フランスの「極右」政党党首ルペンの提唱する国籍法は日本がお手本らしい。「わが党が極右なら日本だってそうだ」だと。君は正しい。
久々に自分のサイトのトップページを見てみたら、「連帯を求めて孤立を恐れず」なんて書いてあった。今書くとしたら「連帯を厭って孤立を恐れる」という感じだろうか。ちなみにどこかでは「孤立を求めて連帯を恐れず」なんて小しゃれたフレーズを掲げているサイトがあったが、私は孤立なんて求めない。求めずともいつでも手に入るからだ。私は孤立する能力には長けているのだ。ってただに引きこもりじゃないか。
しばらく更新できていない。気力・体力の限界。26日にはN.フレーザーの講演会とC.ボードロの講演会、二つ同時刻に別所であったが、どちらもサボってやはり同時刻に始まった『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』のリアル読書会に参加。そこでの話も掲示板のほうにUPしなければ、と思うが、気力がない。
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宇多田ヒカルの新曲SAKURAドロップスがいい。ついでにこれが主題歌のドラマもいい。和久井映見、目がイってて怖い。目だけであれだけの嫉妬・狂気を表現するとはさすがだ。
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仕事がひとつ増える。さる企業の統計解析のお手伝い。どんどんアカデミズムから遠ざかる。そんなこんなで気が付けばゴールデンウィークか。何の予定もなし。さりとて沈思黙考するエネルギーもなし。
書き直す気力は今は全く残っていないが、一応備忘録ということで概要だけ。
この件についてネット上では結構反対運動のオルグがなされていて、こういう「政治」運動のオルグというのは一種パワーゲームだから、多少の煽りも「あり」だとは思うが、それでもどう考えても規制の対象になるはずもない人畜無害のサイトの名を挙げて「取り締まられるぞ」などと煽って見せるのはやりすぎだと思う。そうやって「いたいけな」中高生を動員して、法案を葬り去るのは、さしあたりは「あり」だが、その後の責任まで考えてやっているのだろうか。いたずらに危機感を煽るやり方は当面はそれなりに効果的かもしれないが、結構その「後」、傷が残るものだ。全共闘しかり、薬害エイズ訴訟しかり。藤岡信勝とかこばやしよしのりとかがここで産出された「傷」である。
「言論の自由」などというものはそもそもいわれるほど抽象的に、生のまま存在しうるものではない。抽象的なままでそれを押し出そうとするとたちまち「人権」「差別」と抵触してしまうものだ。今回の法案だって、あまりに「奴ら」が稚拙で露骨だっただけで、一応このあたり(人権)を言い訳にして出てきたものだ。だからそれが見え見えの言い訳でしかないうちは大同団結もしていられようが、まともに言論と人権が対峙するような場面でどう対処するか、が本来問われているはずなのだ。ドイツでナチズムを煽る表現が禁止されている、それをどう評価するか。日本でレイプを扇動するサイトを立ち上げる、「外国人労働者」に対する偏見と差別を助長する発言をする奴がいる、それに対して「言論の自由」とやらはどういう立場を取るのか。
「言論」などというのは抽象的な場所に安閑としていられる存在などでは全くなく、常に個別的状況に取り付かれて存在しているのだ。抽象物として扱いうるという傲慢な怠惰を決め込む連中はこうした「人権」との対峙がなされるや否や、ただ沈黙をするか、逆にただただ開き直って見せるか(筒井康隆)しかないのだ。
もちろん「言論の自由」と「人権」は、本質的には、対峙する関係などではない。そうなるのは、「言論」を抽象的に捉えたときだけだ。そうではなくて、言論と人権は同じ場所にある、というべきだ。一致・比例するのではない。常に矛盾・対立・止揚しつづける関係にある、ということだ。言論は、常に人を傷つけ、抑圧し、貶める危険を内包している。ある種の言論がそうだ、というのではなく、どの言論もそうなのだ。だから言論はおのおの互いに対立し、切り結びあう、常に闘争状態にある。「人権」はその言論の中で生起し、同時に傷つけられる。こうした闘争の外には言論も人権も存在しない、ということだ。言論に対する「法の介入」を私が最終的に(というのはドイツでの、場合によっては日本のある状況下においても、個別的には留保せざるを得ない部分があろうと思うからだ)否定するのは、つまりそれがこうした闘争を塗り隠し、隠蔽してしまうからだ。差別発言は、禁止するのではなく、むしろ闘争の契機にしていかねばならない。だから私は「君の意見には反対だ。だがそれを発言する権利は命をかけて擁護する」などとは言わない。そうではなくて「君の意見には反対だ。だから私は命をかけてそれと戦う。この闘争の邪魔は誰にもさせない」と言うのだ。
「表現の自由」と「差別問題・人権」との関係についての考察を、結構気合を入れて書いていたのだが、エラーで消えてしまった。Linux上で書いていたので、なんとなくLinux熱自体がさめてしまいそうだ。もちろん八つ当たりだが。ただLinux、OSとしては安定しているかもしれないが、Xもその上のクライアントアプリも日本語入力もそれほど安定はしていない。Windows2000で秀丸使っているほうがずっと安全という気がする。Linuxのクライアント環境は、まあWindows3.1程度かな。安定度も、ツールの充実度も。もちろんサーバー用途での実績はあるはずなので、Windows3.1と同じ価値だ、なんていうつもりは全くない。ただデスクトップ環境としては、本当にあともう一歩なのだ。
石原都知事の支持8割 国政復帰待望は少数だって。所詮いわゆる田舎の政治家ですか。ルペンが決戦投票に残ったことを「恥ずかしい」というフランス人をテレビで見たが、石原だって十分「恥ずかしい」奴で、あんなのを知事に選んで喜んでいる東京都民も所詮「東夷」なのだ。まあ「国政」などにでしゃばられて日本の恥を晒すより、東の片田舎に押しとどめておくのが正しいのかも知れない。
下の「妄言」は本当に妄言で誤解というか、正解というか、を招いた気がする。別に「社会科学」をやる人全員が『資本論』を読まねばならないわけがない。まあ、筒井康隆がかつて「学生時代にマルクスかフロイトにかぶれないやつは馬鹿だ」と言ったというのもあるので、そんなに珍しい言い分ではないはずだが。言いたかったのはマルクスでもフロイトでもヘーゲルでもカントでもルソーでもアリストテレスでも何でもいいんだけれど、そういうすぐに「使え」そうもない著作家のものを全く読まない、という人ばかりが学会を占拠するようになったらいやだな、と。それだけです。
とそれはさておき、読書会は進展なし。まあ、こんなものか。私もなんとなく気力が減退して、今日は一日Linuxいじりに興じる。
Linux、どんどん一般ユーザ、クライアント向けになっている。Linuxデスクトップ環境KDE2.1の完成度の高さには驚かされた。同じデスクトップ環境のもう一方の雄Gnomeを完全に凌駕している。ただ雰囲気がかつてのMacOSみたいで、親切で使いやすいのだが、なんとなく押し付けがましい感じがする。どうしても好みはGnomeのおおらかさなのだが、これだけ完成度が違ってしまえばKDEに寝返るなあ。
マルチメディア関連の機能強化も目覚しく、Mpegがすんなり再生できてしまった。Windowsではいまさらだが、Linuxでは結構難物だったのだ。他方で、私が入れたディストリビューションTurboLinux 7 Workstation、適当(デフォルトに近い)にインストールしたら、ごっそりサーバ機能が省かれていた。これもクライアント向けということなら、セキュリティ上正しいことなのだろうが、Windowsマシンとファイルをやり取りしようと思ってFTPサーバ使おうと思ったら、デフォルトでは入ってなくてちょっと驚いた。Sambaもファイルをネットから落として入れた。
とそんなこんなで一日が過ぎる。前はLinuxでネット使えるようにして、Samba使えるまで一ヶ月ぐらいかかった気がするが、今回は一日でできた。いまだ学習能力というものが自分に存在していることが確認できてうれしかった。なんだかね。
加藤秀一さんのサイト思考する惑星を「発見」。更新は一年以上止まっているが。この人がアルチュセールに関心を持っているのは知っていたが、このサイトの中の次の一文には特に共感させられた。
あのいつまでたっても良くわからない「構造的因果性」の概念にしても、フーコーを提灯代わりに掲げながらその実やっていることは超旧式の実証主義そのまんまというアホども(とくに「セクシュアリティの歴史」なんかをやってる連中に多い)が はびこる最近の日本では、繰り返し見直す必要がある。
まさに「我が意を得たり」という気分だ。というか、『資本論を読む』、どう考えても名著の中の名著なのに「『資本論』をよんでいないから」などというしょうもない理由で読まないやつが多い。別に『資本論』読んでなくても『資本論を読む』は十分読む価値があるって。というか、『資本論』ぐらい読みなさいよ。「社会科学」やる気があるのなら。だいたい即物的な価値を志向しすぎなんだ。すぐに「使える」かどうかというところでその本を読むかどうかを決める。だからいつまでたっても「アホ」なんだ。
「読書会」、小手調べに?短い「問題提起」のところから始めます。私は私で適当に書き込みますが、皆様もご自由に論点を設定してどんどん書き込んでください。私に進行を任せるとちょっと細かいところで引っかかりすぎますので、適当に散らしてください。では。
看護学生に「お勧めのドラマ」を紹介してもらったが、一番多かったのは「渡る世間は鬼ばかり」。ほぉ、というところで、今クールのドラマ批評。まだ始まったばかりだけれど。
前のクールのドラマは、出演者は結構よかったのだけれど、筋立ては全般的に薄っぺらだった気がした。それに対して今回はいろいろ伏線が張ってあったりして、それなりに期待している。単に「恋のチカラ」を描きました、というだけではちょっと足りない。ひねりがひとつくらいはほしいのだ。
今クールは「死」がプロットの中に混入しているドラマが多い。冒頭、殺人のシーンから始まる「天国への階段」。突然、昔「捨てた」娘に会いにくる不治の病にかかった父親を描いた「しあわせのしっぽ」。そして久々に集まった高校の同窓会後にとつぜんその幹事が自殺してしまう「夢のカリフォルニア」。「死」というのはある種の絶対性を持っているので、それをドラマの中に入れるとどうしてもあざとくなってしまう。その典型が木村拓哉と常盤貴子の「ビューティフルライフ」だ。製作者側が「さあ、思いっきり泣いてください」というコメントを出したりしていて、その時点で全く駄目だった。死とは絶対的な別れをもたらすものであるというところを押し出すだけでは安易に過ぎるのだ。むしろ、今、ドラマ・小説で「死」を扱うのであれば、それとは対立するような部分をこそ出さねばどうしようもない。
「ビューティフルライフ」と似た展開を予測させるのが「しあわせのしっぽ」である。最後の「死」を予告しておいて、それまでの「幸せ」な生活と対比させる、という手法。つくりは多分安易なのだが、それを救ってくれるかもしれない、と期待させるのが父親役の長塚京三である。最終的には「死」を迎えるはずなので、ドラマの中では「許される」はずなのだが、それでもこの父親、迷惑な存在なのである。母親の死の時には顔も出さなかったくせに、自分の死が迫るとがむしゃらに娘に会いにくる。娘が迷惑するのがわかっていて、それでも「自分は死ぬのだから」を己への言い訳にして、無理を押し通す。己の死に甘えているのだ。そしてまた、その甘えをわかってもいる。娘には己の病のことは語らないでいることで、「甘え」るまい、という意志を見せる一方で、にもかかわらず娘に拒絶されそうになると「わかってくれよ」というすがりつくような目で娘を見る。一方で「死」とは己にとって至上の問題でありながら、他方でそれが「己にとって」でしかない、というその乖離を長塚は見事に演じているのだ。長塚が表現しているのは「死」の絶対的な悲劇性ではなくて、それを前にした人間の情けなさ・ある種の卑屈さ、である。
突然の「死」を冒頭に持ってきた「夢のカリフォルニア」。これもあざといようで、それほどでもない。なぜならこの「死」は主人公にとって「寝耳に水」でしかないからだ。普段から一緒に生活していた相手の死、それに伴う喪失感、がここで生じているのではない。同窓会で久々に会っただけで、それ以前は取り立てて交流もなかった相手の死。たとえばそれを人づてに聞くなどすれば、何らかの感慨をぼんやりと持つ、という程度のことでしかない死。それが暴力的に、己の目の前で生じてしまう。無理やり、何らの必然性もなく、主人公は他人の死を理不尽にも背負わされてしまうのだ。つまりこの死は、喪失ではなくて、過剰なのである。外部からいきなりやってきて、「絶対的」な顔をしてそこに居座る迷惑な闖入者、それがここでの死である。
というわけで、この二つのドラマ、観念論的な「死」ではなくて、唯物論的な「死」を描いてくれるかも知れぬ、と多少期待をさせてくれるわけだ。
とりあえず懸案の仕事の第一回が終わり、後は軌道に乗ることを期待するのみ。件の看護学校の学生は、久々にノリがよくてやりやすかった。このノリのよさを何とか持続させたいものだ。
というわけで、さあ、お勉強でもするか、とならねばならないのだけれど、体力がない。ここ数日食事がインスタントものばっかりだからかねえ。なんかきちんと食事をしようという気がしなくて、それでますます無気力になる。悪循環だな。
更新も何もできません。明日(もう今日だ)の授業準備でそれどころではない。
授業準備といっても、何か生産的な作業をしていたのではまったくない。何をやればいいのか、ずっと悩み、現実逃避しつづけてました。おかげでPCは再インストールしてごちゃごちゃした環境が一新、終わったら今度はだらだらとマージャンゲームに興じる。最低だな。
その授業、看護学校の「教育学」の授業。教えられることが何もない。「知識」を伝えるのは楽だが、というか授業とは一般にそういうものだが、その気がない。私が人に教えられるような知識の第一はアルチュセールを中心とした社会理論の潮流か。(笑)とか(爆)とかつけるしかないだろう。あるいは英語の読み方?それもいいが、「教育学」ではまずい。情報処理。楽でぜひやりたいが、同じく「教育学」では無理だろう。
人に教えられるような「教育学」の知識なんて別にないし、仮に教育制度とか教育改革とか説明したところで「それがどうした?」というところだろう。教科書問題とかやってもいいが、大学ならともかく看護学校で「政治ネタ」はなんとなく避けたい。教育が無理なら、社会学でごまかすにしても、ジェンダーがどうとかたとえば教えて、「医療の場でのジェンダーフリー」みたいにあおって、それで?という感じ。その程度の話し、かれらは「既に」知っているし、共感なり、無関心なり、不快感なり、何らかの態度決定も済ませている。それ以上何を伝えるのだ?専門用語でまぶして、かれらの態度決定の一方を支持して見せればよいのか?そういうのがなんとなくうそ臭く思えてしまっているのだ。
擬似討論会みたいなのを学生にやらせてごまかすというのが常套手段なのだが、そういう場合の「ディベートの仕方」みたいな技術論が好きではないので、やる気がしない。それでも90分間こちらがしゃべるよりは学生に作業をやらせたほうがましだろう、ということで、今の常套手段を応用しようか、と思いついた。学生に自己紹介から始まり、どんどん「しゃべらせる」。「社会に出たら、自己アピールが重要なのです」とかなんとかあおりながら。そうして「己を語る」という誘いの権力性を「私が」再認する。学生は最後まで自己表現の練習とでも思っていてくれたらそれでいいや。それでも、なんらかの「おかしさ」には、たぶんかれらも気づくんじゃないかな。ソフトな権力に満ち満ちた空間を君も体験しよう、がキャッチフレーズだな。
今日は東京ではメディア規制にかかわる法案への反対パレードをやっていたらしい。コスプレありの、堅苦しくなく、高校生とか中学生にまで呼びかけて参加させちゃうような、幅広く、和気藹々としたパレードを目指したりなんかしているみたい。それを呼びかけているサイトの掲示板では、高校生あたりが「ゆるせません!」とか書き込んだりして盛り上がったりしている。おう、現代の若者もまだまだ政治意識をもっていて、捨てたものじゃないな。
なーんかちがうんだよなあ。そういうノリって昔の共産党の歌声運動(だっけ?)とか思い出したりするんだよなあ。さあ、みんなで楽しく盛り上がって、ついでに「政治」にもコミットしましょう。XJapanのコンサートで盛り上がって天皇陛下を称えましょう。なぜ「政治」そのものをずらしつづけるのか。決定的な「出会い」を回避しつづけるその「ためらい」は何を恐れているのか。
「表現の自由」を旗印に守りたいのはどのような「表現」なのか。逆に「権力」が標的にしているのはどのような「表現」なのか。「表現」活動は往々にして人を差別し、抑圧し、傷つけるが、その上でなお守らるべき「表現」とはいかなるものなのか。己の表現活動に「傷つけられた」という訴えがあったとき、いかなる対応をするのか。こうした問題を「小異」として捨てられる人間は私は表現者とは思わない。
「楽しいパレードにしましょう」、だそうだ。まあ、楽しみでやる分にはケチはつけませんけれど。
ここしか見ていない人もいると思うので宣伝。下で書いた『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』のバーチャル読書会、立ち上げ中です。さしあたり専用掲示板を用意しましたので、覗いてみてください。といっても、まだ「立ち上げ中」なので、皆様のご協力、お願いいたします。どう運営していくか、などもまだ未定ですので。
人に薦めるものでは決してないが、私は論争的な書物を読むときはまずおのおのの立場を単純化してしまうところからはじめる。今度の『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』の三人の著者だったらジジェクはラカン・現実界(これはまんまだ)、バトラーはフーコー・象徴界(ちょっと怪しい)、ラクラウはアルチュセール・想像界(かなり怪しい)の立場の人だといったん決め付ける。それでとりあえず全体の見取り図をでっち上げる。そうして、読む。
上の見取り図は、実際に文献を読み進めば、さまざまな齟齬をきたす。その齟齬、ずれからおのおのの論者の議論を読む手がかりを得ようとするのだ。
気持ちではきれていても、頭では終わられないことがある。自分で決着をつけられないのだ。情けない話である。
「終わっている」ことを知りつつ、それを認めない。関係の継続をしようとする振りを強迫的に反復する。「真の終わり」の到来を一方で期待しつつ、それを恐れ、延期しつづけるのである。
一方頭でどう納得して見せても、気持ちがついてこないことがある。未練がましい話だ。「なぜ?なぜ?」というヒステリー的問いとともに、頭の中を、かつて聞いた歌がめぐる。
眠りを破って聞こえる歌は
わかってるつもりの 紛らせてるつもりの
ひとつだけの歌
微笑ずくで終わらせた恋が
夢の中 悲鳴あげる
この歌自体が、諦めの儀式を突き破る悲鳴となっているのだ。
一部で期待のジジェク・バトラー・ラクラウの共著の翻訳が出た。『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』(青土社)。早速入手。まだ読んでいないけれど、遠いうちに?何らかのレビューを書く予定。アルチュセール・ジジェクに関心のある人、必読のはずなので、ぜひ。
そうそう、今度こそバーチャル読書会やりません?
結局、件の授業はなくなった。シラバスが原因らしい、少し厳しすぎの印象を与えたらしいと聞かされていたので、確かに厳しいことを書いたかなあ、と思い、後悔していたが、改めて自分の書いたシラバスを読み返して、結構いいこと書いていたので、これで学生さんが集まらないのなら仕方ない、と、一応、踏ん切りはついた。「厳しい」といってもきわめて常識的なことだったし、理不尽に締め付けるような類の厳しさではないし、よりよいものを自分なりに求めた結果であるのでそれが受け入れられなければ仕方がない。20人定員のところ5人しか集まらなかったと聞いたが、5人ぐらいがゼミとしては本当は適正だと思うし、それで開講されないのはどうにも腑に落ちない思いはある。だからといって大学当局に不満を抱く話でもない。学生さんは学生さんでとりたいと思った授業をそれぞれに選んだだけで、それ以上の話ではない。誰を恨もう、何を後悔することがあろうか、ただどうにも割り切れぬ思いが残る、そのことがやりきれない。
ついでにあきらめ悪く授業のシラバスの一部を公開する。
講義概要
教育は誰もが現実に経験してきた事象である。それだけに自分の思想・感性・態度に関わって議論を展開することが出来るし、またそうすべきである。
前期は教育社会学の基本的な文献を読み、社会科学的な理論、概念を確認しながら、それを具体的に適用する方法を検討していく。そしてその過程で各自の問題意識を明確化してもらう。後期は教育に関わる重要なテーマをいくつか設定して、そのテーマについておのおの問題意識をもって、文献や事例にあたり、自分の考えを記述・発表し、討論していく。最終的には、卒業論文につながるようなレベルのレポートを仕上げてもらいたい。
具体的な問題に自分が関わり、それについて発言すること、の意味を常に問い直し、それを通じて「社会科学」とは何かを考える機会としたい。現在考えているテーマとしては、「学歴・大学論」「校則論」「いじめ問題」「日の丸・君が代・教科書問題」「ジェンダー・セクシュアリティ」などである。
担当者からの一言
自由に、積極的に討論していきましょう。人前でしゃべるのが苦手な人もきちんとフォローします。どのような思想・意見も尊重します。「正しい」ことを言う必要は一切ありません。無責任な思いつき、独断と偏見、大歓迎。斜に構えた物の見方は歓迎しますが、斜に構えた受講態度は歓迎しません。楽しく、かつ真摯な討論が展開できれば成功です。担当者も一討論者となれることを期待します。
書籍代はケチらないでください。テキスト以外にも多数の文献を手に入れていただきます。
AVEXがコピープロテクトされた音楽ディスクを発売したというので話題になった。そして基本的には今後出すディスクはすべてそれで行くらしい。しかしまた、このプロテクト、簡単に破られていて、WinMXでは発売当日からすでに出回っていたとも聞く。
なんと後ろ向けな解決よ、と思う。CDが売れなくなったってのは要は音楽に金を払いたくない、ってことでしょ。そもそも音楽なんてものは歌い継ぐなり何なり、共有される性質のものだ。そういう共有可能なものに対価をつけて売ろうというのがそもそも限られた時代の商売だったのだ、といってもいいような気がする。なら「アーティスト」はどうやって飯を食うのだ?ということになるのだが、問題はそこだ。
共有可能なもの、広い意味での「情報」にはお金は払いたくない。それならば何なら商売になるのか。「モノ」である。ネットでもなんだかんだ金になるのはアダルトものぐらいとも聞く。何かしらそういう「物自体」に触れるものである。ある歌い手への思い入れ、単に音声だけでなくて、もっとじかに触れ合えるようななにものか。雑駁にいえばライブとか、CDにしてももう少し所有する意義を見出せるようにするとか、たとえばせめてDVDで映像もつけるとか。たとえばモーニング娘。なんて歌だけ聴いてもしょうがないわけだし。映像だって共有可能なのだが、物自体に触れやすいという意味ではコピーで済ます率は減りそうな気がする。
そう思って音楽DVDのコーナーを見てみたけれど本当に種類が少ない。もう少しDVDでシングルとか出せばいいのに、と思う。どうせAVEXが嫌っているカジュアルコピーとかやるのってPCユーザーで、かれらはDVD視聴環境を潜在的に持っているわけで、だったらもう音声はサービス、映像で金を取ります、とかそういう風にしていくほうがまだしも前向きなのではないだろうか。まあまだCDほどの市場規模では全くないだろうけれど。
と書いたのは当然まじめな提言とかではなくて、単に欲しいPVがDVD化されていなくて、とっとと発売せぇ、というだけのことです。というのでしょうがなくてCD買いましたよ。島谷ひとみの「シャンティ」。別に新譜でもないのでレビューは今さらだ。もちろん音声はとっととMP3にしたわけで、でもこの人もAVEXだから今後はそういうこともできないし、もう買わなくなるだろう。まあ今回はジャケットの写真とか含めての買い物ということで。それらトータルのものとしての所有欲を満たすかどうかが金を出すかいなかの分かれ道ということになるだろう、と。そう思って改めてパッケージ見てみたらケースの表面に大きな割れ目があった。ぜんぜんそんなところ確認したりせずに買っちゃったもんなあ。パッケージ自体もやたらチープだし。全然物自体に触れられない。金返せ。(うそ、冗談です)
今年一番期待をしていた授業がそういうわけでつぶれて、完全に無気力状態に突入中。今の私には惰性しか残っていないのかも知れない。10代の頃に持っていた夢やら幻想やらが一つ一つはがれ落ちていく、という感じ。なんて年寄り臭いことを。
今日は一応京都府知事選があったので、投票にだけは行ってきた。危うく投票行くのも忘れるところだった。と書いて、別に「危うく」なんて全然なくて、行かなくても別にどうということもないだろう、としか感じられない。選挙というものも、己が「政治」に関わっているんだ、という幻想を支えるイデオロギー装置なのだが、それが一向機能してくれない。で、結果もまあ論評の余地無し。そもそもなぜ自分が「その」候補に投票したのか、さえとりたてて理由がない。
自分はhogehoge党の支持者だ。だからその党が推す候補はたとえ豚でも投票する。もっとも候補者はすべて豚ばかりだが
イギリスの小選挙区制に関するジョークだが、まだ支持政党があるだけ幸せな状態と言うべきだろう。
何かに取り付かれているようだ。悪いときには悪いことが重なる。
人間関係がどんどん疎遠になっていって、踏みとどまろうとがんばるのが馬鹿らしくなってきて、思い通りになるのは機械だけだ、なんて言って、PCを弄くってたら壊れた。不幸中の幸いでとりあえず実害のないレベルまでは修復されたけれど、それで5時間近く無駄にする。
そもそもその前に非常勤が減ってしまいそうだと通告を受けた。学生さんが集まらないらしいのだ。どうもシラバスにきついことを書きすぎたらしい、という。シラバス書いたときはちょっと気分が高揚してたんだよなあ。その一瞬の気分で一年間の仕事を棒に振る。恐ろしいことだ。
ちょっと厳しい目のことを書いたらとたんに寄り付かなくなる学生に対して愚痴りたい気分もあるが、私もそういう人間なので、文句は言えない。ただ受講生0というわけでもないらしいので、一般論として開講するものでしょう、と思うけれど、今の大学はそんな悠長なことは言ってられないのかもしれない。
ほんとに何もかもがうまくいかない。
「今 私は弱くて哀しいから ダメね」
この詞の出典がわかる人、もれなく5万円私にください。
15,6の女の子の悪口をこんなところに書く、というのはどう考えても人間性を疑われても仕方ない行為なので、慌てて釈明というか、補足をしておく。
ひとつ言っておくべきことは、私は松浦亜弥を「駄目」だとは思っていない、ということだ。たとえば「応援する奴の気が知れない」とは全く思わない。ある意味で、私と松浦ファンは、同じ松浦亜弥を見ている、と思える。ファンが見ているよい部分を私が見ていないのではなく、あるいはまた私が見ているいやな部分をファンが見逃しているわけでももちろんなく、同じ部分に視線が導かれ、おのおのの反応が引き出されている、と思えるのだ。だから、単に「好き好き」を超えた、なにやら一般性を持った吸引点のようなものが松浦亜弥にはあると思える。
しかしそれを「一流アイドルのカリスマ」などという言葉で片付けてよい気がしない。それならば後藤真希にも同等の感情を呼び覚ますものがあってよいはずだ。しかし後藤真希は堂々とした「一流アイドル」の風格はあっても、松浦のような視線の、有無を言わさぬ吸収力は感じない。松浦と後藤の差異、それが「問題」だ。
ここでいきなり結論?を言ってしまえば、松浦亜弥は「すべてを見せる」ポルノグラフィなんだな。「あれ」をじかに見せてしまう。完璧なしぐさであって、つまりどこにも染みがない。後藤真希が見せるどこかしら物憂げな雰囲気や、加護が見せるつたなさといったものは一切ない。そして何より松浦には目の表情がない。
ふつう、アイドルにおいては他者(アイドル本人)がわれわれの一方的擬似恋愛の対象に貶められる。あたかも自分(観客)の事を見てくれているのではないか、という期待を醸成させる、それが対象の側の視線の力だ。対象を見ているのは主体たる観客なのだが、われわれを魅惑する視線は対象の側にある。後藤のそっけない表情の中にいわくありげな瞳や、おちゃらけた加護のなんとも恥ずかしそうな目が、イメージに穴をあけ、そこから視線を投げかけてくるのだ。ところが松浦亜弥においては対象の位置を占めさせられるのは観客自身なのである。真の主体は画面上の松浦であり、われわれ観客は馬鹿面をしてただ画面を見るだけの対象=視線に貶められてしまうのである。主体としての松浦は、観客の存在など無関係に踊り、歌う。松浦がこちらを見ることはない。ただ「見ろ」という命令を発するだけである。そしてわれわれは「意志」を超えて、松浦を「見る」のだ。そうして「物自体」を何らの染みなく見せ付けられてしまうと、われわれは必然的に自分が追い求めていたものを失う。それが与える効果はきわめて卑俗でわれわれを憂鬱にさせるのだ。あたかもハードコア・ポルノを見たかのごとく。
ついでに言っておくと、安倍なつみの中にも染みはない。ただ安倍なつみ自身が染みなのだ。
上の文章はジジェクの『斜めから見る』の一部のパクリです。ただ当該部分の翻訳には誤訳があって文意がとれないので修正してあります。というので、暇な方は読み比べてください。というか、鈴木さん(翻訳者)、視線と主体の弁証法的関係がよく分からずに訳したな。(4月8日追記)
先日は大学時代の先生を「囲む会」があったのだが、もろもろの理由でサボった。こちらの「世間」には一向慣れない。本当はその先生には会ってご挨拶したかったのだが、どうしても行く気にならない理由があったりした。理性以前の拒絶反応。どうしようもない。
鈴木宗男と辻本清美、いずれが悪か。
「法」的には辻本のほうがまずい(悪)だろう。鈴木宗男を法的に云々するのはいまだかなり難しそうだ。辻本のほうは、起訴にいたるかどうかはともかくとして、法に反する行為であったことは明らかだ。
道徳的、とりわけ「国家」にかかわる意味で、には同罪というべきだろう。いずれも「売国奴」。国によっては「国家反逆罪」に問われるかもしれない。鈴木は金で国土を売り、辻本は血税を詐取したわけだから。
私は、法律の遵守は己の行動規範においては第一義的なものではない。あえて法を破る気もないが、それは違反すればいろいろ面倒くさそうで、そのめんどくささを超えてまで破りたい(破るべき)法が今のところないからだ。「言論の自由」って奴が脅かされそうにでもなれば、また考える。
私は、もとより国家主義者ではない。その意味では、鈴木宗男も辻本清美もさほど「悪」とは思っていない。北方四島なんて、はっきり言ってどうでもいいし、税金のプールなんて日常茶飯事で、要は辻本は単にミスっただけなのは誰もが知っていることである。
それでは私にとって両者は等価であるか、というと全くそうではない。辻本は、別に以前から応援していたとかいうことは全くないが、正直今回は気の毒だと思ったし、また出直せばいい、とも思う。しかし鈴木宗男はこのまま消えてほしい、と思う。まあいわゆる「国民感情」の反復だが、要するにここで言いたいのはそれは「理性」ではなくて、どこまで行っても「感情」である、ということだ。
そういう感情を、しかしきちんと言語化していく作業は必要だと思う。ここを等閑にすると、この感情が別の理性と結託して、嘘を吹聴し始めるのだ。好悪が善悪に摩り替わってしまう。鈴木宗男は「悪」となり、それにかかわった面々が外務省から「追放」されるというただのクーデターが「正義」の装いを帯びる。あるいは元オウム信者というだけで試験での合格を取り消すという行為が容認される。なぜ鈴木宗男は不快なのか、なぜオウムは不気味なのか。松浦亜弥のうざったさは何か。あせらず、じっくり言語化せねばなるまい。
私はオウムに関しては別に「不気味」とは本当は思っていない。「間違っていた」とは思うけれどそれこそ理性の次元で、感情の次元で特別な不快感を持ったわけではない。
今年度はアルバイト収入が減りそうだ。もともともうやめようか、と思っていたバイトだったが、日和ってだらだら続ける気になっていた。でも今年度はあまり予算がつかず(国の税金なのだ)、ほとんど仕事がない、という。いらだつことも多かったお仕事だったが、担当者さんの一人が結構気にかけてくれてて、仕事はあまり入れられないけれど何とか登録は残してほしい(登録制のバイトなのだ)といってくれた。ありがたさも半分というところではあるが、最近そういう風に人から気にかけてもらえる、ということがほとんどないので、それはよかった。
そもそもこのお仕事、森善朗が竹中と結託してでっち上げたIT予算から始まった話で、小泉内閣の行末が見え始めるとともに終わっていくわけで、何気に「政治」やら「景気」やらと人並みにかかわっているみたいで可笑しい。頭の中、「大文字の神の呼びかけがどうたら」ばかりでもやっていけないのだ。「日本は神の国」云々でもうまくなかったようだが。