モーニング娘。
L. Althusser
前に書いたブログ「炎上」に関する記事炎上の火種の続編。今回炎上したブログ。
まだ炎上中ゆえ、リンクを張るのもはばかられるのだが、一つの素材としてやはりどうにも触れずにはいられない。
確かにこの書き手は不用意なことを書いたのだろう。しかし「あなたの記事は間違っていますよ」と誰か最初の一人が指摘すればそれで事足りることだ。プロのライターの書いた記事と言えども、間違いがあることなど大して珍しくもない。間違いがあればその後訂正記事が載る。それだけのことだ。今回はブログだったので、その指摘は編集部ではなく、直接書き手に届いた。それだけのことだ。そこには大して珍しいことなどないはずだ。しかるにその後も続く執拗な書き込み。間違いがあれば、指摘を受け、情報は更新されていく。そうして情報は正確に、より価値のあるものになる。そのサイクルとは別の次元でなされる書き手へのこの攻撃、情報をより正確なものにしようとするための指摘ではなく、書き手を「つぶそう」とするこの攻撃。このエネルギーはどこから来るのか。かれらは何に対して怒っているのか。
ここには前回紹介分と同様、「ルサンチマン」の陰が読み取れる。それはこの記事へのコメント中に書かれるこの記事の書き手に対する誹謗の中に現れている。繰り返しこの書き手の職業がやり玉に挙げられている。いつかどこかで見た光景。ネット言説の右傾化?とんでもない、私が見た光景は「左翼」の世界だ。さらにそのずっと前には「右翼」の世界にも同じ光景が見られたことだろう。「右」にも「左」にも振らせるこの「ルサンチマン」のエネルギー。
ともあれ、匿名の群れが何らかの記事に群がり、襲いかかる。そこに醸成されるのは「物言えば唇寒し」といった空気だ。誰かが気に入らない意見を封殺するのはとてもたやすいことだろう。「ルサンチマン」を利用した言論封殺。なにやらとてもいやな空気だ。
ふと思ったのだが、ネット上のハンドル(ハンドルネーム)というのは匿名なのだろうか。それならば作家のペンネームは匿名なのか、タレントの芸名は?
本名を公表していれば匿名には当たらない?ならば本名非公表ならば匿名?確か女優の綾瀬はるかは芸名で、本名は非公開だったはずだが、彼女は匿名でドラマに出ていることになるのか。
ちょっと気になってネット上の辞書を引く。三省堂の辞書によれば「自分の実名を隠してあらわさないこと」と書いてあったから、なるほど、この定義に従えば綾瀬はるかは匿名女優なのか。
しかしメディアなどで否定的に扱われるときに使われる「匿名掲示板」などというときの「匿名」というのはこれとは少し意味が違うのではないか。
「匿名掲示板」と対比される掲示板は「実名掲示板」か。そんなものはほとんど見たことがない。かつてのネット上の掲示板の主流だったネットニュースは実名が推奨されたが、旧来のパソコン通信からウェブ上の掲示板の流れはずっとハンドル文化だったのではないか。そこではたしかに問題が起こるとその「匿名性」が取りざたされはするが、ハンドルの使用そのものを匿名とはいわなかったのではないか。つまりそこで問題になる「匿名性」とは、本来その場においても書き込み一つ一つには発言者はその責を負うべきものと考えられているが、まれに「なりすまし」やいわゆる「捨てハン」が出れば、その責を負わせることが難しくなる、という事態を指したものであったように思う。そしてこれは「ハンドル」文化の問題ではなくて、同じことは実名文化でも生じることだ。実名文化の下でも、匿名性の高い表現・通信手段はある。
ならばネットにおいて問題にされる(べき)匿名とは何か。それは「黒木ルール」によって示されている「恥」をかかない、己の発言の責任を発言者として問われない発言者のことだろう。ここで重要なのは、その発言の責任は有限だということだ。「恥をかく」、本質的に傷つけられるべきはその発言者としての立場であって、それだけだ。そしてそれで十分なのだ。その発言者がうかつな発言をすればその責を問われることはある、しかしそれはその発言とは独立したその人の私生活、仕事、その他にまで及んではならない。そのルールがなければ言論の自由などたちまち吹き飛ぶ。一部特権階級の者たちだけのものになってしまう。
発言者の本名など必要ない。必要なのは発言者のアイデンティティだ。主張は変えても良いが、変えたということが他者から観察できなければフェアではない。そして他者(の意見)を批判するときには、自分自身のスタンスを明確にすること。自分のスタンスを示さずに、他者を批判しても揚げ足取りにしかならない。そしてそれはフェアではない。
そしてこうしたルールはハンドル文化の下でも十分に尊重されるべきだし、また遵守可能だ。そしてそれは多くのネットユーザたちも理解し、共感していることだ。そうであればこそ、多くの掲示板では「捨てハン」禁止をうたっているのだ。「通りすがり」「名無し」などのハンドル禁止、それは決して今のネット文化においてもマイナーな規範ではないだろう。
「匿名掲示板」(正確には「捨てハン」掲示板というべきだろう)においてはこうしたルールが一切守られない。もちろん上記ルールは絶対的なものではない。各々の場には各々のルールがあって良い。ただ上記ルールは少なくとも「フェア」さを担保しようとして尊重されてきたものであることは確かだ。だからこのルールを破棄する場はあっても良いが、その場は、他の場から見ればアンフェアだと見なされる、ということは心得ておくべきだ。そのアンフェアさを心得ていて、自らを「アングラ」だと称している限りはその場の存在も理解できた。しかし今やこの捨てハン掲示板には「正義は我にあり」といわんばかりの言説があふれかえっている。私にはそれがとても奇妙なことのように思えるのだ。
先日のエントリ、錬道徳術で、「倫理研第4回」の議論がまとめられているサイトを紹介したが、そこでは「陰口」が公共性をもった場で流通するということに問題の焦点が当てられていた。しかしそれはやはり少し問題の本質からずれているようにも思える。ある発言が「悪口」「陰口」に過ぎないのか、まっとうな「批評」なのかは読者が判断することだ。ある者にとってただの「悪口」でしかないものが、他の者から見れば公共性をもった「批評」であることは十分にあり得ることだ。問題は「悪口」が語られることではない。そうではなくて、その「悪口」を語る者が、決してその発言の責任を問われない場にいることを担保にし続け、かつそれを正当と思っていることだ。発言者としての最低限の責任すら負いようもない場で発言を行い、自らの発言に対するチェックが自身ですらおそらくまともにかけられず、自らの立ち位置や論理の一貫性など最初から問題になりようもなく、それ故ほとんどその場限りの感情で投げ捨てられ続けるその発言にパブリックな意味を込めようとする、それはあまりにも滑稽でおぞましい。
Microsoftの新OS,Windows Vistaがらみの記事二本。
西川氏、山田氏、お二人ともWindows畑で仕事をしてきた人だ。その二人が二人ともVistaに対して非常に厳しい評価。曰く、機能に斬新なものがないのに、ただただひたすら重い、と。
キャプチャー画面を見ていると、そこそこきれいでよさげなのだが、実際にさわると既存のものと機能に差がなく、さらにもっさり遅くてストレスがたまる、ということか。なんだか既視感がある話だ。何だっただろうと記憶を探る。
そうか、SONYのiTunes対抗の音楽プレイヤーソフトConnect Playerの記事を読んだときの印象と重なるのか。こちらの結果はiTunes+iPodに完敗、プレイヤーソフトは旧来のものに取って代わられ、消えていった。Windowsが消え去ることはないにしても、プレインストールマシンを出さなければならないメーカは大変だろう。特に静音・省スペースデスクトップとか、モバイルノートPCとか、いったいどうするつもりなのだろう。
年賀状を何枚かいただいた。友人・知人からいただいた分についてはここでまとめてご挨拶、というのは一般的にありなのだろうか、と思いつつ、リアルに年賀状を書く気力がない、今更書いたところで「年賀」状にならない、といって寒中見舞いというのも書くことがない、などという理由で、今年はこちらでご挨拶に代えさせてください。って、年賀状をいただいた方の中でここを見ている人はいるのだろうか、それもよくわからない。
こうしてまたまた人間関係が切れていく。
現在のネット文化に関して、興味深いページを知った。倫理研第4回。というか、今までこのサイトを知らなかったというのもちょっとまずかったかも。
匿名性、言論の自由、欲望、そして「倫理」、あたりがキーワード。そうか、倫理学なのだ、と今更ながら自分の問題関心に少し違った側面を発見した思い。
現在のネット言説を「陰口で繋がる」欲望という概念で切り取る。
東浩紀:
日本という国の独特なコミュニケーション文化にネットワークというインフラが乗ったとき、2ちゃんねる的な「悪口で繋がる公共性」という、いびつで擬似的な公共性が出現してしまった。
北田暁大:
やっかいなのが、そこに参戦している人たちはいま辻さんが言われたようなパブリックなものを志向している、と思っていることなんですね。自分たちはきわめて道徳的であり、しかもその主張に社会的正当性がある、という確信を持っている。「誰もこの道徳には反論ではないだろう」という確信に支えられて「運動」が展開している。・・・
現在では、オープンな空間においてパブリックなものを求めるとき、反射可能性と応答可能性とが混同され、脊髄反射と責任とが区別不可能なコミュニケーション空間が醸成されてしまうことがある。いま議論になっていることは、それと似たような問題ではないでしょうか。
ふむ、なるほど、なるほど。北田のいうこの「やっかい」さこそが私の問題関心に一番近い気がする。プライベートな空間としてのみ(それこそ「倫理」の問題として)許容されてきた「陰口」が、まさにパブリックな「道徳」にすり替わる、この魔術。
サーバの設定ついでに昔自分の書いた記事をつらつら読み返したりしている。ああ、あの頃は熱かったなあ、などと思う記事を読んでは、今の冷め切った自分の状況を改めて思い知らされたりする。まだ何かを求めてあがいていたあの頃、私は今よりも幸せだったのだろうか。希望を求めてあがくというのは辛いものだ、それでも私はあるものを求めてあがいていた。今は手に入るものしか求めなくなった。日々最低限度の仕事をし、ほんの少しの誇りを抱き、そして可能な限り寝る。そうして一年が無難に過ぎていく、そんな毎日。
そんな過去のあがきの日々に書いた「言論の自由」に関する一文、「落ち着きたまえ、心配することはない。言論統制はちゃんとされるさ」。5年たっても一人の人間の考えることは変わらないものだ。ネット言説をはじめとする今の言説状況に絶望しながら、なお「言論の自由」は死守しなければならぬ、と考える。言葉は人を傷つける、しかしそれでも言葉は制限されてはならない。この矛盾した要請をとことんまで突き詰めて考えること。今も5年前も変わらず同じことを考えている。
今日は一日サーバの整備。
昨年末に事情があって、サーバを入れ替えたときには、とりあえずここのサイトがきちんと修復されることを第一に考えて、それに必要な作業を中心にやったら、それ以外のところがいろいろ設定不足だった。Apacheやら、phpやらもいろいろ設定し直す。
LinuxとMacOSXとの違いに微妙にいらいらする。ディレクトリ構成がだいぶ違う。どこに何があるのかがいまいちわかっておらず、きちんと調べるのを怠って、適当にいじっていると、果たしてうまくいかない。php.iniをいじっても全然反映されないので、どうなっているのだ、と思って調べてみたら、全然関係のない場所のファイルをいじっていた、とか。おかげでMacOSXについても少しずつわかってきたが、4月からの仕事で必要なのはLinux。しかもRedHat系。前のサーバはDebianだったのでRedHat系はここ数年来さわっていない。
仕事の予習を兼ねて、Linuxサーバを立ち上げて、そちらにこのサイトも移そうか、とも思うが(Macをサーバに給するのはやはり少しもったいないし)、静音、低消費電力、安価でコンパクトなマシンの当てがない。
あ、Mac miniだ。
毎日新聞の件の記事自体については私は評価しない。むしろ悪質だとさえ思っている。
たとえば2chでの「募金批判」の中心人物だとされる「がんだるふ」氏へのインタビュー。
ー匿名での攻撃はアンフェアでは。
◆名前は記号。本質は書いた内容にある。
ー実名でも書ける?
◆それは書けます。
ー実名記事にしたい。
◆載せないでほしい。
というやりとりが掲載されている。これを読めば、いかにも「がんだるふ」氏が匿名性に隠れ続ける「弱い」卑怯者だと印象づけられる。しかしそれは少し違うのではないか。すくなくとも「がんだるふ」氏は批判相手の募金団体の代表と顔を合わせて議論を行ったり、あるいはまさに新聞社の取材に顔をさらして応じているわけだ。完全に匿名の陰に隠れてものをいっているわけではない。そして記者相手には少なくとも実名もさらしたのだろう。単に実名を全国紙に、しかも自身に批判的な内容で書かれることがわかっている記事中で、公表されるのを、拒絶しただけだ。
私は「がんだるふ」氏の主張、行動の全容を知らない。だから「がんだるふ」氏に対しては評価も批判もしない。ただ件の記事がそう印象づけたがっているような「匿名」の陰に隠れて他人を誹謗しているだけの人物だ、とは思わない。
そもそもこの記事の見出しがあまりにも危うい。「匿名 群がる悪意」とある。たしかにある一面ではそのようにも見える。しかしそれがこの問題での本質を突いているのか。問題は「悪意」である。この見出しを見て、そして記事を読んだネット言説状況には疎い人物は以下のように理解するだろう。「ああ、ネット上にはどうしようもない悪意をもった一群の集団がいて、ハイエナのように被害者に群がり寄るのだ」。しかしそれは違う。「どうしようもない悪意」などではないのだ。むしろ逆で「かれら」を突き動かしているのは「義侠心」とでもいうべきもののほうだ。もちろんそこには確かに「悪意」も見え隠れする。しかしその悪意は、特別にゆがんだ一群の人間たちの持つ、特殊なものなのだろうか。そうではないだろう。ある発言に対して、むっと来ることがある。「かれら」ではなく、私たちにはそういうことがあるだろう。その「むっ」という感情には義侠心と悪意と、その両者がきっと混在している。それは少しも特殊な感情などではない。
そしてそのような感情を持つことを変える必要があるなどとも一切思わない。そのような感情なしに一切の批判精神は機能しない。問題の本質、あるいは解決の糸口はそのようなところにはない。
それでは何が問題か、についてはずっと考え続けていることだし、これからもここで考えていきたいと思っているが、それは今後の宿題として、この毎日新聞の記事にはやはりどうにも危うさを感じられてならない。それは一連の「いじめ」報道にも重なる危うさである。「問題」は一部どうしようもない悪意をもった一群の集団が引き起こしていることであって、そうであればこそそれは強制的・法的に対処されなければならないし、かつまたそれが可能である、という幻想を振りまいてしまっているという危うさである。
ある種のネット言説は小泉政権とは親和性が高かった。しかしその蜜月関係が長く続くとは限らない。ネットでの発言に対する大幅な法的規制、それを求める方向に「世論」は容易に動く可能性が高い、そして政府はその「世論」を背景にそのように動くかもしれない。それはならじ、とおもうのであればこそ、ネット言説批判には丁寧さが必要とされる。しかし件の記事にはそのような丁寧さが見られなかった。むしろ「ネット発言に規制を」という世論を盛り上げる記事でしかなかった。
今日の毎日新聞に匿名掲示板の「暴走」がテーマの記事が掲載されていた。2ch管理人の「ひろゆき」氏のインタビューのほか、娘の臓器移植のための募金活動を行っていたNHK職員へのネット上での攻撃が取り上げられている。
「ひろゆき」氏のメディアというものに対する社会科学的知識のなさ、あるいは単に知らないふりをしているだけなのかも、と己の関わる言説に対する無責任さにはただただあきれかえるばかりだが、それ自体はたいした問題ではない。一つ問題があるとすれば、このような人物を、いわゆる2ch住人が持ち上げるのは当然としても、その外部の人間がなにやら言説に対して一定のラディカルな知見をもった者として持ち上げることがある、ということぐらいだろうか。
それにしても「ひろゆき」氏の文句があったら法律改正して規制してみれば、という趣旨の発言にはあきれた。インターネットを国内法で規制なんてどのみちできない、という発言も含めて、確かに様々な発言を完全に封じきることはできなくても、ある種の発言を行った者を法で罰することはできる、そしてその場を提供した者を法で罰するように法改正だってやればできるかもしれぬ、しかしそれには極力慎重であらねばならぬ、という近代社会が守り続けてきた理念をこんな安直に挑発してしまう。「言論の自由」にあぐらをかいて「言論の自由」を挑発する、いったい何故このような人物を2ch住人以外の人物が理念的に持ち上げなければならないのか。
匿名掲示板で誹謗中傷が止まないのは国民性のせいだという。「国民性」、便利な言葉だ。その「国民性」とやらはいつ誕生し、どのようにして日本国に根付き続けているのか。そしてまた知り合い同士の会話の中で誹謗中傷を語るのと、ネットでそれを行うのと、何が同じで何が違うのか。さらにはネットの世界でそうした誹謗中傷が大々的に行われるということが日本社会で今根付いている、それを可能にしているのは何によってか。そうした問い一切合切を「国民性」を盾に目を閉ざしているのだ。
メディアが、そこに流通する言説のあり方を変え、さらには社会の精神、「国民性」をも変容させうる、そのことをいったん認めた上で、自分の携わっているメディアが何を生み出しているのかを直視しなくては、責任も何もあったものではない。だからといって、メディアに携わる者が、そこから生じる結果一切の責任を負え、などといっているわけではない。ただ2chという匿名掲示板の生み出す弊害について問われたときに、「国民性」などという外部の責任に一切をかぶせてことたれりとするその姿勢の無責任さに腹が立つだけだ。いったんその「国民性」とやらを生み出した責任の一端を2chのもつメディア形態にあると認めた上で、2chの持つ功罪について改めて論じるのがまっとうな議論というものではないか。
昨年はライブドアの堀江氏逮捕に幕を開け、教育基本法の改悪を経て、フセインもとい落第頭領もとい元イラク大統領処刑に幕を閉じた1年、だったか。
明けましておめでとうございます。