ブルデューは行為産出のもととなるある社会的な価値の行為者への内面化が、教育機関における長期にわたる教え込みの成果であると主張した。こうした見解は、そのニュアンス、用語が違えども、教育の役割に関して社会科学において広く見られるものである。「価値」を肯定的に語れば、機能主義において、否定的に「イデオロギー」として語れば、マルクス主義的な議論において。
一方(肯定的であれ、否定的であれ)教育の持つ効果に関してより懐疑的な議論も多く見られるようになった。対抗文化論の文脈においては学生・生徒はただ学校の規範に従うだけだという受け身のイメージが批判され、より主体的な存在として位置づけられるようになった。さらに「学級崩壊」、「道徳の解体」「遊ぶ大学生」などが取りざたされる現代日本において、学生・生徒の行動規範と学校との不連続性がより実感をもって受け止められる。学校はもはや価値の注入機関としての機能を持たず、より自由な選択肢を持った学生・生徒の活動の場として位置づける議論がリアリティを持つことになる[1]。
とはいえ、学校が(集団教育の場たる)学校として存在し続けるためには、一定の枠組みを提示し続ける必要があることはいうまでもなく、かつそうした枠組みがより広い社会においても必要なものと見なされているのは間違いない。それが安定して学生・生徒に伝達(注入)され、維持され続けるという神話が疑われている、ということであろう。そうした枠組みに学生・生徒はいかに反応し、いかに行動を組織していくか、が問われるのである。
本稿ではかかる枠組みの一つとして「まじめさ」を取り上げる。ただしその「まじめさ」を確固として伝達可能な内実があるものとは必ずしも考えない。あくまで学生・生徒の行動を組織する枠組みの一例として仮説的に概念化したものにすぎない。
本稿ではこうした「まじめさ」を「学校(大学)」という場における学生の行動様式・規範(性向)の体系の一部として把握し、その内容(構造)と生成の原理の一端を示すことを目的とする。もとより本調査での質問項目は限られており、「まじめさ」の全容を把握することは不可能である。ここで示しうるのは、ほとんど学校(大学)に隣接する活動に関する部分だけである。しかし、教育機関と行為規範の関わりを見る、という意味では上記の制約はさほどの問題ではないと考える。
本稿は以下の順で議論を進める。まず「まじめさ」はいかなる行動・規範と(主に高校生において)関連があるかを明らかにし、そしてその「まじめさ」が高校から大学への行為者の移動によって必ずしも保持されていないことを示す。そしてそれにも関わらずなお、「まじめさ」という規範が大学生の行動産出の原理として機能し続けていることを示す。それがいかなるかたちでなのか、そこに行為産出に関する注入論とは異なったモデルを見いだす[2]。
本稿で用いるデータは、2000年に行った関西の複数の私立大学に在学中の学生に対する調査によるものである(男子学生225人、女子学生258人)。本調査では、高校生の時と現在(大学生)における諸活動の熱心さや授業関与の度合いなどを中心に質問紙を設定した。その中で本稿が扱うのは高校時代と現在における活動の熱心度を聞いた以下の質問である。
Q1: あなたの高校時代の生活についてお聞きします。
A-1 あなたは高校時代、以下の活動に打ち込んでいましたか。
a: 授業の予習、復習■b: クラブ活動■c: 生徒会活動■d:学校行事■e: ボランティア活動■f: 受験勉強
(「打ち込んでいた」「どちらかといえば打ち込んでいた」「どちらかといえば打ち込んでいない」「打ち込んでいない」)
Q9: あなたは大学入学後、以下の活動にどの程度熱心に取り組んでいますか。
a: 語学の授業■b: 語学以外の講義■c: ゼミ・実習■d:サークル活動■e: ボランティア活動■f: アルバイト■g: 大学以外での習い事
(「熱心」「どちらかといえば熱心」「どちらかといえば熱心でない」「熱心でない」)
QA-1、Q9ともに4つの回答の前二つ、後ろ二つを一つにまとめ、二区分としておのおのの活動の「熱心」度の指標とする。
さらに本稿においては、学生・生徒の「まじめさ」規範の受容の度合いをみるために、Q25に着目する。
Q25:「あなたの「まじめさ」についての意識をお聞きします。
A 高校生時代のあなたはまじめでしたか。
a: 人からそのように思われていた。
b: 実際まじめだった。
B 今現在のあなたはまじめだと思いますか。
a: 人からそのように思われている。
b: 実際まじめである。
Q25においては、A(高校時代)、B(大学時代)の回答に関して、それぞれ「a:人からそう思われていた」、「b:実際まじめだった」に分けて質問している。ここでは前者を「他者認識」、後者を「自己認識」として分けて考察を進める。またおのおの「そう思う」「どちらかといえばそう思う」を「そう思う」、「どちらかといえばそう思わない」「そう思わない」を「そう思わない」にリコードして二区分とし、「そう思う」と回答した人の割合を「自己認識」「他者認識」双方に関して「まじめ」度の指標とした。
まずは上で設定した「まじめ」度の全体的な動向を見る。表1は高校在学時と現在における「まじめ」度を「自己認識」「他者認識」で集計したものである。
|
そう思う |
そう思わない |
高校他者 |
74.7%
|
24.6%
|
高校自己 |
62.3%
|
36.6%
|
大学他者 |
57.8%
|
40.8%
|
大学自己 |
53.6% |
44.9% |
高校在学時にまじめであった(まじめだと思われていた)と考えている人の割合は、現在まじめである(まじめだと思われている)と考えている人の割合より高くなっている。また自分でまじめである(まじめであった)と考えている人より、人からそう思われていた(そう思われている)と考えている人の割合の方が高い。
前者の結果は、我々の「常識」を追認するものであろう。日本の学生は大学受験前には「まじめ」に勉学に取り組むが、大学に入学すると勉強しなくなり、バイトや遊びに明け暮れるようになる、という「常識」が、学生当人の意識レベルで反復されているということである。「高校の時はまじめだったのになあ」という慨嘆。日本の大学はレジャーランドだという批判。そうした言説と、先の結果は整合性を持っている。
後者の結果はどう考えればよいのだろう。「人から思われているほどまじめじゃない」。高校、大学と親に金を出させて勉強しているようだが、実際には遊んでばかりいる。偽悪的なものにせよ、そういったなんらかの「負い目」のようなものを反映しているのであろうか。こうした結果を生みだした学生の心性の中身はここでは問わない(問えない)。ただこの結果自体は後に再び参照することにする。
ともあれ、大学時には4割以上のものが「自分は結構ふまじめだ」と考えているというのがここでの結果であり、そしてそれは我々の常識からしてさほど意外でもない、ということである。
調査結果より高校時代に比して、大学時に「まじめ」さが減少しているとすれば、そして、受験勉強が終われば勉強はしなくなるという「常識」を鑑みれば、大学生の授業参加への熱心度は高校時に比べて明確に減少していると予想されるであろう。しかしこうした予測は、高校・大学時における諸活動の熱心度の結果をみてみれば、裏切られることになる。表2はおのおのの活動に関する「熱心」度の割合を示したものである。
|
|
|
|
|
予習復習 |
38.3
|
語学 |
66.9 |
|
クラブ |
64.0
|
語学以外 |
52.6
|
|
生徒会 |
14.1
|
ゼミ・実習 |
60.7
|
|
学校行事 |
67.7
|
サークル |
48.4
|
|
ボランティア |
15.7
|
ボランティア |
9.3
|
|
受験勉強 |
58.8
|
アルバイト |
50.7
|
|
■ |
■ |
■ |
習い事 |
20.5
|
高校活動と大学活動は項目などが違っているため、単純に比較は出来ないが、それでも高校時における「予習復習」「受験勉強」の熱心度に比べて、大学時における授業関係の熱心度が決して低くはない、というのは注目しておいて良いだろう。
この二つの表を付き合わせてみると、彼/女らは、大学時においても、思っている以上に「まじめ」な行動をしている、ということになるのだろうか。それとも彼/女らのおもう「まじめ」さは、授業への取り組みの熱心度とは無関係なものなのだろうか。学校での諸活動と「まじめ」さとの関連を見るために、「まじめ」と思っている人と思っていない人と、おのおのがそれぞれの活動にどの程度熱心だったかをまとめたのが以下の表である。
|
|
|||
|
|
|
|
|
予習復習 |
45.2%
|
10.8%
|
49.8%
|
18.6%
|
クラブ |
65.7%
|
59.7%
|
63.1%
|
66.1%
|
生徒会 |
15.5%
|
16.2%
|
16.6%
|
9.6%
|
文化祭 |
69.3%
|
63.9%
|
69.1%
|
66.7%
|
ボランティア |
17.7%
|
14.5%
|
17.3%
|
13.0%
|
受験 |
64.0%
|
43.7%
|
6.1%
|
46.3%
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
語学 |
76.3% |
54.3%
|
73.4%
|
60.4%
|
語学以外 |
64.9%
|
34.5%
|
61.8%
|
41.5%
|
ゼミ |
67.0%
|
51.8%
|
65.3%
|
55.8%
|
サークル |
48.4%
|
50.3%
|
49.0%
|
49.3%
|
ボランティア |
11.5%
|
6.1%
|
10.8%
|
7.4%
|
アルバイト |
50.2%
|
51.8%
|
49.0%
|
52.5%
|
習い事 |
21.5%
|
18.8%
|
24.7%
|
14.7%
|
表3−2より「まじめ」層(他者・自己双方において)の、「ふまじめ」層と比べての、授業関係(語学・語学以外・ゼミ)への熱心度の高さは明らかである。一方サークルやアルバイトは逆転している。これは一般的な「まじめ」さの内容を追認するものである。,
要するにこういうことである。
ここに浮かび上がる典型的(多数ではない)な学生像を戯画的に描けば、彼/女は高校の時はまじめであったが今は結構適当にやっているなあ、と自己認識しつつ、せっせとまじめな奴が取り組むべき大学の授業に熱心に取り組むのである。こうした彼/女らの授業への熱意をかき立てるものは何か。高校の時に培った「まじめ」さを損なってなお、彼/女らが「まじめ」であるのはいかにしてなのか。
ここで表1に戻り、自己評価と他者評価の差に再び焦点を当てよう。背景はさておき、結果から読みとれるのは、他者からの「彼/女はまじめなのだろう」という期待を意識している学生がいるということである。こうした他者からの期待に対する意識と「自分はまじめなのだ」という意識と、いずれがより授業への熱意をかき立てているのであろうか。
|
他者 |
自己 |
語学 |
22.0%
|
13.0%
|
語学以外 |
30.4%
|
20.3%
|
ゼミ |
15.2%
|
9.5%
|
サークル |
-1.9%
|
-0.3%
|
ボランティア |
5.4%
|
3.4%
|
アルバイト |
-1.6%
|
-3.5%
|
習い事 |
2.7%
|
10.0%
|
表4は表3−2の「まじめ」層と「ふまじめ」層の「熱心度」率の差を「他者」「自己」別に集計したものである。授業関係の3項目(語学・語学以外・ゼミ)いずれの熱心度に関しても他者からの期待の方が、自己認識に比べて、熱心度の向上に影響が強いことが見て取れるだろう。逆に習い事に関しては、自己認識の方が強く効いていることもわかる。
後者の結果は常識に即したものであろう。「人知れず」自己達成に向けて努力をする、というイメージである。他方前者はどうであろうか。「授業に出ていたりするからまじめに思われているかもしれないけれど」というイメージ。これも確かに常識的な結果ではある。本当のまじめさは授業への熱心さとは別にあり得るはずだ。その通りである。しかしその「本当のまじめさ」とは何なのか。表3−2を見ても、自己認識に限ってなお、「まじめ」さは授業に対する熱心さに、具体的な活動として強く表出されているのである。
結局、「内面化」した(自己認識としての)まじめさは、授業参加の場以上に己を表出する場を見いだせず、しかもその場(授業参加)は他者期待によって先導された場なのである。言い換えれば、他者期待と関連の強い活動こそが、他に「真に」まじめな活動があるのではないかという疑いを内包しつつ、(彼/女らにとって)「真に」まじめな活動となっているということなのだ。
「まじめ」な心性の発露の場たる授業への熱心さにかき立てられるのは、「まじめな私」ではない。「人からまじめだと期待されていると思っている私」なのである。ここには「真」なるまじめさに関する観念は必要がない。
まじめさとは、その観念が伝達され、内面化されることによって保持されるものではない。「他者」からの常なる呼びかけに応えつづける(まじめであると期待されていると感じ、かつ望ましいと考えられていると思っている活動に熱意を持つ)ことにおいて、「私」はまじめなのであって、そうした表出形態においてまじめさは存在しているのである。