理論について

社会科学において、理論とは何でしょうか。一般的には、それは現実の一部を捨象するなどの作業を伴う抽象化によって作られるもの、モデルとして理解されるようです。それは現実の把握に関して以下のような認識観を持っていることとつながるでしょう。

経験主義的認識過程は、抽象と名付けられる主体の操作のなかにある。認識するとは現実的対象からその本質を抽象することであり、そのとき主体によるその本質の所有が認識と言われる。・・・与えられた現実的対象からその本質を抽象する経験主義的抽象は、現実の本質を主体に所有させる現実的抽象である。・・・本質は現実的対象から、抽出という現実的な意味で抽象されるのだ。(p.65, 66)

認識。認識の唯一の機能は、対象のなかで、対象に実在する二つの部分を、本質的なものを非本質的なものから、切り離すことである。・・・すなわち、抽象の操作、これらの垢落としの手順は、現実のほかの部分を析出するために現実の一部分を追放し除去する手続きでしかない。(p.67)

こうして得られた「本質」的なものをモデルとして措定し、逆にそれを具体的な事象の認識に用いる一連の手続き、これが一般的な「理論」のイメージではないでしょうか。しかし、アルチュセールはかかる認識観を「経験主義的認識観」として批判しています。

実的対象の現実的一部分として考えられた認識を現実的対象の現実的構造のなかに投入すること、これこそが経験主義的認識観の独自の構造をなす。

この経験主義的認識観があたかも自分の分身のように、現実存在の透明性のなかに本質を宗教的に見て取る問いの構造に密着していることをまだ明示する必要があるだろうか。

認識の対象も認識の操作も、認識操作がその知識を生産するはずの現実的対象と区別されながら、十全の権利をもって現実的対象の現実的構造に帰属するものとして提起され考えられている。そのとき経験主義的認識観にとって、認識の全体は現実的なもののなかに投入されることになる。そして認識とは、この現実的対象の現実的に区別された二つの部分の間の、現実的対象に内在的なひとつの関係にほかならない。この基本構造を明瞭に理解するならば、それは多くの場合に、特にモデルの理論という無邪気な姿で登場する経験主義の現代的形式の資格を評価するのに役立つことができる。(p.72)

こうしたモデル論的な理論観を廃したアルチュセールにとっての理論とはどういうものなのでしょう。まずは彼の認識観からみていきましょう。

認識とは知識の生産過程であって、その過程はそっくり思考の中で進行する(われわれが正確にした意味で)けれども、いやむしろそのゆえに、現実的世界に対して、獲得と呼ばれるこの把握を与えるのである。まさにこれによって、認識の生産の理論の問いが真実の地盤の上で提起される。認識は、その対象の認識として(われわれが正確にした意味での認識の対象として)、現実的対象つまり現実的世界の把握、獲得である。(p103)

つまり認識とは現実自体から出発するのではなく、抽象から出発して、「思考=の=具体」のなかで現実の認識を生産するものであると理解されているのです。別な部分では以下のように説明されています。

最初の一般性(それを<第一の一般性>と呼ぶことにする)が、原材料を形作り、科学の理論的実践によってこの原材料は種差化された「概念」、つまり認識という、もう一つも別の「具体的な」一般性(それを<第三の一般性>と呼ぶことにする)へと変えられる。(#p.317)

理論的実践は、<第一の一般性>にたいする<第二の一般性>の仕事によって、<第三の一般性>を生み出す・・・(#p.319)

この<第二の一般性>が「一群の概念によって構成されているが、その概念の、多少なりとも矛盾する統一体」としての理論なのです。アルチュセールの理論観において、注意されるべきは

抽象的なものが理論それ自体(科学)を指示する一方、具体的なものが現実的なもの、「具体的」現実−理論的実践によってその認識が生まれる−を指示するという風に考えないこと。(#p.321)

です。

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