本報告が考察の対象とするのは、A, B二つの語りの類似性である。この二つの語りは語られた場所、時期が実はまったく異なるものであるが、われわれはこの語りを並べておくなり、ある同じ文脈において理解可能になるであろう。このことは、ある意味、奇妙な話ではあるのだが、この奇妙な事態を成り立たせる言説の働きに着目する。
さしあたり、この二つの語りが指示していると読めるのは、そこに教育に関するある出来事、さらに突っ込んで言えば逸脱行為(=問題)が存在している、ということである。ここには語りと現実との関係に関する問いかけが含意されている
α「A, Bの語りに共通点があるとして、語りの背後でその共通性を支えるものは何か」
この問いに対する代表的な回答のひとつがいわゆる「経験主義」的な回答(語りとは現実の表象である)であり、もうひとつが「解釈学」的な回答(語りの中に現実は構築される)である。前者においては、A,Bに共通する「現実」の存在が、両者の語りの共通性を支えているとみなされるであろう。他方、後者においては、これらの「現実」を語り掛ける語り手の側に、語りの共通性の根拠が見出されるであろう。
しかしながら、こうした回答はある問題を未解決のまま残しているのである。その問題とは、ここで言説によって指示されている出来事が、逸脱として、あるいは「問題」として、人々に理解されるのはなぜなのか、ということである。したがって問いは以下のように書き換えられるであろう。
β「われわれがA, Bの語りを、ともに逸脱行為(教育問題)についての語りとして理解することが可能であるとすれば、それはいかにしてか」
γ「その理解の適切性は何によって保証されるか」
問いβに関して、どの「現実」が「問題」とされるか、に対する回答の恣意性を突いて、「経験主義」を批判し、解釈学的な立場で議論を展開したのが、いわゆる構築主義である。しかし構築主義が示し得たのは、何かしらを「問題」化しようとする語り手のサイドの議論に過ぎず、それらがなぜ「問題」として理解可能なのか、という聞き手の問題は放置されたままなのである。聞き手は、言説の外に置かれた善意の第三者に過ぎず、いったん立ち上がった言説「何々は問題だ」の語りの効果を受動的に受け止めるだけの存在とされるであろう。
もう一度先の問いに戻ろう。A, Bをともに「問題」として理解可能ならしめているその言説の働きにこそ、われわれは目を向けなければならない。
エスノメソドロジーが考察したのはまさにこの問題であるといってよいであろう。エスノは問題を問題として理解可能ならしめる「解釈構造と実践の両方に焦点を当て」たのである。構築主義が、問題<についての>語りを対象としたのに対して、エスノメソドロジーは、語りそれ自体の中に「問題」を見出したのだ。
したがって、エスノメソドロジーにおいても、われわれの最初の(A、Bの類似性に関する)問いは、問題意識を共有するものであると考えられる。そしてこの問いに対するエスノの回答は以下のようなものになるであろう。
β'「A, Bの語りの逸脱行為としての理解可能性は、その場面を構成する人々(=成員)のカテゴリー化実践により達成されている」
こうしたエスノメソドロジーの説明は、いくつかの問いを消去し、それに対して別の概念を生産したものであることが確認されるであろう。
消去されたのは「現実との対応」に関する問いである。新しく生産されたのは「成員性」「カテゴリー化」という概念である(成員カテゴリー装置)。こうした手続きによって、エスノメソドロジーは、既存の社会学の持っていた問題を明るみに出す。それは「エトセトラ問題」と呼ばれる。
「現実」は余りに多様であるため、それと対応した記述なるものも無限に拡張されうる。たとえば記述Bの主語が「石ころ」であっても、その記述は間違いなく、現実に照らして、<正しい>。そしてそうした「現実に即した」記述は無限に産出されうるということになる。したがって社会学がもし「現実との対応」で自らの記述の<正しさ>を主張しようとするならば、その記述は無限に続くことになる。要するに「現実との対応」によっては記述の適切さは保証されないのである。
実際にはこうした記述は、当たり前であり、冗長であり、それゆえ「不適切」であるとみなされるだろう。つまりBが「石ころ」についての記述でないことは読み手にとってももともと明らかであるのだが、この明らかさは何に由来するのか。
こうして理解の適切性に関する問いγは以下の問いに変更されることになる。
γ'「あるカテゴリー化を適切なものにする手続きとはいかなるものか」
このエスノにとっては自明とも思えるこの簡単な問いが、しかし、エスノが消し去ったはずの問いを再び舞台に呼び寄せる。「カテゴリー」の適切性を巡るエスノの回答は微妙なぶれを含むのである。それはγ'の回答を語りの実践の中に見出すならば、β'γ'が自家撞着に陥るように見えることに由来する。この点を具体的に見ていこう。
前節で見たエスノメソドロジーの議論の事例としてHesterの分析を取り上げることにしよう。Hesterが提示した事例。
Hesterの問いは以下のようなものである。
「「逃げ出す」といった本来的に逸脱的ではない行為が、この語りの中では「逸脱」として理解されるとすればそれはなぜか」
「逃げ出す」という言葉は、たとえば「危険を避ける方法」としても理解可能であるはずだ。しかしそうではなくて、それが「逸脱」として理解可能であるとすれば、その理解はいかにして可能であるのか。
Hesterもまたγ'に依拠して議論を進める。すなわち、「逸脱」というカテゴリーが適切なものとみなされるその条件として、その背後にある規範の存在が前提とされている必要があることを、その手続きの軸に据えるのである。「彼」が生徒であること、そして生徒は「教室か、あるいは教師が指示する場所」に終業時刻まで残るべき規範があるということ、これらが「逃げ出す」という行為を「逸脱」としてカテゴリー化することを可能にしていると考えるのである。
ここにおいて、エスノメソドロジーが消し去ったはずの問題、すなわち「エトセトラ問題」が再び立ち上がっていることを看取できよう。Hesterが述べた「規範」にはそれこそエトセトラ条項が無限に存在するのである。このことはHesterの記述「教室か、あるいは教師が指示する場所」のなかに明瞭に現れている。仮に体育の授業において鬼ごっこのようなものを行ったとすれば、「教師の指示する場所」の範囲はいかに確定されうるか。あるいは「終業時刻」に関しても同じである。休み時間に鬼ごっこを行っている子どもについての記述ではない、という保証は果たしてあるのか。
もとよりエスノメソドロジーの方法論はかかる問いを無効化するところにその本来の意義があったはずだ。したがってかかるHesterの分析の帰結は、単にHesterの失敗として処理されるべき問題であるのかもしれない。そしてこの失敗を犯さないためには、規範の立ち上がりをカテゴリー化実践の中に求めることになるだろう。そのときエスノメソドロジーは自家撞着あるいは循環論法に陥ることになる。
エスノが捉えるべき事態は、まさにこの循環論法の中にあるというべきであろう。すなわち、ある行為が「逸脱」であるという理解と、「逸脱」の背後にある規範が<同時に>立ち上がってくる事態である。そしてもしこの同時性を突き詰めるのであれば、「カテゴリー化の適切性」に関する問い(γ')も消去されなければならない。あるカテゴリー化を支えるいかなる根拠も事前には存在せず、したがってそれを問うことは徒労に終わる。
エスノは「カテゴリー化」「成員性」といった新しい概念をたしかに生産した。しかしそれには「適切性」にかんする古い問いが付随していた。エスノがある語りにたいする理解が「適切」であるかどうかを問うとき、その語りがいかなる文脈におかれているかを同時に問うことになる。こうしてエスノはいったん乗り越えたはずの「エトセトラ問題」を再び呼び込むことになる。
われわれはいまや、言説を個別の文脈から切り離さなければならない。そのもとでは語りの適切性はもはや問われない。成員も語りの外部には存在しない。そして語りの反復だけが議論の遡上に載せられることになる。
冒頭の問いに戻ろう。
われわれがこの2文の中に共通性を見出すためには、この2文の主語(=対象)を事前に確定させる必要はない。あるいはこの文の語り手を知る必要もないだろう。われわれは、これらの文を、そうした個別の文脈とは別個に、それが語られると同時に、あるべき行為からの逸脱(=問題)として理解可能であり、かつまたそう理解してしまうであろう。
たとえばBの記述は制度的なカリキュラムなど一切ない自由主義的な教育を礼賛する文脈でかかれたものでもありうるし、そうした記述および理解が不適切である理由はどこにもない。しかるに、今、われわれがBの中にAと同一の訴え(逸脱=教育問題)を読み取ることが可能であるとすれば、それはいかなることか。これは「適切」さに関する問いとは無関係に問われるべき問いなのである。
われわれがABの中に共通性を見いだすとすれば、それはこの2文がともに、「なにかそこに問題がある」ことを訴えている、ということである。そして訴えかけられている対象は「私」=読み手である。そしてこの読み手は語り手の知らない読み手なのである。
たとえばBと同等と考え得る次の語りを想定してみよう。
C「なにしろ会議の始まりが宣言されても、私語を止めないし、資料を開かなければ、メモの用意もしない」
この一文を読んで、果たしてわれわれはここで語られている事柄を、<われわれの>「問題」として共有するであろうか。仮に何らかの問題があることを訴えているのだと理解したとしても、それはある具体的な(限定された)状況における訴えなのだと理解するのではないだろうか。したがってわれわれがCの状況を理解するには、それこそさまざまな補足(エトセトラ条項)を欲することになるだろう。その意味で語りCに訴えを読み取ることが可能であるとしても、それはABに見られた訴えの構造とは異なったものであるといえるだろう。Hesterの分析もこの次元においては適切なものであった。しかしこの次元にとどまる限り、それこそ尽きることない個別の逸脱状況に関する尽きることない記述・分析の一つに過ぎず、「教育問題」は取り逃がすことになる。
したがって語りCとは異なる語りABの共通性を記述するのに、両者の語りが語られる背景を記述してみても徒労に終わる。あるいはこの語り自体の中身、構造を詳細に記述してみても、無駄なことであろう。
この二つの語りは、読み手であるわれわれが既に語られたものとして<後から>理解可能な語りの描き出す「問題」の中身に、ではなく、読み手であるわれわれをその語りの中に含みこんだものとしてしか、その共通性を見出すことはできない。つまり二つの語り両方の中に、語りがそれ自体としては語らなかった「それは問題だ」という訴えを、われわれが自ら付け加えるところに初めて、その共通性が存在すると言い得るのだ。
こうした点を踏まえて、A, B二つの語りに共通して見られる言説の効果(=「教育問題」の実定性)について述べておこう。たとえば構築主義のように、「教育問題」が言説によって構築(あるいは捏造)されてしまうという点をその議論の中心に置くのは、「実態」への言及を問わず語りになしてしまうことになるだろう。それに対して、本報告が提案するのは、われわれ聞き手が、問題に自ら<関わる>ものとして「主体」化されるという点に注目するものである。このとき「諸々の問題」が「教育問題」一般としてわれわれの前にたち現れてくるのだ。そしてこの点にこそ、今われわれが<関わっている>「教育問題」(あるいはその言説が流通する「教育場」)の独自の、奇妙な構造が現れているのである。