ライティング実習2A 12組

2024年度 前期 木03 13:30-15:00 瀬田3-B104

『社会学的方法の規準』

『社会学的方法の規準』:パラグラフ・ライティング

以下の文章をパラグラフライティングの原則に忠実に書き換えよ

私が、兄弟として、夫として、あるいは市民としての努めをはたすとき、またはすでに取り組んだ契約を履行するとき、私は、自分および自分の行為の外部にあって、法や慣習の中に規定されている諸義務を果たしていることになる。たとえそれらの義務が私自身の感情と合致し、自分の内面に実在していると感じられるときですら、その実在は客観的であることをやめない。というのも、それらは私がつくりあげたものではなく、教育を通じて私の受け入れたものだからである。しかも、われわれが自分に課せられている諸義務の詳細をよく知らなかったり、それを知るために法典を参照したり、権威ある解釈家に質さなければならないことのなんと多いことか。おなじく、信者は、自分の宗教生活の信仰や宗式を、すでに出生と同時に既成のものとしてみいだしている。この場合、それらが信者に先立って存在していたということは、それらがかれの外部に存在していることを意味する。私が自分の思想を表現するために用いる記号の体系、負債を支払うために使用する貨幣制度、商取引関係の中で用いる信用手段、職業上したがっている慣行等々は、私がそれについてつくりあげている習慣からは独立して機能している。以上に述べたことは、社会を構成している成員ひとりひとりをとってみても、各々に同様にあてはまろう。すなわち、ここに、個々人の意識の外部に存在するという顕著な属性を示すところの行動、思考、および感覚の諸様式がみとめられるわけである。

  • Emile Durkheim, 1895, LES REGLES DE LA METHODE SOCIOLOGIQUE(宮島喬訳, 1978,『社会学的方法の規準』岩波書店 p.51-52)

解析結果

      • が、兄弟として、夫として、あるいは市民としての努めをはたすとき、またはすでに取り組んだ契約を履行するとき、私は、自分および自分の行為の外部にあって、法や慣習の中に規定されている諸義務を果たしていることになる。
        • たとえそれらの義務が私自身の感情と合致し、自分の内面に実在していると感じられるときですら、その実在は客観的であることをやめない
          • というのも、それらは私がつくりあげたものではなく、教育を通じて私の受け入れたものだからである。
          • しかも、われわれが自分に課せられている諸義務の詳細をよく知らなかったり、それを知るために法典を参照したり、権威ある解釈家に質さなければならないことのなんと多いことか。
      • おなじく信者は、自分の宗教生活の信仰や宗式を、すでに出生と同時に既成のものとしてみいだしている。
      • この場合、それらが信者に先立って存在していたということは、それらがかれの外部に存在していることを意味する。
      • 私が自分の思想を表現するために用いる記号の体系、負債を支払うために使用する貨幣制度、商取引関係の中で用いる信用手段、職業上したがっている慣行等々は、私がそれについてつくりあげている習慣からは独立して機能している
      以上に述べたことは、社会を構成している成員ひとりひとりをとってみても、各々に同様にあてはまろう。
    すなわち、ここに、個々人の意識の外部に存在するという顕著な属性を示すところの行動、思考、および感覚の諸様式がみとめられるわけである
  • Emile Durkheim, 1895, LES REGLES DE LA METHODE SOCIOLOGIQUE(=1978 宮島喬訳『社会学的方法の規準』岩波書店 p.51-52)

パラグラフライティングの基本に即して書き換えた例

社会を学的な立場で見ると、個々人の意識の外部に存在するという顕著な属性を示すところの行動、思考、および感覚の諸様式を観測することができる。例えば私が、兄弟として、夫として、あるいは市民としての努めをはたすとき、またはすでに取り組んだ契約を履行するとき、私は、自分および自分の行為の外部にあって、法や慣習の中に規定されている諸義務を果たしていることになる。たとえそれらの義務が私自身の感情と合致し、自分の内面に実在していると感じられるときですら、その実在は客観的であることをやめない。というのも、それらは私がつくりあげたものではなく、教育を通じて私の受け入れたものだからである。しかも、われわれが自分に課せられている諸義務の詳細をよく知らなかったり、それを知るために法典を参照したり、権威ある解釈家に質さなければならないことのなんと多いことか。おなじく、信者は、自分の宗教生活の信仰や宗式を、すでに出生と同時に既成のものとしてみいだしている。この場合、それらが信者に先立って存在していたということは、それらがかれの外部に存在していることを意味する。私が自分の思想を表現するために用いる記号の体系、負債を支払うために使用する貨幣制度、商取引関係の中で用いる信用手段、職業上したがっている慣行等々は、私がそれについてつくりあげている習慣からは独立して機能している。以上に述べたことは、社会を構成している成員ひとりひとりをとってみても、各々に同様にあてはまろう。つまり個々人の意識の外部にそれとは独立した諸様式が社会には確かに存在しているのである。