本報告が照準を当てるのは、再生産理論が決定論を逃れようとする際に陥る矛盾、に関する問題である。
再生産理論の系譜を細かく追うことはここではしないが、ここで再生産理論とは、経済的諸構造(生産諸関係・階級構造など)が再生産される際の文化的なシステムの働きかけを見ようとする議論をさすことにする。
伝統的なマルクス主義の用法では、経済的土台(下部構造)と文化的上部構造の相互作用の問題といえるだろうし、文化的なるものは行為者の主観の側に主に属すると考えれば、個人の自由の問題、あるいは客観性(客観的構造)と主観性(主観的表象)の相互連関の問題とも考えられることになる。
こうした再生産理論のなかには、既に決定論か、非決定論かの対立が内包されている。
再生産がなされるメカニズムの解明に議論の照準を当てるためには、文化的なシステムを経済的諸構造の道具として説明する方向に向かうだろう。
文化的なシステムは、経済的不平等を正統化することによって、その再生産に貢献する。
など、がその枠組みで捉えられるだろう。
しかしかかる議論は、一方で決定論・経済還元論であるとして非難されてきた。
そうした批判をふまえて出てきたのが、文化的なシステムの自律性を強調する立場である。文化的なシステムにおける行為者の主体性によって、経済的諸構造も変革されうる、というものである。この議論は確かに決定論からは逃れている。
しかし、こうした議論は、すでに再生産理論の枠からはみ出ていることになる。なぜ現に「構造」が再生産されているのか、という問いには答えてくれないからである。
非決定論的な再生産理論、ある意味、最初から矛盾を含んだこうした立場がいかにして可能か、が本報告のテーマである。本報告はその困難な道のりを、ブルデューのハビトゥス論を中心に、追うことにする。
ブルデューは、時に決定論であるという非難を投げかけられながらも、彼自身の意図は常に、行為者の主観を、いかに客観的構造に従属させてしまうことなく、再生産理論のなかに取り込めるか、にあったのである。
主観的意図と客観的構造のズレ。これには二つの含意がある。
a) b)を図式化すると以下のようになる。
この客観的構造に規定されつつ、自律性を発生させる装置、これがブルデューの「ハビトゥス」である。しかしこの試みは「失敗」に終わる。
構造には還元され得ない「表象」の自律性をいかに扱うか。この問題はアルチュセールの「相対的自律性」の概念とともに、マルクス主義を越えて「認識論」「実践論」双方にわたって問題化されてきた。ただし、「実践論」に傾斜した多くのマルクス主義理論の場合、「表象」というシステムの自律性を、社会変革の主体の自律性に読み替えて、アプリオリなものとして設定し、アルチュセールが主として問おうとした認識論的な意味合いは事実上無視されたi。
この問題こそが、ブルデューが「象徴システム」という概念で論じようとしたことである。ブルデューは「実践」をpratiqueと呼び換えて、「主体」の意志とは切り離した。そのうえでpratiqueを産出する概念として、「主体」に代わり、ハビトゥス概念を用いる。
ハビトゥス概念は「生きられた経験」をベースに記述される点で、個々の行為者の「主観」を担保に残しながら、その次元では説明され得ない客観的・社会的諸条件を説明できる余地を残した。ハビトゥスは「生きられた経験」の次元で観測可能でありながら、その背後にある「客観的構造」を照射する。そうなると以下になされるべき作業とは「一次的経験」を産出する作用―ブルデューが「象徴権力」と呼ぶ−の解明ということになるだろう。
しかし、その前に依然、問題とされるべき困難がある。ブルデューが「客観主義」「主観主義」双方を批判するのは、「客観主義」の見いだす客観的な構造と「主観主義」の見いだす諸行為者の表象との間に見いだせるズレを、「客観主義」「主観主義」双方が黙殺してしまう点にあるii。従って、問題の解決は単に一方を他方に還元する方法によってはなされ得ない。その意味では「客観的構造」を真とし、「主観」をそのゆがみとして説明しているようにも聞こえるブルデューの「誤認」という語り口は危ういものであるというべきかもしれない。
そうであるとすれば課題は、「客観的構造」と諸行為者の「主観」という二つの異なったシステムの間の関係を、再生産されるべき「客観的構造」の存在と、にもかかわらず無視し得ない「主観」の「客観的構造」からの自律とを同時に説明することだ。そしてブルデューにとってこの二つのシステムの間を媒介するのがハビトゥスなのである。
ハビトゥスは一方では客観的・社会的諸条件が内在化されたものとして、その限界内でしかプラチックを生みだし得ない、構造化された構造である。しかし、この概念には、同時に決定論からの脱却(構造化する構造としての側面)も託されている。
このように、ハビトゥス概念は、「主客二元論の克服」、「相対的自律性」を説明する概念として位置づけられていくことになりうるだろう。この解釈の場合、たとえば「こうした(主体的な行動に注目することによる変化の視点と、その行動が結果として構造の維持につながるという)論理は、諸個人の行動を支える内在的な規範システムとしてのハビトゥスが『構造化する構造』としての側面と『構造化された構造』としての側面を併せ持っていることに由来すると考えられる」iiiといったように、ハビトゥス概念の二重性に、この問題の解決がゆだねられるのである。こうした理解のもとでは、1章で述べたごとく、ハビトゥスが自明的な、すべてを説明する万能の構造として扱われてしまわうことになるのではないか。あるいはハビトゥスという性質にかんして、「自律的」を持ちつつも、客観的構造を再生産するべく、構造化されているのだ、といった同義反復的・循環論法に終わるとみなされるかもしれないiv。いずれにせよ、ブルデューのテクストの中には、このように説明されるべき様々なことがらをハビトゥスというブラックボックスに押し込んでしまっているような印象を与えられることは事実であろう。ハビトゥスとは象徴システム全体の機能がすべて凝縮されただけの概念になってしまうのである。
さらに言えば、社会(客観的構造)と個人(ハビトゥス)の二つのシステムの相互作用、こうした図式に基づく二元論の「乗り越え」の試み自体は何ら目新しいものではない。もしこうした図式こそが重要なのであれば、ブルデュー・ギデンズを待たずともパーソンズさらにはウェーバーからでも同様の図式を抽出することは何ら困難なことではないのである。
ブルデューの脱決定論のもくろみは、客観主義が対象とした「客観的構造」「客観的意味」と、客観主義が見落とした「主観」「生きられた意味」のズレをハビトゥスという概念によって埋めることによって達成される。しかし、前章で見たように、「構造」→「主観」の中間点にこのハビトゥス概念を置くだけでは、問題は解決しない。
ならばブルデューのハビトゥス概念の意義はどこにあるのか。ハビトゥス概念は一見、決定論的な客観主義理論に対する批判概念として、理論的に概念づけられているようにも見える。しかしブルデューは、ハビトゥスがいかなる手順によって、いかなるものとして形成されるのか、そのメカニズムについて、必ずしも理論的に説明しているわけではないのである。
ブルデューはハビトゥス概念をむしろ彼の経験的な研究から引き出している。職業や収入、学歴といった個人的な属性と、趣味、志向といった個人的な行動の対応が統計的、経験的レベルで「発見」されたとき、はじめてハビトゥスという概念が措定されたのである。理論的に言えば、ハビトゥスなる概念が構造の再生産を保証してくれるのではなく、逆に構造が経験的レベルで現に再生産されているという事態を「個人」の側で言い換えた概念がハビトゥスなのである。
そうであるならば、「客観的構造がハビトゥスを生みだした」という先の図式はいまだ理論的に何ら説明されたものではないことになる。これはブルデューの理論上の欠陥と言うべきであろうか。ハビトゥスという概念によって社会空間内の循環を説明しようとする限り、そうだと言えるだろう。
しかしこのモデルは客観的構造を前提としておくことを拒否したブルデューの意図をそもそも最初から裏切ってしまうことになる。だからブルデューが客観的構造からハビトゥスを説明せずに、逆に個人のレベルの、経験的な観察結果から導き出したのは、彼の議論の流れにおいては全く自然なことなのである。するとブルデューの理論においてハビトゥス概念の役割は先の図式とは異なったものとならざるを得ない。ハビトゥス概念は、客観的構造と個人的主観・表象の連関の内部にあるのではなくて、客観的構造と個人的主観・表象を含み込んだ社会空間の存在を発見し、記述するインターフェイスとしての役割を果たすことになるのである。
実際ブルデューの記述は、プラチックについての記述を丹念に積み上げていくことによって、多様な場のロジックを摘出しつつ、その連関を述べていくことで、社会空間を「特殊な構築作業を行うこと」で概念的に作り出していくものである。
さてこのとき、社会空間と場とのつながりはモデルとしてどのように表現されうるであろうか。もし、場が社会空間の表象形態であると考えるならば、場は社会空間に究極的には規定されているのであり、社会空間は特権的な構造として設定されることになる。そうすると場の自律性はたちまち「誤認」の産物となり、決定論的な議論になってしまう。しかし、ブルデューは周到にそこから抜け出す。ブルデューは、社会空間を場の集積として、理論上見いだされる概念的な産物であると見なすのである。
…社会空間は、それが図式の形で示されるということだけからも充分わかるように、ひとつの抽象的表象である。つまりそれは特殊な構築作業を行うことによって作り出される…ものなのだ。v
社会的世界は…場内部の行為の諸属性を基礎にして構築された(多面的な)空間の形態で表象される。行為者及び行為者集団はその空間の中の関係論的な位置によって定義される。vi
このようにブルデューは、社会空間を客観的な実在として先験的に設定することを拒否する。そして、社会空間をプラチックによって構造化された場の集積によって「表象」されるものとして概念化するのである。ここにおいて「表象」という概念の使われ方は逆転させられることになる。いまや「表象」されているものは、直接的な経験として与えられる「主観」ではなく、理論的な作業を通じて構築された「概念」なのである。
従って社会空間上の位置によって規定され、ハビトゥスを構造化する「階級の存在状態」もまた、構築的な概念である。そしてハビトゥス自体が、プラチックの一定のまとまりによって、構築された概念である。つまり、ブルデューの再生産論は、確かに「基本図式」に示された規定関係を語ってはいるのだが、各々の概念はプラチックの実証的な研究をベースに概念的に構築されたものなのである。
ここにブルデュー理論の難しさがある。彼は一見先のプラチック産出過程を現実的、実体的な過程であるかのようにかたる。しかし、既に見たように、出発点たる社会空間を実体視して、自律性の論理が彼の理論から「消える」瞬間に彼はその実体視を戒め、場とハビトゥスによって概念的に構築し直す。そしてさらにそのハビトゥス概念もまた、プラチックの統計的な規則性から構築された概念なのである。
このようにして、ブルデューは客観的な構造のアプリオリ性を徹底して排除して、この構造をつねに理論的に構築する作業を繰り返していくのである。ブルデューはこの作業を<客観化の客観化>と呼ぶのである。これは客観主義のさらに外に立つことではなくて(そうならば<客観化の客観化>の客観化という無限の繰り返しが要請されることになるだろう)、行為者のプラチックの「一次的経験(=主観的世界)」の分析を通じて、客観的な構造を概念として構築していくことなのである。このとき客観的構造は、一次的経験の分析を練り上げていくなかで、構築されるものとして考えられているのである。
ブルデューが決定論から脱する道のりは、社会構造によって規定されているハビトゥスが、にもかかわらず自律性という性格を持っているという「二元論」を経由していると考えるべきではない。それでは単にハビトゥスというブラックボックスに問題を投げ込んだにすぎないのだ。そして社会構造が、いかにある行為およびその行為主体を生みだすか、という問いに立つ限り、この問題は解決されない。
ブルデューにおいては問いが逆転させられているのだ。ある自律した諸行為、その巨大な集まりとして現れる社会構造とはいかなるものか。それゆえブルデューの具体的な研究は趣味といった個別的な行為についての記述から始まる。そして社会が行為を生産するという社会化過程を逆から辿ることによって、社会化過程自体が社会的に生産される(イデオロギーとして社会的に機能する)メカニズムを理論的に顕現させた(イデオロギーの存在基盤を暴く)のだとも言えるだろう。