言語の物質的側面、確かにイメージしづらいですね。
大学生相手ならシニフィアンとシニフィエとか言ってればごまかせそうですが(笑)。
ずばり言い当てるのは難しいですが、傾向的には
言説よりも発話行為
というような感じでしょうか。かなり無責任ですが。
「言語の物質的側面」。これをうまくこういう話になじみのない人(というかまず自分自身に対してですが)に説明できる仕方があるかどうか、ちょっと悩んでいます。
この表現だと「音声」、つまり空気の振動のことだと常識的には思われてしまいそうですが、そういうことでもないんですよね。「音」そのものではない。かといって「言葉の意味」だと逆に戻ってまさに象徴体系になってしまいますし。「音」が「意味」に変換されるその境目の、のっぺりした瞬間と言いますか、あるいは「言葉そのもの」としか言いようがないのかな、という感じがしますが。
> 象徴体系は言語を通して機能するが、言語は象徴体系を裏切る、というのと同じような仕組みなのでしょうか?
ほとんど同じことだと思います。ただ「言語」はちょっと微妙かも。
捉えようによっては言語=象徴体系ですから、言語の物質的側面を強調したほうが
この事例には近いかもしれません。
ということで言うならば
象徴体系(例えば言説)は言表(エノンセ)を通じて機能するが、言表は象徴体系を裏切る、というような感じでしょうか。
「物質」、私にもよくわかりません。
お返事ありがとうございます。
あのお話での、「制度は、例えば身体という物質を通して機能するが、物質は制度をしばしば裏切る」ということはとても分かりやすかったです。
それは、例えば象徴体系は言語を通して機能するが、言語は象徴体系を裏切る、というのと同じような仕組みなのでしょうか?それともそもそも私は同じことを言っていることになるのでしょうか?
たぶん、物質、という概念が私はまだいまいちよく理解できていないのだと思います。
質問魔ですみません。ご迷惑でしたら流してくださいませ。激遅レスでも全然かまいません。
あ、LMNTREEさんはムギさんだったのですね。
不勉強なものでカントロビッツの議論は知りません。
というわけで、的外れな回答になるかもしれませんが、、、
「何デシリットルだとかいう過剰な報道」はまさに制度が身体を侵食し、
イデオロギー化している事態のように思えます。
制度は、例えば身体という物質を通して機能するが、物質は制度をしばしば裏切る、
そんなストーリーであの文を書きました。
こんにちは。
はてなではLMNTREEで書き込みました。
こちらで続けていらっしゃったのですね。
なんかまったく的外れな質問かもしれないですけれども、、例えば昭和天皇が死去する時の、下血が何デシリットルだとかいう過剰な報道は、はたのさんのわくぐみですと「制度」なのでしょうか、それとも「身体」なのでしょうか。死にゆく体という意味では当然人間としての身体性を喚起させるものだと思うのですが、ではなぜあれほど過剰に報道したのか?報道すればするほどなにか超越的な存在としての、つまり、ああいうこまごまとした情報がなにやら非現実的なものとしての印象を与えたようにも思えます。
はたのさんのいう、「身体」と「制度」という二分が、カントロビッツの言うところの、(有限的なものとしてと超越的なものとしての)王権の二つの身体という考えとどう重なってどう異なるのか、昭和天皇の危篤報道を軸に考えるとなかなか複雑な気がします。
もしかしたらただなにか勘違いしているだけかもしれませんが。。。
今、忙しくて、このように遊んでいる場合ではないのですが・・・
アイデアに行く詰まると、横にずれて事をしたがるのです。
今は、マーケティングとか、カラーマネージメントとか、HTMLとは、どうでもいいような世界で・・・
本当は、安藤忠雄みたいな建築をやりたいのですが・・・
でも、ケッコウ、広告も面白いですよ。
あ〜だいぶ前にちょっとだけやりかけて、そのまま放置ですね^^;。
なんかまともな本を読まないと頭が腐る気もするんですが、
なかなか「よしやろう!」と気合も入らず。
ここの更新もままならない状態で。
ぼちぼちなんか考えようかなあ、都も思いつつ。
まだまだありました。
高田さんの「人間の未来への哲学」
新時代工房の「喫茶店のソクラテス」
ゴルデルの「ソフィーの世界」
今村さんの「現代思想のキーワード」
雑誌「思想の科学」(マルクス・101年)
雑誌「唯物論研究」(現代のマルクス像−マルクス没100年)
などなど・・・
あくまでも芸術系でしたので、
絵筆が専門です。
どのような書物はだいぶ前に捨てたつもりなのですが・・・バーチャル読書会 投稿者:けいちゃん 投稿日: 9月 5日(日)13時05分11秒
哲学の授業の一般教養は三宅さんの「哲学概論」で基礎を学びました。
社会科学研究会では、ジャーナリスト・千田善さんと一緒に幹事しましたよ。
学生時代のテーマは、「マルクス主義美学」で、
永井潔に批判的で、中野徹三さんに惹かれておりました。
また、それ以外にも書物が残っていました。
イリー・イーグルトンの「批判の政治学」
島崎さんの「ポスト・マルクス主義の思想と方法」
浅田さん等の「マルクスの現在」
講談社新書の「現代思想を読む辞典」
宝島の「現代思想・入門」など・・・
バーチャル読書会のテーマは、
『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』 なのですね。
もうマルクス主義も遠い昔の思い出で、
書棚にのこっているテーマ関係の書物は、
ラクラウの「ポスト・マルクス主義と政治」
ルッカチの「美と弁証法」
イーグルトンの「ポストモダニズムの幻想」
くらいしかありませんが・・・
ご無沙汰しております。
バーチャル読書会・・・
うーん!!・・・たいしたものですね!
関心しました(笑)
お返事遅くなりまして。
ほんと、エラーが出てしまいますね。なんかそんな案内来てたっけかな。
ま、フリーだからどうなっても文句は言えないんですが、
それでもひとこと何かメールくれてもいいのに。
こっちの掲示板で継続しますか?
レス激遅ですが(笑)。
こんにちは。おひさしぶりです。
「バーチャル読書会」に入ろうとしたのですが、エラーが出てしまって入れません。私のパソコンの環境のせいでしょうか?それとももうログが消えてしまったのでしょうか?
この前本屋に寄ったらその本がありまして、なんとはなしに買ってしまって読んでいるのですが、どうも私の頭ではよくわからないところが多くて…。そういえばはたのさんのところでレヴューをしていらっしゃったと思って覗いてみようとしたのですが…。
やはり楽しちゃだめですね。
しかし、マルクス自身も論敵のことバカにするのが相当好きな人だったわけで、ある意味仕方ないんじゃないかな。
まあ、こういう意識が権威主義ではなく、自分自身の能力を高めるという方向に向くのなら、それはそれでかまわないとは思うのですが。横から失礼。
偉そうな事は、言えない私だけど、
外的な力に、動揺しておりませんか?
本当に、自分は偉くて、庶民は馬鹿だとほざいている、
自称マル○ス主義教授が多くて・・・
でも、はたのさんも、ひとだから、
研究というもののスミにいる以上、
へこへこしなければならない現実・・・
研究、やってないから報告棄権したんす・・・。
・・・・・・教育社会学会
ちゃんと、研究やっるんじゃないですか!
はたのさん、ご無沙汰しております。
如何お過ごしでしょうか?
私は、バタバタしておりまして、
何とか、7月になる前に、カキコできたしだいです。
近況でも、お聞かせ下さい。
僕の「督促」に答えていただいたのでしょうか。はじめまして 投稿者:t 投稿日: 5月30日(日)00時08分8秒
ともあれ、ありがとうございました。
興味深く拝見させていただきました。
行きたいけど都合がつかなかったので、関西社会学会のラウンドテーブルと吉田先生の感想が早く読みたいです。お手すきの時にでもよろしくお願いします。
>ユーミン論ならユーミン・中島みゆき比較とか
これいいですね!
ユーミンには、子供の頃、生活の中に溢れていましたので、
いまじゃぁ・・・ほとんど聞きませんが、染み付いております。
中島みゆきは、意識的には聞きませんでしたが、
時の人でしたから、自然に聞きざるおえないという記憶の中に、
言いたい事があるような・・・
その対比・・・なんか、ポスト構造主義そのままですね(^^)
でも、こいつらの年って、お姉さんじゃなくて、
ほとんど、我々のお母さんだと思わない(笑)
ご無沙汰しておりました。
フリーターのくせに(だからこそ?)忙しいです。
貧乏暇なし、というところでしょうか。
「三十路過ぎの奴」、、、^^;。
高橋愛と藤本美貴を抑えておけば完璧です。
私的には田中れいなが一押しですが。
ユーミン論ならユーミン・中島みゆき比較とか
サザンなら「TUMANI」の評価とか、引っ掛かりがありそうですが。
ゲージツはまったく私は分かりません^^;。
篠原ともえがなぜここに?
微妙に不思議。
10日くらい、ご無沙汰しております。
いろいろ話題を探しているのですが・・・何かないです?
ジョンソンと石川が卒業して、矢口がリーダーらしいですね!
私が、・・・・・娘。を理解できたのは、
三十路過ぎの奴と保田まで・・・矢口も卒業したら・・・
本当にまったく認識不可能な集団になってしまうでしょう(笑)
そうですね!
現代を象徴する話題がいいですね。
エンターテーメント系論では、ユーミン論、サザンオールスターズ論
・・・はたのさん敵には、やはり、モーニング娘。論でしょうね
・・・少し勉強してむてもいいですよ(笑)
芸術系論では、日比野克彦論、安藤忠雄論などいかがでしょうか
・・・篠原ともえ論でもいいですが(笑)
嫌なことですか。。。
私は幸か不幸か、そこまで関わらなかったので、あくまで*頭の中で*
左翼思想と格闘していただけで。
なんかいい話題ありませんかね?
フリーですか!
私も、マルクス主義には、だいぶご無沙汰です。
私は、トロツキーの思想は理解できますが、
いわゆる、日本の「新左翼」の連中の行動は、スターリン主義だと思います。
かといって、代々木のすべてがいいなんて言う、教条主義は馬鹿だし、
代々木にも、トンでもないスターリン主義者が多いですし・・・
この話題、嫌なことばかり思い出して、やめましょう。
> 唯物論研究協会
いえ、会員ではないです。
特に最近「マルクス主義」自体に関心が持ちにくくなってますし。
ま、めんどくさがりなだけですが。
トロツキーは思想内容は良く知らないですが、行動自体は割りと好きです。
ちょっと、好ましくない話題だったかな(笑)
話題変えよう!!
>精神の自由なんてものはブルジョアのデマゴギーであって(以下略)。Re:こんにちは 投稿者:はたの 投稿日: 5月 6日(木)23時34分40秒
同感です!
>「問題」とすら認識できていないかも。。。
そういうパトス的な認識が重要だと思います。
是非、論じてほしい・・・
>モーニング娘。とかその辺は、なんというか、
>学校の生徒を観察しているような、
>そういう素材としてとても興味深いのであって、
現代日本を論じる場合、アルチュセールを論じる素材として、
モーニング娘。こそ、格好なターゲットということでしょうか?
さて、話は、突然変わります。
お偉い先生方が集っている団体に、
唯物論研究協会がありますが、会員なんですか?
あそこって、共産党主流派、ポストマルクス主義派、トロツキー研究所派・・・
という感じに分かれていると思うんだけど、
最近、どうなっているの?
当初、トロツキー研究所系に共感していたけど、なんか、近年、おかしいな・・・と思っております。
どちらかというと、アルチュセールなどを論じているポストマルクス主義派・・・と思っていたのですが・・・それすら、疑問を抱いております。
結局、若い感性に会わないというか・・・先生方に叱られますね!
>本質的なモノを追求したくても、食べるので精一杯!
>食べる為に、即物的なコトやモノで一番にならないと食えない・・・
まったくです。
精神の自由なんてものはブルジョアのデマゴギーであって(以下略)。
>根本的な問題がわかっていないんだよね?
>是非、論じてほしい!
はは。一応教育社会学出身者としてはいつかは、とは思いつつ、
本人が引きこもりに共感しているので、「問題」とすら
認識できていないかも。。。
>キョンキョンや川島直美の方が、ドールズ的に啜られます。
キョンキョンと川島なお美が等価ですか?
んー、ぴんと来ない(笑)。
モーニング娘。とかその辺は、なんというか、
学校の生徒を観察しているような、
そういう素材としてとても興味深いのであって、
決して性的ななにかを得ようとしているのではないのであって、
すなわち私はロリコ(以下省略)。
>> しているつもりなんだけど・・・
>良いですねえ。そういう理念的なものを仕事にこめられる、というのは。
>私の仕事はもっと即物的なもので、ひたすら言葉の浪費をし続けている感じです。
即物的なコトやモノの消費を煽っているだけですよ。
ボードリアールそのものです。
本質的なモノを追求したくても、食べるので精一杯!
食べる為に、即物的なコトやモノで一番にならないと食えない・・・
>「ヒッキー」。はい。宇多田ヒカルも好きですが、
>私のヒッキー系とは単に
>引きこもり系の「ヒッキー」だったりします。
父が某県の不登校父母会の副会長で、
引きこもり問題の専門家なんだけど、
根本的な問題がわかっていないんだよね?
是非、論じてほしい!
>マイルス・コルトレーン、、、すみません、全然わかんないです。
世代的に、マリサリスなどの若いジャズの新伝承派が流行っていたとおもいんだけど・・・
>私は安倍なつみの中にアルチュセールを、
>松浦亜弥の中にジジェクを見る
>モーヲタです。
私は、学生時代から年上志向だったようすが・・・
キョンキョンや川島直美の方が、ドールズ的に啜られます。
> アルチュセールもドールズもガダリもボードリアールも原書では到底読めないんだけど
> ある意味で、そういうパトス的なものを、スキャナーで取り込んだ、デザイン活動を
> しているつもりなんだけど・・・
良いですねえ。そういう理念的なものを仕事にこめられる、というのは。
私の仕事はもっと即物的なもので、ひたすら言葉の浪費をし続けている感じです。
「ヒッキー」。はい。宇多田ヒカルも好きですが、私のヒッキー系とは単に
引きこもり系の「ヒッキー」だったりします。
マイルス・コルトレーン、、、すみません、全然わかんないです。
私は安倍なつみの中にアルチュセールを、松浦亜弥の中にジジェクを見る
モーヲタです。
やっぱ、すき間で生きておりますか?
同じように、毎日、パソコンとクライアントとの狭間で、冷や冷やしならがって生きているという感じでしょうね!
アルチュセールもドールズもガダリもボードリアールも原書では到底読めないんだけど、
ある意味で、そういうパトス的なものを、スキャナーで取り込んだ、デザイン活動をしているつもりなんだけど・・・
松浦あやとかいう世界は、小学生でわすれてしまったけど、ヒッキーならってイメージもあるけど、私的には、マイルスやコルトレーンの方が、コラボレーションしやすい感じかな?ヒッキーのウラにアルバート・アイラーを感じますもの・・・
マルクス・・・遠い世界に過ぎ去ってしまったけど、そういう感じで私の中に今の刻まれているのかな?
けいちゃん様
いらっしゃいませ。
わたしは、
零細下請け業者で、ヒッキー系のマルクス主義の少し前は若かった元研究者です。
社会の隙間でIT教育という胡散臭いものを商売にしております。
>たまに書き込みさせて頂きたい
あまりやる気のないサイトになっておりますが、また気が向いたら
是非いろいろ話題を提供してくださいませ。
お医者さんで、イケテル系のマルクス主義の若い研究者なのでしょうか?
面白いので、笑いながら詠ませて頂きました。
大学で社会科学研究会の洗礼を受けた時代を思い出しながら、親近感をかってに抱いております。
私は、社会のすき間で、広告というものを商売にしております。
よろしければ、たまに書き込みさせて頂きたいと思っておりますが如何でしょうか?
私の理解では、
単に観客の位置に主体を置くような、過去の精神分析応用の理論に対する、強力なアンチとしてジジェクがぼかーんと出てきた、っていう感じがするのです。(アルチュセール的なラカン応用を映画理論に適用したようなタイプの70年代の理論から、ジジェクは圧倒的に進歩してる感じがします)
いすれにせよ、主体という概念は、ほんと使い道が幅広い概念(能動的、受動的、意識低、無意識的等々)なので、これを利用しようとすると、ちょっとめまいしちゃう的状況、って感じがいたしまする。
>私はルーマンは全然読んでないのでさっぱり分からないのです
はは。
私もルーマンは瞬時に挫折した口です。。。
>主体の移行というか、転移の方向性の逆転
なるほど、なるほど。
私が主体を狭く捉えすぎなのかも。
転移の方向性というのは分かりやすいですね。
>倒錯的な主体に翻弄される分析家、みたい構図と近いのかな、などとも思ったのです
確かに精神分析の枠組みだったら、主体は倒錯者の場所に置かれるのか。
言われてみればそうですね。
私はストリップ劇場(あるいはハードコアポルノ)のイメージで、
観客を主体に置くイメージしか持っていませんでした。
ジジェクのせいだ(責任転嫁)。
>ルーマンなんかも絡んで来そうな感じ。
>教育の場のメディアは「知識」ではなくて「信用」だとか。
私はルーマンは全然読んでないのでさっぱり分からないのですが、コミュニケーションをそのコンテンツ(知識)としてではなくて、関係のありかた(信用)で捉えるーーという理解でいいのかなーーという方向性は好みでありまする。
>ただむしろ主体の移行は逆のような気もしますが。。。
主体の移行というか、転移の方向性の逆転、みたいなことが言いたかったのだと思います。主体って言葉は使い方が難しいですね。この辺ははたのさんの『教育における「猥雑さ」』の「生徒が突然「先生にセクハラされた」と叫ぶ場面」が興味深かったものですから。『教育における「猥雑さ」』では、先生の側が欲望の主体になってしまう状況が前景化されているわけですが、それが、倒錯的な主体に翻弄される分析家、みたい構図と近いのかな、などとも思ったのです(もっともそういう構図があるとしての話ですが)。教育の制度的空間を裏で支えるわいせつ性を逆手にとった倒錯的主体としての生徒、先生にとっては、先生よりわいせつ性に通じている「知っているはずの主体」としての生徒。しかしこの場合生徒は、ほとんど露出狂的に自己をさらけ出している倒錯者的存在であり、先生はそれに引っかかる間抜け、ってことになるのですが、まあそんなイメージでした。かなり通俗的なパラノイアックな図式ではありますが・・。
シーナさん(無題) 投稿者:シーナ 投稿日:12月11日(木)18時53分42秒
> 貨幣を通してのコミュニケーション同様、信用の喪失による恐慌(学級崩壊)の
> 危機をはらんでいる。マルクスが資本論でみたことが、学級崩壊についても適用
> できる部分があるかな、
ルーマンなんかも絡んで来そうな感じ。
教育の場のメディアは「知識」ではなくて「信用」だとか。
> 「知っているはずの主体」としての先生から「知っているはずの主体」としての
> 生徒への倒錯的移行(ラカン-ジジェク的)
ふむふむ。これ、何かで使えそう。
ただむしろ主体の移行は逆のような気もしますが。。。
教育は元来は「無力」かつ「欲望しているはずの」生徒を主体としていたものが、
「知っているはずの」教師の無力さが主体を引き受けさせられる事態になっている、とか。
こんにちは
はたのさん、カエルさんの対話を興味深く読んでおりました。
学級崩壊は、貨幣を通してのコミュニケーション同様、信用の喪失による恐慌(学級崩壊)の危機をはらんでいる。マルクスが資本論でみたことが、学級崩壊についても適用できる部分があるかな、なんて思いました(つまり普通は語られず意識されなかった学級における信用関係の露呈?)。まあ、これだと、柄谷行人の教える-学ぶ立場に関する議論そのまま、って感じですが。あるいは、通貨としての先生(フェティシズム論的)、「知っているはずの主体」としての先生から「知っているはずの主体」としての生徒への倒錯的移行(ラカン-ジジェク的)なんてのもありっすかね。
カエルさん
>発見しました。「語られなかったこと」。
>
>「学級崩壊」です。
なるほど。確かにそうかもしれませんね。
「学級崩壊」は何があっても「学級」という集団の存在を
前提としていたモダンな教育現象の枠を外れた枠組みでしか捉えられない、
とかそういう話はありそうですね。
いま放映中の竹内豊の「ヤンキー先生」も極端な状態を描いているようで、
最低限の歯止めとして「学級」は根強く残っている、というか、
それが支えとなっている。
それでは「ライオン先生」は?とか思考が進みそうです。
学級なき教育ドラマとはどのようなものでありうるか、
それは「面白い」のか。
>結局ミソは「金八」が「語ったこと」ではなく、
>「語らなかったこと」の中に構造を読み取る、というのが
>構造分析には必要ではないか、と。
遅ればせながら、というかなんとなくダラダラと執筆していたら
発見しました。「語られなかったこと」。
「学級崩壊」です。先に挙げた「従来型の図式」といい「聖職者としての金八」
といい、どうも一見すると最近の現象に対応しているようで
そうでもないかもしれないぞ、このドラマ
というのがようやく透けてきました。
> ニュートラルあるいは斜めからバッサリと切っていくのが好きで
> 社会学を選んだのですが、自分に文学(物語)風に描く力があるかなあ・・・。
その辺は好き好きですから、バッサリ調でもいいと思いますよ。
それでも論文には何らかのストーリー性は持たせたほうが
読み手は面白いとは思いますが。
> そうした新しいタイプの問題現象の原因が
> 結局のところ「教育ママの過剰期待」や「偏差値教育に傾倒する硬直的な教師」
> といった(80年代の金八と同じ)従来型の図式で説明されている。
ふむふむ。
そのあたりの「滑稽さ」みたいなのを
あぶりだすようなのが書ければ面白そうです。
ニュートラルあるいは斜めからバッサリと切っていくのが好きで
社会学を選んだのですが、自分に文学(物語)風に描く力があるかなあ・・・。
あと、ふと思いついたのですが
「最近の子どもは何を考えてるか分からない
→サカキバラ事件のような不可解な事件に象徴されている」という常識(社会通念)
があり、実際に、2000年の第五シリーズでは兼末健次郎を軸にして
「優等生の逸脱行動」や「兄の引きこもり」など、
80年代とは異なった新しいタイプの問題現象を扱っています。
しかしながら、そうした新しいタイプの問題現象の原因が
結局のところ「教育ママの過剰期待」や「偏差値教育に傾倒する硬直的な教師」
といった(80年代の金八と同じ)従来型の図式で説明されている。
ということを考えてみたのですが、
これをどう組み立てて論文にしていくか・・・。
中間発表まであと二週間。。。
カエルさん
> A「教室空間=聖域、教師=聖職」という構図の崩壊と、
> B教室空間へのいわゆる「ポストモダン」の浸透、
ふむふむ。そういう感じのまとめが一般的でしょう。
>「金八の位置づけ、教師像」を分析・説明
ま、そういう感じになるかもしれませんが、
それを中立的に分析・説明してもあまり面白くならないので
金八をドンキホーテのような存在として
描き出すような、いわば「文学」っぽい調子で書くと
案外面白いかも。
思い付きですが。
> 谷口さん
お久しぶりです。
早速(でもないですね)リンク集更新しました。
またお邪魔させていただきます。
ホームページ更新いたしました(URLもちょっと変わりました)。もしよろしければ見にきていただいて、議論に参加して下さい。
失礼しました。
なるほど。。。確かに。
自分の思慮の至らなさを思い知りました(苦笑)。
うーん、正直いまの自分の力では4を見出すのがかなり困難ですねぇ。
ご指摘いただいたような<私事化−聖職論>教師像を巡る言説状況を検討して、
金八の位置付けを確認していくのが良いですかね。。。
これまでに読んだ「教育言説」関連の先行研究では、
クラスという共同体の解体とか、
機能システム分化による教師−生徒間の対話の不可能性とか、
要するに、A「教室空間=聖域、教師=聖職」という構図の崩壊と、
B教室空間へのいわゆる「ポストモダン」の浸透、
このAとBに至るまでの過程が述べられていたので、
これらを絡めて上の「金八の位置づけ、教師像」を分析・説明すれば良いでしょうか。
テレビで松浦亜弥をみながらレス。
んー、最近だんだんあややに屈服しつつある。。。
くやしい。
>「最近の教師はすっかり私事化(脱イデオロギー化)してしまい、
>教育サービスを提供する存在でしかない」という常識に対して、
>「金八先生はいまだに生徒の世話を無限定に引き受ける
>聖職者=教師の役割を全うしている」というドラマの設定。
>両者は矛盾しているわけですが、
これは4の例にはならないでしょうね。
「最近の教師はすっかり私事化・・・」というのには否定的な含意があって
その裏返しとして「金八先生はいまだに・・・」という教師に対する希望を託した
設定が出てきているのであって、これはまさに「1.(or3)」的反復の例に他なりません。
こうした言説的価値観は80年代も2000年になってもある次元で反復され続ける一方で、
しかしその強度は変化していて、80年代における説得力を現在は失っている。
それではそうした価値観の場所に来る「理想の教師」とは
どのようなものなのか、金八の現在における教師像に占める位置とは
いかなるものなのか、見たいにはなしは広げて行けそうかな、とか。
まあ、そんな感じのことを漠然と思ったりしましたが。
ありがとうございます。追加 投稿者:はたの 投稿日:11月19日(水)14時03分22秒
ただ、最近(←大学入学以来)頭を使っていないので、
アドバイスに思考が追いつかない・・・。
ええと、4に沿って具体例を挙げてみると、
「最近の教師はすっかり私事化(脱イデオロギー化)してしまい、
教育サービスを提供する存在でしかない」という常識に対して、
「金八先生はいまだに生徒の世話を無限定に引き受ける
聖職者=教師の役割を全うしている」というドラマの設定。
両者は矛盾しているわけですが、
この反復が「言説」である、ということですか?
え?よくわからない・・・。反復?
ご教授願います。。。
追伸
おっしゃるとおり、構想がまとまらない中でも
実際に何か書き始めた方が、新たな構想やアイデアが浮かんでくる、
というか言語化することで頭の中のモヤモヤしたものが形になりそうな、
そんな気がしています。
気がしているだけかもしれませんが。。。
えーと、で
3.の矛盾とか4.の反復を「言説」と呼ぶべきだと思います。
看護学校の採点が気が重くて何もやる気しない。
加えてデータベース関連のお仕事にはまってて
どんどん仕事の方向性が変わってきている。
ただ情報をいかに汎用性のある形で共有するか、
みたいな理念レベルの話にもつながる。
情報の独占が「大学」とか何とかの組織の
権威性につながっているところがあるので、
論文なんかがどんどんWeb上で入手できるようになれば
研究の形態も変わるだろうし、
ジジェクとか結構Web上に文章を公表しているし、
そういうスタンスは私は好きだったりする。
紙ベースの資料はほとんどゴミに紛れ、
電子データたるファイルもハードディスクの肥やしにしてしまうので
とにかく自分の仕事の成果物はWeb上に上げようというのが
今の仕事でやっていること。
職場の誰もついてきてくれてないけど。。。
>カエルさん
まずは序論を書き出す、というのは正しいと思いますよ。
構想を頭の中で練っているのと、実際にとにかく文字にしてみるのとでは
後者のほうが生産性は高いと思います。
文字にしていく中でロジックが練りあがってくることが多いので。
特に言説研究はそういう文字化することによるロジックの
組み立てが肝になる感じです。
>「ドラマはフィクションだから完全に現実を反映してるわけではない」
>→「だから言説のレベルで分析します」
んー、このロジックはちょっと弱い気がします。
これでは単に言説を使うことの消極的な言い訳に聞こえる。
そうではなくて、ドラマの中にこそ個別具体的な事例とは
まったく次元を異にした「社会的事実」が宿っているのだ
というぐらいのことを言い切らないと言説研究を積極的に
意義付けることは出来ないでしょう。
>「言説」と「ドラマ」の対応関係を見ていって、
>その中で食い違ってる部分を析出していく方がいいかな、と思いました。
>で、その「ズレ」の部分は現実の誤認あるいは脚本家の思想なんでしょう
んー。言っていることは正しいんですが、それでは社会科学にならないですね。
というかドラマとは別の言説とは何でしょう?
言説がすでにそこにあって、それと目の前にあるドラマとがずれている、
というのは、一般的にはそういうイメージは分かりますが、
言説研究でそういう枠組みはあまり面白くならない。
そうではなくてドラマの中に生起している社会構造を「言説」と呼ぶ
というべきだと思います。
一般に流布している(と考えられている)言説=常識とドラマとの関係を見るのなら、
1.「常識」とドラマが一致している→いわゆる「言説」
2.「常識」とドラマがずれている→ドラマの現実からの乖離
という部分はもちろんあることは確かですが、逆にその部分は
着目しても面白くならない。
そこで
3.「常識」とドラマが一致している→
なのにそこで語られるストーリーは矛盾を抱えている
4.「常識」とドラマが矛盾している→
なのにそこでは同じことが反復されている
というような部分を引き出してくることが必要かなと思います。
大筋は断絶/連続性の検討と↓で書きましたけど、
先行研究(言説研究)を見たところ、断絶の線があっさりとでてしまいそう
(というか連続の方の主張が見つからない)なので、
メインテーマを変えて「言説」と「ドラマ」の対応関係を見ていって、
その中で食い違ってる部分を析出していく方がいいかな、と思いました。
で、その「ズレ」の部分は現実の誤認あるいは脚本家の思想なんでしょうが、
さて、このあとどう結論に持っていこう・・・。
どうも。あいかわらず遅々として進んでいませんが、
骨格も固まっていないのに、序論というか、冒頭を書き始めてみたところ
「ドラマはフィクションだから完全に現実を反映してるわけではない」
→「だから言説のレベルで分析します」
というところが、どうもうまく説明できません。
正面からやるんじゃなくて、メタレベルというか表象を捉えたいのさ、
ということを言えば良いんでしょうが、うまく文章に出来ない・・・。
大筋というか骨格はとりあえず20年前と現在は「断絶」か、それとも「連続」か
で行こうと思ってます。
あと、いじめ言説に関する文献や論文にもいくつか目を通しました
(もちろんはたのさんの二重性の話も含めて)けど、いじめに焦点を当てるには
コンプリート不可能な第3、4シリーズ(88年と95年)が要るんですよねー。
あくまで噂の段階ですが、来年の2月にiMacのG5が出るという話が出てきてます。すると同じタイミングでPowerBookのG5も出るはず。G5になる時点でiMacのデザインが変わる可能性が高いですが、どうも来年早々新製品ラッシュになるかもしれません。まだ「噂」の段階ですけどね。
京都にも無料の無線LANサービスを行っているところを見つけました。
JR京都駅もやっていたのかな?
私が見つけたのは登録も何もなし、アクセスし放題(笑)。
・・・って
某パソコン売り場の隣のDrink Spaceですが、
って、要するに店頭用に無線を垂れ流ししているのを
パクッているだけなのですが。
あ、何の設定もせずに、無線LANをOFFにせずにパソコンを立ち上げたら
勝手につながっただけなので、あまりうるさいこといわないでね。
カエルさん
結局ミソは「金八」が「語ったこと」ではなく、
「語らなかったこと」の中に構造を読み取る、というのが
構造分析には必要ではないか、と。
禅問答みたいですが。
谷口さん
お久しぶりです。
まあ、あの連携はマイクロソフト側の妥協という気がします。
家電ではトロンが明らかに優勢ですからね。
マイクロソフトがつぶれることはないと思うけれど、
たぶん将来は「パソコンというニッチな産業の覇者」
として生涯を終えるのではないか、と。
トロンとマイクロソフトの提携、マイクロソフトの支配力が増大する、という意味ではあまりいい話のような気がしませんけど、以前のネットスケープとIEの闘争でHTMLが混乱しかけたことなんかを連想すると、ソフトウェアの世界が共通基盤を持つようになっていくのは、悪いことではないのかな、とも思います。
どっちにしろITの世界はものすごいデフレスパイラルに包まれているわけで、マイクロソフトにしても今の状態がずっと続くとはいえないでしょう。まあ、インテルやマイクロソフトの天下がいつまで続くのか、マックユーザーとしては面白い現実の世界のドラマとして眺めていたいなあ、と思ってます。アップルがその前に倒産するかもしれないけど‥。
なるほど、うん、ジジェクの真似事は、たとえ真似事でも、
・・・無理ですねw
おとなしく社会の構造や変遷を摘出していきたいと思います。
あとの問題は
>ストーリーで語られていることを、字面どおり読み取って、
>そこから問題点なんかを析出するというのは確かに「乏しい」。
ですね。「字面どおり」よりは一歩進んだことができないと
なんというか、社会学じゃなくなるような気がしますね・・・。
うーん。。
お久しぶりです。
まあ、教官殿のおっしゃるとおりではありますね。
流行がよいかどうかはまた別問題ですが。
難しいですよ、「一場面」のミクロ分析は。
バトラー、ジジェクがやっていますが、かなり名人芸というか、
センスと勘と言ったもの勝ちという感じの世界で、
方法論がきちんと確立されているわけではないので。
ただし「イデオロギー暴露」か「ミクロ」かという対立図式が
正当か、という問題もありますね。
なんにせよ言説研究なんてものは、それをイデオロギーと呼ぼうが呼ぶまいが
言説に宿る「社会の構造」を摘出しようとするのであって、
むしろ問題はそれをどう摘出するか、ということだと思います。
ストーリーで語られていることを、字面どおり読み取って、
そこから問題点なんかを析出するというのは確かに「乏しい」。
そうではなくて、まさしく「一場面」の象徴的な形式を取り出してきて、
構造にまで話を広げて行く、というのが
ジジェク・バトラーほか「流行」っぽい分析でしょうか。
論文全体の方向性について。お久しぶりです 投稿者:はたの 投稿日: 9月29日(月)06時49分22秒
今日、教官が言ってたことなんですが
「漫画や映画などを分析して、
そこに隠されているイデオロギーを暴露していくような形式の研究は
今では目新しさや驚き、といったものに乏しく、
例えば映画の一場面をミクロに降りていく分析の方がいわゆる流行りだね」
まさに私の金八研究はマクロなイデオロギー暴露、
に近いことをやろうとしていただけにちょっとショックです。
うーん。
どうも学会以来惚けています。
>シーナさん
>最新の「生産物」拝見致しました。
>私的には、ジジェクとバトラーとの対立関係に関連するものとして読めたです
まったくそういうつもりで書いているのですが、
たぶん報告時には誰も気づかなかったでしょう(苦笑)。
差別言説に欲望をどう絡めるか、というのがテーマだったのが
変な方向に寄り道してしまいました。
>カエルさん
まず「資料」としてなら80年代のいわゆる「教育書」とか
保坂展人の管理教育批判とかそんなのが使えそうです。
パート2あたりの学校を巡る議論状況みたいなのを確認する、という意味で。
当時は何が「問題」かがはっきり見えていた時代でした。
誰もが「教育評論家」になれた時代。
翻って今の教育問題は何か、それがドラマとしてどう描かれているか、
というような問題設定を私なら思いつくかな。
理論書という意味では「教育」にこだわる必要はないと思います。
フーコーでもアルチュセールでもジジェクでも(偏っているけど)
だれでも、ちょっとおもしろいな、と思う議論をこねくり回すのが吉。
教育という素材を好きな調理法で料理する感覚。
お久しぶりです。
実はまだビデオを見ている段階でして、中間発表も近づいているというのに
文章化も分析も出来ていないです。。。
何より、これだ、という文献が見当たらないです。
教育関係はほとんど初めて扱う分野なので。。。
(高等教育やら教養論あたりはかじったことありますが)
はたのさんの仰るように、「教育」と「言説」をキーワードにしたいんですが
何か良い文献はあるでしょうか?
最新の「生産物」拝見致しました。
私的には、ジジェクとバトラーとの対立関係に関連するものとして読めたです。
言説に主体の欲望の所在が絡んでるところが面白かったです。ラカンの4つの言説に関するシェーマ(のジジェクによる解説)を思い起こしました。
学会に出席して久々に復活気分です。
放置していて申し訳ございませんでした。
教育ドラマというと70年代の中村雅俊ものと金八もの、
それから90年代の何か、を比較する中で、
時代が教育に何を求めていたのか、
あるいは何が教育の理想とされたのか、
それがどう挫折していったのか、
というような教育言説が取り出せるかな、
と思ったりしました。
遅ればせながら
シーナさんのご指摘は同感。
呼びかけの構造を取り出さないと言説論は
スタティックなものになるばかりか
本当のところ、言説の構造を取り出したことにはならないのではないか、
などと考えていたりします。
ラカンの・・界ってやつだと、アルチュセールの主体構築論に対する批判的継承の流れを考えてみるとおもしろいのかなあ、と思いました。
ラクラウは、「呼びかけ」→「主体」みたいなイデオロギー装置論的議論をすっ飛ばして、主体の問題を言説の対立関係の問題に還元しちゃってるような気がします。その意味で、ラクラウはアルチュセールの理論の重要な部分の批判的継承をしないで、端的にグラムシにいっちゃった感じがするです(これ私の想像界入ってるかも[笑])。言説の次元で現実界的な裂け目の問題を導入していても、主体構成については未だにアルチュセール的想像界的なものを引きずってる感じがする(あるいはそのへん突き詰めて考えてない)のがラクラウって気がするです。ラクラウは、解説書もふくめて(笑)ほとんど読んでないので知らないだけかも、ですが。どうなんすかね・・・
一方ジジェクもバトラーも「呼びかけ」問題にはかなりきちんと取り組んでる感じはするです。
なるほど。助言ありがとうございます。
現在6を見終わって、4を見ているところです。
その後1、2を見る予定ですが、3がビデオ化されてないって
よくご存知ですねw
実は現象論、言説論と言われてもピンと来ない
不勉強な私なのですが、ぼちぼち勉強してみます。。。
誰を読めばいいんでしょうねえ。
権力を絡めて書くならやっぱりフーコーかな、と思ってはいますが。
でも、金八→教師の権威が云々、っていうあまりにありきたりなことを
やりたくはないんですよね。もうちょっと違った視点を模索中ですw
>カエルさん
シリーズ1、シリーズ2とシリーズ6を一通り見てみて、
何を感じるか、が面白いところです。
連続性を感じるか、断絶を感じるか、
それによって議論の方向も決まってくる、かも。
>シーナさん
割り込み大歓迎。
図式は、でも、よく分かりますよ。
前に別のサイトの方とお話したときにもそんな感じの話をしました。
社会学と文学の対立、みたいな。
で、社会学の持つ社会学的知というのが
既存の社会関係、社会構造に関する知だったりするので、
どうにも「答えを先に知っていて当てはめる」という
趣旨で社会学の批判をされたような感じ。
まあ、私は社会学畑だった(過去形)人間ですが、
まあ、その批判はあたっているかな、という感じでした。
>社会学の学会などでは、「表象論」とか「言説論」とかで
>テキストを扱う発表とかも、たくさんあるのでしょうか
まれにはありますし、そういうのが好きな人は多いのですが、
やはり主流にはなれないですね。
特に最近の業績主義の流れでは旗色は悪いです。
権力関係とかイデオロギーとか見っけるのは割に安直にできるのに対して
(既存の知を当てはめるだけだから)、
あくまで表象から出発する批評理論のほうが大変でしょう。
>ラクラウ云々の話
ラクラウはこの話で行くと「社会学」の人なんですよ。
言説の人なんだけど、権力関係をその外部に置く。
バトラーのように徹底して言説の次元で語る根気はない。
図式化すると(笑)こんな感じではないかと。
ラクラウ 言説(象徴界)←→社会関係(想像界)
バトラー 言説(象徴界)
ジジェク 言説(象徴界)←「現実界」
我ながら怪しい図式。
↓のような図式的な考え方って知の制度化そのものですな(苦笑)、失礼。
すいません。おじゃまします。思いつきで失礼。(無題) 投稿者:カエル 投稿日: 7月29日(火)01時04分16秒
ドラマの内容分析的なことだと、
・ドラマの中の諸関係を既存の社会学的知(とされてるもの)で料理する →社会学部
・ドラマの中の諸関係を既存の文芸批評的知(とされてるもの)で料理する →文学部
ただし、カルチュラルスタディーズ等のように、基本的には社会学でも文芸批評的知(記号論?)の導入ってな学際的パターンあり(そのかわし、テキストの中に権力関係とかイデオロギーをみっけなくちゃだめだったりする、ちゅうか権力関係やイデオロギーみっければなんでもありみたいな。)
なんかこんな図式があるようなきがいたしまする(笑)。
社会学の学会などでは、「表象論」とか「言説論」とかでテキストを扱う発表とかも、たくさんあるのでしょうか?
>「言説」の次元でどこまで語れるか、についての違い。
ラクラウも基本的には言説の人なんですよね、きっと。
そうですね。ラクラウの場合、例の「社会は存在しない」というヘゲモニー導入に関しては素晴らしいわけですが、一方で、言説の主体の抱える諸問題をいまいち突き詰めてない感じがします。ジジェクとバトラーは突き詰め方が違うというか・・。ただ二人のターミノロジーがあまりにも違うので(笑)。実は共通な部分もあるような気はしないではないが、そうほう譲れない部分もがっちり保持してるようですね。私的には、他の分野からはほとんどジャーゴンな精神分析的タームによる分析が、こと主体理解に関しては一日の長があるのかなあ、と、まだ理解途中ですが、素朴に印象っぽく思っております。この辺勉強中、御免(笑)。
ありがとうございます。自分は1です。
本音を言うと、就職決まってるので卒論はなるべく労力をかけずに適当に仕上げたいなー、
と思ってます(笑)。
(去年のゼミで経験して)フィールドに出てアンケートとかインタビューってのも面倒だし、
理論でいけるほどの蓄積や読解力もないし・・・。
ごたくを並べるのは好きなんですが、卒論に耐えきれるほどでもないし・・・。
ウチは指導教官がこの人、って決まってないから、先生にも聞きに行きにくい状況なんですよね。
あ、はい、なんで指導教官が決まってないかと言いますとね、
例の大学だからなんです・・・。吉田のw
>カエルさん
「金八先生」は非常勤先のゼミの学生には薦めたんですけど、
誰もやりませんでした(苦笑)。
ドラマはうまくやれば、面白くなると思うんですよ。
ただ「軽い」印象は否めないので、
1.卒業したら就職するつもりで、卒論はちょっと面白いものを書いてやろう
というのりなら、一押しですが、
2.大学院に進学して、将来は研究者に
なら、ちょっとリスキー。
2.でも本当にうまくやればいいんだけど、
学説史研究とかなんだかんだ受ける世界なので。
>あと、問題は切り口ですかねえ。。。
>教育に関わる現象、クラスという集団、教師−生徒間の権力関係・・・
>の変遷を追う、というのを考えてはみたのですが。。
まあ、そんな感じのところでしょうが、
注意すべきは、ドラマは「現実の反映」ではない、ということ。
というので、表象論とか言説論とか、ごたくを並べるといい感じ。
>シーナさん
>ジジェクとバトラーでは、(抵抗の、といっていいのかなあ)主体に
>関する考え方も違っていて(これは、別の本なんかでは、>どうやらフーコーに対する評価の違い・・・・
完全に同意です。
「言説」の次元でどこまで語れるか、についての違い。
ラクラウも基本的には言説の人なんですよね、きっと。
はたのさんこんにちは。いつも楽しく読ませてもらってます。
私は社会学を専攻しているのですが、卒論のテーマがなかなか決まらずに苦労しています。
この前何気なくテレビを見ていたら、昔の「金八先生」の再放送をやっていまして、
ふと、これをテーマにしたら面白いかな、と思ったんです。
どうやら金八先生は1979年から始まって、全部で6シリーズ放映されたそうです。
(私自身は第5シリーズしか見たことがないです。)
レンタル等で全部集めてきて、歴史的に記述、分析したら社会学の論文になるかな、
と考えたのですが、どうでしょうか?
少なからず世相を反映してきたドラマだと思うのですが。
あと、問題は切り口ですかねえ。。。
教育に関わる現象、クラスという集団、教師−生徒間の権力関係・・・
の変遷を追う、というのを考えてはみたのですが。。
そもそもこれで卒論になるのか、そもそも卒論が何なのか良く分かってないんですがw
はたのさんを始めここにいらっしゃる社会学の先輩方のアドバイスがいただけたら、
と思って書き込みました。良かったらお願いします。
例のバトラー、ラクラウ、ジジェク三つどもえの本ですが、話題が多岐&細かい哲学的議論のためなかなかむずいのですが、わりと途中までは、バトラーvsジジェク的な雰囲気なのかなあ、と思っていたら、最後にジジェクとラクラウの間の違いがぐわっと大きくなっていって、そのへんは読み物として面白かったです。
残余的なもののアンビバレントな地位に関しては全く同感です。
ジジェクとバトラーでは、(抵抗の、といっていいのかなあ)主体に関する考え方も違っていて(これは、別の本なんかでは、どうやらフーコーに対する評価の違いに現れているようですが)、その辺も興味あるところです。
シーナさん
残余とヘゲモニーあるいはイデオロギーの問題が
多分今の政治傾向を読み解く上での鍵概念になる気はします。
イデオロギーの呼びかけからすり抜けたものが「残余」なだけれど、
それはなお、何らかの呼びかけに吸着しようともがく。
だから残余は確かにイデオロギーに抵抗する核となるけれど、
逆に強力にイデオロギーを組織する核ともなる、
そんな感じがしています。
一切の「物語」を相対化するシニシズムが
ナショナリズムと結びつく、みたいな。
私はこうしたうごめきに対する主戦場は
バトラーよろしく「物質」ではなく「言説」だと思っています。
「残余」をどこに吸着させるか、という。
お返事どうもです。
それにしてもどうしてマルクス主義に興味を持ったのかが気になったり。
まあ「本当の意味」なんて誰もよくわかっていないとは思いますが。
大変参考になりました。(ほんとです!!)自力で調べたり、はたのさんや教授に聞いたりして、なんとかおぼろげにわかりました。
「マルクス主義」という言葉自体はいろんなところで使われているけど、本当に意味を理解している人はそんなに多くないと感じました。まぁ、私や私の周囲の人が無知なだけかもですが・・・。(たぶんそうかな)
でも、今回質問をしてみて、より興味がわきました。これからも理解を深めるべくがんばります。
お返事ありがとうございました。
めがねさん
「マルクス主義とは何か?」
すごいラディカルな問い^^;).
んー、答えようはいくらでもありそうだけれど、
そもそも大学でどんな文脈で聞かれたのか、によっても変わりそう。
まあ、一言でいえば、現代先進国社会の基本的な社会システムである
資本主義に対する有力な批判を行う思想、という感じでしょうか。
一方では古くから資本主義に対するオルターナティヴとして
社会主義(→共産主義)というユートピアを提示し、
その力でもって、現実の「社会主義」国家を樹立する原動力となり、
他方ではそうした現実的な権力奪取とは異なる
社会批判の思考形態を提示しつづける思想として今なおい影響力を
保持しつづけている。
基本的な思考形態としては
社会のさまざまな現象・矛盾は「経済」という土台、
そこに蠢く諸力によって規定されている、と考える。
んー、簡単な説明になってないですね。。。
>荷物を棄ててそれでも残ってる
結構なんというか、ある意味実存主義的?な味わいもでてくるようなきがしなくない、いわゆる否定神学(笑)。ちゅうか、結局運動の主体(担い手?)って、そんなもんなんかも・・・。いや、でも、テロリストって、荷物を棄てるどころか、逆に大文字の荷物をしょってますよね。棄てるからこそ可能になるある種の同一化、ってことなんすかね?だとしたらジジェクの理論って結構テロリスト的過激さをもってるってことですな。これは「アンチ・オイディプス」どころではない(?笑)。
否定神学をまさに神学(倫理的なもの?)ととらえるならば、残余の主体って、いっさいの同一化の残余(残りかす)どころか、実は、その地点からの大文字の神(教義であれ、ある種のイデオロギーであれ、階級闘争であれ)との同一化をむしろ目指す"教え"、ってことになるのかな?
だから、残余の主体のようなものと社会的な次元がどう結びついてくるのか、あ、バトラーが、「偶発性・ヘゲモニー・普遍性」でジジェクに投げかけているような疑問とほんの少しは重なるのかな(邦訳24ページ)。切断線を引かれた主体とヘゲモニー理論との関係というような問いかたをバトラーはしてると思われます。
この辺はどう考えておられますか?
ちゅうか、ジジェクは、同書(156ページ)で、残余を「内面性の不可能性の条件」って言ってる。これが答えなのかな。そうした残余の主体において現れる「物質性」にこだわり抜くこと。内面において現れる「外部性の痕跡」を見つめること。
そこから逃げないこと。ってことっすかね。へんな逃げ方することは、すなわち、その残余にイデオロギーが入り込んでくることにほかならない、ってことなんでしょうね。と読めば、浅田彰の逃走論の批判的補足になる(笑)。
大学の授業の中で「マルクス主義」という言葉がよく出てきます。シーナさんにレス 投稿者:谷口 投稿日: 5月20日(火)15時22分58秒
私はそれがなんだか知らないのです。友達に聞いても、「ん〜なんか社会主義の〜」などと言うばかりで、本当は何なのかわかりません。
ずっと日本史しかしていなかったので、高校時代からずっとわからないまま・・・。
そう簡単には説明できることではないのでしょうが、簡単に言って「マルクス主義」とはなんですか?
>要するに米国は自国の行動を国際関係法上明確に正当化することができないにもかかわ
>らず、ブッシュは超デケー面してる、みたいなことですよね。
そうです(笑)。
でも、論理的に鉄壁に煮詰まった状態で人間が行動を起こすというのは、むしろ稀なことかもしれませんけどね。人間の行為を起こす動機になっている論理と、実際の行為、そして事後的にそれを説明する論理というのは、一対一対応になっていることの方がむしろ稀かもしれません。その隙間を突いていければいいのにな、と思っているんですけど。
>シーナさん
>ジジェクの主体って荷物を棄ててそれでも残ってるもののことなんだと思うので。
なるほど。残余としての主体ですか。
確かにそういうまとめはいいかんじですね。
谷口さん
コンテンツ、よろしく(笑)。
はたのさんにリンクしていただいたホームページ、消滅させていたんですが、このたび新たに作り直そうかと思っております。興味のある方はぜひご来訪下さい。
>そうしてすべてを捨ててしまうというほどの荷物もないくせに、わずかな荷物さえ捨てる勇気もない
ズシン、ときました。
ジジェクの主体って荷物を棄ててそれでも残ってるもののことなんだと思うので。
「重層的決定」!!
私とあろうことが。
自分でも信じられませんが、忘れてました。
そうですよね。重層的決定ですね。
元の課題アルチュセールとウォーラーステインの考え方をどう思うか、
というのが、この両者をどう位置付けさせたいのか
対立させたいのか、同列に置きたいのか、
いまいち不明確だけど、
私だったら、アルチュセールから入り、
現在の難民を生み出す力学を
経済的要因と、政治・宗教的・文化的要因との
二重性の中で説明し、
そうした状況の後付け的な意味付け-
世界システムとそこからはじき出され、それゆえ
それを揺るがす力というような-
をウォーラーステインを使って書くかな。
頭を使わないとほんと人間退化することを改めて思い知らされました。
このサイトの訪問者様、どんどんネタを振ってください。
リハビリ中なので反応は鈍いですが。
定期巡回中にはたのさんの書き込みに遭遇(笑)。
世界システム論(ウォーラスタイン)と重層的決定(アルチュセール)の関係、ってあたりはどうでしょう。重層的決定ってマクロっぽくないですか。でこの二つをヘーゲル的ジジェクで斬るっ!という妄想。
こっちに書き込みがあると届くはずのメールが届いていなかった。
またおいおいレスしていきます。
よろしく。
こっちをチェックするの忘れてました。
もう間に合わないでしょうね。
というか、もう見に来ないと思いますが、一応レス。
>テーマは難民関係で、「アルチュセールとウォーラーステインの考え方をどぅおもうか?」
またすごいテーマ。
ウォーラーステインとアルチュセールの比較ってのは
ちょっと珍しいかも。
アルチュセールって意外と入門書みたいなのが少ないし。
アルチュセール自身の書いたものは翻訳でも結構難しいし。
またウォーラーステインとアルチュセールって
近いところにいそうで案外交錯しない。
「難民」問題なら多分ウォーラーステインから入るのが
やりやすくて、アルチュセールをそこにどう絡ますか、か。
難しい。。。
というので、何も思いつかない。
申し訳ない。
課題を出した人の意図が読めないし。
アルチュセールって以外と「ミクロ」な発想をしているから、
ウォーラーステインとはほんと、接点が難しい。
アルチュセール事態をざっくり知るなら、
「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」が
短くてまとまっているかな。
ただし後半は難しすぎるので、前半だけをざっくりと。
世界システムと「国家装置・イデオロギー装置」の
類似点・違いを明確にしていけば、
ざっくりとは何かかけるかも。
うーむ。我ながらひどい回答。
はじめまして☆
大学でアルチュセールについてのレポートをかかなければならなくなってのぞいてみました。
テーマは難民関係で、「アルチュセールとウォーラーステインの考え方をどぅおもうか?」
なんですけど、一週間くらいでよめるそういう関係の本ってありますか??
おしえてください!!おねがいします^^
連投すいません。
>国家以上の国家のリーダーとしてのさばってる
そうしたリーダーを選ぶ米国民も、当然国民であって国民以上のなにかを担ってしまうということができるかも知れません。一国民でありながら、世界の警察(?)たる役割をはたす人々を事実上選挙で決定してしまうわけですからね。(従って米国における「ルイ・ボナパルトの・・」はやはり書かれるべきであると・・米国カルチュラル・スタディーズのがんばりどころなのかも。)
あ、ハート&ネグリの帝国は恥ずかしながら読んでおらんのですが・・・
アメリカって、そもそも国連への拠出金支払いとかもいい加減(ちゅうか払ってないんではなかったでしたか・・)だし(もっとも他の国がちゃんと払ってるのかどうかは良くは知りませんが)、まあそれは極端な例ですが、より本質的には米ドルの国際機軸通貨としての地位を考えても、他の国と同様国家であるにもかかわらず、国家以上のなにかとして現実として機能してしまっているところがあると思われます(文化的にも米国=ワールドスタンダードみたいな[ハリウッド映画とかポピュラー音楽とかも・・・文化帝国主義?]。あ、言葉(英語)もそうですよね。ビジネスの世界でも財務指標のスタンダードはどんどん米国式のものになりつつあるようです。理論 イデオロギー 投稿者:シーナ 投稿日: 5月19日(月)17時59分09秒
米国の国家でありつつ国家を超出する部分っていうのが、多分米国の一般人(のみならず、いやむしろ政治家)にとって、「グローバルな責任」みたいなものを正当化する根拠に、(明に暗に)、なりえているんだと思います。
逆にいえば、米国は実際にはこれまで"普通の国家"以上の政治経済的機能を国際的に果たしていながら、国際関係法上、あるいは「理論」上は"普通の国家"であり、そうした部分は抑圧されていた、と考えることができるかもしれません。当然抑圧されたものは、いろんなかたち(もっぱら歪んだかたちで)で回帰してくるわけです。
米国の特殊な(曖昧な)地位にかんする基本的な図式は実は全く変わってないと思うのです(ブレトンウッズ体制の昔から)。多分ドルの機軸性(つまり自国の経済について考えるだけではなく、世界中にドルをばらまくべくドルを刷り続ける国家)が続く限り、同時に米国の軍事拠点が世界中にあり続ける限りは、と思います。今の状況は、あるいみ「グローバルな責任」を、他者を省みずに振り回している連中が、不幸なことにこの国家以上の国家のリーダーとしてのさばってる、ってことなんだと思うです。
谷口さんの書き込み、私的には、イデオロギーというのは、アメリカの振りかざす「正義」の言説、一方で、理論というのは、その後ろにある利害関係の積算図式みたいなことだと最初は理解したのですが、そうではないようですね。
理論というのは、そのなかでアメリカ「正義」が導出される(はずである)国際関係法的言説のことなのかな、と理解しました。だとすると、ある意味、この理論というのもイデオロギー的なものに入れてしまえるのかなあ、と思いました。
要するに米国は自国の行動を国際関係法上明確に正当化することができないにもかかわらず、ブッシュは超デケー面してる、みたいなことですよね。
イラク戦争という出来事(物質)とそのイデオロギーとの関係について僕が考えていることを補足しますと、普通外交とその延長としての戦争というのは、高度で複雑な論理の積み重ねの上に行使されるものだと思うのですが、今度のイラク戦争の場合、ラムズフェルドをはじめとする米国中枢を動かしている論理があまりに未洗練で幼稚だったので、彼らを動かしていたイデオロギーが、それを土台にして外側に論理を波紋を広げるように波及していくという通常の論理過程を通らないだろうという予測があるんですよね。
だからイラク戦争という物質的土台は、我々が予想だにしないイデオロギーを新たに生み出す可能性があると考えているわけです。この戦争は既に国家主権という現在の国際外交関係を支えている論理的土台を物質的に破壊してしまっていますしね。
批判勢力は、これをなんとか生産的な方向に向けるような努力が必要だと思います。付け入る隙は、結構あると思いますよ。
>管理者が手抜きだとなかなか議論が盛り上がりませんね^^;。
板は短い文章でのコメントだし、その中から自分にとって有意義なところを取り出して咀嚼するのに時間かけても楽しいもんだったり・・・、テンポ感悪くても、気になりませんので、どうぞTake it easyでおつき合い下さいませ。
どうもこちらも放置しがちで申し訳ありません。
管理者が手抜きだとなかなか議論が盛り上がりませんね^^;。
構造主義からポスト構造主義への流れとして
シーナさんがまとめてくださった「契機-力-主体という問題構成」
という点と谷口さんが出してくださっている物質性の問題との連接点みたいなのが
ここ数年気になっている部分です。
「物質―イデオロギー―主体」
というあたりの問題系。
これを左から右への動きとともに
右から左への方向性も読み解かなくてはならないだろう、と。
ブッシュの基盤としての物質と
ブッシュ体制が生産する物質性。
石原も後者の問題系としては、
どうにも無視できないものがあるのではないか、とか。
オタク論については私も弱いんですが、
やはり「主体」への目配りを欠いている気がするんですよね。
それがいまいち東がオタクから評価されがたい
部分につながるのではないか、とか。
こんにちわ
わたし的には、物質(あるいは裸の行為)→を追認する→イデオロギー、というみかたより、逆にイデオロギー→によってしか認識できない→物質(裸の行為)という組み立てのほうに興味があります。また、イデオロギー自体、物質的なもの(裸の行為)としてある、というあたりも興味のあるところです。
その意味で、ブッシュの信念の物質性についての書き物とかあればおもしろいのになあ、と思っておりまする。どっかにあるんだろうけど。
あと、ブッシュ体制がアメリカの国民をどのように代表してるか、みたいな書き物もあったら面白いと思うです。マルクスの「ルイ・ボナパルトの・・」みたいなやつ。どっかにあるんだろうけど。
シーナさんはじめまして。
僕の上部構造と下部構造、というかアルチュセールの言う「イデオロギーの物質性」のイメージは、観念に対する物質の先行、まず出来事や論理に覆われていない裸の行為が先行してあって、その後をイデオロギーや論理が追いかけて説明というか追認していく、というイメージです。それに下部構造、物質的土台にしても一枚岩であることはむしろ例外的なわけで、常に世の中の出来事というのは複合的な要因の上に存在しているわけですよね。もちろんその中にアルチュセールが使った有名な言葉、「重層的決定」「最終審級における決定」、支配因、決定因になる要因というのがあるわけですけど。
今度のイラク戦争も、石油の支配とイスラエルの安全の確保というアメリカの外交上の行動要因をうまく満たせるかどうかは微妙かなと思っています。表の論理として、イラク国民の独裁体制からの解放、という目標が大義名分としてあるわけですけど、イラクの再建のためには石油の収入が必要ですし、イラクの民主主義がイスラエルを肯定的に迎え入れるかどうかはかなり疑わしいわけで。かなりの混沌状態がここでも生まれるのではないかと考えています。
下で「オタク論」について言及してますが、よく考えてみたら、オタク論を十分な量読んでるわけではありません。筆が滑ってるところあります、ご容赦を。
こんにちわ。連休、とりあえずうれしいっすね(笑)。うー、従属的発想かしら。。
>「主体の消去」という「ポストモダン」な思想
こういうフレーズだと、なんというか、かなりポスト構造主義的パラダイムをイメージしてしまうのですが(そうえいば、ポストモダンとポスト構造主義とのねじれ関係みたいなのはジジェクがどっかで書いてましたよね、それはともかくとして)、「主体の消去」自体は、構造主義的なパラダイム(政治的文脈ではきっとアンチ・サルトル的なものなんでしょうが)からのものなんだろう、と思うです。「主体」抜きの「構造」の抽出。
多分、構造主義の「ポスト」ってのは、さしあたって二つの方向があるんだと思うです(でもそれは結局は統合的に考えることが可能)、一つは、抽出されたスタティックな構造にいかに「力」を導入するか、そしてもう一つは、消去された「主体」を、その「構造」的なものにおけるある種の契機(あるいは「力」)としていかに再導入するか、ということ。ちゅうわけで、契機-力-主体という問題構成がオモロイと思うんですが、そのへんの問題構成に関しては、オタク論は淡泊(あるいは諦め?)なんじゃないかしらん、ってな感じがするです。で、なんかねじれた大衆社会(批判)論(群衆論とかマス論とかありますよね)的な臭いがしちゃうんです。あるいみ、結局のところ「今のわかいもんは・・・」論。この繰り返し。あー19世紀的でちっともぽすともだんじゃねーかんじ。
谷口さん(どうもこんにちは)が話題にしたイラク戦争なんですが、私的には始まった頃は、基本的にはそれこそ古典的マルクス主義的な下部構造重視のみかたをしていたです。つまり結局は石油の問題、と。しかし、どうもそれだけでは語り尽くせないし、米国の上部構造は、多分資本主義経済的な効率性を最優先させるためのイデオロギーとして語り尽くせないやらしい部分が無視できないくらいの大きいように、最近は思い始めておったところです。今後の推移を注意深く見守りたいところ(その結果、やっぱ経済の問題じゃあねーかい、って意見を変えるかも知れないのですが)。
どうも放置しがちです。イラク戦争を物質的土台としたイデオロギーはどんなものになるか? 投稿者:谷口 投稿日: 4月20日(日)20時53分07秒
ゴールデンウィーク、少しは落ち着けるだろうか。
シーナさん
結局、ラカン(アルチュセール)ジジェクが
「主体」に焦点を当てようとしているのに対して
東は「主体の消去」という「ポストモダン」な思想が好きなんだろうな、
という感じがします。
ジャーナリスティックにいやらしく言えば浅田彰の
そそのかしに乗っちゃったのかな、とか(で、挙句浅田に叩かれてる)。
浅田は浅田で良いと思う(私は結構好き)だけど
オタク論は主体を残した精神分析的な枠組みのほうが
うまくいく、というのが私の実感です。
ムギさん
石原が露骨過ぎる、というのはそのとおりだと思いますが、
でも石原を読み解けない思想というのは、私はあまり評価もしません。
なんと言うか、露骨な構造を反復して記述するのではなくて、
露骨さを笑えるような言説の生産。
あれに青筋立てて批判しても仕方ないけど、
放っておいてよいわけでもないので。
谷口さん
お久しぶりです。
なるほど。
小林よしのりみたいなのが、アメリカ批判をする、というのも
それはそれで筋がとおっている、というわけで。
帝国(主義)とナショナリズムの問題というのは
古くて新しい問題なのかもしれません。
今日の読売にキッシンジャーが寄稿してるんですが、そのなかで、旧来の国家主権の概念が今度の戦争で崩壊してしまったと彼は書いています。そりゃあ、自分の価値観に合わない国家体制の国は侵略していい、などという論理を国家主権の論理が受け付けるわけがないわけで。
すると、例えばそれを支えに現れる「国益」などという概念もその土台を失ってしまうことになるはず。エスタブリッシュメントの世界を支える論理はしばらく混沌とした状態になるのではないか、と密かに期待しているのですが。
まあ、それぐらいのことが起こらないと、死んだ人がうかばれないよな。
とても分りやすいご説明ありがとうございます。ジジェク経由でラカンを理解するのと同じように、私ははたのさま経由でジジェクやアルチュセールを理解しているみたいです。
ちなみに、例えば石原慎太郎的なるものの猥雑さもそのような観点から読み解くことができるのでしょうね。でもあまりに露骨過ぎて読み解く必要性も感じませんが。アクチュアルであるということだけではなく、もっと異化効果が狙えるような些細で本質的な現象を見つける感性がないと、フェミニズムが(部分的に)陥っているような批判論文大量生産体制になってしまいそうですね。そういう意味で、ジジェクの社会学的応用の今後の方向性が気になるところです。理論自体を発展させる気概のない人が応用を始めちゃうと急速につまらないものになりそうです。
いまジジェクの『あなたの兆候を享楽せよ!』ってやつの第1章をちょびちょびと読んでますが、いつになったら、読み終わるやら。でもチャップリンの『街の灯』つかっての象徴ネットワークとの関連における同一化とその残余の問題の解説は例によってなかなかおもろい感じであります。
で、はたのさんのおっしゃることの、私の理解(というか感触)はいかのような感じ。
>「その他もろもろ(エトセトラ)」の存在を前提とし、
この前提が、東氏の場合、単にヒューム的な、意味以前の知覚の束(認知、あるいは刺激と反応といったようなそういうレベルの)っていうか、なんかそんなものに還元されちゃえがちだったりする場合が結構多いような気がするんです。で、そうしたレベルとからめて、アディクション(中毒)の問題とか引き出されても、私的にはもう全然どうでもよくなったりしてしまいます。(特に、新世代のオタクが意味ではなく認知のレベルで行動してる、みたいな話は、単にばかばかしさを感じてしまうですわ)
アディクションってのがあるってことは唯物論的に事実ですが、それが良きにつけ悪しきにつけ、多分それを諸個人において位置づけるのは、結局は主体っていうもののレベルでの意味(情動的なものと結びついた意味、つまり精神分析的な意味でのシニフィアンっていっていいのかな)によってだと思うです。ジジェクが問題にするのは一にも二にも、常に主体の(実践を巡る)問題のだと思われます。今の世代の若いもんを論ずるんだったら、ジジェク的に、彼らの超自我のありかたを問題にしていたほうが、全然私的にはおもろいかんじがするです。
ちょっと、というかかなり話がずれても来ますが、宮台氏が、ITのコミュニケーションによる性的関係の変容(積極化、能動化)がもたらす主体性の喪失みたいなことをいいますが、そういってしまうと、もう主体という概念のもつさらなる広がりというか可能性を問題にすることは出来なくなってしまってつまらんです。・・そのへんがホントはオモシロイのになあ、なんて思っておるです。
ひとつの仕事が落ち着けば次の仕事がやってくる、という状態で、
なかなか思考するという時間が取れません。
こちらも放置しがちで申し訳ありません。
シーナさん
>私的に感じる問題は、その否定神学システムとは異なるもの(郵便的脱構築)が、
>読んでいてどうもちっとも魅力的に感じない(アンチエディプスとかミルプラトー
>とかはよんでいてわけがわからんところも含めて面白い)点。
同感です。
ただしちょっと補足すれば、
>当然「手紙は宛先に届く」ような超越的シニフィアンを
>擁する「否定神学」システム
あたりにジジェクには仕掛けがあって、
東やデリダとはまったく違った
「否定神学」乗り越えのメカニズムを用意しているように思います。
デリダはともかく東が(私にとって)いまいちなのは
>必ずしも届かない「郵便」や超越論的システムに回収されない「幽霊」
などという「その他もろもろ(エトセトラ)」の存在を前提とし、
それを*後から*理論に組み入れようとする点です。
これでは現実の多様性の前に、とてもありきたりなことしか
いえなくなってしまう気がします。
実際東のコミュニケーション論はとても陳腐なように私には思えます。
といってずっと東の著作は読んでいないので大方忘れましたが。
ムギさん
どうもご訪問ありがとうございます。
更新頻度は落ちていますが、ぼちぼち更新していきますのでよろしゅうに。
『猥褻なる残余』は自分でも何を書いたのか、忘れてしまっていたりしますが、
ご指摘の部分は「対話」の部分ですね。
おおむねおっしゃっているとおりなのですが、少し力点を変えさせてください。
男同士のホモソーシャルな関係性においては「直接性」は不純なものとして
抑圧されており、女性が「排除」され、あるいはホモセクシュアルが嫌悪されるのは
そうした抑圧の効果においてである。
自分で書いていてわかりにくいですが、こんな感じです。
吹き出してしまいました、一瞬何のことをおっしゃっているのかわからなかったのですが。いつまで3月は続くのか楽しみにしてます。
御挨拶遅れました。はじめまして。いつも見ています。愚痴も含めてはたのさんの文章が好きです。「残骸」の中の『猥褻なる残余』もこの前拝読させていただきました。不明のためちゃんと理解できたかどうか心もとないのですが、男同士のホモ・ソーシャルな“絆”とはいわば純粋な間接性(女性を媒介)によって支えられていて、その地平においては女性との関係は不純な直接性として表れる、ということでしょうか?(なんか日本語変ですね)
こんにちは。お忙しいところ恐縮です。
そもそも否定神学をここで云々させて頂いたのは、ジジェク的な知のあり方(フロイト-ラカンのライン)が否定神学(システム)であるという批判がある、と聞きかじったためでした。その意見の強力な発生源は『存在論的、郵便的』であると思い当たり(というかこれまた聞きかじり)この本を読んだわけですが、まだつかんだぞ、と思えるまで読めているわけではないのですが、どうも、いまのところ、例えば、去勢によって抑圧された前エディプス期的なもの(口唇期、肛門期的なもの)をエディプス的な体制の中でのポジティブな可能性をもつものとして位置づけるような考え方(アンチエディプスみたいなやつとかそうだと思うのですが--アンチエディプスではそれが分裂病として位置づけられるんだと思いますが、まあともかくエディプス期をとおって神経症的に描かれることになる人間やら人間関係やら社会やらとは異なるものに掛け金置く、みたいな)と同様なかたちをもつもの一つなのかな、という印象です。
エディプス的体制とは当然「手紙は宛先に届く」ような超越的シニフィアンを擁する「否定神学」システムですが、一方で、そうではない必ずしも届かない「郵便」や超越論的システムに回収されない「幽霊」のようなものの存在をちゃんと見なきゃあかんやないの、という理解です。
で、私的に感じる問題は、その否定神学システムとは異なるもの(郵便的脱構築)が、読んでいてどうもちっとも魅力的に感じない(アンチエディプスとかミルプラトーとかはよんでいてわけがわからんところも含めて面白い)点。
それと、ここで語られているのは、さしあたりは否定神学ではなくて、否定神学「システム」の形式についての批判であり、そのパフォーマティブな位相(コンスタティブなものとは明確に切って考えるわけにないかないでしょうけど)での問題、つまりある意味では「神学」としての位相、があんまし浮き上がってこない感じがすることです。逆にいえば、否定神学システムを逃れる思考のもつパフォーマティブな、あるいは倫理的な(あるいは政治的なといってもいいのかなあ)価値というかそういうものにもっと触れてくれるといいのになあと。私は哲学プロパーではないので、ハイデガーの哲学や転向なんかもよくわからないし。
逆にジジェクが面白いのは、映画やらの話がたくさん出てくるのはもちろんなのですが、多分常に何かしら政治的なところをはっきり出してることなのかなあ、と思ったです。で、多分神学(教条的ラカン信者)だから面白いんだとも思いましたです。
どうもすみません。ネットやる時間がほとんどない。
『存在論的、郵便的』ですか。
否定神学に頼らない考え方を考えようとしている、
というのはそのとおりでしょうね。
私は個人的には彼の否定神学批判にはあまり同意しませんが。
「神学」を否定しようとして、
己が神の位置に摩り替わっただけの
粗雑な科学主義と似た匂いがするので。
むしろ否定神学のロジックに内在しつつ、
それを覆すような方向性に私は期待をかけていたりします。
ベンヤミンは複製芸術には肯定的ですよね。一方できちんとした美学的素養をもった(多分)人間のもつノスタルジアみないなのがあって、そのアンビバレント具合がいい感じで、アドルノの石頭(なりの良さがあるわけですけど)とは違うゾ、という感じなんででしょうかね。
否定神学については、今頃になって『存在論的、郵便的』を読んでます。否定神学(超越論的シニフィアンの導入)にたよらない考え方を一生懸命考えている本、というかんじでなのかな。ただいまコミュニケーションの伝達経路の複数性が重要だ、みたいなところを読んでますが(126)、どうもそれをうまくイメージ(というか理解というか)できておらない状況であります。この本でも、ジジェクやはたのさんのように、映画とかモー娘でやってくれるとありがたいんですが、甘いスね。
Peace
>本物が一個しかないものが持つアウラっていう考え方はいまいち好きではない
なるほど、ベンヤミンはそういう流れで出てきた名前でしたか。
そういう風にベンヤミンは読まなかったです。
読んだの大分前なので、なにですが、
ベンヤミンはアウラ万歳とは言っていないので、
複製芸術に対する否定的な含意をベンヤミンに読み取る
必要はないんじゃないですかねえ。
ちょっと私が誤解しているのかな?
私は音楽をパソコンでやってるのですが、使ってるソフトウエアの開発会社がアップル傘下に入ったので、今後しばらくはマック以外の選択肢が無くなった感じです。複製芸術に関するベンヤミンの言及は、私のようなチンピラ音楽制作者にとっては意味があるです(誰かが資本を投下して作った生産手段にたよらず、自前のパソコン環境でかなりの作品が作れるようになった!)。しかし、複製芸術でもアウラを発揮している作品(もちろん私にとって)はたくさんあるので、本物が一個しかないものが持つアウラっていう考え方はいまいち好きではない、というか馴染まないなあ、って思ってます。Re 投稿者:はたの 投稿日: 3月16日(日)16時37分12秒
話が脱線するのですが、まあ作品はそこそこ作れても、流通→消費まで行き着くっての画難しいですね。プロモーションも重要だし、結局既存の小売店&マスメディアってのは強い。インターネットの時代といってもなかなか難しいものがあるです。
すいませんぼやきになってしまいました。
お返事遅くなりました。
> 例えばベンヤミンがいう「アウラ」みたいなものも、
> 否定神学的な概念として考えることができるですかね。
ベンヤミンは確かにその理論構成全体が「否定神学」的な
構造をもっていると思っています。
別に否定的な意味ではなく。
はたのさん、つきあってくださり、どうもありがとうございます。
>たとえば「全体」などというものはけっして語りえない、
>がそれは不在の影響を及ぼす、というような物言いは
>一般的に「否定神学」といわれるだろうと思います。
なるほど。
それでちょっと連想したのですが、例えばベンヤミンがいう「アウラ」みたいなものも、否定神学的な概念として考えることができるですかね。非複製芸術の名画を名画たらしめる不在の原因みたいなもんですよね。アウラって。
昔話で恐縮ですが、小学校のころ、図画の時間に、人の形象のまわりに黄色い輪を描いているやつがいて、それをみて先生が「なんだそれ?」というと、「これはオーラ」ってことそいつは言って、それで、先生が「そんなものはみえないじゃないか」と言ったら、そいつは、「だってテレビで、みんな実は目に見えないパワーのオーラを持っているっていってたもん」と答えてました。否定神学というより、嘘オカルト好きですかね。
掲示板はあまり勉強にならないと思います。
気まぐれでいらちな性格なので。
「否定神学」ですが私も正確な概念の使用方法を知りません。
まずは「現実界」が「否定的媒介」のたぐいでないことは確かです。
「神学」が何かあるものをアプリオリに前提とし、そこから語るものだとすれば、
「否定神学」は何か語りえないものが存在する、ということを
理論に導入する思考形式の事をさすのだと思います。
たとえば「全体」などというものはけっして語りえない、
がそれは不在の影響を及ぼす、というような物言いは
一般的に「否定神学」といわれるだろうと思います。
そういう意味ではラカン・ジジェクの「現実界」は
否定神学だという印象はまぬかれがたいかな、と思います。
まあ、枠組みが否定神学的か否か、というよりも
そういう理論枠組みの中で、ラカンにせよジジェクにせよが
いかに「現実界」をロジカルに、あるいは具体的に説明できるか、
というところにかれらの理論の成否がかかっているように思います。
お答えになっているかな?
否定神学なるものの定義自体、私自身今ひとつよくわかってないってのがあって、それでお考え伺うというのも申し訳ないのですが・・・・
勉強になる掲示板発見してほくそ笑んでます。
で、早速質問なんですが、
ジジェク(あるいはラカン)って、「否定神学」と批判されますが、はたのさんはどうお考えでしょうか?例えば現実界って、象徴界に内在しているその不可能性である、みたいな言い方がされてると思いますが、だとすればそれは例えばフロイトの言い間違いの例がふさわしいかどうかわからないのですが、象徴界における物質的(唯物論的)なものを形式化したものとして理解できる。それは象徴界の外部にある否定的媒介ではない(だとしたら、浅田彰の「構造と力」におけるカオスとコスモスの弁証法みたくなってしまうし)としたら、否定神学っていえないとおもうのです。どんなもんでしょうか?
ご返事ありがとうございます。
骨折より孤立のほうが怖いということですね。
・・・本当かな・・・?
ご訪問どうも、です。
お問い合わせの件ですが、
連帯を求める気力なく、孤立を恐れだしたので、
あまりかっこいい標語を掲げるのも気が引けるかな、
というだけのことです。
今後ともよろしゅうに。
サイトトップの「連帯を求めて孤立を恐れず」が
今年のはじめくらいから「包帯を求めて骨折を恐れず」になっているのですが
なにか意味するものがあるのでしょうか?
おそらく私の読み違いです。
「そこにある」とはいわないでしょう。。
お騒がせしました。本当にありがとうございました。
んー。脱構築って「見えていなかった痕跡」を読み取るなんていってましたっけ?(無題) 投稿者:一学生 投稿日: 2月13日(木)08時43分07秒
実はよく知らないかもしれない。
「見えない痕跡」はそこにあるものですよね。
脱構築派は「そこにある」とは言わないんじゃないかな。
そうすると徴候的読解と脱構築はどうなるんでしょうか?
両者ともに見えていなかった痕跡を読み取るという点で一致しているように思ったんですが。。
ようこそイデオロギー的なサイトへ。
ご質問の件ですが、
すごくざっくりと、浅い(けれどたぶん間違ってもいない)説明をすると
アルチュセールの「認識論的切断」は
不可逆の断絶を前提とするもので、「科学主義」。
デリダの「脱構築」はそういう前提を攻撃する反科学主義。
というわけで教科書的には正反対。
じゃあ、逆に両者を通底する共通の地盤なり何なりがあるのか、
と問いが続くことになるでしょう。
でここからが本題というか面白いところだけど、
字数制限に引っかかっちゃった(嘘)。
はじめまして。イデオロギーに興味があってよく参考にさせていただいてます。
ところで是非とも質問があるのですが。。。
アルチュセールの問いの構造の移行による認識論的切断と、デリダの脱構築とはどう違うのですか?(すみません。独学なので質問自体が既に的外れかもしれませんが。。。ご容赦ください。)
僕ももちろん買ったんですが、まだほとんど読んでません。ちょっと忙しくなってしまったので、しばらくは読めそうにありません。
けれど、ぱらぱらとページをめくってみたところでは、アルチュセールの理論構築の流れがそれが出てきた人間関係や理論の背景の流れにそって説明されているので、なかなか面白そうでしたよ。僕はあんまり人生ドラマの方は興味がないので(途中にも出てきますがアルチュセールは意志の人ではなく叡智の人だと僕は思っているので)そっちの方はどうでもいいんですが。
それからマック情報も。MacOSXはAPIがカーボンとココアの二つあるんですが、このうちココアがOSXネイティブでカーボンはOS9からの移行用なので、カーボンで書かれたアプリケーションはやや落ちやすいという傾向があるようです。代表的なのがマイクロソフトのアプリケーション群で、今使っているIEもたまに落ちますし、ワードなんかは雑誌情報によれば文書ファイルを道連れにして落ちることもあるらしいです。でもOSが道連れになることはなく、OSXは本当に安定しているなあ、昔とは別世界だなあ、と思いますが。
どうもお久しぶりです。
>今IBMが新型CPUを開発中で、それが今年の後半に出る
おや、まあ。
Intelとかトランスメタが出すとかいっていたと思ったらIBMも出すのですねえ。
それも全部今年の後半か。
なかなか新しいノート買う時期難しい。
マックにはとんとうといので、いろいろ雑誌を買って研究中。
またソフト選びとかアドバイスください。
お久しぶりです。
マックについてなんですが、今IBMが新型CPUを開発中で、それが今年の後半に出るので、もしマックを買うならそれを待った方がいいですよ。
ご訪問ありがとうございます。
某大学の訪問者もいらっしゃるんですね。
だんだん脱力系になって
更新頻度も下がっていますが、
今後もよろしゅうお願いいたします。
今日の日記面白かったです。
某大学文学部社会学の者です。
こっちでもご挨拶。
4泊の予定で旅に出ますだ。
というわけで更新はお休み。
ここには何か書けるかも知れないけれど。
「格」というのは個人の好みや評価を越えて存在するものである。どっちが上? 投稿者:holly-k 投稿日:10月12日(土)21時24分59秒
こんばんは
「ごまっとう」で、ゴマキ vs 松浦、藤本で格が違うとのことですが、
どっちが上でしょうか。
私自身、ゴマキをあまり評価していないのでこんな風に思うのでしょうか?
私的には、藤本 > 松浦 > ゴマキなんですが。
ちなみに、私がいいのは宮崎あおいです。
自分はNHK総合も教育もめったにチェックしない不真面目な学生ですので、
再放送があっても見逃してしまいそうですけど・・・。
昨年度の授業(英語)でエンパイアを読みました。
テロ以前です。これをテキストに選んだあの教官はすごい、と思いました。
どうも。
「ネグリ」特集ですね、私が見逃したのも^^;。
再放送、あればいいんですけどねえ。。。
ネグリ特集、自分も見逃しました。
再放送なんかの情報があったら教えてください。
お願いします。
先日はどうも
その後一度行ってみたところ、アイスコーヒーのMは230円でした。
結構量もあるので、駅前の待ち合わせにはマクドよりも快適かも。
マクドは、日曜日に行ったため、部活帰りのお子様どもがわんさか居ったので、結構厳しかったですね。
じゃあ、さようなら。
何を隠そうわたしがジャイアンだ。
ジャイアンって「言葉責め」の人だっけ?
それをいうなら「マサル」(じゃりん子チエ)じゃないの?
私は確かにマサル的資質はあるかも知れない。
「ジャイアンのことを理解している」と判断できる
「ひきこもり」氏は何者だ?という問はあり?
あ、別に解答はしなくてもいいですよ。
何となく不気味なので。
うーん、確かに噴出かなぁ。しつこく言ってみる 投稿者:ひきこもり 投稿日: 9月 4日(水)11時46分40秒
でも、日記では、結構いい直球放っているしねぇ。
言葉責めという意味では、ジャイアンかもしれない。
ジャイアンだよ。ジャイアンのことを理解している分だけジャイアンなんですよ。
「乱暴者」です。ジャイアン(ドラえもん)でもいいや。
「浜村龍造」も「トマス・サトペン」も知らないので、Googleで調べてみましたが
よくわかりませんでした。
というわけで、自分がどういうタイプなのか、わからずじまい。
良ければ教えてください。
はたのさんって、浜村龍造とか、トマス・サトペンとかそういうタイプのひとだったんですか。
シャッフル以降、というか五期メンバー加入以降あんまりチェックしてないんですけれどね。
(リンクに入れたURLは多分ご存知でしょうが、あそこのコラムはそこそこ面白いかと。)
東氏関係は、しばらくぶりにチェックして知ったので最近だったのです。
まあ、あれもどうでも良いような話ですけれど。
板汚し失礼しました。ではでは。
ご訪問ありがとうございます。
件の東氏関係のサイトからまだ来る人がいるんですねえ。
あそこもずっと更新していないみたいだけど。
というか、あの件はもう収束しているっぽいけど。
最近モーニング娘。関係できてくれる人もいるようで、
ちょっと嬉しい。
でもこっちはあまりテレビを見ていないので、
積極的な話題がない。
ちょっとさびしい。
例の東氏関係のリンクから来ました。
モーニング娘。とアルチュセール、大変、つぼにはまり、数少ない定期巡回サイトになりました。
楽しみにしています。
とても、大変そうですが、うまくのりきられますよう。
そうか、いつのまにか年を一つ食っていたのか。
めでたくないな。
どうでもいいな。
どうせ明日(と言うか今日)も仕事だし。
「職場」も微妙に行きづらいしな。
あんなにうらまれる?とはおもわなんだ。
目も合わさないからねえ。
本当はまだいいたいこと残っているのだけど、
さすがに今はいえないな。
というか、昔からこんな風に結構うらみ買ってきたんだろうなあ。
後になってから知ったこともあったしなあ。
でもだからと言って「気をつけよう」とはあまり思っていないあたり、
本当に懲りない奴だな。
>マルクスやアルチュセールの理論が「議論」から生まれたとは僕には思えないんですが。
>彼らは間違いなく周囲から浮いていたし(孤立を避けようとして必死にエンゲルスや
>ラカンなんかの「友情」にすがりつこうとしていましたが)、
>理論的に孤立していたはずですよね。
は???
マルクスは古典派経済学を必死に勉強し、その中から議論の「空白」を見つけ出し、
一気に「資本論」へと結実させたはずですが。
既存の議論をスタンスが気に入らないだけでまともに読みもせず切り捨てる態度と
マルクスは対極にあったとアルチュセールを読みだけでも理解できそうなものです。
政治的にはどのようなスタンスでもかまいませんが、
そもそもの社会「科学」に対する谷口さんの不誠実な態度には正直がっかりです。
フーコーでもブルデューでも誰でもかまいませんが、
自分とはスタンスが違う人の議論を一度でも真摯に読み解き、
それを内在的に批判するような態度をもたれることを期待したいです。
そういうことをまともにやろうともせずに、「科学」だの「論破」だの
言っても、誰にも相手にされないと思いますよ。
おせっかいですが。
危機感が足りないのはどちらでしょう。追加ですが 投稿者:谷口 投稿日: 8月18日(日)03時33分42秒
「科学」を標榜して、自分以外の議論を非科学=イデオロギーとして見下げ、
まともに議論もせず、閉じた体制を作ったのは
谷口さんのごとき「マルクス主義」でしょう。
それがいかに「大衆から乖離」したかは、
それこそちょっと左翼の歴史を紐解けば一目瞭然のはずです。
だいたい「非科学」のレッテルを貼るだけで
「論破」できる腰抜けは世の中にいません。
そんないもしない腰抜け相手に戦いつづけるのならご自由に。
私はお相手しません。
フーコーとブルデュー。ブルディーは一度、図書館で本を手にとってパラパラと読んだことがあるんですが、「イデオロギー」の前に具体的な名前が書いてあったので読むのをやめました。イデオロギーという用語は、イデオロギーの知的体系自体を現実の活動実体から切り離して抽象的に扱うためにあるのであって、支配的、革命的、ブルジョア的(‥くらいかな)、以外の用語を頭に持ってくると、理論的な価値がなくなってしまうと思うので。
フーコーは新書的な知識しかないのですが、それだと彼のマルクス主義に対する認識はあまりに平板なような気がします。だから原文は読んでません。まあ、新書で書くと何もかも平板になってしまうので、本物を読めば違うのかもしれませんけど。
もし現在の左翼的思想に何の問題もないんだったら、これほど左翼的活動が大衆から乖離しているという状況は生まれないはずであって、そこから何らかの問題意識を汲み取る必要があると思います。
それが僕の場合はたまたま理論の科学性であったということであったわけです。単純に、説得に応じないんだったら、論破するしかないでしょう?ということで。
それからマルクスやアルチュセールの理論が「議論」から生まれたとは僕には思えないんですが。彼らは間違いなく周囲から浮いていたし(孤立を避けようとして必死にエンゲルスやラカンなんかの「友情」にすがりつこうとしていましたが)、理論的に孤立していたはずですよね。結局は科学というのは机の上の孤独な作業のたまものでしょう?理系の科学と同様に。もちろん、イデオロギーの戦場で言葉を鍛えていく必要はあると思いますけど、イデオロギーはどこまで行ってもイデオロギーであって、そこから突然科学がひょっこり現れるというのは楽観的すぎると思います。まあ、議論している内にアイデアがひょっこり浮かぶ、みたいなシーンはあるかもしれませんけど。
今日はちょっとサッカーでコンサドーレがロスタイムで追い付かれて、その後Vゴール負けして、機嫌が悪いので(しかもそれを生で見ていたので)、きつい言い方になったかもしれませんが、ご勘弁を。
つまり「科学性」なんてものは議論の最後に確認されうるものであって、
議論の最初に持ってくるのはまずい、ということです。
谷口さんは科学の定義をまず打ち立てて、
それに合致するものを科学と呼ぼうとしているみたいですが、
それこそ形而上学でしょう。
科学の定義をめぐって、極端な話「幸福の科学」と
現代物理学と、そんなこんなを一度に相手にして
一気に片をつけようというのでしょうか。
むしろ「科学」というのは具体的な議論を積み重ねながら、
着々と成果を積み重ね、その事後的な結果として見出される
体系なのではないでしょうか。
科学の本質を言っているのではありません。
実践的な問題として、そのようなものとしてしか、
存在しえてこなかった、ということです。
そうした地道な議論の積み重ねを飛び越して、
一気に科学か非科学かを分別しようというのは
それこそ「既存の」科学的体系からの離脱に他なりません。
そうやって自分だけの閉じた科学を標榜するのは勝手ですが、
それに自己満足以上の意味があるでしょうか?
おせっかいを承知で言うと谷口さんは「科学的」を振りかざしすぎですよ。
*複数の*科学性というのをある程度認めないと、
それこそイデオロギーでしょう。
例えば具体的に質問しますが、
「エスノメソドロジー」はどこが非科学ですか。
ブルデューはどうですか。
バーンスタインは?フーコーは?
いずれも
>この資本主義の見かけ上の「自由な」選択の保証という見かけ上の
>脱イデオロギー化戦略のイデオロギー性を暴きだす
に関わっている議論ですが、このどれが科学でどれがイデオロギーなのでしょう?
そのどれかがイデオロギーであるとして、それをどう論破しえますか。
そういうことを具体的にやっていかないと単に「科学」というお題目で
他の議論を切り捨てる乱暴な議論としてしか受け取られないと思いますよ。
何というか問題は「科学的」かどうかというところで‥。イデオロギー的な現状認識の表明や自己言明はいっぱいありますけどね。この話をしはじめるとまた回文状態になってしまうのでやめますが‥。
>だってそれを誰もやっていないでしょう?
*みんな*やってますよ、たぶん。
『資本論』も、あの細かい資本主義の活動の科学的分析があったからこそ、あれだけ全世界に響いたと思うんですけどね。その後どうするかより、現実の科学的分析がまず先だと思いますが、僕は。だってそれを誰もやっていないでしょう?
おっしゃることはおおむねそのとおりなんですが、
>この資本主義の見かけ上の「自由な」選択の保証という見かけ上の
>脱イデオロギー化戦略のイデオロギー性を暴きだす
戦略の「後」をたとえばバトラー・ジジェク・ラクラウなどは
問題にしているのだと思います。
「大きな物語」という言い回しが理論的に適切かどうかは別として、人が生きていくためには「物語」=イデオロギーが必要であることは明らかです。この「物語」という言葉はむしろユングが言う「神話」という言葉に置き換えられるべきだと僕は思いますが。「大きな物語」という言葉は、神話=イデオロギーの社会的共有を意味していると考えられます。
資本主義社会の支配的なイデオロギー装置である「学校」は、アルチュセールも書いているようにイデオロギー的「中立」を目指しています。あのイデオロギーが産出する知識も教える。このイデオロギーの知識も教える。だから学校は中立的だ、という見かけ上の脱イデオロギー化の戦略というのが、「学校」の戦略であり、現在の資本主義が求めている見かけ上の「自由な選択」の獲得、支配的なイデオロギー的物語の淘汰、脱イデオロギー化がはかられているわけです(しかし個人の決定はすでに社会的に決定されているわけですが)。資本主義はあくまで見かけ上、個人の選択の自由が確保されていなければならず、社会の中で支配的な「大きな物語」を作り出してはならないわけです(時々ナチスやソ連、タリバンのようなものが現れるわけですが)。
僕の立場は、新たな普遍性を目指すことよりも敵の正面をつくこと、この資本主義の見かけ上の「自由な」選択の保証という見かけ上の脱イデオロギー化戦略のイデオロギー性を暴きだす、というものです。勢いで書きましたが、どんなもんでしょうか。
朝日新聞、そうですか‥。それにしてもマスコミって節操がないですよね。話題になればそれでいいんだもんな。一時はさんざん持ち上げといて、時間が経ってみんなそれに飽きてきてボロが出てきたら今度はたたきだす。田中康夫は嫌いだけど、まあ彼なりにい一生懸命やってるみたいですよね。まあ決めるのは当事者の県民だから、僕としては彼らの解答を待ちたいと思いますけど。無題 投稿者:谷口 投稿日: 7月26日(金)08時09分44秒
はたのさんの知識人の大衆に対する優越的態度に対する嫌悪感と、僕の知識人による「真理」の大衆に向かっての「下げ渡し」に対する嫌悪感には共通するものがありますね。
上記サイト、2002年06月09日(日)のところに週刊現代(6/15号)に載った東浩紀の記事について触れられている。驚いたのは「宮崎アニメばかりじゃなくて、『ほしのこえ』もあります、アニメの未来は、本当は新海誠のような若い才能にこそ掛かってます。」という思考。「宮崎アニメばかりに絶賛を送るのは止めよう」というのは同意、いや、素晴らしいのであれば絶賛も吝かではないのだが。しかし、宮崎アニメだけじゃない!という言葉の裏に『ほしのこえ』があるというなら間違いだ。『ユンカース・カム・ヒア』だって『アリーテ姫』だってあった。だが「誰」も「絶賛」しなかっただけだ。それとひとつ気になるのは東氏は『千と千尋の神隠し』を喜んで観ている人々に対し、「そればかりじゃ駄目だ」「『ほしのこえ』を観よう」とやるんだろうか。映画、アニメーション映画の持つ味わいや豊かさはそんな薄いものじゃない筈なのに。現在、もっとも注目される論者東浩紀にしてこれか。以前より感じる東氏への反感もこの辺にあるのかもしれないな…と読まずに考えてしまった。読んでないので正確でないかもしれないが、こういった短絡は極端な天才的な作品に注目が行き過ぎ、薄っぺらな文化を作ってしまわないかと危惧するところだ
なんかちょっと痩せた感じですかね。
まいど
ウィスキーと昆布はいかんやろ。
それはさておき、そろそろ紺野が来始めている気がしますがいかが?
世論調査で誰を首相にしたいかを問うと、2割くらいで石原都知事がトップだとか。日本新党以来の「改革病」がついに彼に向いたということになるんでしょうけど。明らかに現首相は経済政策の失敗から目をそらさせるためにこの言葉を連呼しているわけですし。
でも相変わらず僕が心配なのは経済の問題です。ナチスが登場したときのドイツは、社民党を中心とする福祉政策で飢え死にこそ出なかったものの、GNPが3年で2/3になったとか。それで失業の不安にかられた労働者階級がナチスに雪崩をうったのが原因ではないかと言われているようです。まあ、当時のインテリも、ハイデッガーのようにナチスに吸い寄せられた人が多かったようですが。将来の不安にかられると、怒鳴り声の大きい人に吸い寄せられるという現象がどうやら起こるようで、そういう意味では危ないかもしれませんが。
いや、けしからんのは私でした(笑)。
OperaではJavaScritpを切っていただけでした。
それでバックナンバーがうまく見られなかった。
面目ない。
きちんとOperaでもみられます。
>まぁ、左翼 = 反マイクロソフト、って訳では必ずしもないのでしょうけれども。
巨人=自民党支持程度の相関はあるかな、とか(笑)。
読書会のレス、もう少しお待ちを(そればっか)。
こう忙しくちゃそもそも学会報告なんてできるわけなかった。
報告希望出し忘れていて良かった。
というか、実は無意識的にわざと出し忘れたのか???
どうもありがとうございます。
New Left Reviewのくせに(?)、けしからんですね(笑)。
ただ、IEだけではなくて、Netscapeでも見ることが出来たので、
そこら辺は大目に見てやって下さい。
まぁ、左翼 = 反マイクロソフト、って訳では必ずしもないのでしょうけれども。
読書会のレス、あせったり、重荷に感じたりせず、気ながに、
気が向いたときにでもしてください。
私も2ヶ月以上、ほったらかしにしていましたし、、、どうもすみませんでした。
なんなら、特にレスを頂かなくても、全く構いませんよ。
あの書き込み、私にとっては、滞りがちだった勉強を再開するきっかけになり、
また、よく分かっていない点を明確化することができた、
という点において大いに意義はあったのですが、
内容自体は、甚だいかがわしいものだったので、、、。
とりあえず、そういう場を提供していただき、また、知的な刺激を与えていただいた、
ということだけでも、大感謝です。
ではでは、お体に気をつけて。
面白いサイトのご紹介ありがとうございます。
リンク先、付け加えておきます。
ただこのサイト、私の常用ブラウザOperaではうまく見られない。
IEだったらきちんとみられたけれど、うーん、そこがちょっとなあ(笑)。
読書会のレス、もう少し待ってください。
前期の後始末やらがまだ終わっていないし、
ここのところ体調が悪くて頭が働きません。
リンクを拝見し、Radical Philosophyが追加されてるのをみました。
それなら、New Left Review(http://www.newleftreview.net/)もつけ加えません?
って、おせっかいだったらごめんなさい。
ちょっと色合いは違うかもしれませんが、
面白い人たち(ZizekやBourdieu、Habermasらを含む。
60/70年代にはAlthusserのものも載っています。主編者はPerry Anderson。)が書いてますし、
オンラインで読める論文や検索機能もRadical Philosophyより充実しています。
ちなみにこのジャーナル、出版社Verso(元New Left Books)の出発点です。
読書会の方への私の書き込み、色々と理解が足りなかった点など、
あとになって気づいたことがたくさんあるので、
訂正、加筆等していかねばとは思っているのですが、、、まぁ、気長に。
まだまだ勉強不足なので。
僕はこの間、『存在論的・郵便的』を全部、ざっと読みました。何と言うか「デリダの参考書」という感じでとても便利でした。でも理論家が「便利」と言われるのって最大の侮蔑かな、とも思いますけど。僕は建築だったのでよく分からないんですが、日本の場合、こういう「便利」な人か権威になっていくんですかね。
ちなみに僕が学生の頃流行っていた建築運動は「デコンストラクション」でした(笑)。要するに床や壁が傾いている建物のことだったんですけどね(日記にも少し書いたけど、その中にはレム・コールハースという本当の切れ者の建築家がいましたけどね。でも彼は自分が脱構築的と呼ばれて「私は構築的な(まともな)建築をつくっているつもりだが」とまじめに答えていましたが)。それでまじめにデリダを読もうかなと思って何冊か買ったんですが、結局読まずじまい。ボードリヤールを読んでました。建築には彼はあってると今でも思う。もう読む気はしないけど。