう。加藤秀一のように言語的な意味づけの変容、「貞操観念」といった女性に貼り付けられた性道徳を無効化し、それによって性暴力の中にある特殊さ−被害者に対する辱めの効果−を消去すること、によって性暴力を他の暴力一般に置き換え可能と考えるか、そこになお残る「傷」を認めるか。
こうした「残余」の問題は、フロイト・ラカンに由来するものゆえ当然ながら、「性」の領域と親和性を持っている。だからそこから差別問題を考える場合も、ジジェクはユダヤ問題を題材に挙げることが多いが、セクシュアリティとて題材として格好であろう。
しかしその前に、「残余」概念をもう少し明確にしておこう。言語的な秩序(象徴秩序)との関係の中にそれは見出される。
<メタ言語>についてのジジェクの議論を読む前に、エスノメソドロジーの同種の議論を参照しておこう。エスノの言語論も、ジジェクの論じる方向と途中まで同じ道をたどる。ではどこで道をたがえるのか。それをたどることで、ジジェクの議論の含意が見えてくることになろう。
サックスは対象→言語→メタ言語という言語と対象の対応理論に対する批判から考察を始める。
こうしたロジックを取る限り、あらゆる記述(言語)は残余を残してしまい、記述は完結しえない、ということになるだろう。これがエスノにおける「エトセトラ問題」である。サックスはこれを以下のような置き換えを行うことで「解決」する。
こうして言語とメタ言語の区別は無効化される。言語は対象を指示するが、同時に言語自体をも指示しうる。「元気よく挨拶しましょう」という語りは、例えば「おはようございます!」という語りを指示しているのである。こうした言語の持つ自己言及性を突き詰めていったとき、言語はそれが指示している対象と同じ平面上にある、ということになる。これは奇妙な事態である。あたかも動物園にライオンやキリンと並んで「動物」が存在しているかのごとき。
こうして言語とその指示対象とを同一平面上においたエスノは、ポスト構造主義あるいはラカンの言語論と交錯する。実践(対象)についての語りが、それ自体メタの位置にはいない、という主張。実践についての語り=象徴化が先行して、実践を生み出す。語りの外部に対象は存在していないのだ。こうした議論はポスト構造主義の、言語は全て対象を持っていない、自己言及的な円環の中にある、という主張と重なっているといえるだろう。ライオンやキリンは議論から消し去られることによって、上のパラドクスは解消されているのだ。
さてエスノにおいては、そうした象徴化(言語化)がなされた際(*)、残余が論理の中から姿を消している。エスノが見ているのは、あくまで象徴化が成功した場面だけなのだ。それは必然的に言語化されざる領域、象徴化の失敗を扱わないことになる。それに対してポスト構造主義は、最初から記述は完結しえない、言語は失敗した象徴化としてしか存在しえない、と主張する。ここにおいてエスノとポスト構造主義は袂を分かつ。
ポスト構造主義においては、「失敗」しか存在しない。それは全てのものがあいまいで相対的なものだ、という主張を招くだろう。それは「正しい」解決かもしれない。「失敗」は決して捉えられないがゆえに「失敗」なのであって、それを捉えようとする試みはむなしいものだ。しかしラカンは果敢にも「失敗」を捉えようとする。
ラカンは、エスノやポスト構造主義の議論と違い、言語は必ず「対象」をもっている、という。しかしそれでもなお言語は対象に対してメタの位置に立っているわけではない、と主張している。上のパラドクスがラカンにおいてはそのまま保持されているのだ。
ラカンはそうした残余(象徴化の失敗)を「現実界」(あるいはその場における対象a)として積極的に概念化する。
ラカンの<現実界>の逆説は、それが存在していないにもかかわらず、一連の属性をもっていて、構造的因果性を動かし、主体の象徴的現実において一連の効果を生み出す、ということである。(p.248)
それ自体は存在せず、一連の効果の仲にのみ現存するが、常にゆがめられ、置き換えられて現れる、ひとつの原因である。(p.249)
つまりラカンはポスト構造主義やエスノ(サックス)と同じく言語→(=)対象・実践という論理構造をとるが、にもかかわらず対象は言語を越えているとする点で、後者と決定的な違いを持っている。つまり、ラカンの残余は
なのであって、言語化によって対象から零れ落ちるのが残余ではなく、言語化によって対象に付け加えられるのが残余なのである。
こうした議論の展開は経済学における新古典派とマルクスを思い出させる。価値(=交換価値)一辺倒の新古典派に対して、マルクスは(交換)価値は必ず使用価値(=現実界)を持つと主張する。こうして価値の系と使用価値の系とのズレの中に、剰余価値が生み出される。ところがこの剰余価値はそこにあったものだと誤認される。これが「搾取」の論理である。ラカンの議論はこうした剰余価値にまで射程に入れているというべきなのだ。「剰余」価値とは「残余」を物像化し、(交換)価値の系・象徴界・言語のもとにポジティブに回収したものなのである。
『なぜ?問いを発することの猥褻性』なる本があるらしい。それを引いて、ジジェクは言う。
問いを発すると言う行為には、その内容に関わらず、どこか猥褻なところがある。
問いの基本的猥褻さは、話すべきでないことを言葉にしようとするその衝動の中にある。・・・問いが狙っているのは、受け手のどの部分なのか。それは、答えが不可能な点、言葉が欠けている点、主体の不能が暴露される点である。p.272
たとえば次のような問が発せられるとしよう。
「何でそんなところに男と二人でいたのだ?」
「その時君はどうしていたのだ?そしてどう感じていたのだ?」
「なぜ君は抵抗できなかったのだ?」
こうした問いはまさに「主体」の不能、レイプの場における無力さ、そしてその状況を説明する際の無能さを暴露する。つまり「レイプされた」ということが、女性の身に起こった問題であるだけでなく、女性の「落ち度」になるのである。
問いは、たとえある特定の事物の状態に言及しているだけであっても、常に主体に形式的に責任を負わせる。ただし否定的な形で。つまりこの事実を前にしたときの無力さの責任を負わせるのである。
そしてこうした
言葉が挫折するこの他者の中の点、問いそのものが狙っている不能の点とは何か。問いそのものが恥ずかしさを生み出すのは、それが私の一番奥底の親密な核を狙っているからだ。
先の問いの後には、明示的にであれ、隠されてであれ、以下の問いが続く。
「本当は君だって気持ちよかったんじゃないのか?」
ここで「問われ」ているのは「主体の中にあって主体以上のもの、主体の中の対象」p.273である。この問いは欲望に関する最も基本的な問いの形式である「汝なにを欲するか」の反復なのである。
「汝は我にかくのごとく語る。だがそれによって汝は何を欲するのか。汝の目指すところは何か」
あなたは私に何かを要求している。だが、あなたが真に欲しているのは何か。この要求を通してあなたが狙っているのは何か。この要求と欲望の間の亀裂が、ヒステリー的な主体の位置を決定する。(p. 175)
被害者は己の被害を語らなければならない(「そうでなければそれは望んでしたセックスなのだ」)。しかし聞き手はその語りの背後に別な欲望を読み取ろうとする。その欲望は存在しているはずであり、あるいは存在していなければならず、それが語られない限り、彼女の陳述は嘘なのだ。こうして「問い」は、「気持ちよかったのなら気持ちよかったと白状しろ!」という「ヒステリー的要求」となるのである。
そしてこの問いこそが、聞き手にとって己の象徴化の失敗としての「残余」・外傷(トラウマ)に触れる問いなのだ。「汝何を欲するか」という問いをまず突きつけられているのは聞き手であって、その問いによって「恥と罪の効果」p.274がもたらされ、聞き手がヒステリー的主体となるのだ。「私は(そして男一般は)女を犯したりはしない。女のほうから望んだ場合を除いて。でも本当は・・・たいよな」。この空白「・・・」が、聞き手の外傷(トラウマ)的核なのであって、それを回避する企てが、被害者の「欲望」を標的とする逆の問いかけなのである。
こうした議論は、セクシュアリティをめぐる「善意」の啓蒙的な問い、「自分を語れ」という命令、セジウィックの、性を語らせることによって語り手を見世物化するさまを描く「クローゼットの構造」の議論にもつながるだろう。
一人のホモセクシュアルが、一つのクローゼットの内部に、わくわくするほどへたくそに隠れているのを、これ見よがしに見せつける見世物である。
そして「観客側」の、自分が逆に見世物とされてしまうのではないかというおそれに対する典型的な「症候」は以下のような記述に的確に現れる。
私は同性愛者ではない。それどころか、バリバリの異性愛者である。
私は自分が、『強制的異性愛』のワナに絡め取られた女であることを自覚している。
「私は同性愛ではない」。日常的に(テレビなどを含む)、多くの場合ごく軽いノリで、語られる語りが意図を超えて反復される。「同性愛」を、おそらく真摯に、論じようとする文脈のなかで、「同性愛」対「異性愛」の対立が見事に*執拗に*反復されている。これこそ「症候」であり、「トラウマ」の痕跡なのである。私は決して答える立場にいてはならないのだ。
聞き手自身は絶対答えない、そしてもし答えようとすれば新たな問いが際限なく投げかけられてしまう、この問いが狙う「対象」こそ、問いを発する側にとって己の象徴化(言語化)の不可能性を示す外傷(トラウマ)というべきものである。これは言説的な産物でありながら、言語化の不可能性を烙印されてしまっている。「私は本当は・・・したいのだ」。それだけにこうした問いは言語的なロジックを越えてなお執拗に問われつづける問いなのである。構築主義が捉え損なったのはまさにこの点である。女性に対する貞操観念が、女性に「辱め」の観念を持たせている、というだけではまったく不十分なのだ。レイプの言語的な暴力性を生み出しているのは、女性に持たされた観念だけではまったくなくて、むしろ女性をみる側の「欲望」の方なのだ。だから処女性・貞操性なるものがまったく価値をもたなくなっても(今の日本にどれほどの重みがあるというのだろう?)、レイプは依然として、執拗に被害者を見世物化しつづけるであろう。そして女性に対する「規範」を書き換えるだけではこうした状況は変わらないだろう。なぜなら見る側の「欲望」はこうした「規範」の外にあるからである。
「売春はなぜいけないか」。
性的な交歓が市場から締め出されることによって、交換価値には還元できないような「愛情」というものが生み出されている。ところが売春という行為は、それを市場の中に入れてしまうことによって、人々の「愛情」を揺るがす。だから売春は悪とされる、と。
そしてこれと同じ構造を、例えば同性愛嫌悪にも読み取ることができるのではないだろうか。同性愛がなぜ問題とされるかというと、今度はこれが「純粋な友情」を汚しているように感じられるからである。
異性愛者にとっては、男女間で友情がなかなか成り立たず、親密さの表現がどうしても性的に解釈されてしまうのは、種の保存の必要性からして「必要悪」というべきである。つまり性は人間を動物性に貶める要素を必然的に内包しているということだ。「同性」というのは、そういう性的交歓から除外された領域であることによって、「純粋な友情」という、性的交歓の即物的価値でははかれない+αの価値を生んでいる。
同性愛者の存在は、こういう「純粋な友情」なる価値を揺るがす。だから危険視され、排除されてしまう。
このように売春にせよ、同性愛にせよ、人間関係における市場や性的交歓を越えた「純粋さ」を立ち上げようとする「親密性」への期待との対抗関係で捉えられないだろうか。
今の議論を「友情」を頂点として、その「不純」な部分を市場と愛情におのおの振り分けるモデルとして整理してみよう。そうすると市場における利害や、恋愛における動物性(セクシュアリティ)というものが「不純」なものとして、「純粋」な「友情」の対極にあるものとされることになる。ところがこう整理すると一般的な男性間の関係−仕事関係−において、一番排除されていたはずの市場における「利害」と、一番至高のものとされていたはずの「友情」が並存していることになるだろう。男性たちは「利害」闘争をまさに男性間のつながりの中で遂行しているのではないか。となれば、「純粋さ」が「友情」において最もよく保存されている、というモデルは怪しくなる。「愛情」においては市場の「利害」がその純粋さを汚し、「友情」においては愛情の「動物性」がその純粋さを汚し、しかし市場の「利害」はさして友情における純粋さを汚さない。市場を中心に見ればよりはっきりするであろう。(男性にとっての)市場において、(女性相手の)愛情はその場に留め置くには耐えがたいほど「純粋」だが、愛情より「純粋」たるべき(男性間の)友情はむしろ潤滑油となる。
このような「純粋さ」はもはや<初めにそこにあった>ものとはいえず、場当たり的な存在(しかも男性が市場を握るかぎりにおいて都合の良い)であるとしか言えなくなるだろう。その意味では「純粋さ」とはまさしく第一節で述べたごとき「剰余価値」と呼ぶべきものである。そして、ここからが重要なのだが、にもかかわらず、
同性愛者の存在は、こういう「純粋な友情」なる価値を揺るがす
という「実感」(そしてそれに基づく「純粋さ」の発見!)が確かに立ち上がっているのだとすれば、その守られるべき「純粋さ」が揺るがされるという「実感」(恐怖)こそ、まさしく不在としての効果を及ぼす「原因」たる「残余」なのである。と言っても、「純粋さ」への志向が恐怖をかき立て、同性愛排除を生み出すと言っているのではない。逆にこの「恐怖」を回避すべく、同性愛排除の「原因」として事後的に構築されたものが「純粋さ」なのである。「事後」とはいっても、それは異性愛者の「トラウマ」として同性愛排除にかきたてる、まさしく「原因」なのではあるが。そしてこの「恐怖」とは前節で述べた「問いに晒される」恐怖、不在の欲望に由来する恐怖なのである。
「売春」も同じ問題系で考えられるだろう。欲望の公然化された形態が「売春」という形を取り、同じ欲望の語られざる形態、そしてその帰結としての「純粋さ」、がそれを禁止する。したがって売春への違和感とは、語りたくない己の欲望(というトラウマ)が公然化・具現化されてしまうことによる不快感というべきものなのである。
愛情はすでに結婚制度、あるいはロマンチックラブの理念のなかで十分語られうる存在である。その意味で「愛情」もまた「剰余」とカテゴライズできるだろう。そして「愛情」が流通する場において、その場を支える不在の「欲望」こそが「残余」である。そしてこの語りえぬ「欲望」への視線が猥褻なのだ。スキャンダラスなのは「欲望」が存在することではない。「欲望」が存在するはずだ、それを「何とかしなければならない」という誘いかけがスキャンダラスなのである。
売春、同性愛嫌悪、レイプ、この問題に関わる主体がいずれも拭い去れぬ「猥褻さ」の刻印を押されるとすれば、それは語りえぬ(あるいは語りたくない)「欲望」を語ろう(語らせよう)とすることの帰結であるというべきだろう。そして逆に結婚制度とはこうした「欲望」を語らずともすむ、フーコーのいう「性現象を押収する」システムなのである。