ブルデューにおける「相対的自律性」概念

問題意識の所在

ブルデューとマルクス主義との関係はどこかしら疎遠な関係にある。ブルデュー自身はマルクスについて何度も言及しているし、マルクス主義もブルデューの理論の位置づけをしばしば試みているにもかかわらず、両者の議論は互いに一方的で、実りあるものとはなっていない。

もちろんブルデューとマルクス主義との間には共通する関心がある。それは社会構造と個別的な諸制度とがいかなる関係を取り結ぶか、権力関係がいかに具体的な場面に表象されるか、という事に関る事柄である。

さてあとで見るように、ブルデューのマルクス批判は必ずしも妥当なものとは言いがたい。またマルクス主義の側のブルデュー批判もまた、ブルデューを一面的にしか捉えていない。しかし先の事態を説明するに際し、両者ともにある共通のキーワードを使っている。それは各構造間の「相対的自律性」という概念である。本稿ではこの概念に着目する。まずはここから、ブルデューとマルクス主義双方に投げかけられた「逆機能主義」という批判が必ずしも妥当しないことを示す。次に、ブルデューとマルクス主義は、それぞれこの概念をいかに用いているのか、どこが等しく、どこが異なっているのか、をみることで、ブルデュー理論の独自の意味を見出すとともに、逆にそこからくる問題点をも指摘したい。

葛藤理論

まずは教育社会学における葛藤理論のおさらいから始めよう。葛藤理論とは社会化による社会の進歩を軸とする技術機能主義のアンチテーゼとして位置づけられる。さらに言えば、この名称にはそれ以上の何も意味していない。葛藤理論と総括して呼び得るような議論が、技術機能主義への経験的な批判を軸として、大きな流れを創ったことは事実である。しかし、「葛藤理論」というまとめかたは理論的にはほとんど無内容である。なぜなら「葛藤理論」に括られた議論のなかには、マルクス主義のながれとウェーバー派の流れが混在しており、それらはひとくくりにできるほど一貫したものではないからである。

葛藤理論を一つの理論としてみてしまえば、機能主義の裏返し、すなわち機能主義の同一の水準にある議論として立ち現れるよりない。すなわち機能主義が社会全体の進歩(すなわち一般利害)に貢献する知識、能力が学校において教えられると主張するのに対して、特定の階層の利害に見合った知識、能力が学校において教え込まれると主張し、機能主義がその能力に応じて人々は社会的に配分されると主張するのに対して、その「能力」なるものが特殊な利害に沿ったものに過ぎないのだと切り返すといった具合である。

上記のまとめかたが全く的外れというわけではない。初期ボールズ・ギンタス(マルキスト)の議論のなかにそれ以上に理論的意義を読み込むのは難しい。そしてそれとは理論的立場が異なる筈のコリンズ(ウェーベリアン)がボールズ・ギンタスを批判したのは、高々ボールズらの階級概念の狭さ(階層の区分には文化的な要因も加味しなければならない)についてにすぎない。

結局、教育社会学における葛藤理論とはボールズ・ギンタスやコリンズの議論およびその亜流の議論のことでしかない。以上のような「葛藤理論」は機能主義と理論的には同じであるということを整理して述べておこう。

本稿での主たる関心は、社会構造と個別的制度とがいかなる関係にあるか、という問いかけである。機能主義、葛藤理論はともに、この質問に対し、同じ論理で答えようとしていた。それは構造と構造を繋ぐ担い手としての個人を設定し、さらにその個人を担い手たらしめるメカニズムとしての構造の内面化(=社会化)を想定するというものである。両者の違いはただ、所与の社会構造にたいする価値判断の違いに過ぎない。結局理論的には、「葛藤理論」なるものは存在せず、ただ機能主義内部に二つの実践的立場が存在していたに過ぎないのだ。この枠組みのなかに「マルクス主義」を自認するボールズ・ギンタスまでもが含まれてしまったことは知識社会学的な関心をかき立てられはするが、本稿の関心からはずれる。

以上のような「機能主義」的理論の特徴を二つにまとめておこう。(1)ある特定の構造を自明視し、特権的なものと見なして、(2)それが所与の個人に内面化(注入)される、という論理を取る。つまりここでは社会構造の「中身」とそれを受け入れる個人の「書式」が前提とされていて、諸々の社会的事象はこの両者の関数として示されることになる。

こうした議論は社会構造と個人という二つの本質的なるものを想定し、しかもそのありさまを語ってしまうことになる。しかし社会構造とか個人とかは、社会学にとって「今から」観察されるべき対象ではないのか。われわれは「本質的なるもの」を想定すること自体は直ちには棄却しない。「本質的なるもの」を想定するのはだめだというのもまた、一方的な価値判断につながるとも言えるからである。しかし、すくなくとも本質的なものはカクカクシカジカの性質を持っていると語ることはやめることにしよう。

マルクス主義

マルクス主義においては一般に、「社会構造」を現実的土台、「諸制度」を上部構造と呼んでいる。そしてこの土台と上部構造との関わりがマルクス主義においても重要な論点であるわけだ。で、唯物論としてのマルクス主義の取る前提は、「現にあるところのものから出発する」ことになる。

たとえば貨幣制度、法制度、教育制度その他諸々の制度は現に立ち上がっているし、観察可能である。

他方、社会を物質的に支えている協働関係もすぐれて現実的なものと考えられる。

この両者の関わりを説明するに際しての最初の説明は以下のようなものである。つまり、唯物論の立場からして、より本質的なるものは後者の土台の方であり、それゆえ、後者が前者の原因となっているはずだ、というものである。

しかし、この因果関係の説明は完結していない。ある構造が別の構造を規定するというとき、この両者がいかに結び付いているのか、この両者の結び付きを必然的なものにし、支えているのはいかなる存在なのか、ということが説明されなければならない。

アルチュセールはこうした構造と構造の間の因果関係についての説明を3つに分類して整理した。機械論的因果律mechanistic causality、表現型因果律expressive causality、構造論的因果律structural causalityである。

この中でアルチュセールが重視するのは構造論的因果律である。なるほど構造主義を経た我々にとって、「構造論的」といわれると因果関係を説明するに際しても、実体的な何物かを想定せずに済みそうな気がする。実際、構造論的因果律のポイントは因果律を外在的ななにものかにゆだねることを拒否し、「構造の全存在が、その結果の中にある」と主張する点にある。隠れたところにあるなにものかが原因となって、ある結果を生み出すのではなく、諸構造間の関係それ自体が何らかの結果をもたらしているというのだ。

つまりこの考え方のもとでは、構造と構造のあいだに何らかの関係があるというのは、その各々の構造を含む諸々の構造の関係全体から説明されることであって、個々の構造を取り出すだけではその関係は説明できないということである。

こうなると、ある構造が別の構造に従属しているというモデルは棄却される。二つの構造を取り出してきたとき、この二つの構造に間には因果関係は見いだせず、互いに自律しているように見える。しかし両者は全体の中で関連づけられている。これがマルクス主義の「相対的自律性」である。

伝統的なマルクス主義においては、土台と上部諸構造との因果関係が問題であった。ここでは、土台とは経済的構造のことであり、経済とそれ以外の構造との関係が問題なのである。ここからマルクス主義は経済還元論だとか、それに対して文化的政治的な上部構造自体の分析が重要だとか、さらにその上部構造が経済構造にも反作用を及ぼすとか、それにもかかわらず経済構造が究極的には規定しているのだとかいったもの言いがなされてきた。「経済」の規定性を重視すれば、経済的なコードを特権化する一元論だと批判され、しかし経済以外の諸構造の自律性を重視すれば「マルクス主義」とそれ以外の理論との違いがなくなってしまう。

このジレンマは、「経済とそれ以外」という枠組みのもとでは解決不能である。いくら「それ以外」の諸構造の「経済」的構造からの「相対的自律性」を語ってみたところで、「それ以外」の構造は「経済」的構造からある程度自律しているが、ある程度従属してもいるという内容のないことを語るしかない。こうした枠組みのなかに、アルチュセールから学んだと主張する多くのマルクス主義教育社会学者が入る。しかし、経済対それ以外という二者間に因果関係を見出すこうした考えかたがアルチュセールの考えと対立するものであることは明らかである。われわれはもちろん解決不能なジレンマをもたらすかかる「マルクス主義教育社会学」とはきっぱりと決別する。相対的自律性概念を用いるにあたり、学ぶべきはアルチュセールであって、その亜流ではない。

そしてこうしたジレンマはマルクス主義の専売特許ではない。マルクス主義的な経済一元論からの脱却、あるいはそれへの批判を、「それ以外」の構造を重視することで可能にしようというこころみにおける各構造の自律性もまた相対的なものにならざるを得ないのだ。なぜなら、もし自律性が完全なものであったなら、構造と構造のあいだの関係を考えること自体が無意味だという事になるからである。そういう議論を行うのであれば、そもそも最初から「経済」対「それ以外」という枠組みを採る意味がない。マルクス主義者ならぬブルデューもまたこのジレンマと無縁ではない。

さて、構造論的因果律、相対的自律性とセットになるべき重要な概念は「表象representation」である。これは経済的構造を含んだ諸々の構造が結果として顕現されるその様式を指示する概念、構造論的因果律のもとで全体と諸構造をつなぐ概念である。先にアルチュセールが批判した表現型因果律と紛らわしいが、表現型因果律は全体がひとつの統一的な性質を持ったものであることを前提としていて、それが個別的に顕現されたものだという論理を取る。それに対して、構造論的因果律のもとでの「表象」概念における全体とは、顕現した結果の総体としてしか存在していない。表象されたものは結果であるが、その結果が全体を形作っているのであって、全体が結果の原因ではない。

この表象概念がとりわけ重要なのは、それが意識に現れた諸現象と意識に現れざる「全体」との関係を示しているからだ。マルクスが物神崇拝の議論の中で述べた商品が使用価値を持つという意識は商品の価値システムを支える生産関係の結果であって、その必要条件ではない。もっと一般的に言えば、意識的なもの(権威、正統性など)が支配関係を可能にしているのではなく、これらは当該社会構成体における権力関係に伴って表象されるものである。ここにマルクス主義理論とある意識形態の個人への内面化をある社会関係の再生産の原因あるいは必要条件とする「機能主義」理論との違いをはっきりと見て取ることができる。

以上、本稿の主題たる構造と構造の関係について、マルクス主義の取る立場は、(1)問題となる二つの構造を取り出した場合には両者は自律的なものとされ、そのつながりは諸構造の連鎖としての「全体」を視野に入れて初めて見いだせるものであるということ、(2)構造と構造をつなぐ「媒介」として個人の意識内容、「中身」を設定しないこと、の二つを挙げておこう。

構造論的因果律の論理を支える相対的自律性と表象という以上の二つの概念による説明を実はブルデューも採っている。以下、ブルデューの議論を見ていく。

ブルデュー

ブルデューはSocial Space and the Genesis of 'Classes'という論文の中でマルクス主義理論を批判している。この批判は次の二点にまとめられる1

a. 「即自的階級」から「対自的階級」への移行の論理を必然的、機械的なものと見なしている。
b. 社会世界を一元的なものと見なしている。

この両者をさらにまとめれば、表象される空間(象徴領域)の構造の自律性をマルクス主義が無視し、経済的な構造に還元してしまったという批判である。しかしこうした経済還元論からブルデュー自身が脱するのに用いた論理は「表象」と「相対的自律性」であり、その限りでアルチュセールの論理と大差はない2というよりアルチュセールの論理の借用であるというべき)。経済還元論であるという批判を今更マルクス主義に対して投げかけたところで何ら生産的ではない。したがってブルデューとマルクス主義の違いをブルデューのこの程度の批判の水準でまとめても無意味である。それよりブルデューがマルクス主義と同じ概念を用いながら、どこに彼のオリジナリティを出したのかが問題なのである。

ブルデューのオリジナルな概念といってまず頭に浮かぶのが「ハビトゥス」概念である。そのほかにも「プラチック」「象徴権力」「象徴資本」などいろいろあるのだが、そのほとんどがマルクス主義の枠内でもそれなりに了解可能である。しかし「ハビトゥス」概念には機能主義的な「個人への内面化」の論理を感じ取ってしまう。社会空間上の位置に基づいたハビトゥスが形成され、それが諸々の界でのプラチックを規定する…。構造と構造の媒介に個人ならぬハビトゥスが設定されているわけだ。しかもブルデューは構造と構造のあいだの相対的自律性を語るので、この媒介は完全な形で行われてはならない。

そこでこの自律性の説明にハビトゥス自体の自律性を持ってきたくなる。ハビトゥスは完全には外的な構造には従属していない。それ自体独自の論理を持っており、構造変革の契機も持った存在であるので、それによって媒介される構造と構造の間にはずれが生じる…。しかしかかる説明はハビトゥス概念を無内容なものにしてしまう。ハビトゥスは一部構造化されており、一部自律性を持っている。これは「相対的自律性」概念にはらむジレンマをハビトゥスにそっくり移植しただけで、構造化されている部分と自律している部分との関係が何も述べられない以上、何ら新しいことを述べてはいないのだ。ブルデューのテクストのなかには、このように、さまざまな説明されるべき事柄をハビトゥスというブラックボックスのなかに押し込んで、解消してしまっているような印象を与えるものが存在することは事実である。

しかし、ブルデューの構造間の「相対的自律性」の説明には別の説明が与えられている。それは実は、アルチュセールのそれとそれほど異なったものではない。固有の論理を持った各界の総体として社会空間が設定されている。各行為者は社会空間上に位置づけられ、その地位が各界での行為者のプラチックに「表象」される。「全体」との関係において各界は従属しており、実際に立ち上がっている(観察可能な)界と界の間は自律している。先にマルクス主義の採る論理として二つ挙げたもののうち、(1)はブルデューにおいても踏襲されているのである。

違っているのは「全体」と諸構造をつなぐ論理である。ブルデューの議論においては、この「媒介」に、先にも述べたように、ハビトゥスが設定されているのである。この概念は相対的自律性の説明には何の役にも立たないが、「全体」=社会空間と諸構造=各界の関係についての説明を、たしかに、与えてくれる。各行為者が各々の界での闘争の成果として獲得した諸資本の総量とその構成比で社会空間上に位置づけられる。そしてその社会空間での力関係が各界の闘争のベースになる、というわけである。この説明は、「媒介」について語らなかったアルチュセールの議論よりわかりやすい。

しかしこの説明のなかには循環論法が紛れ込んでいるように思える。社会空間での位置が各界での闘争の結果を規定し、闘争の結果たる資本の総量と構成比によって社会空間上の位置が決まる。この循環の中をハビトゥスが巡っている。この循環論法は、たとえばハビトゥスといった、一定の構造を持った存在が、たとえば社会空間と界といった、二つの構造の論理を等しく支えるという説明を採る限り避けられないものである。構造が二つあるというからには、この両者は別の論理によって成り立っていなければ意味がないのである。それは個別的な構造同士のレベルでも、各構造とその総体というレベルでも同様である。

しかし、われわれは新たなジレンマを抱えることになる。構造とその総体としての全体性が、異なった論理を持っている。全体は構造の総和以上の存在である。しかるに全体「固有の」性質は観察不能なのである。これは、「全体」に「本質的なもの」としての性格を与えることになってはいないか。アルチュセールはそれをかたくなに拒否しようとしているのだが、その代替案がきちんと出されているのかどうかは未だよく分からない。

したがって、ブルデューへの批判は本稿では完結しない。それより本稿での主張は、ブルデューの「相対的自律性」についての説明は、アルチュセールのそれに多くを負っていること、それゆえたとえば「文化界」と「経済界」といった二つの個別的な構造を取り出してきて、後者の前者への規定性と前者の後者への反作用といった二つの構造間の相互作用を述べることで、「相対的自律性」を説明したつもりになっている諸々の議論(マルクス主義、非マルクス主義の議論を問わず。ブルデューもこうした枠組みの中で理解されていることがある)とははっきりたもとを分かつものであること、である。

1 このようなブルデューのマルクス主義への批判がアルチュセール批判になっていると説明されることがある(例えばWilkes, 1990)が、ブルデュー自身のつもりはどうあれ、そうはなっていない。この批判が妥当するのはロシアマルクス主義か、せいぜい先の「マルクス主義教育社会学者」ぐらいに対してのみであろう。
2 もっとも「表象」の使い方は随分違っている。ブルデューは表象を行為者の主観のレベルで捉えているが、先にみたように、アルチュセールはある具体的なシステムが立ち上がる際の客観的な論理構造の転換を指示したものなのである。
それに対して「相対的自律性」の概念は、後で見るように、アルチュセールの論理をほぼ踏襲している。

参考文献

Althusser, Louis & Balibar, E. 1965, Lire le Captal=権寧、神戸仁彦訳、『資本論を読む』、合同出版、1974.
Bourdieu, Pierre, et Passeron, Jean-Claude, 1970, La reproduction, Minuit=宮島喬訳, 『再生産』, 藤原書店, 1991.
Bourdieu, 1979, La distanction, Minuit=石井洋二郎訳, 『ディスタンクシオンTU』, 藤原書店, 1990.
Bourdieu, 1984, Espace social et genese des "classes"=Social Space and the Genesis of 'Classes', Social Science Information 24 (2), 195-220, 1985.
Chris Wilkes, Richard Harker, Cheleen Mahar(eds.) An Introduction to the Work of Pierre Bourdieu: The Practice of Theory, The Macmillan Press, 1990=滝本往人他訳、『ブルデュー入門』、昭和堂、1993.
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