今年もよろしくお願いいたします。
20分だけのおつきあい。
初詣、もう済ませてきました。
「テキスト系」とは残余カテゴリーだったはずだ、と書いた。これはネットに限ったことではなく、およそ「物書き」というのは「他に何も出来ない」という含意を持っているとおもう。実利的なものは何も生産できない、特別な才能も要らない、空疎な存在。そういう自己規定が「物書き」という言葉の中にあったはずなのだ。アルファベットで言えばたかだか26文字の組み合わせの集積でしかない言葉。しかもそのなかで現存する組み合わせは希少ときている。定型的な言い回しの反復。そこには特別なものは何もない。そのような中でわずかな可能性をかけて、言葉が「何かを」揺さぶる力を読者の中に見出す。その無謀なパラノイアックな営みをするのが「物書き」であろうと思う。
ところがそうした営みが組織化されて、自律化するとそこに「界」が立ち上がる。ネットでも「テキスト界」なんて言葉があったりするようだ。すると物書きは「先生」になり、あるいはカリスマになったりする。今や「物書き作家先生」が引き受けるのは「残余」ではなく、自らに貼り付けられた「剰余」価値だ。
フォントタグを駆使したサイトのジャンル論争はさしあたりどうでもよい。ただ、前にも述べたようにW3Cはフォントタグをはずす方向で動いている、それは確かだ。もちろんW3Cは内容の話はしていない。単に形式、書式の問題だ。フォントタグを使わずとも同様の表現はスタイルシートを用いれば可能なのだから。
とはいえ、それは確実に内容への規定性を含んでいる。例を挙げてみよう。まず昨日の「安倍なつみネタ」を、フォントいじり中心(ビジュアル系?)サイト風に書く。するとこんな感じになるだろう。
もちろんHTML4.01Strictでは使えないタグの連発である。でもフォントいじりが悪いんじゃない。CSSをつかえばいいんだ!ということで、やってみよう。
安倍なっち.html
安倍なっち.css(数字は適当)
いかがだろうか。しかも記事のたびに少しずつニュアンス、デザインを変えたいと思えば、どんどん定義を増やしていかなければならないのだ。こんなことをするぐらいなら最初からフォントタグ使えばいい、と思えてくるだろう。
HTML4.01が想定しているのは、構造的に書かれた文章であって、強調一つ一つにもきちんと明示的な意味が与えられている、ということだ。だからその場その場の雰囲気でこの辺をちょっと大きくしてみよう、とか色を黄色くしてみよう、とかそういうのはほとんど想定していない、ということなのだ。たしかにW3Cは文章の内容は規定していない。またCSSを用いればフォントタグを駆使したHTML以上の表現力も持っている。しかしそれでも、それはデザインの方向性をある意味定めているし、それだけに視覚的なインパクトを重視しているサイトの方向性も定めてしまっている、といいうるのだ。HTML4.01Strictでも上のごときページを作るとは出来る。しかしこういうページを作るということでなら、それはHTML3.2からの後退というべきだ。W3Cが何らかの前進を当然目指して新しい規格を勧告したのだとすれば、上のごとき表現は桎梏となってしまうのである。HTML4.01strictが普及するということと、フォントいじりが隆盛するということは対立的な関係にあるのだ。
ここでは是非をどうこういっているのではない。ただW3Cの勧告は、たぶん一般に思われているよりずっとラディカルなものである、ということ、形式的な規格の制定が内容までも十分規定しうるのだ、ということを示したかっただけである。
「テキスト系」なる言葉が最近妙に気になる。当初私はそれが問題となるような含意があるとは思っていなかった。例えばアイドルファンサイトの「テキスト系」といえば、Up出来る画像もなく、MP3なんて恐くて置けないし、さりとて訪問者も少ないので掲示板サイトにもなれない、それゆえそのアイドルへの思いなんかを文字にしただけのものが「テキスト系」だ、と。要するに、WebPageというのはまず第一に文字データを扱うものなのだから、それ以外の売り、画像やら音声やらを扱わない、残余的なカテゴリーにあるものと思っていた。そういう語りえぬカテゴリーなればこそ、時にそれをあえて「テクスト系」と称したりもするのだ、と。
しかし皮肉なことに、というべきだろうか、空疎な概念だと思っていた「テキスト」が自己主張し始めているようなのだ。いつの間にやら「テキスト系」というのが積極的な意味を帯びた一つのジャンルとして確立している、というのだ。いわく「日記」があれば「テキスト」系とよばれる、とか。では仮に論文だけ載せていては「テキスト系」とは呼ばないのだろうか?よく分からないのだ。そしてその正統性をめぐって論争まで行なわれたりするらしい。「フォントをいじるのは邪道か」論争、「アクセス数を競うのは邪道か」論争なんてものが(命名は適当)あったりするようだ。残余でしかないと思っていた「テキスト・テクスト」の名をめぐって取り合いが起こる。可笑しなものである。
ジャンルをきちんと自己規定したいのだったら、もっと細かく区分すればよいのだ。フォントをいじって、読ませるよりも見せるサイトならビジュアル系、小ネタを軽く捻るのをポップス系、下ネタをがんがんやるサイトならアナーキー系、テクストの共有を目指すサイトはトロツキスト、他人のやっているサイトにいちゃもんをつけるのを先導するサイトは「ニセ左翼暴力集団」とか、さ。
本サイト?もちろん日和ますよ。
ぱらぱらと「テキスト系」とよばれるサイトを見ていた。その中で、なぜか興味を引かれるところがあったとあるサイトの日記をずっと読む。すると、結構無防備にいろんな事が書かれていて、その書き手の在籍大学・学部が分かってしまった。私の出身大学・学部だった。それで余計に興味をひいて読み進むと、私の指導教官の授業を取っていたりしていて、しかもぼろくそにけなしてあったりして、笑ってしまったりけしからんと思ったりする。そんなこんなで結構面白がって読んでいたのだが、その中で自分がネカマに間違えられて憤慨した、という記事に行き当たる。「れっきとしたお○○の子なんですからね」とか書いてあって、はて?と思い、別のページをみてみる。ハッ、おとこの子、だ、この人。。。急に興味を無くして、分かった。最初、私がこのページになぜ興味を持ったのかを。
それにしても文体やページレイアウトなどで書き手の性別を判断しきっていた私にジェンダーを語る資格はあるのか?
ログのコーナーを作ってみて、記事をジャンル別に並べてみると、アイドルネタが思いのほか少ない。もっともこのページにくる読者はほとんどが「マルクス」「ブルデュー」あたりで来ているので、それでいいのかもしれないが、作り手としては不満が残る。というわけで、今年の総括はこのネタから入ろう。
モーニング娘。今年も後藤のソロデビュー、ミニモニ、新メンバーの加入、中澤卒業とめまぐるしかった。でもその中で安倍なつみには大したことがずっとなかった。写真集は出したが大して売れていないらしい。ドラマの演技は相変わらずクサい。女優としてやっていくという話もあるようだが、彼女はプライドが高く、自意識過剰気味だから、いい演技はできないだろう。歌は放置状態だし、しゃべりは、頭が悪いので、聞いていてつらい。今、彼女は芸能界に存在意義はあるのか?もうほとんど忘れ去られているのではないか、とやきもきしていた。ところが、なのである。最後の最後にその存在感を示したのだ。
「笑っていいとも」スペシャルの冒頭。タモリが今年芸能界で一番喜ばしいこととして、
モーニング娘。安倍なつみの体重が元に戻ったことです。
といっていたらしい。しかも結構ウケていたらしい。
<br><br><br><font size="+16" color=red>なっち、よかったね。</font>
このページ全体の雰囲気を壊さないため、タグを読んで頭の中で文字を大きく、色づけてください。
このサイトのGoogleのキャッシュがようやく更新された。このページを毎日更新するようになって初めてだ。今は12/6分の記事までGoogleでヒットする。その前は10/8分までだった。おそいよ、Google。
というわけで、早速「桜っ子クラブ・ジジェク」で検索をかける。唯一このページだけがヒットする。やった。「桜っ子クラブ・モーニング娘。」。217件中70件目ぐらいでヒット。こういうキーワードでくる人が出てくると嬉しいんだけど、それで通用するぐらいのものを書きたいんだけど、今のところは「絵に描いた餅」だな。
この手の雑文に、アルチュセールやらジジェクやらを引用する。それは必然的に読者を限定してしまう。にもかかわらず、あえてそうする意義は何か、ということを考える。
一番の効用は「偉そうに見える」ということだろうか。俺は単に駄文を書き散らしているわけではないんだ、俺には知性が、教養があるんだ!それに付随する効用として、己の心のあるがままをさらけ出すことを回避できる、というのがある。別に私の心の中を読者に読んで欲しいわけではない、アルチュセールの議論を分かりやすく紹介しているのだ!
一応まともな理由としては、「常識」の反復から脱するにはある程度「飛躍」が必要であり、それを埋めるためには引用が必要だ、というのがある。上にあげたごとき理論的な著作というのは、さらにその背後にさまざまな議論、成果を内包している。それをある程度踏まえないと話が前に進まない、ということである。
もう少し別な言い方をしよう。理論的な著作というのは、おのおのの文脈を持って、その議論が積み重ねられている。それは一個の自律した世界だ。そして日記にかかれるがごとき雑文もやはり日常的な文脈性を持って書かれている、自律した世界を構成する。この異質な世界のぶつかり合いの中に、新たな価値観(人を不安に陥れるような)が生み出される可能性を賭けようというのだ。
前にある大手テキスト系サイトの面白さが理解できない、と書いたが、もう一度読み直すと理解可能だった。ごく一部だけ読んでいてはやはり駄目で、ある程度読んでいくうちにそのサイトの世界というのが見えてきた。受ける要素はいろいろあるだろうと思うが、まずもって内容が読みやすい、ということ。わりと常識的なところで話が進み、定型的におちる、と。誉めているのかけなしているのか、という感じだが、もちろん誉めているのである。そうでなければリンクは貼らない。わかりやすい、というのは大変かつ大切なことなのだ。
しかしもちろんそれとは別の価値の方向もあって、私はそちらを志向しているつもりだ。読み手に何かしらの不安感・違和感を残すこと。そんな文章を書きたい。ただ違和感以前に、単に分かりにくいだけなら最悪で、紙一重のところでやっているつもりだが、結構すべっているのは確かだ。
女優で言えば松たか子がいいか、中谷美紀がいいか、というところだろうか。我ながら妙な例だな。ちなみに中谷美紀は低視聴率女優らしい。
松たか子よりも藤原紀香、だな。というか、前者は誰でも良かった、というのがバレバレだな。(追記)
この期に及んでまだアメリカはアフガニスタンへの無差別爆撃を続けるつもりらしい。傍から見ていればもはや何かに取り付かれている、としか見えないのだが、ブッシュは止めない。ジジェクが指摘しているがごとく、テロによって<現実界>と遭遇してしまったがゆえに、うろたえて「男根的身振り」を繰り返しつづけるのだろう。そのさまはガミラスの襲来に焦土化した地球から飛び立ったヤマトの「英雄的な」戦い振り、そして最終的に「父」なる艦長沖田の命じるままに、ガミラス本星を地球以上に破壊し尽くした古代進の姿に重なる。もちろん小ブッシュの「お父さん」は、実の父も背負った「大アメリカ」である。
他国のことはいうのは簡単だ。前にアメリカの報復爆撃を批判する論陣を張るチョムスキーへの毎日新聞だかのインタビューで、日本のなかではアメリカに対して批判的な声がある、と記者が擦り寄ったら、日本だって前の戦争、皆で突き進んだじゃないか、とあっさり一蹴されていた。だいたいそんなところで擦り寄るぐらいなら、アメリカが反復するエディプス神話を縮小再生産して、宇宙戦艦ヤマトを見ながらマスターベーションしている小泉坊ちゃまと日本という国をこそ笑うべきではないか。
そもそも日本でアフガニスタン空爆を支持している方々、犯罪者ビンラディンをかくまうことが爆撃に値するのなら、同じく犯罪者フジモリを「かくまっている」日本がペルーから爆撃されたって文句言わないつもりなのかな?
いちいち書くと弱小サイトだとばれるので書きたくないが、でも今更取り繕う話でもないので、嬉しいことは嬉しいと書く。今日このサイトの感想をメールでいただいた。顔見知りからのメールはたまにいただくが、そうでない方からの感想というのはなかなかいただけないので、それだけに嬉しい。ちなみに前にいただいたのがおよそ半年前!ろくに更新もせず、やる気もないときだったのでお返事もせずに失礼してしまった。
読んでいて共感できるサイトがあれば、私もどんどん感想を寄せたらいい、と改めて思う、のだが、なかなか自分ではできない。要は、他者とのかかわりが上手くもてない人間、なのであり、昔内弁慶、今だったらオタクと称される人間なのだ。やっぱ「内弁慶」のほうがいいな。
嬉しいメールもあれば、?なメールもある。さるIT関連企業(というしかない)との打ち合わせでメールが届く。HTMLメールだ。OutlookExpressだ。その会社からはウィルスメールも既にいただいている。何をやっているんだ、と思う。読者さんとか、学生さんからウィルスメールが届いてもかまわないが、IT関連企業としては相当情けない。さらにその情けない相手から仕事をもらっている自分は。。。
本日付の毎日新聞誌に件の「ショー・ザ・フラッグ」の検証記事が出ている。一昔前だったら「構築主義」が社会学の領域で麗々しくやっていたような内容。一般誌にやられてはそれ以上のことを言うのは難しいかもしれないが。今となってはそれが捏造されたことよりも(もちろんその検証は必要だが)、その捏造がいかに効果をもったのか、のほうこそ重要かもしれない。アーミテージの発言自体は派兵賛成派にとって改ざんの必要が特にない、むしろ都合の良いものであった。にもかかわらず、「ショー・ザ・フラッグ」と言い換えられ、たちまち広まった。どんな言葉が力を持つのか。その言葉の意味している内容を差し置いて、ある言葉の響きがその言葉に力を与える。理念・観念以前の「物質(=<現実界>のかけら)的」な効果である。
今年の名言大賞みたいなのをワイドショーでやっていた。小泉の「感動した!」が一位を取っていた。語彙の貧困さが受けるのだ。それでも違うだろう、と思う。小泉の今年一番の迷言は、靖国参拝問題で提訴した人たちに向けた言葉「おかしな人たちがいるもんだ」がダントツだろう。これこそ絶対に後世まで語り継ぐべき傑作だ。こんなおかしな人を首相にして喜んでいる日本に「感動した!」。
日記ページの構成を若干いじりました。「Logs」のコーナーを作ったので、新しくこられた方はまずそちらを見ていただければ。いままでの記事の中から、散漫すぎるものを除いてジャンル分けをして、副題を新たにつけてアクセスしやすくしています。これで懸案の過去ログ整理の方針も決まったし、体裁上は当分書きつづけられそうです。
例えばこの程度の記事は「Logs」にはのせない。
アクセス解析というのはなんとなく後ろ暗いものを自分では感じる。「誰」が訪問したかを監視しているわけで、たとえばお歳暮やら年賀状やら、誰が送ってきたかリスト化する企業の上司とか、違うか、そういう暗さを感じてしまう。あるいは逆に私が訪問者の立場のときは、あまり何回も訪問すると変に思われるんじゃないかなど、アクセス解析をやっているサイトには訪れすぎないように気を使ったりする。本当は常時接続になってしまえば、息抜きに目に付いたページをリロードしたりするので、一つのページに何回もアクセスしたとしても大した意味はないのだが。
さてこのサイトもアクセス解析、やってます。後ろ暗くやってます。これが結構面白い。もともと訪問者数の少ないサイトなんで大したことはないが、それでもNetscapeの凋落ぶりとか、Yahooの強さとか、結構いろいろ分かります。たとえばIEユーザーは86%以上。CSS表示に難があるといわれるNetscape4.xユーザーは3%。
あるいはこのサイト、Yahooに登録されているだけで、仮に何も更新とかしなくても訪れるひと、毎日6人前後。+α他の検索サイトからくる人がいて、放ってあったときから一日10人近くのアクセスがあった。それだけでも大したものだ、と思う。何せ1年以上何も更新しなくても、そのアクセス数は保たれるのだから。意味ないけど。更新しだしてからはリピーターの方が出てきて、アクセスはまずまず増えてます。ありがとうございます。ちなみに新しくリンク依頼したReadMeからのアクセス、2日で2人(笑)。まあ、そんなものでしょう。
え?じゃあ結局このサイトの一日の訪問者数はどれくらいなのかって?秘密です。Indexのカウンター、数えてください(笑)。
そうそう、近日中に「残骸」にあたらしいエッセイをUPする予定です。題名は「猥褻なる『残余』」。ジジェクを使っていろいろな性現象を読み解こうというスジはいいけど、いまいち散漫な論考です。ご期待?ください。
テキスト系のサイトを適当に見回っていると、結構東大生のサイトに行き着く。学部生でもかなり専門的な話がぽんぽんと飛び出して、「さすが」とおもう。「最高学府」も伊達ではないのである。とそれはいいのだが、東大とくれば、早稲田でもいいのだが、一橋でもいいのだが、一応京大という名前が出てきてもいいだろう、と思う。ところが行き当たらないのだ。私は前に書いたようにジジェクあたりで検索をかけて見るのだが、それで京大生作と思しきサイトに出会ったことがない。
東京の学生は出版社にも近いだろう、己の思想を吐露する機会はまだしも恵まれている方だと思う。それに対して京都は田舎だ。そうであればこそネットというのは重要な機会のはずだ。だから本来なら京大生こそ、どんどんサイトを立ち上げて、己の思想を語ってもいいんじゃないか?
なぜそうならないのか。1. たまたま私が見つけなかっただけで、東大生に比べて京大生がサイトをたちあげていないというわけではない。2. 東大に比べてやっぱり京大は二流で語る思想も覇気もない。3. サイト上なんて自己満足していてもしょうがないので、京大生はもっときちんとした語りの場を持っている、あるいは求めている。さてどれでしょう?
ちょっとスケベ心?をだして、さるリンク集に登録してみた。Read Me!とかいうテクスト系サイトのリンク集である。登録ついでに、どんなサイトが登録されているのか、ぱらぱらみてみる。アクセス上位のサイトを見てみるのだが、中にすごいアクセス数のサイトがあったりする。ためしに十秒後ぐらいにリロードしてみると何千もカウンタが回っていたりする。信じられない。世界が違う、と思う。何がそんなに面白いのかも理解できないのだ。もちろんそれはお互い様で、少数派なのはこっちで、一般受けするのは向こうらしくて、普段の会話でも私はこのページのような話しか出来なくて、友達がいなくて、おまけにもてないのだ。なるほど。
ついでに下の話(携帯電話で当てが外れた話)も実話だ。
携帯電話が鳴る。その瞬間に体が反応する。誰からかも分からないうちに、「携帯電話」の呼びかけに対してとにもかくにも機械的に身体が反応する。そうして(「仕事に関することか?」という)義務感や(「デートの誘いへの返事だろうか?」という)期待感を発生させつつ、私は「応答」する。私は自分がいまだに義務感やら期待感やらを持つ存在なのだということを<再認>する。
そうして、<どなたですか?>と携帯の画面を見る。期待や義務を確認すべく差出人を確認する。携帯電話は答える。<某です!>。たとえ当てが外れても、私はその彼ないし彼女に、正確に対応しなければならない。私は、正しく義務を遂行する「主体」になる。こうした私のささやかな義務やら当てが外れた期待やらは、まさに携帯電話に媒介されて生成したすぐれて物質的な実在である。
彼/女の諸観念の存在は物質的であると言っておきたい。このことは彼/女の諸観念が物質的儀式それ自体によって規則化された物質的なプラチックの中に挿入された彼/女の物質的諸活動であり、こうした儀式は、主体の持つ諸観念が依存している物質的なイデオロギー装置によって限定される限りにおいてである。
1. シェイクスピア「ハムレット」をみるといいらしい。
パキスタンの大統領は、ビンラディンは既に死んでいるのではないか、といっているらしい。少なくともビンラディンは「現実」には既に死んでいる。しかしアメリカは掃討作戦をやめはしない。アルカイダという組織の解体によっては、ビンラディンの脅威はなくならないのである。重要なのはビンラディンの死体である。アルカイダのメンバーにとってビンラディンの身体が重要であったごとく。
聖夜における恋人との時間の
神格化は、いわば欲望を神聖化し、欲望を人間のあらゆる法の上位におくようなものである。その欲望をさまたげることは、あたかも冒涜であるかのようにさえ思われる。この欲望の解放は、
マスメディアのほとんどとどまることを知らない拡大によって、一層拍車をかけられた。
この無限という病は、人々の意識における愛情の面をも・・・冒すことが出来るわけで、このばあい、病は、・・・しばしば性的な形態をとる。・・・人は今度は不可能なものを夢見るようになり、実在しないものにまで欲望をはせることになる。この果てるところを知らない追求の中では、感性の苛立ちの起こらないはずがない。もっともここにまで達するためには、なにも愛欲の経験を限りなく積み重ねたり、ドン・ファンのような生涯を送るまでもない。ふつうの未婚者のありきたりの生活、それだけで十分なのだ。その生活は、絶えず新たにわきあがる希望であり、また絶えず欺かれる希望であって、後には倦怠と幻滅の心象を残していく。
今日は天皇誕生日の振替休日であって、それ以上でも以下でもない。
箱買したみかんの中に腐っているものが出てきている。腐ったみかんは捨てないと、他のみかんを腐らすんだな、と一個一個確認して捨てる。テレビドラマも思いもかけないところで実用的だったりするのだ。
前に、ゼミの学生さんに、今やっている教育ドラマ三本のどれを見ているか聴いたところ、「金八先生」を見ているという人が一番多かった。もうとうに終わったドラマだと思っていたので意外だった。今や水戸黄門化している、という意味もあるだろうが、なんにせよ20年のながきにわたって「教育」を描きつづけ、今なお見られつづけているのだから大したものだ。
なつかしついでに、結構良かった教育ドラマで、矢沢永吉主演の「アリよ、さらば」というのがあったのを思い出したが、覚えている人はいるだろうか。
天皇誕生日なのである。近所をぶらぶら歩いてみた。どこも日の丸を掲げていない。まあそんなに保守的な土地柄でもないのでそんなものかもしれないが、でも前の天皇のときは、もう少し雰囲気があったと思う。右も左もなにやら集会をやったりもしてた。今の天皇誕生日は盛り上がらないのである。
4月29日はゴールデンウィークの一角を形成し、メーデーにも近く、色々盛り上がる要素満載なのに対して、12月23日なんてクリスマスイブの前日で、盛り上がらないに決まっている。一般家庭のガキだったらぐれたくなるぐらい、誕生会なんてのもやってもらえなさそうな、そんな日だ。誕生日プレゼントはクリスマスプレゼントと合同でしかもらえない、そんな日だ。
と、それはともかく、前の天皇誕生日はなんだかんだ理由をつけてそのまま祝日になった。明治天皇の誕生日もちゃっかり祝日になっている。「偉大な」天皇の誕生日は祝日になるのである。もちろん今の天皇も偉大であらせられるのである。我ら臣民ごときがその偉大さを否定するのは不敬である。だから当然12月23日も将来までも祝日になるべきだ。
そうしてどんどん代替わりをしていけば、日本は将来一年の大半が祝日になるという、マルクス先生もビックリの理想社会が到来するのである。日本の未来が楽しみである、って私、何歳まで生きる気だ?
それにしてもこれほど天皇誕生日を意識している人間って結構少数派かも。まあ天皇主義者としては当然だな。
クリスマス、である。なんとなく年末の慌しさに忘れていたが、クリスマスがもうすぐなのである。少なくともテレビがそう告げている。だらだらとテレビを見ていて、見ていた番組がことごとくクリスマススペシャルだった。
なんとなく居心地の悪い時期である。かつてはそうではなかった。クリスマスソングは嫌いではない。クリスマスツリーなどの電飾、雪をあしらった飾りなどなども、クリスチャンではないが、なんとなく心休まるものを感じる。私の心象風景ではクリスマスは、アメリカ保守的家族がご馳走を前に憩う、平凡で暖かな幸せを感じる日だ。
夫婦を単位とする家族というものが性現象を押収する。そして生殖の機能というまじめなことの中にそれをことごとく吸収してしまう。
いまやクリスマスは「聖夜」ならぬ「性夜」と揶揄されるようになった。共に過ごすべきは「異性」でなければならなくなった。保守的であるがゆえに安定していた私の心象風景は容赦なく粉砕される。性は保守的家族の団欒の中から抜け出して、何気に街を歩いているときにさえ、あの手この手で語りかけてくるのだ。「一緒に過ごす相手はいるよね?」そのような声が執拗に響き渡る。迫りくるクリスマスに向けて、トナカイに導かれたサンタクロースの足音とともに鳴り響く。「やあ、ホテルの予約はもう済ませたかい?」
クリスマスは、数あるかかる語りかけの有力な装置の一つである。そしてそんな声に惑わされないぞ、と強がっている私は既に、真っ先に、「性」の主体となっているのだ。
性について語ることを、そしていよいよ多く語ることを、制度が煽り立てる。権力の諸決定機関の場では、性について人が語るのを執拗に聴こうとし、権力自らが乗り出してきて、性については、はっきりと口に出して言われた表現と、際限もなく累積していく詳細という形で、執拗に語らせようとするのだ。
「いいクリスマスだったかい?」
明日は天皇誕生日。せいぜい性現象を押収していて欲しいものだ。頑張れ。
<s>タグの件でぐだぐだ書いたが、取消線は別にきちんと使えるタグがあったんですね。お恥ずかしい。<del>というのがあった。不勉強。でも未対応のブラウザもまだあるし、うーむ。
「正しいこと」を伝えるのは難しい。逆に言えば「分かりやすいこと」にはしばしば嘘が含まれている、ということでもある。小泉の言葉は分かりやすい、らしいが、希代の嘘つきだ。自分でも「嘘」だと気づかないほどに。
それは授業でも同じで、だから正しいことはもちろん伝えなければならないが、場合によってはあえて「嘘」をいわなければならないこともある。その選択が思いのほか難しい。正しいことを伝えようと頑張りすぎると、時に聞き手が混乱する。その場合、なるべく罪のない嘘をうまくつかなければならない。「正しいこと」を簡単に伝えられるに越したことはないが、そしてそれはもちろん教師の力量の問題だが、次善の策として、「うまい」嘘をつけるのも教師の力量である。また何を持って「罪がない」と判断するかは、教師の思想の問題である。もちろん伝わる伝わらないに関わらず「正しさ」を貫くのも一つの見識ではある。少なくとも私はそういう教師は嫌いではなかった。ただいまの時代、それが通用するかどうかは自信がない。
HTML4.01は「正しい」仕様である。まず、それはWC3が勧告した正式な仕様である。NetscapeやMicrosoftのような特定の団体が独自に拡張したものではない。さらにそれは「理念」に基づいている。なるべく多くの環境で、端末の性能のみならず、たとえば目が見えず、音声でウェッブページを聞く人たちなどに対する配慮という意味も含めて、情報をきちんと伝達されるように考えられた仕様なのだ。それは特定の(多数派であっても)環境に限定された伝達しか出来ない仕様よりも「正しい」というべきであろう。
というわけで、このサイトも遅ればせながら、対応したいと思っている。そもそもインターネットというのは、Microsoftの製品でしか読めないような文書などを廃し、あるいは誰かが情報を独占することを廃し、誰もが容易に任意の情報にアクセスできるように、という理想、理念とともにあったはずだ。出発点は国防省であっても、それがアメリカ全土、さらに世界的に広がるにいたった、そうした状況を支えたのはそうした理念に共鳴した人たちのボランタリーな努力あってものものなのだ。私は、己の能力の限界ゆえ、何の貢献も出来ないが、それでもこのサイトに、きわめて範囲限定であれ(そしてそれはそれでいいのだ)、少しでも何かしらの情報を呈示できれば、と思ってやっている。
とそれはいいのだが、ここで冒頭の話に戻る。「正しいこと」を伝えるのは難しいのだ。HTML4.01の仕様、それにこめられた理念、それをぜひ伝えたい、と思う人がいるのは当然だ。そしてそうした人たちの思いがなければ、もちろん私だってこのサイトを作り直そうとは思わなかった。ただ、ただ、である。そうした努力の一方で、というべきだろうか、それに付随する議論がフレーム化していることがあるのが見受けられて残念に思う。たとえば<blockquote>(引用)をインデントの設定に用いているサイトがある。もちろん誤用である。しかしそれがどれほどの弊害がある、というのか。ある人は言う。そういう誤用をする人のせいで、目の不自由な人が音声で聞くとき、いちいち引用でもない部分まで「引用です」と読み上げられ、迷惑する。挙句<blockquote>が引用として使えなくなり、学術用途など引用が必須の状況に重大な弊害を及ぼす。
おいおい、と突っ込みたくなる。目の不自由な人が迷惑する、というのをお前が実際に直接見聞きするなどの経験をしたのか?もちろんそういう側面はあるだろう。<blockquote>の誤用にかぎらず、たとえば<font>が定義されなくなるようになるのも、WC3はそういうさまざまな状況を調査した上での判断であろうとも思う。しかし、何ら具体性も脈絡もなく、ただ<blockquote>をインデントとして使いつづけることを批判する文脈において「目の不自由な人」を持ち出すことがあるとすれば、お前は何様だ?といいたくなるのだ。いったいどれだけの責任でもって自分は「目の不自由な人」の代弁者となりうるのか、その問をどれだけ己に問うたか。それが問題だろう。もし目の不自由な人のために主張するならば、<blockquote>の誤用の重要度がどれほどのものか、それをもう一度考えてみる必要があるように思うのだ。「引用だ」と読み上げられたって、文脈というものがある。たとえば文章の冒頭に「(かぎかっこ)がついていても、それがずっと続けば、「ああ地の文全体をかぎかっこでくくったのだな」と気づくのではないだろうか。配慮しなくていいとは言っていない。しかし相手の能力を低く見積もりすぎているのだとすれば、それが一番失礼なことだろう。
同様に<font color=red>が槍玉に挙げられる。字が赤くなる、というのは、実際に画面で確認できない相手に(端末の問題、ハンディキャップの問題)情報が伝わらない、という。嘘だろ、と思う。字が赤い、というのは視覚的に確認できずとも、その<意味>は文化的に了解可能なはずなのだ。時にそれは強調であるかも知れず、時にそれは日曜日であるかもしれない。その判断を可能にしているのはわれわれの目ではなく、文化、常識である。したがって目が不自由でも「フォントが赤い」という情報を得られれば、そこから同じ判断をすることは十分可能なはずなのだ。
繰り返す。相手の立場を慮り、配慮するのは大切なことだ。しかしその*つもり* で、自分の別の主張の正当化のためにそれを利用するのは恥ずべきことだ。「正しい」主張は己の言葉でせよ。もちろんその正しさの判断、主張の中に他者への配慮はあってもいいし、またそうであるべきだろう。それも含めて、己の判断、己の責任に密着したところで主張はなされなければならない。それは常に何らかの形で「弱者」に関わってきた「左翼」に内在する問題である。
注:別に<font>タグを擁護しているわけではない。
<s>タグがなくなる(正確にはHTML 4.01 Strictでは定義されていない)という話を書いたが、それはHTML 4.01がHTMLを文書構造の記述に特化させる方向にある、という流れの話だ。だから<center>なんていの一番に槍玉に挙げられるわけで、それは非常に良くわかる話だ。ただみかけと意味が密接に結びついている場合というのもありうるわけで、<s>は「取り消し線」なわけで、単に文字修飾だけでなく「取り消し」という*意味*が明確にあるんだけどなあ。ソースで見たって<s>主体</s>とあれば、主体という見てくれ*以前*に(主体の)「取り消し」(消去・不在)という*意味*を伝えうるのだ。というか、私の頭の中でそう定義されているというだけのことだが、たとえば<div class=erase>(このサイトではそう定義してみた。もっといい定義の仕方があるだろうか)が、「消去だ」と理解出来る程度には了解可能たりうるのではなかろうか、と思ったりするのだ。あるいは*意味*の「*」が強調であるとかと同じ効果をもちうる、とか。
それはともかく「取り消し線」の含意は色々あるのだが、デリダとか持ち出さずとも、もっと一般的に主にネタ系のサイトなどでよく使われている用法、たとえば、「<b>を残して<s>をなくすなんてW3Cの大バカやろう、まあ仕方ないですね」のような記述とて十分御託を並べうる、すぐれて批評的な含意を持っているのだ。要は「取り消し線」とは消去の痕跡であり、本来は見えていてはならず、その痕跡を探り出すことが批評の仕事である、ということだ。それをしゃれで舞台上に出す「技法」が上記のような用法である。ついでにウェブ上では、さらに痕跡を消して、<!--画面上では見えないけどソース上はあるよ-->という小細工を施す人もいる。これも痕跡をあえて残すやり方の一つだ。
ちなみにこの「取り消し線」をこれ見よがしに出すというテクニック、文字表現以外の世界でもしょっちゅう使われていますね。自民党なんかそれが得意技なんだな。
今日は仕事の打ち合わせをちょっとした以外はずっとHTMLの勉強をしていた。難しいものである。私は私なりに思惑とかこだわりとかあったが、いやはや。「HTMLで豊かな表現を!」なんて喜んでいた時期がなつかしくなってくる。今の潮流はHTMLからはデザイン的要素は極力排除しようということになっているようだ。<font>はいうに及ばず、<center>とか<u>なんかもなくなる方向にあるらしい。昨日の常識、今日の非常識なんてものじゃないな。
そういう方向自体は非常に納得のいくもので、HTMLはあくまで文章の構造をこそ記述するべきものだ、と。それさえきちんと記述されていれば、後はどんなブラウザでも必要な内容は参照できる。+αのデザインはCSSが担当する、と。作り手にとっても楽なわけで、とりあえず単純なHTMLをきちんと書いておけば、見る側がスタイルを用意してもいいわけだし、それで不満ならCSSでいろいろ定義しておけばすむことで、ずいぶんシンプルになるだろう。ただ厄介なのは、なまじ今までに凝ってしまったサイトの開設者(私だ!)で、一度やった作業を全部やり直して、元のシンプルな構造に戻さなければならない。特にこのサイトのINDEX.htmlなんてどうすればいいのやら、途方にくれる。まあ、いずれ手をつけることにする。
ただ唯一どうしても納得がいかないのが<s>まで槍玉にあがっていることだ。<u>とか<b>は,<em>がいい、というのはわかる。でも<s>は単にみばの問題じゃなくて、意味があるんだがなあ。ラカンが泣くよ。
主要なページはなるべくCSSを用いてデザインすることにした。
HTMLはベタのテキストより表現力を持っていることは知られているが、意外と忘れられているのが、文書の構造を記録することも出来る、ということだ。というより、本来の経緯からすればこちらの方が「本業」だ。たとえば段落は<P>タグで書くべきだし、見出しは<H1>でなければならないのだ。今の主要なブラウザではあまり問題にならないが、仮にアウトライン機能のようなものを備えたブラウザがあれば、そういう構造をきちんと守っているかどうかは結構重要な問題になってくるはずだ。INDEX.htmlみたいなのはどうせ表紙なのだから、文書の構造などどうでも良いが、論文などはやはりきちんと文書の構造をHTMLで表現すべきだ、と反省したのだ。
ところが文書の構造に沿ってタグをつけると多くのブラウザ(というか現存する日本語対応ブラウザ全て)で表示が非常に汚くなる。<P>をつかうと一文字空白を入れずに、行をあけてしまう。日本語の段落にはあるまじき表示だ。また<H1>をつかうと馬鹿みたいに文字が大きくなったりする。とにかく醜い。文書の構造を守れば、表示が汚くなり、表示を日本語としてまともにすれば、文書の構造が記録できない。
そこで登場するのがCSSというわけだ。CSSはデザイン部分をいっさいがっさい担当できる。だから従来のタグは文書の構造を記録する方に専念すればよいのだ。<P>で行をあけるのではなく、空白を一文字入れさせるのも簡単だし、<H1>の文字の大きさを決めてしまうことも簡単だ。
難点は、比較的新しい規格なので(といってもローカル規格ではない)未対応や不完全な対応しかしていないブラウザがある、ということだ。しかも困ったことに、あまり大きな声で言いたくないのでこっそりいうがNetscape4.xはCSS対応に関しては色々問題があるらしい。というので今まであまり積極的に使いたくなかったのだが、やっぱり対応しない方が悪い、というのと、それなりに使う機能を絞れば(どうせ使い切れないし)だいじょうぶだろう、というので、大々的に用いることにした。
やっぱり美しい。見掛けが、じゃなくて、ソースが。このページは構造もへったくれもないので、大した事はないが、論文あたりを見てもらえると、ずいぶんすっきりしているのがお分かりいただけるかと思う。
またしてもいろいろなサイト見てまわったが、あまり積極的に使っている人は少なかった。そろそろみなさまも(テキスト系サイトの人は)使ってみてはいかがだろうか。
このページで非常勤先の学生さんへの愚痴を書くことがある。別に学生さんがアカデミックでない、とかそういう愚痴ではなくて、なんと言うか、もうちょっと将来の社会人としてそれじゃあまずいんじゃないの?という程度の事を書いているつもりなのだが、やっぱり保守的教師の愚痴でしかないのかなあ。
と、こんなサイトがあるのを知った。ほんとかねえ、と思う話もある。こういう掲示板は針小棒大に書く傾向があるから、全てを信用してはいけないのだが、それにしても、すごい話が続々出てくる。身の危険まで感じるって人もいるみたいだからねえ。もちろん私は身の危険なんて感じたことは一度もない。遅刻しておいて授業についていけないと泣き言をいう無責任学生は結構いるが、その程度だ。ときに事務さんまで引っ張り出して単位認定に難癖つけてくるいさぎわるい学生も例年2,3人いたりして、その程度でも「信じられん」などと思っていたが、このページ読んで悔い改めることにした。わたしゃ、果報者だよ。
このページを見てくれた学生さんからメールをもらった。愚痴った内容についても慰めてくれてた。本当にありがたいことである。相対的に、ではなく、絶対的に私は果報者なのかもしれない。
このページはCopyrightを主張していない("Written by"は責任を明確にしているだけで、権利を主張しているわけではない、つもりだ)。仮にこのサイトのネタをパクって(参考にして)、誰かが大論文を書いて、本になって、印税ガポガポとなっても(ありえないが)、それはこのページごときのネタをそこまで膨らませたその人の成果であって、私とは関係がない。あるいは、実はそれほどのネタを書いていたのだ、ということを証明してくれてありがとう、というべきなのかもしれない。だから仮にそういうことになったら、私はこのページで泣き言を言うかもしれないが、そんなのは社会的に無視されて当然なのである。もちろん「それほどのネタ」はここにはかかれていないのは言うまでもない。
そもそもWPでCopyrightなんて主張しだしても切りがないだろう。どちらが先に書いたか、なんてことは証明しようもないからだ。仮にどこかのサイトに私の書いたものとそっくりの文章があったとする。ぱくったのは相手か、私か、それを証明するものはどこにもない。それなりの手続きを踏んだ出版物でない限り、書いた(発表した)時間を特定などできないのだ。
もともとたいしたネタを書いていない、という時点で同業者相手にぱくられる心配など最初からしていないが、一応引っかかるといえば、どっかの大学のレポートにぱくられることぐらいだろうか。その程度のものは書いている。そしてそれが横行すると、レポートなるものが有名無実化してしまう。出版物のパクりなら発見する余地もあるが、WPからそれをやられるともとネタを発見するのは事実上不可能だ。ただそれは、「私のこの文章」の問題ではないので、私がここでいくらCopyrightを主張しようが、あまり意味のあることではない。
ただ一応警告?しておくと、ここの文章、それなりにもとネタが潜ませてあったりして、知っている人には見え見えなのだが、パクリ学生は気づかないかも知れず、迂闊にやると恥を掻くかもしれない。え?もとネタがあるって??それじゃあ、このサイト自体がパクリをやってるってわけ???
吉本の(といえばかつては当たり前に吉本隆明のことだった。それがいつからか吉本ばななになり、今は吉本興業になった。もちろん吉本隆明はそのことを喜んでいることと思う)「重層的非決定」とは、もちろんアルチュセールの「重層的決定」のもじりである。この概念自体は後の「構造的因果性」概念へと発展していく重要だが、あいまいなところを残した概念である、というのはとりあえず訪問者への知識の切り売り。
ともあれ、重層的決定という概念は複数のシステム間のコミュニケーションに関する概念である。あい異なる論理を持った相互に自律したシステムが社会的に関係付けられるとは、いかにして可能なのか。これはすぐれて実践的な問いでもある。
アルチュセールは、この問いを上で書いたように「構造的因果性」概念に昇華させていく。
構造の現存全体はその結果の中にあり、要するにそれ自身の諸要素の独自の結合にほかならない構造はその結果の外部ではなにものでもないのだ。
この説明は複数の結果(諸要素)間をつなぐ「媒介」の存在を消去している。それは「媒介」がしばしばフェティシズムに陥ることを踏まえれば、まったく妥当な方向性である。その媒介の「不在」を言ってもなお、神秘的な効果がへばりつくだろう。それゆえアルチュセールは「不在」ではなく、理論の中からその居場所自体をなくしてしまっているのだ。ここでは具体的に神秘的なるものを措定する「(否定)神学」を逃れるべく、スピノザの汎神論のロジックを使っているのである。そしてアルチュセールはその方向にこそ「唯物論」の可能性があると考えたのだ。
ブルデューそしてジジェクは再び「媒介」を呼び寄せる。
ブルデューはハビトゥス概念が社会的に捏造され、現実化する過程を説明することでそれを行なう。通俗的な読み、「趣味などの個人的と見える行為は実は、出身階層によって構造化されているのだ」、という「説明」、それをブルデューはなぞりつつ、そうした説明の空白を見出す。しばしば<誤解>されているのだが、上の「説明」はブルデューがひねり出したものではなく、社会全体が、そうとは知らずにそのように振舞っている類の「説明」である。そんなことを「発見」したことが偉いのではない。実際、上の言明はまったく何も言っていない。「階層」概念の定義の中に「趣味」が含まれているからだ。この言明は単にトートロジーなのである。そしてその空白を「埋める」具体的な身体を持った概念が「ハビトゥス」なのだ。ブルデューが行なっているのは恣意的な「媒介」が社会的な身体を持つにいたる社会的な「必然」(正統性)のロジックを描き出すことである。
ジジェクの議論はもっと軽やかだ。「必然」なんてものもないのだ。まったく偶然的な物質にその「媒介」の意味が付与されるさまをジジェクは描く。そこでは正統性なんてものもいらない。まったく相互に恣意的なやり取りの中に、突然「媒介」が登場してしまうのだ。
それをふまえればサイトの作成者と訪問者との出会いを受け持つ「サーチエンジン」だってかなり即物的かつ偶然的である。そしてその可能性に私(たち)は賭けているのだ。
今日は某非常勤先のレポートの採点作業をやっていた。お題は「社会問題」について自分でその背景、経緯などを調べてまとめて、それについてコメントを付せ、というもの。「社会問題」と言っても別に構築主義的な含意はなく、単に授業で差別問題やらいじめやら戦争の話やらしたので、その辺から学生さんなりの問題関心を深めてくれれば、という趣旨。
だいたいこの手の、自由度の高いレポートの常なのだが、点数をつけようがない、あるいはバラけさせようがない。標準偏差3.5といえば大学入試模擬試験などの記憶がある方はどのくらいばらつきが小さいか、お分かりいただけるかもしれない。採点基準はちょっとここにはかけないが、仮に客観式試験のように細かく基準を設けていくと却って、私の印象とはずいぶん違った結果になってしまう。形式は確かに大事なのだが、本当に大事なのはそれだけなのかもしれないが、教師としては「自分の伝えたかったこと」を少しでも伝えられたか、を見たくなってしまうのだ。
それにしても、このバラけなさは、分かっていたとはいえ、戸惑う。授業中には確かに学生の態度はバラけているのだ。ずっと寝ている学生、結構熱心に聞いてくれている学生。それに沿った結果がレポートに出てくれば、教師としては納得が行く気がするのだが、そうはならない。そこで例えば熱心に聞いてくれた学生をチェックしておいて、いい点数をつける、というのは果たして是か非か。
私は、そういう採点は今までしてこなかった。採点はあくまで「客観的」なもの、少なくともその装いを持ったものでなければならない、と自分に言い聞かせてきた。仮に顔と名前が一致しても、レポートは名前を隠して採点していたほどだった。でも最近、生徒と教師の「コミュニケーション」の不可能性の問題を考えていて、それを一瞬可能にするものが偶発的・恣意的なものでしかありえないのだ、と思うにいたって、少し考えが変わりつつある。採点、あるいは生徒の側からの授業評価、がコミュニケーションの成否の結果だとするならば、所詮異なるシステムに属するもの同士の評価になまじ「客観性」はいらないのではないか。どの道試験だって恣意的なものにすぎないのであれば、例えば授業中に目を輝かせて聞いている生徒の顔、その一瞬にコミュニケーションの成功を賭けた方がまだしも誠実なのではないか、という気がしてきているのだ。
もっとも達成目標がはっきりしている授業は別である。その「達成目標」の存在が両者の接点となってくれるからである。それがさらに社会的に恣意的であるか否かはこの際関係がない。当該教室空間で自明性を持っていれば十分である。
だから「大学(高校)受験」は、なんだかんだいって(いかに受験が高校(中学)教育をゆがめているかとか語られてもなお)、高校(中学)教師の味方なのである。
このページを毎日更新するようになって、四六時中自分の考えていることを頭の中でテキスト化するようになった。だからといって、別に無理やりネタを探すとかそういう感じではなく、常に自分の考えていることを反省し、対象化しようとしているだけのことだ。それは私にとってはもともと非常に自然な運動のように思える。どの道私たちは言語によって物事を考えているのだから、それをいったん定着させておく、というのは決して不自然な、無理な行為ではないはずだ。
しかし、やはりときに負担になってしまうことがある。今朝、目がさめて布団の中で、「今日書くネタ」を思いついた。とても小さくせこくまとまっていて、なんかあっさりかけそうな気がした。それで慌てず、コーヒーを飲んで、新聞を読んで、はて?スカッと忘れてしまった。何を書こうとしていたのか。何を思いついたのか。どうにも思い出せない。それが果たしてなんだったのかが気になって、なんだか落ち着かず、何も手につかない。そのときどういうことを考えそうか、前日の出来事などを思い返すが、どうしても出てこない。何かあったはずなのに。はずなのに。あ〜あ。こぼした牛乳は嘆いても仕方がない、って奴だなあ。
ここで「牛乳は本当に入っていたのか?」と問いたくなるが、そして「いや、実は空っぽだったのだ」という回答が得られればすっきりするのだろうだが、それはもはや遅いのだ。「あのネタはなんだったのだろう」という引っ掛かりが、そのネタ自体の重要性を越えて(牛乳は腐っていたかもしれない)、床のカーペットに残っている染みの原因となっているのだ。牛乳はもともと入っていたか、入ってなかったかはともかく現に今は容器の中にない。そしてカーペットの染みだけが不在の牛乳の(負の)効果として残るのだ。
無駄になったのは、朝思いついたと思しきネタではない。今日の一日だ。もちろんその時間のほうが貴重だ。
『噂の真相』誌の今月号の斎藤美奈子のコラムがちと面白かった。朝日新聞までも(こそ)が「女性天皇」の可能性を、何かしら可能性にみちた話のように書いているのをからかう内容。政府筋も含めて、本気でそういう議論をしているらしいが、じゃあ、皇室典範改正した途端に男の子が生まれたらどうするんだ?やっぱ「長男」が「第一子」に優先する?じゃあ、秋篠宮さんちに男の子が生まれたら?「男子優先」?「直系優先」?はたまた愛子天皇と元民間人夫に子どもが生まれたとして、その子を天皇にする?などなど考え出すとややこしいことがいっぱい。というか、そういうのがややこしい気がする時点で、やっぱ天皇制ってどうあがいても性差別原理に則った制度なんであって、朝日新聞やら小泉やらなんやらが男女平等社会がどうたら言ったって欺瞞にしかならないだろう。
そんなややこしい議論するぐらいなら、自然消滅させたって別に困らないんじゃない?というのが斎藤美奈子の言い分。私もその説にも大賛成なのだが、ただそうやって大騒ぎしていくうちに、「進歩派」の欺瞞もはがれていくのも愉快かなあ、とも思う。あるいは愛子ちゃん天皇と元民間人夫君との間に娘が生まれて、それが天皇になったら、なんか万世一系とかいう気、やっぱしなくなるわけじゃん、それはそれで愉快かなあ、と。って私、何歳まで生きる気だ?
昨晩から頭が痛い。晩御飯のともとしてチュウハイを二本あけただけで酔っ払ったのか、とも思った。でも夜中にいよいよ頭痛がひどくなって、とても寝ていられないほどになって、そんな話でもないような気がしてきた。さしあたり、風邪薬をのんで布団を引っかぶるが、どうにもならない。それでも一夜が明けて、なんとなく収まっているが、まとまった思考を出来る状態ではない。というので、いろいろネタはたまっているのだが、今日は無理そうだ。
このサイトを「再建」してからおよそ一ヶ月がたった。ログが増え、ページも段々重くなるし、見通しも悪くなった。まだ3ページだから収拾はつくがこの調子で何ヶ月か書けば、収拾がつかなくなるかもしれない。というので、ログをどう整理しようか、と考える。そして例によって他のサイトの方針をパクろう参考にしようといろいろ見てまわる。
方針は大まかに言って二つだ。とにかく年次で整理する方法。管理が楽だし、おのおのの話題は時期限定的なものもたぶんにあるから、その意味でも自然だ。ただ問題は、私の場合、更新が中断していた時期やら、不定期に更新していた時期やらがあって、その部分の扱いが良く分からない。「以前」で一まとめにすればいいのか。
もう一つは話題ごとに整理する方法。特に話題がばらばらなこのページ、興味のある話題だけ読みたい方のためには最適だ。長めに書いた、まとまった論考は「残骸」に移す、という手もある。理想をいえば「生産物」だな。書き散らした思考をもう一度まとめなおす契機にもなっていいかもしれない。ただ問題は、当然ながら、面倒くさいこと。それから、こちらの方が重要かもしれないが、時系列的に書きちらしたもともとの空気が損なわれてしまうのではないか、ということである。
というので、ちょっと悩んでいるのだが、一番の問題はこのペースで後どのくらい書きつづけられるか、だな。例えば明日やめてしまえば、ログの整理なんてさして問題にならないわけで。3日坊主だしな。明日のことは分からない。まして来年のことなんて。