どうもです。
まあ愚痴はあくまで愚痴なんであまり真にうけないでください。
他のゼミの様子とか知りたいんだけれど、
なかなか見学依頼とかできない。
日記楽しいです。ゼミの教師って大変そうですね。
今の大学生って扱いにくそう。がんばってください。
ご訪問ありがとうございます。
社会学の分野では「マルクス主義」を前面に出す人も少なくなり、マルクス主義というと「経済」を重視する一派というような狭義に理解されてしまうことが多くなりました。「資本論」の中には、あらゆる「社会」成立のメカニズムについての議論のエッセンスが詰まっていると思うのですが、年々読む人も減ってきているのでしょうか。
「講座派」。社会学の分野では戦後知識人論のような文脈でしか聞かれなくなりましたが、私はぎりぎりリアルな議論として感じられる世代かもしれません。歴史学は私も専門ではありませんので、きちんと議論に参入できるわけではありませんでしたが。部落差別問題にかかわってわずかに交錯したぐらいです。
「明治維新」以降の体制の評価が片や絶対王政、片や不完全なブルジョワ革命と二分されてしまったのは、今にして思えば、ある新しい体制における「遺物」の持つ意味についての議論を双方が弁証法的に展開できなかった故であろうという気がします。たとえば「被差別部落」の存在はどうあっても資本制社会のロジックに還元はできないものでしょう。それはたしかに前資本制的な体制の「遺物」であったはずで、それは「講座派」の指摘が正しかったように思います。しかしそうした「遺物」が、それにもかかわらず、資本制社会の中で積極的位置付けを持っていたこと、それをどう理解するか、にこの問題を解く鍵があったように思います。
経済学は素人で、お恥ずかしい限りですが、資本制とイデオロギーの関係などについてご教授賜れれば幸いに存じます。
現代日本社会とマルクス主義とをからめて、真摯に思考されている姿に共感します。文面を読む限り、私と貴方は同年齢くらいではないでしょうか。私はいま岩手大学というところで、政治経済学という名のマルクス経済学を教えています。他人からは講座派と見られていますが、実はそうではありません。私は、戦前の日本は、絶対主義でもなくまた、まったき意味での市民社会でもなく、明治維新をきっかけとした、長い市民革命の連続過程であり、確固たる体制ではなかったと思っています。そしてその革命は15年戦争前に敗北し、狂った戦争に邁進していったと考えています。専門の歴史家ではないので、このように判断するのは少し恥ずかしいのですけれど、もしよかったらお返事をください。貴重な対話ができれば幸いに存じます。
>ひとつは、マイナリティに向かう視線を減らす。もう一つはマジョリティに向か
>う視線を増やす。
そうです!分かりやすくまとめていただいて、ありがとうございます。
>ひとつは、マイナリティに向かう視線を減らす。もう一つはマジョリティに向か
>う視線を増やす。
>教育はどちらの方向に動けばいいのでしょう?
「減らす」という働きかけは、実践的に難しい気がしますねえ。
少なくとも私は「触れないのが一番」とはまったく思っていませんので。
となれば、マジョリティに向かう視線を増やすってことになりますねえ。
で、その一つの帰結として
>マジョリティを分解し、全てをマイナリティに作り変える
というのもありかな、と。
クローゼットの構造、よくわかりました。
で、教育が「差別者」から「被差別者」へと視線を向けるように促すことが、そもそも差別の構造を作っているのだ、ということですね。
視線の集中を防いで均等にし、こういうアンバランスを解決するには、単純にいって二つの解決があると思います。ひとつは、マイナリティに向かう視線を減らす。もう一つはマジョリティに向かう視線を増やす。
教育はどちらの方向に動けばいいのでしょう?
あるいはマジョリティを分解し、全てをマイナリティに作り変える、ということもありかもしれませんね。
いろいろな話題が錯綜しうる(というほどにもなってないが)ようになっていますが、
気にせず、どんどん書き込んでくださいませ。
どの話題にレスしていただいてもかまいません。
スレッド式の掲示板の方がいいかもしれない(というか今の流行はそっち)けど、
こういうゴチャつき感結構好きなのです。
2chの前身の前身?もじつはこのteacup板を使っていました。
今は個人の掲示板でもこのteacup板を見ることが少なくなったような。
人が多くなり、技術も進むといろいろ整理されてくるんだけど、
それはそれで便利でもあり、寂しくもあったりして。
>それそのものが差別的構造を作っているようには見えません。
>でもそうだっていうんですね。
そうです(キッパリ)。
差別を「悪意」をもってやる奴ってのはもちろん問題なんだけど、
実は差別問題で一番厄介なのは「善意」。
「善意」って法律用語的意味で。
「差別はしないようにしよう」、
「差別される人の心情を理解しましょう」、
そういう態度が、いわばいじめ問題における傍観者と
同じ立場を形成する。形成されるロジック自体は
いじめとは違うと思いますけど、その辺はゴチャつくのでペンディング。
で、いじめも同じ部分もあると思うけど、差別っていうのも
「視線」に大きく関わっている。
見る−見られるの関係の中で、主体に与えられる意味付け作用。
見る側は匿名の位置にいて、見られる側を軽い興味の対象におく。
「でも差別される側にも問題があったんじゃない?」
「両方の立場を理解しあおう」
差別する側へも同様にむけられているかに見えるこの問いかけを
しかし、差別する側は答えなくても良い(匿名の位置に逃げられるから)。
見られる側は、名指しされ、逃れられない場所にいて、
軽い興味の集積に答えなければならない。
そうしてどんどん己を見世物化させられていくことになる。
例えばホモセクシュアルが上の問いに答えれば、
彼/女はどんどん己の性の嗜好を語らされてしまう。
彼/女はその段階で、性的な存在として<承認>されることになる。
これは<明らかに>ホモセクシュアル差別の原型と呼ぶべきでしょう。
そういえばこの僕的にわかりやすい解釈は、ヴォランティアを学校的評価に組み込むことの矛盾とかと共通するものがありますね。砂男のよう。
学校的価値がメインストリームになってしまったことで、ある価値観を広めることの伝道師的な「純粋さ」という価値を失ってしまったんだと思います。
拡大しないねずみ講がとだえるように、拡大しない帝国が自壊するように、学校もおわろうとしているのかもしれません。
差別問題に関しては差別を禁止するある種の教育的発言は必然的に差別的な構造を生み出してしまう、といわれているのは、例えば以下の箇所のことを意味していますか?
<<そしてこの「めんどくさい」という心性は、差別問題に対して迂闊には近寄らないように、無難に接しようとする態度、「敬遠」と呼ぶべき態度、遠巻きにしてその現場を眺め、なにか態度表明を迫られるや「模範回答」を反復する態度の基礎をなすものである。差別問題教育はともすればこうした循環に陥る可能性を持っているあ>>
常識的には、(僕が「常識」というのは、そういうふうに考えるのが当たり前だ、という特権性をふりかざしているのではなく、こういう考えは僕のオリジナルでは何でもなくて誰かが言ってそうなことだけど、というくらいの意味です)、
こういう模範解答は、差別問題を回避させる方策になってしまってはいるけれど、それそのものが差別的構造を作っているようには見えません。でもそうだっていうんですね。
<<差別問題に向かう態度を問う呼びかけが教育的な「正しさ」の言説の中で発せられるとき、差別する主体・差別される主体をうみだしてしまう>>
ここのところがよくわかりません。これはこの直前にある
<<学校的「正しさ」と対立する語りは、非公然化されるということによって、「タブー」「本音」のごとき意味合いを持つこともあるだろう>>
の言い換えなんでしょうか。
こちらはよくわかります。もしかしてここがポイント? だとすると僕的にはすごくわかりやすいんだけど、しかし「こともあるだろう」というのはポイントの表現としては弱すぎるし。
Kさん、いらっしゃいませ。
そうですねえ。社会学会、行きましょうか。
なんかちょっとお勉強しようかな、モードです。
さて、学会報告の件ですが、
子供に対するいじめ禁止の教育の例では
そうした教育は「いじめ」問題とはおそらく無関係であるだろう、と。
「いじめは駄目よ」という発言は、毒にも薬にもならない。
「はい」と答えた子供はそれとは無関係にいじめをするかもしれないし、
あるいは最初からいじめなんてする気がないかもしれないし、
あるいはもしかしたらそういわれていじめを止めることもあるかもしれない
(まあ余りないでしょうが)。
ところが差別問題に関しては差別を禁止するある種の教育的発言は
必然的に差別的な構造を生み出してしまう、
生徒の態度(ああ、差別はしないようにしよう、というのも含め
というか、むしろそういう態度こそが)に
関わらず、そうなる、というのが趣旨です。
だから模範回答集は、あってはならない。
むしろ模範回答集をいかに放棄していくか、にこそ
差別問題の成否がかかっている、というわけです。
セジウィックの言っていることがどうとか、たぶんその辺の話は
事後的な正当化にしかなりません。
セジウィック以前に、差別問題などで、正しいことを教えようとすればするほど、
そこから遠ざかる、という実感に支えられています。
究極的にはスターリニズム論に行き着くはなしなのですが。
今年は学会いきませんでした。住所変更届を出してなかったので、学会費の振込み書が届かず、
発表登録とかの時期をのがしてしまったのが一番の原因です。
まあでも社会学会は一応行こうかと思ってます。よかったら一緒にいきませんか?
で、遅ればせながら学会発表読ませていただきました。
面白かったけど、よく考えてみると、それは、教師としての日常的でどこにでもある経験レベルで、共感できたからにすぎないように思いました。
つまり、僕は表面的なところしかわからなかった。
まあ表面的なところしかわからない僕にも、何か深遠なことが理解できたような気にさせてしまう、という意味では戦略的にはよくできた発表だと思います。
(皮肉でなくて)
で、どうわからないか、というと、まずこの話と、たとえば
「いじめをしてはだめ、と言ったときに、子供がはい、ということは、所詮、子供が先生に対して言葉上の敬意を払っているだけにすぎない」
というようなことと、どう違うのかってことです。
ちょっと考えてみると、「いじめをしない、と言うこと」は、現実にいじめをしないこととはほとんど何の関係もないけど、「差別的な発言をしない」ということは、現実に差別をしないということのなかに含まれている、そこが違う、
ということなんだろうかって思います。(なあんか我ながらばか丸出しですね)
だから、どういう言葉が差別的な発言で(つまり話者の意図はともあれ、差別的に解釈されやすいか)、またどういう言葉が差別的な発言でないか、ということを教えることはそれなりに意味あること、なのかもしれません。(平凡な教師としては)
まあこれは言ってみれば、「模範解答集」を身につけさせる、ということですね。
(人を不愉快にさせない、テーブルマナーを教えるように)
でも、これから先は、上のいじめの例と同じになるわけで、ある学生が、教育的関係を超えた場面においても、やはり「模範的解答集」から、自分の言動をコントロールしていくかどうかは、教育的関係において「模範的解答」が出されたかどうかからは判断できない、ということがいえるでしょう。
さてこの発表は当然これだけの話ではなさそうで、おそらくそれは「クローゼットの構造」というところに関わっているんだけど、このところが正直さっぱりわかりません。
これは素直にセジウィックを読めばいいんでしょうかねぇ。
どうも〜
見つかってしまいましたな。
また、何ぞやで遊びましょう。
見つかってしまったか(笑)。
あんまり簡単に見つかるのは
時に不都合もあるかな。
人によっては「過激」と思うような表現も含んでいるし。
18禁とかにするかな(笑)。
土曜日はお疲れさん。わざわざ大阪まで来てくれてありがとう。
またよろしくね。・・・難しい話はわかりかせんよ、近経やし。
YahooBBではありません。だから高いです(涙)。
でも常時接続なので、これから更新など少しずつやろうかな、と。
わたしは、大学の籍を離れて3年ほどたつ一介の会社員です。
まず、アルチュセールはあまり好みません。
フランスのマルクス研究の主体的流れともいえましょうが、
自己完結型、テクストに即さない独断的で、主観的な印象が
ぬぐえません。アルチュセールは、ほんとうに1936年以降に
出されたマルクスのテクストを精読しているか、大いに疑わしい。
ドイツのフランクフルターシューレは、絶望の彼方にマルクス主義
哲学の先をみるような悲観的な側面が強いですね。
わたしは、きわめて少数派ですが、旧ユーゴのM・マルコビッチらの
プラクシス派、経済学哲学草稿以来の「疎外論」を支持する者です。
広松渉の物象化論などは、難解な言い回しですが、実際には、
彼個人のイデオロギーをマルクスに押し付けるきわめて無礼な
思考です。
マルクスの貨幣の諸機能orマスクスの貨幣の本質について述べなさい、という質問をされたらどう答えますか?
マルクスは人類学者にとって避けては通れない人みたいです。彼の人類学との関わりはなんですか?どのような手法が「人類学的」と呼ばれるものなのでしょうか?
芸術とそれを取り巻く社会について社会学的に勉強したいと考えているのですが、
社会学についてあまりに知識がなく、どうやって学んだらいいのか分からないのですが
学ぶ方法と、入門書を教えていただけたらありがたいのですが。
波というものについてどうお考えでしょうか
よせては返す。今の動きそのものが反対の動きを招く。
なにやら物質も波だなどという学者もいるそうです。
>殆んどの社会学者がネオマルクシストってことには
>ならないんですかね?
確かにそうも言えますね。
実際マルクスをもろに使いながら、マルクスの名前を出さない人は
たくさんいますしね。
ただ、まあ影響を受けたというだけなら、マルキスト以前に皆
カント主義者ってことになるし、さらにアリストテレス主義者ってことに
なりかねないので、もう少し、しぼるものなのでしょう。
やはり多少なりともマルクスを明示的に使わないと
マルキストの中に入れるべきではないとか。
逆に明示的に使えばマルキストってわけでもないのですが。
まあ、誰がマルキストで誰がそうでないか、なんて囲い込みは
そう特に意味があるわけでもなくて、
要は誰がいま、読んでおもしろい思想なり理論なりを展開できているかってことで、
私は未だにマルクスは圧倒的におもしろいと思うし、
アルチュセールにもはまっているわけで、ただそれだけのことなんですけれどね。
殆んどの社会学者がネオマルクシストってことには
ならないんですかね? 肯定的にせよ否定的にせよ、
彼の理論をからめずに社会学を語ることって難しく
ないですか? 釈迦の掌みたいな感じがするんですけど。
なものにたいするアルタナティブということですかね?
思想としてのマルクス主義を信奉するわけではないが、
理論的枠組みとしては活用するとか。 所謂マルクシストではない
イマヌエル=ウォーラースタインなんかもネオマルクシストに
あたるらしいですから。
あ、ご来訪、ありがとうございます。
>『今どき』Would-be Marxistというのは
>カッコイイなあと思います。
ありがとうございます。そういっていただけると
WPを開設した甲斐もあったというものです。
「ネオマルクシズム」に関してですが、
「ネオマルクシズム」なる思想はない、といってよいだろうと思います。
単に旧来のロシアマルクシズムに対抗して出てきた
様々なマルクス再評価をまとめてこう呼んでいるだけで、
それらを一つのものとしてまとめるのは無理があります。
またマルクス主義を整理する場合、
政治的な絡みで整理する場合と、思想的な絡みで整理する場合で、
また違った感じになります。もちろん両者は相互に関係はあるのですが、
いったんは分けて考えたほうが整理はつきやすいと思います。
まず政治的な絡み。
>皆を資本家階級にしてしまおう
という考え方をするといってもよいものもあるといってよいでしょう。
主に西側先進国のマルクス主義の中には
そういう感じのものもあります。
古くはマルクスの弟子筋にあたるベルンシュタインに始まる
社会民主主義の流れです。
この流れは現在はほとんどマルクス主義の影響の外にある
と言えますが。
一方、「従属論」に代表される、発展途上国に焦点を当てた議論は
それらとは出自も流れも異なります。
こちらも政治的な流れとの兼ね合いもあり、思想的に一括するのは難しいのですが、
いわゆるマルクス主義が「産業労働者の革命」に焦点を当てたため、
そこから零れ落ちた部分を拾いなおそうという趣旨です。
南アメリカのマルクス主義はおもにここにあたります。
アルチュセールは、もちろん政治的な場ともかかわりはあるのですが、
アルチュセールを読む場合は、どうしても思想的な流れで整理したほうが
意味があると思います(政治的にはフランス共産党の異端)。
構造主義を中心とするテクスト論の只中で、
資本論を*テクスト論的*に読み替えていった、というのが
とりあえずアルチュセールのイロハです。
どう読み替えていき、それがどういう意味を持ったのか、
を書き出すとキリがないので、また機会があれば、ということで。
とりあえず入門書としては講談社の
「現代思想の冒険者たち」シリーズの『アルチュセール』
をお勧めしておきます。
アルチュセール自身を読むのであれば、
「資本論を読む」(ちくま学芸文庫)がお勧めです。
上中下ありますが、はじめは中から読めばよいでしょう。
アルチュセール以降、ではプーランツァスが有名。
もう1つ、ドイツではフランクフルト学派が代表的なネオマルクシズムです。
アドルノ、ハバーマスが有名。こちらは私はまったく門外漢ですが、
アドルノは面白いと思います。
一つ一つを上げだすときりがないのですが、
さしあたり思想的にまとめるキーカテゴリーとしては
初期マルクス重視か、後期マルクス重視かという軸をあげておきます。
アルチュセールは後期マルクス、フランクフルト学派は主に初期マルクス重視です。
とYahooで検索してやってきました。『今どき』Would-be Marxistというのは
カッコイイなあと思います。
アルチュセール以外にネオマルクシズムとか、
簡単に説明していただけると有難いです。
ネオマルクシストを自任する友達の言説から
『マルクシストが資本家階級をなくそうとしたのに
対してネオマルクシストは皆を資本家階級にしてしまおう』
という考えかたをするのかな、等と勝手に解釈していたのですが、
従属論とのからみで聞くネオマルクシズムの焦点はどうも違って
いるような気がしてこんがらがってます。
忘れた頃に書き込みがある掲示板。。。
みなさま、ごきげんよう。
何かあればお気軽にメールください。
なるべくお返事書く所存です。
今日は、情報処理のレポートの提出期限、最終日ですね。
皆様お疲れ様でした。
年明けに2回レポートを書く?
そんな分けないじゃん。
年明けの3回の授業のうち2回を使って
一本のレポートを書いてもらう、といったんですよ。
採点終わったぞ-。不合格者結構いるぞ-。レポートの課題考えねばならんぞ-。
ああ、めんどくさーーーーーーーーーーーーーい。
試験サイテー。エクセルサイテー。スピード解散サイテー。
叫びたくなるわ。うわあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!
でもまだ試験問題ができていないのだ-。
>zoroさん
手厳しすぎるっす(;_;)ウルウル。
明日は、まちに待たないテストだあー。
もう、ここで時間が止まって欲しい。
近頃寒いです。私の心も寒いです。小テストがあって、もう凍え死にます。
>ひろみさん
あなたは弱気ですね〜。もっと、ガンガンいきましょう。
しかーし!私も人のことは言えないのだ〜!
全然ついていけてないよ〜〜〜〜〜〜。(T−T)
小テストやばし!
>はたのさん
参考書以上にわかりやすく教えるのが、あなたの仕事ではないのですか?フッフッフッ・・・
いくらなんでも八つ当たりでしょう。
EXCELが難しいんじゃなくて、統計が難しいってことでしょうから。
1+1=2ぐらいの計算だったら、ほら、EXCELでも簡単でしょう?
今日の授業もわからない、とメールで怒られたけれど、
今日は失敗はしていないはずだぞ。
どんな参考書読んだって、今日の説明程度の話しか書いていないはずだし。
エクセル、大嫌いです。私はエクセルを世に出したマイクロソフト社を恨みます。
ビル・ゲイツのアホー!!
今日の授業、失敗だったよねえ。
まあ、どこまでやったらよいのか、加減がねえ。
SPSSは勝手に結果吐き出してくれるんで、別に
検定もそんなに難しくないのだけれど、
一応結果の「意味」は一通りは知っておいてよいかなと思ったのですがー。
テストは、持ちこみは可です。
後出席できない人は、あー、どうしましょう。
代わりにレポートでも出しましょうかねえ。
ぺっぺぺぺ・・・
小テストってどういう内容のをやるんですか?
持ち込みは、ありですか?
このままじゃ、小テストなんて全然自信ないですぅ・・・。
どうしようー・・・・・・。
テストなんてやめてくれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!
実は昨夜は大学の仲間と呑んでいて、気づいたら終電が無くなっていた。
セクシャルマイノリティ談義などで思わず、
時を忘れて話し込んでしまった。
やむを得ず、大学に泊り込み、今日の準備をして、
小テストをやろうと思い立ち、結局徹夜。
着替えるため、始発?で一旦自宅に戻り、
朝一に瀬田へ来なければならない。
きっつー。
よくよく考えたらEXCELでやるべきことはもうあまり残っていないことに気づいた。
というわけで、結構いきなりだけれど、小テストやるよ−。
次回はまあ、OFFICEの総合的使用法、とやらを一応やっておこうという予定。
たいしてやることも無いので、基本的には質問タイムにしようかなと思っています。
ようやく書き込んでくれる人が出てきましたねえ。
学生さん同士の交流でも、私的なおしゃべりでもなんでも使ってやってください。
一番便利な使い道は、メールでは言いにくい授業の不満を書くこと。
ただし脅迫みたいなのは止めてね。
今度あんな下手な授業をしたら、殴る、とか。
とりあえず伝言板に参加してみました。みなさん、情報処理に調子はいかがですか?
私は、結構まめに来ているにもかかわらずついて行けなくなっていますです。みんなはどう
なのでしょう。 ふぅ・・・、共感の声があがると、うれしいです。でも授業に異議がある
わけではないので・・・先生(^〜^)努力します。
それでは、さようなら。
やっほ〜〜〜!(^o^)/
久しぶりに、この伝言板を見たよ。
投稿者が増えている・・・。
おぉーーーー、すばらしい!
みんな、この伝言板は見ているのか?
書くことないかもしれんが、利用しようよ!
お得な情報とか交換しようよ。
(ちなみに、今、ネタがない・・・)
>ゆず風呂さん 龍祭、楽しかった?
>ぺさん あなたは一体・・・。(^_^;
とにかく!みんな、集まれ〜〜〜〜〜〜〜!(^o^)/
わざわざおへんじありがとうございました。
???
ぺ
明日は休講?
ぜーんぜんしらんかったぁ。
誰か授業中に指摘してよー。
皆様がほっとした後に教師は採点と言う
いやーな作業が残っているのです。
でもそれもとりあえずおしまい。
それにしても「セクマイ」ねえ。
そういう風に略されるとは思っても見なかった。
龍祭って盛り上がるのですか。
皆さんいかれるのですかね。
私は自分の大学の学祭もほとんどいったことがない。。。
セクシュアルマイノリティのレポートやっと修了!
ここ最近セクマイ三昧の毎日…。
セクマイと何回パソコンで打ったことか…。今じゃ懐かしいかも。
でもやっと修了…、かなりほっとしてます。
今日は友達と梅田で食事の予定。セクマイ終わったし、楽しんでこよー!
でもゼミの発表とかあるし…、でもがんばろー!
明日あさっては、待ちに待った龍祭だー!!!
みんなで一つの事するってすばらしいですね。
龍祭楽しみです。お店も出すし。
ここのページを見て、遅れてもいいぞと思っている方。
まあ遅れてもいいのは確かなのですが、
採点の都合上、送れて提出する旨
メールください。
よろしく。
ここに来てくれた人だけにおまけ。
私はそれほど締めきりに厳密な人間ではないです。
まあ、あまり提出が少ないと色々(採点の)予定が狂うので困るのだけれど、
遅れる人が少しいる分にはあまり気にしません。
別に取り立てて減点もしません。
催促メールぐらいは出しますけれど。
ただ早い目に出してくれた人には
合格点を挙げられない答案にはもれなく再提出の権利を進呈中です。
遅れた人で基準に達していない場合どうするかは未定。
授業、難しいですかあ。
うー、ゆっくりやっているつもりなんだけれど。。。
まあ、時にストップかけて質問してみてください。
せっかちな性格なので、放っておいたらどんどん進んでしまうことがあるので。
最近、講義がついていけない〜〜〜!(T_T)
レポート、間に合わないよ〜〜〜〜!
ぐはっ!(*_*)
ああ、こういう掲示板は無料で借りているので
広告が入っちゃうのですよ。
まあ、ただより安いものはないということで
広告はあまり気にしないでください。
う〜ん、なんでしょう?この伝言板は?
恋人探します?わけわからん1
ここは見てくれている人はいるのだろうか。
個別に質問に答えるより、みんなに見てもらったほうがいいと思って
できるだけこちらで質問の回答をしたいのですがー。「エディタは使わなくても(メモ帳を使えば)良いのでしょうか。」
こう言う質問が結構あります。
はい、そのとおりです。とだけ答えればきっとわかりやすいのでしょうし、
実際問題それで皆さんが理解されるものでとりあえず間違いはありません。ただ正確ではないのですねえ。
前にも書いたとおり、メモ帳もエディタの一種なので、
正確には「WZエディタは使わずに、メモ帳を使ってください」と
言うことですね。
基本的にはtxt形式ファイルの編集ができれば、ソフトは何でもかまいません。
実はWordでも一太郎でも原理的には可能なはずなのです。
ただWZの時と同様、ややこしくなる可能性があるので、やめておいたほうが無難でしょう。という、「正しい」解答をするとやっぱりかえって混乱させてしまうのでしょうねえ。
この辺、必要以上に「正確さ」に拘るのは教師の性ということで、
大目に見てください。
ここでもタグの練習ができるみたい。
詳しくは上の「利用可能タグ一覧」を参照のこと。
たとえば<font color=red size=+3>大きな赤い文字
リンクも貼れる。
色々試してみてください。
ちょっとした連絡事項はここに書く場合があるので、
一応ここも押さえておいてくださいね。・メモ帳もエディタの一種です。
Wordがワープロのひとつであるのと同じ。
エディタで作ったファイルは、汎用性が高いので
ほかのワープロソフトなどでも開いて編集できます。・出席状況を知りたい人はメールを送ってください。
・まだ出席確認のメールを送っていない人はお早めに。
現在26通のみ。39人の出席があったはず。
よろしく。
これがNet上での「掲示板」と呼ばれるものです。
各サイトには大体こういうものがおかれていて、
活発なサイトの場合、訪問者と設置者、訪問者同士
の交流が行われていたりします。というわけで、無駄なおしゃべり大いに結構、
適当に使ってやってください。改行は適当に自分で入れてね。
引き続きWould-be Marxist's Pageからお越しの方もどうぞ(謎)。
しばらく更新もせずにほうっていました。書き込みがあり、びっくりしました。
どうもありがとうございます。
「二重性」はたぶん私は「嘘」を書いています。教育社会学の論文として
流通するようにこちらに都合よく改釈をしてますから。
解釈に疑念などがあればご指摘いただければ幸いです。アルチュセールは息も詰まるような理論の厳密性と
そこには接合しそうでいまいちずれた政治的なスタンスとの兼ね合いが
うつ病にもなるわなあ、という感じで、まあ、そこが面白いのですが。
広松渉みたいに仏教にでも走ればいっそ楽だったかも。
後年の偶然性の議論なんかはそんな色を読めなくもないですが。今は教育関係の論文を抱えていて、しばらくアルチュセールねたからは
遠ざかるかもしれませんが、またよろしくお願いいたします。#でも、こんなに更新をサボっているとリピーターはつかないのでしょうね・・・。
こんにちは。このページは「マルクス」で検索していて知りました。
わたしはウソでもしろうとのアルチュセール・ファンなので、研究をしておられるかたの解釈に「えっ!そーだったの」とびっくりすることしばしばです。社会学じゃ そう使うのね。価値の二 重性について、ネグリと同じ過ちを犯していただけあって わたしはツボがズレていました。
京大といえば学部の頃、ブル民(=ブルジョワ民主主義)原理主義の院生に、現実政治にたいするスタンスの極端さを諭されて、不快だったことを思い出しました。この人は穏健ぶるわりに、自分が有する特権と、そこに起因する暴力(ex;研究所や大学に籍を置いていない在野の人間のレジュメの資料的な欠落を公開の場でなじる)にかんして鈍い人だったのですけどね・・・。最近はリベラルぶる人に性格的なおごりがあるようで 悲しいなーとおもってます。かりにどっかの組織に入っても そーいう奴には なりたくないのう。(すいません、ぐちってしまいました)
ちなみにわたしが一番好きなアルチュセールの書き物は、偶然性唯物論についての 詩みたいな奴です(やっぱり 躁鬱でもないと A10神経は ドライブしないのね)。
ともあれ 今後も楽しみにしています。