再生産論において、しばしば「相対的自律性」という概念が鍵となる。もともとはアルチュセールによって唱えられたこの概念は、アルチュセールを引き継いだマルクス主義教育社会学のみならず、再生産論のもう一方の支柱たるブルデューにおいても重要な概念となっている。この概念は、再生産論がそのスタティックとされる側面を批判されるなかで、「変動論的な視点の導入によって再生産論を再編しようと」 いう試みのなかに位置づけられる。
しかし、「相対的自律性」という概念は曖昧な概念である。この概念はそれ自体の中にパラドキシカルな意味を含んでいる。自律しているが、その度合いは相対的なものにすぎない、すなわち実は従属している。いったい自律しているのか、従属しているのか、そもそも「なにが」「なにから」自律ないし従属しているのか、この概念の持つ意味は論者の違いのみならず、一人の論者においても多義的であるようにおもわれる。
従ってこの概念は大変に「便利」な概念である。現実の多様性を過不足無く表現してくれそうでもあるし、また政治的にも不平等の存続を強調しつつ、変革の可能性を見せてくれる。しかしかかる「便利」さが概念の優秀性さによるものでないことは明らかである。本報告は、「相対的自律性」概念のかかる空疎さを指摘し、さらに、自律と従属の二側面を同時に語ることができるということ自体に意義をみいだすことに疑問を呈する。
本報告は、以下の状況を踏まえている。再生産論に自律的場面を導入する議論は、再生産論の持つ決定論という「欠陥」を克服するものとして、70年代から一貫して今に至るまでなされているということ。そして、こうした説明への疑念が既にたびたび投げかけられているということ 。
本報告は、自律性と従属性を視野に入れた議論自体を批判するものではない。ただこの両側面をそのまま並列的に並べて、このパラドキシカルな部分を概念のブラックボックスに押し込めてしまいがちであることを指摘して、そうではない議論の方向性を示唆したいのである。
以上の目的のために、本報告は
再生産理論の中に自律性を持ち込んだ議論としてネオマルクス主義を採り上げ、その帰結と問題点を確認する。
この問題意識を共有するブルデューの議論の、別の議論の方向性とその論理を抽出していく。
もともとは経済学の領域で主に用いられてきた「再生産」というタームが、社会学の中に持ち込まれてくる契機となったのは、アルチュセールの「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」であろう。哲学者アルチュセールが、マルクス主義の中には「労働力の再生産」という概念が欠けていたと主張するところから、イデオロギーの重要性、上部構造論へと議論を進めていくのをうけて、マルクス主義において「上部構造」の役割の重要性がクローズアップされてきたのである。こうして、「文化」、「教育」がマルクス主義の視野に入ってくるとともに、マルクス主義以外の文化、教育を論じる議論の中でも「再生産」という概念を重視する「再生産理論」がポピュラーなものとなってくるのである。
こうした社会学における再生産理論の課題は多様である。マルクス主義においては、生産関係・階級構造と文化的上部構造の相互連関の問題として議論が立てられるし、文化的なものは行為者の日常的な経験に従属するものと考えれば、客観的構造と主観的事象の相互連関の問題として議論が立てられることになる。
いずれにせよ、ここでのキータームは二つの構造、系列の相互連関ということになる。この両者の関係、相互に自律しているのか、一方が他方に従属しているのか、がここでの課題となる。この問題は、経験的な次元でも議論となる。一方の系を収入などで表現し、もう一方の系を学歴達成などで表現して、両者の計量的な相関を見る、等の議論である。しかし、この議論をいかに詰めても尚、解釈の違いによる議論の余地が残るだろう。機能主義とマルクス主義が対立したのもこの解釈を巡ってであり、この次元でこの議論を繰り返しても水掛け論に陥るだろう。重要なのは、自律しているとも従属しているとも解釈可能な「現実」をいかに説明するか、である。
アルチュセールによって使用された「相対的自律性」概念は、まさにこの「現実」を説明するためのモデルとして、再生産論の中に持ち込まれてくることになる。もっとも再生産論のなかでも、マルクス主義とブルデューとでは、「相対的」と「自律性」の間の力点には若干違いはある。マルクス主義においては、本来従属関係にある上部構造の持つ自律的要素をいかにモデルのなかに組み込むか、として問題が立てられるのに対して、ブルデューにおいてはもともと自律的な各領域が、全体として何らかの対応関係を持っているのではないかとして問題が立てられる。このように微妙に異なる問題関心から両者は出発するが、課題はほぼ共有されている。順に見ていこう。
マルクス主義において、アルチュセールの問題を引き継いで、教育システムと階級構造との関わりを追求していった出発点としてボールズ・ギンタスの「対応理論」を挙げることが出来るだろう。「対応理論」とはまさにその名の通り、教育システムと階級構造の一致点への着目に重点を置いた議論であり、この二つの構造を、階級構造のパーソナリティ特性への内面化の論理でつなげていく。その一方で、階級構造からの教育システム或いはパーソナリティ特性の「自律性」への言及は少ない。ボールズ・ギンタスの理論が、マルクス主義・非マルクス主義双方からたたき台として批判されたのはまずこの点に関してであった。
しかし、元来は階級構造の優位、上部構造がそれに「従属」している点を強調する立場のマルクス主義が、いかなる論理でもって「対応理論」を批判したのであろうか。ここには微妙な議論のずれがある。ボールズ・ギンタスは、アルチュセールの上部構造「再評価」を導きの糸として、今、上部構造たる教育システムが階級構造の再生産に寄与している(ベタベタの経済還元論的マルクス主義ではそういうことが考慮の対象にすらならない可能性がある)そのメカニズムを説明するモデルとして、対応の原則を主張した。それに対して、批判者たちは、変革の可能性・期待・その契機として「自律性」をモデルの中に入れることを主張したのだ。
しかし、ボールズ・ギンタスが軽視したと非難されるこの変革の可能性は、ボールズ・ギンタスのモデルから理論的には必然的に導き出されるのにも関わらず、ボールズ・ギンタスが黙殺した、という性質のものではない。彼らはただ、現実を見なかったのだとして批判されているのである。彼らの過ちは、理論的なものではなく、現状認識上のものとされるのである。こうなるとマルクス主義の自律性論者たちの対応理論に対する優位性は、現実をより細かく見た、という点にあることになる。しかもその細かさたるや、システムとして現に存在しているという「対応」とは全く水準の異なる、可能性としての潜在的な存在までも見逃さない、というものである。
こうして様々な現実をモデルの中に取り込んでいけば、矛盾した要素をも包括したモデルができあがるであろうが、これはモデルとしての完成度を増した、ということにはならないだろう。モデルとは現実のある側面を切り出して、説明するものであるとするならば、対応理論の現実の切り出し方のほうがより規範性があるといえるのである。「自律性」は、それが潜在的なものにある限りにおいて、対応論者の「対応」に肩を並べるほど現実の中に根付いているものではないのである。それを同列の重みを持たせたのは、変革の可能性まで語ろうとする彼らの政治的スタンスに他ならない。彼らにとっての「自律性」とは、可能性の水準での議論、すなわち、仮に社会が変革されるとしたら、いかにしてか、という問いに対する解答として、主体性をもった行為者による上部構造(国家、教育システム)からの変革の必要性と可能性を説くためのものだったのである。ちなみにこの点に関しては、対応理論は実は全く交錯する必要がない。対応理論とは現状認識の理論であって、可能性について言及する必要は特に持っていないのである。
結局、自律性の取り入れは、対応理論に対して、何らかの前進を果たしたのであろうか。対応理論が一面的であるという欠陥を持っているとして、それに対して自律性論者は、現実の別の側面を、実証的・理論的必要性からではなく、もっぱら政治的必要性から持ち込み、それをモデルの中に継ぎ足したに過ぎないのである。そしてそのモデルのなかでは自律性と従属性という二側面は、ただ並列的に並べられて述べられているに過ぎない。
これが「相対的自律性」概念のひとつの形である。これでは現実の多様性をそのまま記述した以上の意味を持たず、何らの新しい説明を与えてくれるものではない。にもかかわらず、これをいったん概念として定立してしまえば、この語を用いただけで何かが説明された装いを帯びてしまう。本報告は、かかる曖昧な意味での「相対的自律性」を概念として使うことから訣別する。
さて前に述べたように「相対的自律性」概念の指示する問題はマルクス主義にとどまらない。以下、そのもう一つの形態としてのブルデューの議論を取り上げる。ブルデューの議論もマルクス主義と同様の難点を抱えうるが、彼はいかにその問題を扱うのかを中心に見ていく。
ブルデューの理論はさまざまな議論の流れの中に位置づけられるが、その中を貫いている問題関心の一つとして、「主客二元論」図式の乗り越えがある。ここを起点として彼の構造主義に対する懐疑、あるいはマルクス主義的再生産論への批判はなされている。
この議論を進めていくなかで、ブルデューが「相対的自律性」概念に関わっていく過程を見いだすとともに、この概念を説明するための三つのモデルをブルデューの中から取り出す。
ブルデューの「主客二元論」図式の乗り越えは、基本的には客観主義的な現実の存在を承認しつつ、その中に行為者の現実についての表象(主観主義的な現実)を統合することによってなされる。マルクス主義は、行為者の表象のもつ独自の意味・効果を軽視した議論であるとして批判される。ここにブルデューの理論において、現実は二重性を持ったものとして立ち現れてくることになる。こうした現実における意味のずれ−主観的な意味と客観的な意味−を一方に意味に還元することなく説明しようとする試みが、「主観主義と客観主義の見かけ上の対立」の克服なのである。
さて、彼はいかなる手続きによってこの克服をなしていくのであろうか。ブルデューは客観的な現実として「構造」あるいは「経済的・社会的条件」をたて、主観的な現実として行為者の「一次的経験・表象」そして行為者のプラチックをたてる。ここにブルデューにおいては異なった論理を持った二つの世界が立ち上がっている。ただしその指摘だけでは価値はない(例えばデュルケームはそんなことは当然承知の上であえて主観的世界を捨象したのだ)。この二つの世界の連関をいかに説明するか、に彼の議論のオリジナリティがかかっているのだ。
二つの世界を立ち上げ、一方の側への還元を拒否した以上、この二つの世界は相互に自律していると主張する必要がある。また、対立の克服を目指す以上、両者のずれを理論的に統合する必要がある。ここにブルデューの理論の中に「相対的自律性」の問題が立ち上がるのである 。
ブルデューにおいては主体的、主観的行動と客観的構造の連関についての議論を行為者と「界」、社会空間の連関として説明していく。
ブルデューの「界」概念は、行為者がプラチックを産出する場であり、主観的な表象の次元にありながら、社会的な諸条件に束縛された場であり、いわば主観的世界と客観的世界が既に統合された空間である。とはいえ、これでは説明したことになっていない。主観的な論理でこの空間を記述するのは、定義上表象されているのだから、可能である。問題は、この主観的な論理の限界を画定する客観的な論理をいかにこの空間の中に持ち込むか、である。
この客観的な構造をブルデューは社会空間と置く。この社会空間は、固有の論理を持った各界の総体として設定されている。各行為者は社会空間上に位置づけられ、その地位が各界での行為者のプラチックに「表象」される。社会空間との関係において各界は自律しており、実際に観察可能な界と界の間は自律している。
さてこのとき、社会空間と界とのつながりはモデルとしてどのように表現されうるであろうか。もし、界が社会空間の表象形態であると考えるならば、界は社会空間に究極的には規定されているのであり、社会空間は特権的な構造として設定されることになる。そうすると界の自律性はたちまち「誤認」の産物となり、決定論的な議論になってしまう。しかし、ブルデューは周到にそこから抜け出す。ブルデューは、社会空間を界の集積として、理論上見いだされる概念的な産物であると見なすのである。
「…社会空間は、それが図式の形で示されるということだけからも充分わかるように、ひとつの抽象的表象である。つまりそれは特殊な構築作業を行うことによって作り出される…ものなのだ」
このようにブルデューは、社会空間を客観的な実在として先験的に設定することを拒否する。そして、社会空間をプラチックによって構造化された界の集積によって表現されるものとして概念化するのである。
この界同士は固有の論理をもった自律的な構造である。しかし、この自律性は、統計的に把握された職業・収入や学歴・文化的選好といった資本量の対応関係によって、相対的なものに過ぎないことが確認されるのである。そうなると、課題はこのように統計的に確認された対応関係をいかに説明するか、自律性の限界をいかに説明するか、「抽象的表象」をいかに客観化していくか、である。
「界」におけるプラチックの自律性の限界を定めるのが、心的諸傾向の体系としてのハビトゥスである。
ところが、ここには依然、困難がある。ハビトゥスは一方では客観的・社会的諸条件が内在化されたものとして、その限界内でしかプラチックを生みだし得ない、構造化された構造である。しかし、この概念には、同時に決定論からの脱却(構造化する構造としての側面)も託されている。
このように、ハビトゥス概念は、「主客二元論の克服」、「相対的自律性」を説明する概念として位置づけられていくことになりうるだろう。この解釈の場合、たとえば「こうした(主体的な行動に注目することによる変化の視点と、その行動が結果として構造の維持につながるという)論理は、諸個人の行動を支える内在的な規範システムとしてのハビトゥスが『構造化する構造』としての側面と『構造化された構造』としての側面を併せ持っていることに由来すると考えられる」 といったように、ハビトゥス概念の二重性に、この問題の解決がゆだねられるのである。こうした理解のもとでは、われわれは再び、自律性と従属性が折衷的に並べられる議論に連れ戻されはしまいか。ブルデューのテクストの中には、このように説明されるべき様々なことがらをハビトゥスというブラックボックスに押し込んでしまっているような印象を与えられることは事実であろう。
実際にはブルデューの記述は、プラチックについての記述を丹念に積み上げていくことによって、多様な界のロジックを摘出しつつ、その連関を述べていくことで、社会空間を「特殊な構築作業を行うこと」で概念的に作り出していくものである。従って社会空間上の位置によって規定され、ハビトゥスを構造化する「階級の存在状態」もまた、構築的な概念である。そしてハビトゥス自体が、プラチックの一定のまとまりによって、構築された概念である。つまり、ブルデューの再生産論は、確かに
という規定関係を語ってはいるのだが、各々の概念はプラチックの実証的な研究をベースに概念的に構築されたものなのである。ここにブルデュー理論の難しさがある。彼は一見先のプラチック産出過程を現実的、実体的な過程であるかのようにかたる。しかし、既に見たように、出発点たる社会空間を実体視して、自律性の論理が彼の理論から「消える」瞬間に彼はその実体視を戒め、界とハビトゥスによって概念的に構築し直すが、そのハビトゥス概念もまた、プラチックの統計的な規則性から構築された概念なのである。
このようにして、ブルデューは客観的な構造のアプリオリ性を徹底して排除して、この構造をつねに理論的に構築する作業を繰り返していくのである。ブルデューはこの作業を<客観化の客観化>と呼ぶが、これは客観主義のさらに外に立つことではなくて(そうならば<客観化の客観化>の客観化という無限の繰り返しを要請することになるだろう)、行為者のプラチックの「一次的経験・表象(=主観的世界)」の分析を通じて、客観的な構造を概念として構築していくことなのである。
このとき主観的世界と客観的世界、或いは「自律性」と「従属性」は、現実の並列的な二側面として考えられてはいない。客観的構造は、現実の中に既にあるのではなくて、一次的経験・表象の分析を練り上げていくなかで、構築されるものとして考えられているのである。
先にも述べたように、「相対的自律性」概念は、アルチュセールが生産した概念であった。そしてこの概念は、そもそも現実の2側面を語るための概念ではなく、ブルデューが客観的構造を理論上の構築物として捉えたのと同じ理論枠組みを語るための概念だったのである。ブルデュー自身はそうは語らないが、ブルデューはアルチュセールが哲学的に示した理論枠組みを、社会学の中に持ち込んで、自身の議論を展開していったといえるのである。これはアルチュセールの表面的な結論をそのまま持ち込み、また自らそう宣言するネオマルクス主義的教育社会学とはある意味で好対照をなしているといえる。
アルチュセールは、各々自律した要素(審級)の相互規定的な関係を、構造的因果律という概念によって説明していく。この概念は、要素と要素の関係を直接的な因果関係、従属関係によって捉える機械論的因果律、諸要素の背後に全体を想定し、その全体の表出として各要素を関連づけていく表出論的因果律に対する第三の因果性として説明される。この因果律のもとでは、全体を等質的な性質を持つものとしては考えられていない。こういう全体性の有り様を、アルチュセールは「複合的全体性」と呼んだ。
ところが、この「複合的全体性」という概念が難物である。各審級は各々異なった性質を持っている。この各審級の複合体として、全体は存在する。しかし、各審級の性質は構造の効果として現れているとされるのである。
「複合的全体性」は、各審級を規定する特権的な構造なのか。或いは諸審級の集積として事後的に見いだされるものなのか。前者ならば、自律性は擬制であるという従属モデルと重なることになるが、まずなにより、自らが批判した表出的因果律との違いが不明確になる 。後者ならば、ブルデューの社会空間概念と事実上重なることになる。
もしアルチュセールが、複合的全体性と諸審級との関係を、この枠組みで捉えたのだとすれば、この議論もブルデューと同様の課題を抱えることになる。各審級は、いかに関係づけられているのか。しかもブルデューと異なり、アルチュセールは実証的な研究を行っていないのだから、諸審級の対応関係を実証的に語ることもできない。またアルチュセールは要素と要素をつなぐ媒介を置くことを機械論的因果律批判のなかで行ってしまっているので、ハビトゥス概念のようなものに頼ることもできない。このままでは、アルチュセールは直ちに自律性と従属性の矛盾に突き当たることになるだろう。
しかし、アルチュセールは、現実の諸システムの対応関係を説明するために、各審級の相対的自律性と複合的全体性という概念を生産したのではなかった。アルチュセールにとっての概念とは、社会のモデルではなく、理論上の問いの構造の転換を可能にするものだったのである。
アルチュセールは、<経済学>が観察可能な与件の組み合わせによって把握される平面的な空間を対象としたことを批判し、それとは全く別の問いの立て方をマルクスがしていたということを論じるなかで、この概念を用いた。つまりここで問題にされているのは、表象の次元によって見いだされ、分断された「界」の次元でモデルを完結させようとする問題設定自体なのである。
こうした問題設定がアルチュセールによって批判されるのは、それが現実を正確に反映しないからではない。そうではなくて、全く理論的なレベルで問題にされるのである。つまり、「一与件の連続において」把握されるような平面的な空間は、この与件が問いに付されるときに、理論上放棄されることになるのである。つまり、この与件自体を「概念」として構築する理論的な空間が想定されるということであり、理論上の空間は、こうしたさまざまな空間の連鎖によって、構築されていくことになる。こうして諸現象の場はもはや平面的な空間としてではなく、複合的な空間の一局面として捉えられることになるのである。
従って、アルチュセールにとっての相対的自律性とは、現実の中に社会構造から自律している要素が存在しているとか、従属している要素が存在しているとかいう議論とは関係はない。理論的に切り出された諸審級は固有の論理・概念を持ってひとつの平面を形作っているが、その論理・概念はつねに別の空間によって問いに付され、構築されねばならない。このような形で、諸審級が結び付けられたものとして、複合的全体性が理論的に見いだされていく。このような諸審級と全体との理論上の関係が「相対的自律性」なのである。したがってアルチュセールによって退けられているのは、何よりもまず、ある領域をひとつの論理によって説明可能な閉ざされた空間として、理論上完結させてしまうことなのである。
再生産論の対象は確かに複数の構造(たとえば経済的構造と教育システム)である。しかし、その各構造を実体的に存在するもの、与件と設定し、その関係を、直接的な因果関係の枠組みで説明しようとした。つまり再生産論の対象は、アルチュセール的には、ひとつの平面的な空間に過ぎないのである。このとき、一方の構造の論理でほかの構造を規定する従属モデルは、それ自体としては整合性をもった議論にはなるだろう。しかし、それをのりこえようとして、自律的側面を議論の中に入れることで、こうしたひとつの平面の中に互いに矛盾する複数の論理をそのまま取り込もうとしたとき、ある程度自律し、ある程度従属しているという折衷的な議論をせざるを得なくなる。こうした限界は、各構造の間に生産関係・社会空間、主体・ハビトゥスなどの媒介を設定したところで、自律・従属という矛盾はその中に温存されたままである。
ブルデューは、こうした限界に陥る瞬間に、その概念間の因果関係全体を理論上の構築物として捉え返すことで、自身の理論的な体系を開かれた、重層的なものとしていく方向性を見せるのである。
再生産論において「相対的自律性」モデルが困難に陥るとすれば、その問題は、アルチュセールが理論上の対象の転換、或いは問いの構造の転換のなかでもたらしたこの概念を、そうした文脈を抜きに、逆にアルチュセールが批判しようとした枠組みのなかに持ち込んだことにある。こうしてこの概念は、多様な現実をそのまま「説明」する概念として、その実、論理的な矛盾をおしこめるブラックボックスとして使われることになるのである。