本報告は私が担当している看護学校の教育学の授業中に書いてもらったレポートを題材に取っている。そのとき書いてもらった課題は以下である。
「大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。
通常、現実の魔物は、本当に普通な"彼"の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際、そのように振る舞う。
彼は、徳そのものが持っている内容以上の徳をもっているかの如く人に思わせてしまう」
A,Bは少数派。A,Bを見れば「教育学」の授業についていかなる説明がなされたのかがわかるだろう(さらにいえば「教育学」は当然一般教養科目である。この学生は2年生のため、一般教養科目は「社会学」「哲学」を含め、多数受けている)。ところがそのあとに連なる大多数の記述はその説明を裏切る(ただし裏切ることになる理由の大半は、単に授業を聞いていなかったから、というだけのことかもしれない)。そしてその代わりに「直接役に立つ」ということが、要望としてではなく、事実として、語られる。しかも<知識ある人>が<ない人>に教える、というもっとも原初的な教育観。
G. 魔物というからに、私は外見的に怪物であり、心の中はそうではなく、温かい心を持っていると思った。この一行目の文ではこれと反対のことを書いてあり、私はそうは思わないと思った。3行目以降を理解するのは難しいと思う。私なりに考えると、彼というのは魔物であり、魔物は怪物的だと思われるが、実際は普通で、徳というものを越えた徳を持っている。つまり大多数の人たち以上によく、怪物なんかではない。言い換えると、悪い人と思われる人は実際はよい人であったりするということを言いたいのだと思う。
H. 人は外見じゃないとは言うけれど、やっぱりそれはほとんどの場合うらぎられる。髪の色が黒じゃないから、ピアスをあけているからなんだっていうのか。すぐに大人は陰口をたたく。個性だと認めてくれればいいのにと思う。私自身の何も知らないのにと思う。髪の毛が黒に戻れば手のひら返して態度が変わる。確かに渡しも外見だけで判断してしまうこともあるが、中身を知ろうともする。外見だけで判断するような大人にはなりたくない。
I. 例えば茶髪でピアスをあけている人がいれば、すごく恐い人、悪い人と心のどこかで思っている人が多いであろう。しかし、そういう人が少しいい部分を見せれば、外見が普通な人がすれば何とも思わないことが、すごく、いい人なんだと感じるだろう。この文章はそういうことを言いたいと考える。
先の文章は普通に読めば
という構造で書かれている。Gははじめは「正しく」読みとれている。ところが、その解釈を途中で変更する。そしてH以降に連なる読みにおいては
という主張にすり替えられる。あえてこのような「誤読」をしてまで、「外見が悪くても本当はいい人はいる」という主張と重ね合わせる。
もっともここであげた以外の多くの記述は「罪を犯す人は、外見が決して悪そうに見えるわけではない」という「正しい」読解に到達している。そして「偏見や先入観は危険だということを言いたいのだと思った」という結論に達する。「心の中」=真実イデオロギー、あるいは外見=仮面イデオロギー。「大切なのは心の中」。しかしそれに反して、先の文章の力点はむしろ「外見」「振る舞」いにあるはずだ。
「普通の」外見・振る舞いを通じて初めて「魔物」は具現化する。
この文章は神戸小学生殺害時件の犯人とされる少年が書いた「懲役13年」という文章の一節である。これを題材にして北澤は<少年>カテゴリーの問題を論じている。
その論文の中で北澤は、少年の文章にみられる「心の中」「外見」の二元論は、「外見」の側で回収可能だと説明している。
「<嘘>がばれるということは、われわれの内面のどこかに実体として存在している「本心」が露わになるということではない。そうではなく、以前に言ったことと今していること(言語を伴った一連の行為)との間に矛盾があることを、他者によって指摘されたという事態を指し示しているのであって、それは心の中に隠していた何かが露わになったということを少しも意味しない。そこに存在論的な神秘は何もないということである」
この説明はすぐれてエスノメソドロジー的な解釈として、それ自体は妥当であるが、それではこの文章の面白みが消えてしまうのではないか。<既に>存在する「魔物」の現実的形態についての先の記述は、「外見」「表象」に踏みとどまろうとするエスノよりも、むしろフーコー、マルクス的なのだ。