「いったい誰が語るのか」

−語られたことをどう捉えるかについての試論

本報告はドゥルーズのフーコー論を換骨奪胎して「紹介」しようというものである。

「いったい誰が語るのか」という問いかけは、語る「主体」を想定した問いかけである。従って、発言者の意図から離れ、社会的文脈の中にこそ意味が生起するのだと考える言説論においては、先の問いかけは禁止される。

「起源の問題は問われないのだから、独創性の問題はなおさら問われない。言表を生みだすために、特定の誰かである必要はないのである。そして言表は、どんなコギトとも、言表を可能にする先験的な主体とも、言表を最初に発する(あるいは再開する)『私』とも、言表を保持し、流通させ、また更新する『時代精神』とも関係がない」(Deleuze)


語られたことをいかに捉えるかについての議論を、女子高生問題に関する二つの文章を紹介するところから始めよう。

わたしたちが注意するべきなのは、《東京都など、歓楽街を持つ都市部の学校で協力してもらえなかったところが多く、テレクラや有害物質などを体験した生徒の実際の比率は、調査結果よりもさらに高いとみられる》(朝日)とされていることだろう。わたし自身の数多くの取材経験からいっても、実態がこれをはるかにこえていることはまちがいない。

朝日の「ブルセラ論戦」のきっかけになる論説の掲載をめぐっては、…朝日新聞社側との間で何時間ものけんか腰の応酬をしたあげく、…しつこく食い下がっている。

今回紹介したいと思っているのは、わたしが代表的なケースだと判断したブルセラ女子高生二人組のインタビューだ。「代表的」というのは、刺激や過激さに目が奪われないですむという意味である。

ま、いいや。ところでぼくね、テレクラの走りができたのが八五年の秋なんだけど、ずっと調べてたの。この辺のテレクラもフロントのお兄ちゃんたちもたくさん取材した。

じつは……(口ごもる)、そういうバイトもやってるんですよ。

そーらきた!(笑)(この話も打ち合わせの時に聞いていない)

ああっ、なんだか自分が怖くなってきた…。

いいのよいいのよ、大丈夫(笑)。

…あたしの友達、全員やってる。

入っている子を見ると、本当にフツーの子だし。フツーのバイト感覚っていうのかな。

補足すると、この学校でのパンツ売りの実態は、進学科のAさんやBさんの推測をこえている。

わたしたちの社会ではいままでいろいろなことがあったにしても、ほとんどだれひとりとして倫理的であったためしはない。わたしたちがブルセラ女子高生を非倫理的だというならば、その程度にはわたしたちも非倫理的である。わたしたちが自らを道徳的だというならば、その程度には彼女たちも道徳的である。勝手な線引きは、共同体にとって「有害そう」なものを排除することによって既存の共同性の不変さを確認し合う共同体的作法以上のものを意味しない。

「そのFAXは、『なぜ、女子高生とひとくくりにされなきゃいけないの』という怒りに満ち溢れていた。実際に、こんな行いをしているのはわずかな女性たち。女子高生はさらにその一部なのに、『女子高生の援助交際』と報道することで、あたかも全国の多数の女子高生がしているかのような印象を与えてしまう。読者を誤解させたり、あおったりするおそれがあると改めて感じた」と。

おおかたの学生の意見はこの記者の感想にぴったりとつながる。ある学生の抗議を紹介しよう。

***

フツーの女子高生がフツーなのよと叫んでもフツーの声は面白くもおかしくもないからテレビ局は見向きもしません。
***

テレビは依然として「ものわかりのいい」学者や評論家などを集め、彼らは「援助交際がなぜ悪い」「援助交際にも主張がある」などとのたまう。…しかもテレビ局は、テレビを見るそちら側=視聴者が勝手に楽しんだり、腹を立てたりしているのですよ、…とうそぶく。

テレビ側に自覚がなければ、私たちが自覚しなければならない。

XY二つの文章で問題となっているのは、語りと「実態」のずれであるが、さらに細かく見ていくと、両者とも次の三つの層からなっている。

  1. 「今のフツーの女子高生は『売春』的行為に関わっている」という「言説」
  2. フツーの女子高生の語り
  3. 実際の『売春』的行為の程度

XYともに2は3を反映していると見なし、1との距離を問題にする。

そして対立は、1を誰が(いかなる意図で)語るのか、という点にあるように見える。Xは実態を正確に伝えるために、真理の伝達者(マスコミや学者)が語るといい、Yは商売上、センセーショナルに煽るべく、デマゴーグ(マスコミや学者)が語るという。

この場合、3の実態のありようが前提とされている。先の対立はこの実態観を巡って初めて生じるものである。従って、1を語るのは誰かを問うても、その回答の当否は3に依存してしまう。ここでは、語りの主体の対立は実体論的には存在しない。


3は本当のところはわからない。するとXYの対立点は、実は2に集約されるのである。ではもう一度問おう。2を語るのは誰か。

「フツーの女子高生」であるというのは回答にならない。同じ主体がXYで全く逆のことを語ることになる。すると再びフツーの女子高生の実態あるいは定義付けを巡って対立は3の次元に行ってしまうことになる。これでは水掛け論。

もっとシンプルに考えよう。Xにおいて2を語っているのは筆者xであり、Yにおいて2を語っているのはyである。しかも、「x-2,y-2」という異なった主体が語っているのは、言説1の変形である。そして、XYを対立させているのは、1や2を語る主体が何であるかについてではなく、1に対するx,y双方の政治的立場である。2とは1の言説にx, yの政治的な主張を付け加えたものなのである。

しかしさらに言えば、ある言説に対する政治的な相反する立場の存在というのは、いついかなる場合にも成立しうる反復的、定型的なものである。x,yはユニークな存在である必要はない。結局(回りくどかったが)、2を語る主体は1でしかない。

「言説=イデオロギー」モデル

3(実態)→3'校則、ブルセラショップ(制度)→2(具体的な語り、言表)
/1(流通する言説=イデオロギー)
反映、政治的意図

「言説=社会的事実」モデル

3(実態)=
3'校則、ブルセラショップ(制度)
/2(具体的な語り、言表)←1(流通する言説=社会的事実)

*最初の指示によれば、言説とは関係論的な存在=物象である。

物象であるか否かは実態との距離によって決まるのではない。例えば、前者のモデルの1は物象ではない。1は実態を反映していると考えようと(X)、反映していないと考えようと(Y)、その「意味」はあらかじめ決定されている(Xにおいては「反映」、Yにおいては「政治的意図」によって)。一方後者のモデルにおいては、1は解釈の場に流通して初めて特定の意味を持つ(商品が市場に出ることを前提に「価値」を持つのと同値)。つまりこのモデルにおける言説は物象である。

さて、3'/2の意味レベルでのつながりを断ち切った後者のモデルにおいては、3'/2の関係はいかにして捉えられるべきか。

制度という非言説的な形成と、言表という言説的形成との間に一種の平行関係を設けて、二つの表現が互いを象徴し合うようにしたり(表現の一次的関係)、水平的な因果性を設けて、事件と制度が、言表の主体と見なされる作者としての人間を決定するようにしたりする(思索の二次的関係)誘惑は大きい。しかし、斜線は第三の道を強いるのである。

二つの形態は、相互に前提しあうものである。しかしそこには共通の形態があるわけではなく、一致も対応もないのである。

形成された知の二つの形態の「あいだ」に様々な関係を確立するのは、力の関係、または無形の権力の関係である。<知−存在>の二つの形態は、外部性の形態である。…フーコーはこうして外からやってくる基本要素、力を発見するのである。

G. Deleuze

3'と2が結合するところに、「女子高生」というカテゴリーを担う「主体」が析出される。一方では旧来の校則等に規定される「高校生らしさ」を担う「まじめな(女子)高校生」、他方では「今風」「女子高生」。当然この「主体」は外部的に析出されたものだから、個人のパーソナリティとは無関係。一人の人間が両方の主体を担うことも全くあり得ることである。

かかる分裂した主体の存在は一つの物語を作り出す。

―分裂は解消されねばならない―

「女子高生」というカテゴリーを巡る議論が延々と繰り返されることになる。「女子高生問題」とは「女子高生」というカテゴリーの揺らぎを示しているのではない。むしろそのカテゴリーをより強固なものにしていったのである。

ついでに言っておけば、このカテゴリーが、他者が管理するたぐいのカテゴリー(「ホットローダー」ではなくて「ティーンエイジャー」)であることは言うまでもない。

3(実態)=
3'校則、ブルセラショップ(制度)

「女子高生」←1(流通する言説=社会的事実)

/2(具体的な語り、言表)

参考文献

『フーコー』、ドゥルーズ、河出書房
「ホットローダー」、サックス、『エスノメソドロジー』、せりか書房
『制服少女たちの選択』、宮台真司、講談社
「テレビが作る『事実』」、佐藤二雄、朝日新聞1997年3月26日付朝刊
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