重層的非決定

モーニング娘。
L. Althusser
No.5
2002/01/01-2001/01/31

★幻滅の2月

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「疎外」

今日で一月も終了。このサイトの一月のアクセス数は1200余り。先月が600でしたから倍増です。どうもありがとうございました。ちなみに2年前は一ヶ月のアクセスが186とか言ってましたので、このサイト自体がちょっと大きくなった気分です。

かなりの方が「マルクス」で検索してきてくださっているのですが、そしておそらく多くの方はそのままさよならなのでしょうが、それでアクセスが増えているのも不思議な気がします。マルクス自体の話がなくても、これはこれでマルクス主義のあり方なのかな、とか興味をもっていただければ幸いです。

後、リンクしてくださっているサイトもさりげなく増えています。モーニング娘。を応援しつつ批評的文章を書いているサイトがリンクをはってくださってました。うちよりもまじめにモーニング娘。を応援しています。私もまじめに応援しているつもりなのですが、原理主義者の限界を噛み締めています。「大乗」のこころをもたなくてはならない気します。

というので、自分からはリンク集作っていないくせに、リンク先が増えるとちょっと嬉しかったりします。批判的な文脈でも大歓迎です。というか、改まっていうまでもなくリンクフリーなんで、貼るのもはがすのも晒すのも自由なんですけどね。

私もリンク集作ろうかしら、と思わなくもないが、でも私が巡回している先って、1. PC関係のニュースサイト。2. 社会批評ネタとして「観察」しているサイト。がほとんどなので、つまりジャンル違いか、特に好意的とは限らないか、というサイトのリンク集を作るものもなになので、もう少し好意的巡回先が増えるまでやめておきます。増えるあては一応あります。事実いまでも4,5サイトぐらいにはなりましたから。

でも、ネットに費やす時間が増えるってのはやっぱり何ではあるかな。なにを削るってまず睡眠時間で、つぎに現実の人間関係で、結果として私自身はどんどん小さくなっていってます。

労働の生産物とは、労働が一つの対象のうちに固定され、物的ならしめられたものであり、労働の対象化である。労働の実現とは、労働の対象化である。この労働の実現が国民経済学状態においては、労働者の現実性剥奪として現れ、対象化が対象の喪失および対象の奴隷たることとして、我が物とする獲得が疎外として、外化として現れる。

K. Marx Okonomisch-philosophische Manuskripte
(2002年1月31日)

一をしゃべれば十が伝わる。楽チンだ。

教師というものは、原理的には学生・受講者に好き嫌い、贔屓があってはいけないのだが、しかしそれをまったくなくすのは難しい。どうしても好意的に見る相手と、苦手な相手というのは出来てしまう。そしてまた教師に対する不満、批判もここに向けられることが多い。それは当然である。

ただ、では教師は一般にどういう学生・受講者を好むか、というのは結構誤解されている。よくある「受験・知識偏重」批判の文脈では、教師は成績の良い学生だけを贔屓して、駄目な学生を嫌い、放置する、というのがあるが、それはおそらく嘘である。本当に自分の接した教師はそうだったか?と自問してみればよい。本当に教師たちは成績上位のものとだけ親しげに接してきていただろうか?そうだった、と答える人はよほどの進学校出身者だと思う。それほどの進学校ではない場合、教師は成績上位者をそれほど贔屓にはしないものだ。理由は簡単だ。成績上位者のほうが教師を尊敬していないし、たいていは塾なり予備校なりのほうに力を入れているのであって、自分のことを当てにしていない生徒を教師が気にかける理由も必要もないのだ。それは教師という職業に根ざした合理的な選好というべきである。「教師は成績良い物好き」というのは、神話に過ぎない。

こういう類の神話はここかしこで語られている。そしてそのヴァリアントとして、たとえばこのような記述があったりする。

受験勉強とはその名の通り「大学へ受かる為だけ」のシロモノです。将来特別役に立つワケでもなく、そのくせやたら難しい。そんな理不尽な壁を乗り越えてきた、という事実が大学は欲しいわけです。そしてその理不尽な壁は東大とかの難しいトコになればなるほど高く高くそびえるワケで。大学というところは「頭の良し悪し」を問いたくて受験なんぞのシステムを敷いてるワケではありません。自分の目的の為に地べたを舐めれる人間かどうかを試されるのが受験です。

あまりにもありがちな「言説」として実に面白い。これのどこが上の神話のヴァリアントなのか?むしろ逆のことを言っているのではないか?そう思われるかもしれない。しかしこれは完璧なヴァリアントなのである。いずれも「学校・大学」を上の階梯に人材を送り込む合理的なシステムとして機能しているのだ、という神話を反復しているかぎりにおいて。中学高校は大学へ進むための「頭のよさ」が好まれ、大学は企業で働くための「地べたを舐める」覚悟を要求する・・・。

しかし、これも当たり前の話なのだが、高校でも大学でも、その場にいる「教師」は社会全体の合理的な担い手などではなく、己の属する共同体に殉ずるのである。自分の目の前にいる生徒の今を掌握することが第一の責務であって、将来かれらがどうなるかなんてはっきりいって知ったこっちゃないのだ。だから大学教師にとってはさっきとは裏腹に「頭の良し悪し」がそれなりに重要になってくるわけで、要は授業なんかに手間をかける暇があったら自分の研究をしたいわけで、学生は何の指導をしなくても要領よくさくさくレポートなり卒論なり書いてくれればそれで文句ないのだ。

というのが実は自己批判で、大学での授業はともかく、大学以外の授業でも私は大学教師的嗜好を表に出してしまい、大変まずいわけです。別に授業の手間を惜しんでいるわけではなくて、ただ出来る人にはより課題を、というふうには頭が働くんだけど、同じ説明を何回もさせられるとうんざりをかなり顔に出してしまう。「ちったぁ自分の頭で考えなさいよ。。。」まずい、まずいのです。

(2002年1月30日)

眠いので一言

類は友を呼ぶ

(2002年1月29日)

およびでない?


昨日、一日テキストサイト見てたんです。テキストサイト。
そしたらなんか人がいっぱい見てて重いんです。
で、よくみたら下ネタ書いてて、女子高生とH!とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、女子高生ごときで普段読まない文字読んでんじゃねーよ、ボケが。
女子高生だよ、女子高生。
なんか親子連れとかもサイト作っているし。一家四人でテキストサイトか。おめでてーな。
よーし、パパフォント特大にしちゃうぞー、とか言ってるの。もうみてらんない。
お前らな、アダルトビデオくれてやるからその回線空けろと。
テキストサイトってのはな、もっと殺伐としているべきなんだよ。
セクトの違う奴といつ内ゲバが始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃね−か。ガキはすっこんでろ。
で、やっとつながったと思ったら、そのサイトの奴が、辛口ぶったぎりとか言ってるです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、辛口なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔してなにが辛口だ。
お前は本当にものをぶったぎりたかったのかと問いたい。
総括したい。真の労働者になるまで総括したい。
お前、辛口って言いたいだけちゃうんかと。
テキストサイト通の俺から言わせてもらえば今、
テキストサイト通の間でのオルグ文句はやっぱり、テロ予告、これだね。
テロ予告有言実行。これが通のサイト。
テロ予告ってのは爆弾の製造法が書いてある、そん代わり伏字だらけ。これ。
で、それに有言実行。これ最強。
しかしこれを行なうと次から公安にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお勧めできない。
まあお前らド素人は、アクセスカウンタでも回してなさいってこった。

(2002年1月28日)

同じ一つの道

仕事が一つ終わり、仕事以外の懸案時もひとつ片付いた。人事を尽くしたら、あっさり天命が下ってしまって、なにやらさばさばした気分だ。

「絶対的読者」を想定するというのは、文章に限らず何らかの作品を生み出そうとするものにとって少なからず必要になってくる一般性への志向と重なるものであって、それはとても積極的なものだ。例えば批判的な言及をするならリンクをはらないでくれだとか、そういうリンク制限をするのと真っ向から対立する態度である。だれに見られることも厭わないが、万人に受けることも求めない。文字として他者の前に提示した以上は、後は煮るなり焼くなりご自由に。それは自己幻想の領域としては、とても欲深く傲慢でありながら、かつ淡々とした態度である。しかし同じ態度が具体的な他人との関係に入ると、それは自己保身としての諦念となり、要はただの逃げであり、とても消極的な態度だ。

このサイト、そもそもは対幻想の延長の産物であった。その他者が抽象化されていくにつれて、気持ちが楽になっていく。そうした変化をどう評価すべきか。同じ揺らぎは授業でもある。学生のアンケートなんて取らないし、仮に評判みたいなのを聞いても気にしなくなった。いちいち媚び売ってられるか。やるべきこと、やらねばならないことは既に決まっているのであり、「進度が速い」とか「難しい」とか言われても、「正しい」と信じることを話すのみ。求道と自己保身の境目である。

特にここ数日、なにやらとてもすがすがしい心境なのだが、それは神に一歩でも近づいたのか、それとも引きこもりへの道を突き進んでいるのか。

(2002年1月27日)

熱暴走

私はマルチタスク人間ではない。二つ以上のことを同時並行的にはこなせないのだ。私のマルチタスク適応度はせいぜいWindows3.1レベルだ。二つの仕事を抱えていても、一方で引っかかるとそこでストップしてしまう。

やらなければならないことが相変わらずたまっている。一つずつこなしてはいるのだが、追いつかない。書かなければならないメールもたまっている。久しぶりにこのサイトへメールをいただいた。ブルデュー追悼について。お返事を書きたい。学生からも単位認定その他のことで問い合わせメールが多数。他にも知り合いにも何通かメールを書きたい。でもぜんぜん手をつけていない。採点も締め切りがまじかだ。こちらもまた全然はかどっていない。一番やらなければならないのが本来それで、でもそれが億劫で、動きが鈍い。

ここに書きたい話もそれなりにある。アフガニスタン復興支援国際会議の件がどうにも腹が立って仕方がない。鈴木宗男など最初からどうでもいいのだが(生理的に受け付けない)、福田康夫のいやらしい笑いも段々寒気がするのだが、民主党の相変わらずのド阿呆ぶりもくさしたいのだが、いずれも罵倒にしかならない。どっちがうそをついたか、なんてどうでもいいのであって、要は現にあるNGOの出席を断ったという事実だけが重要なのであって、その責任を政府自民党にきっちり取らせなければならないはずなのだ。それを水掛け論の部分で戦おうとするから、ド演歌歌手小泉(芸名:ユニセルラー小泉)の「女の涙」というクソ発言を聞かされる羽目に陥る。もう気分が悪くて、何か書こうと思うのだが、ありとあらゆる罵倒だけが浮かんで、エレガントな言及が出来ない。お前はゾウリムシか。頼むから絶滅してくれ。なんか顔までゾウリムシに似てきてないか?

なんて書いている暇があったら、一刻も早く採点をしろ、という天の声が聞こえる。しょうがないなあ。さて、はじめるとしますか。・・・・・・。

[プログラムの強制終了]

システムがビジー状態か、または不安定になっています

(2002年1月26日)

ブルデュー追悼

一人の人間の死というものが、他人にどれだけの影響を持つか。例えば「元号」なんてものが変わり、年計算がめんどくさくなる、というのは迷惑極まりなく、そのような影響などごめんこうむる。しかし一般論としてある個人の死などというものは、多少の感慨を持つ以上の影響などもたないものである。

ブルデューの死。 もちろん少なからぬ感慨を持つ。私がブルデューを知り、読み始めたのが10年前。それ以前から紹介はされていたが、ちょうどそのころ来日などがあって、それなりのブームになった。そしてそのころはアルチュセールやフーコーを引き継ぐ新たな世代、という感じだった。そのころがまだ50台の最後。時の経つのも速いものである。

ブルデューの理論上の危うさと可能性については本欄でも、論文でもしばしば触れてきた。ただブルデューは理論上の貢献以上に、(ある意味古き良き形の)知識人を体現していて、そのスタンスは私はまたある意味逆説的に好きだった。「知識人」の社会学的分析を続けながら、自らは知識人の理念形を演じつづける様は、これは逆接でもなんでもなく、真にかっこよかった。

死んだ、といってもなにがどう変わるわけでもない。ブルデューの本は変わらずの手の中にある。と著者たちの出会いは本を通じてであり、それ以上でもそれ以外でもない。私にとってのブルデューの死の直接的な一番の影響は、それがらみでのアクセスが普段の数倍だ、ということであろうか。そうそう、Yahooではブルデューは2件しかヒットしない。それは少しさびしい。その一サイトとして、こうして追悼文を書いた。

上の文を読んで、やはり死者に対して「冷淡」だ、という印象を持つ方がいるかもしれない。しかしブルデューとて唯物論者である。過剰な追悼こそ彼にとっても嘘であろう。

死は、個人に対する類の冷酷な勝利のように見え、またそれらの統一に矛盾するように見える。しかし特定の個人とは、単に一つの限定された類的存在にすぎず、そのようなものとして死ぬべきものである。

K. Marx Okonomisch-philosophische Manuskripte
(2002年1月25日)

絶対的真理

絶対性は現実の中にある、と書いた。それは原理的にそういうべきだとは思うが、しかし絶対的なるものへの思考自体は現実的なものではない。そしてそれもまたやむをえないことである。だからといって個別的な現実にとどまる限り、惰性的な、ありきたりの反復を「法則」と取り違え、その次元の言説を産出しつづけることになる。ベイリーの「俗流」経済学がマルクスにとってまさにそういう存在であった。ブルデューの再生産論の模倣者や、サックスの会話分析の模倣者たちもいまやそういう存在に堕している。具体をかき集めても、量から質への転換は起きず、絶対性・一般性へは決して行き着けないのだ。それから得られる「法則」など、差異を捨象した抽象物に過ぎない。具体的事例にとどまることがかえって思考の抽象化をもたらすのである。そうではなくて、ある事象を非現実的なまでにパラノイアックに追求しつづける中に、具体の絶対性がその相貌をあらわすのだ。

などという思考はやはり上滑りしているのであって、でもそれは私の趣味みたいなものだから別にいいのだが、しかし「絶対性」なんてことを考えている人間というのはやはり「現実」にはまともに生きていけない人間なのであって、実際今日、大学で大ミスをやらかしていたことが判明して、自己嫌悪で死にそうなのだ。ちなみに「絶対的なる読者」を求めるのは被害が少ないが、「絶対的なる接触」を求めるとろくな人付き合いが出来ない。当然モテない。

(2002年1月24日)

差異の絶対性

「絶対性」だとか「神」だとかは決して抽象的、非現実的な存在ではない。あるいは現実と対立し、それを否定するための理想とか規範とかでもない。私が「絶対的読者」を求める、というとき、現実の読者と違う何らかの存在を求めているわけではない。スピノザを反転させれば、絶対性は全て現実の中にある、のだ。個別の、時に取るに足らない事象の中に、絶対性は生起し、存在している。ただその絶対性そのものに触れることが出来ないだけである。

そんなことを言い出したら、あらゆる価値判断が不能になり、逆に極端な相対主義に陥るではないか、という指摘は確かに当たっている。しかし、絶対性の存在の徴候を読み取ることができるなら、絶対性そのものにはたどり着かずとも、相対主義に陥る必要はなくなるのだ。到達点は見えねども、進むべき方向があることは確信しうるのである。

ほう、ではその絶対性とやらを垣間見るにはどうすればよいのだ?なに簡単なことですよ。相川七瀬と川本真琴を聞き比べればよいのです(古!)。

(2002年1月23日)

神への供物

仕事の兼ね合いで読書会にもなかなかいけない。どんどん「思考する」という世界から取り残されていく気がする。世間的にみれば楽な仕事なのに、それを日々こなしていくだけで、自分の時間が持てない気がする。物理的には時間はあるのだが、まとまってものを考えようというだけの余裕がなかなか持てない。このページも駄文を書き連ねている。「唯一絶対の読者」から遠ざかっていくのを感じる。それでも書くのはやめない。とにかく、駄文であれなんであれ、今書けることは書こうという意志によってかろうじてその世界にとどまれるような気がするからである。神への供物は身の丈に見合っただけ為せ。そう開き直るよりあるまい。

「神?」と思う人もいるかもしれない。「(マルクス主義者を名乗る)お前は無神論者ではないのか?」。もちろんそうである。神への最高の愛は無神論の形態を取るのである。スピノザがそれを例証してくれている。

(2002年1月22日)

原理主義

想像どおり、何もしないうちに1万アクセスがなされていた。21世紀も知らないうちにきていたし、昭和の終わりはちょっとざわついたけど、区切りなんてそんなものだ。それでも私は私なりにアクセス数は気にかけてはいる。

なんとなくリンク先を増やしてみるか、という気分で登録した「Read Me!」とかいうリンク集サイト、特にそこからくる人もいないのではずしてもいいのだが、結構黒地に赤色のロゴがいい感じで少しもったいない。それとこのサイトに登録しておくと、簡単なカウンタ代わりに使える。一週間分のアクセス数をこのサイトが集計して知らせてくれるのだ。自前でカウンタつけててアクセス解析までやってて、他に何をという感じだが、おのおのカウント数が違っていて、なんとなく見比べたりしている。

さらにこのサイト、登録サイトのアクセス数で順位付けしていたりして、私も「参戦」していることになっていたりするらしい。そしてそのトップのアクセス数が一日13万もあるらしい。「戦」うといったって、4年で1万アクセス、40年間やっても1日分のアクセスに追いつかない。アフガニスタンとアメリカみたいなものか。雑誌で言えば「情況」と「少年ジャンプ」か。誰も戦わないよ。と、それはさしあたりどうでもよい。

この欄でちらちら書いてきた「テキストサイト論」なるものがこの「Read Me」登録サイトを中心に論じられているようなのだ。いわくテキストサイト黎明期はもっと個性があった。いわく2001年に登場したさるサイトがフォントいじりを広めたために没個性になった。などなど。は?という感じだ。フォントいじりなんて大昔からやっていた。HTMLが華々しくフォントに色つけたり大きさ変えたりできるよというので、結構売りにされていたのだ。誰だって一度は通った道だろう。そんなもの2001年になって誰がはじめたとか広めたとか言われても。ただそういう機能があるからといって、むやみやたらに使うのは恥ずかしいことだ、と皆なんとなく理解して止めていくものなのだ。大体そういうところで言われている「テキストサイト」ってなんだ?というのが実はずっと分からなかった。個人の日記なんてくそみたいなのも含めて大昔からあったし、そもそも画像とかをがんがん使えるようになるはるか以前からNetはあったし、そういうので共有されていたのはテキストだったわけで、そんなのがここ数年前に「黎明期」など言われてもなんのこっちゃ?という感じだった。分からないことがあれば気になるもので、いろいろ読み進むうちにどうやら(間違っているかもしれない)、ゲーム批評系のサイトがこうした話題の中心にあったようだ。はぁ。ならそう書けよ、と思う。「テキストサイト」なんていうから、なんとなく私にも関係ある話か、なんて妙に引っかかってしまった。

ちなみにその手のサイトは多くの読者を楽しませるために運営している、というところが多い。そしてアクセス数とはその努力の成果ということになる。それはそれでわかる話だ。テレビの視聴率とかそういう感じだろう。私は必ずしもそれを志向してはいない。1人でも多くの人に楽しんでもらいたい、なんてさして願っていない。私が求めているのは唯一絶対の読者である。そしてそれは永遠の可能性の中にしか存在しないが、アクセスがある、という事実はその可能性の存在を指示してくれるのだ。

(2002年1月21日)

一万アクセス達成間近

もうすぐ「大台」に乗る、なんて一応言ってはみるのだが、このサイト4年間もやっているので、「大台」ではなく「小台」でしかない。一日あたりの平均アクセス数は6。いくらなんでも少なすぎるだろうという気もするが、カウンタの設置場所をIndexにせず、あえてマイナーなページに置いていたことがあったりして、こうなっている。そもそもこのサイト、論文だけは一貫しておいているが、それ以外は何をメインコンテンツにするかはその時その時の気分で変えている。もしソフトウェアのようにバージョン管理をすれば今現在がVer.5ぐらいの感じである。だから「一万アクセス」といっても、何に対してのアクセスなのか、さえ実ははっきりしない。アクセスカウンターなんてものがそもそもそういう実体のはっきりしない唯名論的なものではある。同じ人が何回も訪問したときの扱い、なんてカウンターによって数え方が違うし、同じカウンターでもちょっとしたタイミングで変わったりするものなのだ。さらにそれを言い出せば、一万がなんで「キリ」か、とかそれこそキリがなくなるし、だいたい「記念」なんて物自体が一般的に唯名論的なものなのだから、とりあえずありがたがっておく。みなさま、有難うございます。

ありがたついでに何か企画を考えようかとも思うが、何も思いつかない。どのみち一万人目の方が掲示板なりに足跡を残してくださる、ということもなさそうだし、知らない間に通り過ぎているものでしょう。それでも、多分間に合わないが、企画案があればぜひぜひ。

(2002年1月20日)

ネタばらし

この欄でちょっとすねたことを書いたら、いろいろ励ましをいただく。一つはメールで。直接に知り合いでない方がサイトを見てメールを下さる、というのは嬉しいものである。

ドイツのフランクフルト学派がご専門の方。私はドイツ語圏の現代思想には疎いので勉強になる。アドルノは日本語で読んで面白かったが、ハバーマスはとんと分からなかった。「公共圏」あたりの議論は面白そうなのだが、その前提となる「理性」の話がどうにも読めなかった。

私は、マルクス自身は『ドイツ・イデオロギー』から入り、疎外論対物像化論の対立で広松渉にのめりこんだ。のめりこんだ、といっても心酔したわけではなく、むしろ批判的に読み込もうとしていたのだが、結局影響を受けたように思う。それとは別個に社会学ということでブルデューからアメリカのマルクス主義教育社会学、フーコーなどに接近し、アルチュセールに行き着く。最初はアルチュセールは食わず嫌いだった。「構造主義」というレッテルがなんとなく決定論的な響きを持っていた。さらに私が「現代思想」に慣れ親しみだしたころにはすでに「ポスト構造主義」が大流行で、なんとなく「構造主義」はもうだめだという雰囲気に毒されていた、というのもあっただろう。

ところがアルチュセールを読みすすめてみると、「決定論」という印象は一変する。決定論をある原因(例えば「経済」)が諸々の社会現象を規定する、という思考様式とするなら、いわゆる非決定論は「自由・自律性・偶然性」の概念を導入する。そうなれば社会は「部分的には決定され、しかし部分的には非決定的な要素を残している」存在として捉えられることになる。これは一般的には「正しい」が、社会理論ではない。アルチュセールの決定論への批判はこれとはまったく異なるロジックを取っていた。決定論の中にある「因果」のロジック自体を反転させること。ここに「構造的因果律」の議論がくる。『資本論を読む』の一大トピックである。

この議論を踏まえて、主体が自由であるか、決定されているか、理性的であるか、非理性的であるかといった対立をずらして、社会(結果)の裂け目から主体が生成される様を描き出したのが『イデオロギー装置』論である。と、ここでアルチュセール論を書き出したら切りがない。締めにジジェクの引用をしておこう。

主体は、自己媒介と、対立する諸力の調和の力であり、自己イメージの回復を通じて「快感の使用」を制御する一方法である。この点ではハバーマスとフーコーは同じ一枚のコインの裏表である。真の断絶をもたらしたのはアルチュセール、すなわち、人間の条件を特徴付けているのはある裂け目・亀裂・誤認であるという事実の強調と、イデオロギーの可能な目的という観念こそがとりわけイデオロギー的な観念であるという彼のテーゼである。

Slavoj Zizek The Sublime Object of Ideology

もっともジジェクのフーコー評価は一面的すぎるように思うし、当然ハバーマスに対してもそうであろう。


何かレスがあると、この程度でも何かものを考えようと思う。仮にレスがなくとも、人にみられているというだけでもずいぶん刺激にはなるのだが、いずれにせよ、それが私のサイト運営の動機である。

ゼミの最終日には学生さんからも感想をいただく。学生に励まされる教師というのも何ではあるが、ありがたいことである。一応読者を限定したり、想定したりして書いたりはしていないのだが、学生さんが見ているとなると少し「誤読」の可能性は減らさなければ、とは思ったりする。というので蛇足に蛇足を重ねるが、1月15日のコラム内コラム「成人式を問う!」、あれは最後の「(c) All right reserved」がオチね。「言説」にありもしないオリジナリティを主張して、署名付であの手の記事を書き、さらにああいう類の文章を「辛口」だと思っていたりするのを皮肉っているのです。産経新聞的言説と朝日新聞的言説両方を皮肉りたかったので、程よくブレンドしてみました。かえって中途半端になったきらいもあり、その点は少し後悔。

(2002年1月20日)

辛口学概論レポート

「この世で辛口と呼ばれるものを例示し、その特性をまとめよ」

激辛カレー
嬉しがって挑戦するが、最後まで食えないただの残飯
スーパードライ
高い発泡酒
ビートたけし
オイラの好みをただわめくぜ!
渡る世間は鬼ばかり
私の信じる「世間」は正しいんだよ!
和田アキコ、美川憲一、野村サッチー、デビ夫人
私はとっても偉いの
小林よしのり
ゴーマンかましてよかですか?ワシはニッポン大好きじゃあ

以上より、「辛口」とは不思議に一般受けするらしいが、人畜無害の、自己満足あるいは自己偏愛のきわみである、と結論付けてよいものと思われます。

(2002年1月18日)

虫歯になりそう−あるいは蛇足な補注

「毒舌」とか「本音でズバリ」とか「辛口」だとか称しているものはそのほとんどが甘ったるい。「まだまだ辛さが足りない」のではなくて、単に甘ったるいのである。個人のストレートな「本音」なんて、一般的にその程度のものなのである。そしてそういう何らの「揺らぎ」もない語りの集積を「言説」と呼ぶのだ。

(2002年1月17日)

マルクス人気?

1月に入って正月休が終わって、このサイトのアクセスが微妙に、だが確実に増えている。リピーターが増えたのか、毎日日記更新しているのが報われているのか、などと陶酔したいところだ。しかしカウンタだけではなくて統計を取っているので、この甘い仮説はもろくも崩される。リピーターが増えたのではなくて、単にYahooから「マルクス」で来てくれた人が多いのだ。しかしYahooにはずっと前から登録されているし、特に今になって増える理由が浮かばない。マルクスブームの再来?まさかね。

ついでのこのサイト、これは前から確実に休日のアクセスが少ない。12月23日なんて一日6アクセスだった。天皇誕生日はマルクス関係のサイトにはアクセスしない?まさかね。

この二つの事象を組み合わせれば、アクセス増加の原因が、あからさまにわかってしまった。このサイト、要はお勉強用にアクセスしてみる人がいるのね。見てみて、役に立ったかどうかはともかくとして。だから大学からアクセスする人が多いのね。だから休日はアクセス数が減るのね。で、今増えているのは、レポート試験の締め切りなどが近いからなんだろうね。だからお勉強というのは、己の趣味や好奇心じゃなくて本当に単位のためのお勉強なわけね。はい、お役に立てずごめんなさい。

なんか気がめいってきた。

(2002年1月16日)

コミュニケーションの残余を求めて

私がこの欄で愚痴を書くのは、もちろん期待があるからである。期待がなければ愚痴など書かない。そもそも不満すらもたない。その期待には、もちろん「大学生たるものは」という私の勝手な復古趣味がないとは言わないが、それだけではもちろんない。学生との現実のやり取りの中で、私の期待は醸成されているし、多くは満たされてもいる。まただからといって、全ての学生がその期待にこたえるべきだ、と思っているわけでもない。私だって、熱心に参加した授業もあれば、まったく黙殺した授業もあった。そういうものだと思う。それでいいのだ。ただ、黙殺するのなら単位習得は自己責任で、というだけのことだ。試験なりがよければ別に単位を認定するに吝かではない。授業の内容に対する質問は楽しいが、単に単位が欲しいためだけの、手続きに対する質問は正直うんざりなのだ。「オレは単位供給マシーンじゃねえ」なんてごねたくなってくる。「単位」が授業というコミュニケーションにおいて欠くべからざる媒介だというのは理解しているつもりだが、それを余りにあからさまに表に出されるとがっくりくる。

逆に期待がなければ、淡々と業務をこなす。今日もこなしてきた。社会人相手だから、受講者さんも大人だというのもある。ややこしいことをこちらに言ってこないし、だから単に授業をやればそれでいい。授業内容に関しては、まあ言わない。一部の学生さんにはこちらのほうが受けるかもしれない。この程度の内容なら、単位認定がどうこうということにもならないだろう。でもそういう妥協は私は大学ではしないのだ。残念でした。

(2002年1月16日)

たかが60時間、されど60時間

非アカデミズム系のお仕事でExcelを教えなければならない。非アカデミズムだから統計の話なんてしない。ひたすらExcelの操作方法。それも基礎編だから、余り踏み込んだことは出来ない。それはいい。そういうお仕事なのだから、それでいいのだが、問題はその時間である。60時間。60時間割り当てがあるのだ。いくらなんでも時間取りすぎだろう、と思う。最初の6時間で進む範囲。計算一切なしの、表作成。それだけで6時間だ。しゃべりは上手くなったほうがよいが、長い時間にいかに情報を少ししか盛り込まないか、という修行はかなりつらい。「小学校の先生ってえらいなあ」。

くどいが60時間ですよ。60時間あれば何ができるだろう。大学の授業で言えば、40コマ。だいたい通年の授業が年間30コマだからそれよりも多い。どんなすごい話ができるだろう。もうアカデミズムの先端を突き抜けて、宗教の域に達した話ができるんじゃないか。ええと、わたしが今年の30コマ分の授業で進んだ範囲といえば、ええと、通年といったら英語の講読か、ええと、前期で概説書の一章、後期で同じ本の別の一章の途中まで。40コマ出来たとして本の二章分。。。たいしたことは出来てないね。妙に安心した。

(2002年1月15日)

言説の欠片

相変わらず本を読む余裕がなく、ネタがない。12月、何をそんなに書いていたのだろうと読み返すとなるほど日記サイトの常道、クリスマスネタがあったか。それならネタがないときの常套手段としてやはり時事ネタとして一月は成人式があるじゃないか。困ったときの時事ネタ頼みである。というわけで採用。

▲成人式を問う!

成人式は相変わらず若者が暴れているらしい。非常に嘆かわしいことである。かれらは大人としての責任とかそういうものが分かっていないのである。それは戦後日本の物質的豊かさと反比例して精神的貧困と呼ぶべき事態である。しかしかれらのエネルギー自体は無駄にすべきではない。もっとかれらのたまったエネルギーを有効に生かす手立てを大人社会も講じるべきである。

(c) All right reserved.
(2002年1月15日)

発情装置

今日、HEY!HEY!HEY!で久しぶりに宇多田ヒカルを見た。しゃべりがまずくてはらはらしながらみていた。彼女もアイドルになったと思う。もちろんいい意味で、だ。

(2002年1月14日)

友よ、汝の名はSPAM

年のせいだろうか、最近「欲」というものが全体的に減少してきている。唯一の例外は睡眠欲で、要は一日ごろごろしていたいのであって、引きこもりの一歩手前なのだ。とにかく「意欲」というものがわかない。例えば学部生のころの「世界を我が手に」みたいな文章などいまや書くべくもない。それでもまだたまに激しいものがこみ上げることはあるが、その頻度も少しずつ減少してきているように感じる。この日記が2ヶ月もとりあえず続いているのが最後っ屁になるかもしれない。

そしてそれに比例する形で「物欲」もなくなってきた。今使っているPCはデスクトップが2年半、ノートが1年半、使ってきたものなので、そろそろ飽きがきてもよいのだが、取り立てて新しいのが欲しい、とも思わない。PC雑誌も買わなくなった。

人間関係も希薄になっている。メールもほとんどやり取りしない。社会から隔絶されている、という感覚すら特にない。何かを期待するとかそういう気持ちが今はないようだ。それでもしつこくメールを送ってくれる御仁がいる。ありがたい、というべきか。ここ数日で受け取ったメール。

件名:なんだかすごかったよ。
この前、彼と会った時に彼が持ってたんだけど、バイアグラよりきくって言うから飲んでみたわけ。そしたら、何か体が熱くなってもうどうにでもしてっていうくらいきいちゃいました。)^o^(
件名:!広告!美乳フラッシュ!
今週は先週と同様に一般公募にて募った自称美乳のおねーさんの画像を沢山アップしています。 そこで、自称美乳ですから、皆さんにホンモノの美乳かどうか判定してもらおうというわけです。

悪いけど私、「欲」というものが減少しているんすわ。ほなね。

(2002年1月14日)

私があなたの僕です。

「自由に生きろ」という物言いがある。いろいろバリエーションを作れる。大学の授業関連では「自分の頭で考えろ」とか「主体的に学習しろ」なんてものでもいい。少し捻って自覚的にやれば、「俺の言うことに従うな」という言い方もあるだろう。

これらはすぐれてパラドキシカルな物言いである。そうした物言いが冗談としてではなく、大まじめに語られるとしたら、それは「主体性」の物像化というべき事態である。「主体的」が、従順に従いうる規範(discipline)として存在して初めて上のような物言いが可能になるのだ。もちろんそうした事態は近代資本制社会の成立とロジカルに対応している。それ自体はさして不思議なことはない。ただこの同じパラドクスが、ポスト近代を待望する物言いの中にそっくりそのまま反復されつづけるのがなんとも可笑しい。

はじめは1950年以降の学生運動を中心とした体制批判。「知」の権威的な押し付けとなった大学を批判し、「主体的な学習」を取り戻そうとする。時代掛かっていてなつかしい物言いだが、そして既に思想的にはアルチュセール・フーコーに批判され尽くした感があるが、実際の場ではまだまだ生きている。でもそれはよい。

いよいよ構造主義以降の思想的系譜をたどった後に、またまたこのパラドクスが反復される。「まったりとした日常を生きろ」。「オタクを突き詰めろ」。「主体性」は言葉の上からは消されているようだが、非規範的なる含意を持ったものを規範化・物象化した物言いの反復に過ぎない。そんなひねこびた物言いを続けているから、*同じ*ことをストレートに言い切った主張にあっさり負けてしまうのだ。「ワシに従え」。

(2002年1月14日)

イデオロギー注入マシーン

今日は一日来年度のシラバスを作成していた。授業予定などは気分よく書いていて、評価の仕方や学生への注意点みたいな項目を書き進むうちに段々自己嫌悪に陥ってくる。書いている内容が、私が学生のときに最も忌み嫌った類の、それをさらに突き詰めた、「管理主義」的なことなのだ。出欠重視、遅刻は認めない、楽に単位は出さない。私の経験からすればそういう授業はだいたいつまらなかった。出席なんか取らない、単位なんてどうでもいい、まあ適当に授業聞いてくれ、そんなノリの授業のほうがだいたい面白かった。しかしこういう志向自体がことによるととても欺瞞的なブルジョワ的な感性なのかもしれない、とも思うようになった。

大学は象牙の搭と言われる。特に文系の学部はそうだ。大学で学ぶことなんてない、と。本当にそうだろうか、と思う。少なくともわたしの目の前にいる学生の相当の割合のものが、このまま社会に出てしまっては困るんじゃないか、と思う。そういう制度的な振る舞いが苦手で、まともに社会に出ていない私がそう思うのだ。出欠を緩めたら、かれらは平気で報告の当たっている日に休む。プレゼン任された日に無断で休むか?企業ならどやされるではすまないんじゃないか?そうでなくても、自分で休んだ日の内容がわからない、と教師に文句を言う。毎回出席なんてしなくてもいいから、その代わり自分の責任で休むなら休め、という程度のことが出来ない。

それなら、休んだときには相当のペナルティがあるよ、と教えるのがあるいは大学の勤めかもしれない、と思うようになった。あるいは学生も管理されたがっているのかもしれない。少しでも緩めたところがあれば、そこを絶対不可侵の権利とばかり、そこに居座って、自らを正当化する。だったら一律に厳格に対処したほうがまし、というものだ。そのほうがよほどかれらも納得し、主体的な学習とやらをしてくれる。「自由とわがままを履き違えるな」、「自由は規律の中にしか存在しません」、私が中学高校と最も忌み嫌った物言いだ。まさに規律訓練による(自由なる)主体の確立。所詮イデオロギー装置の走狗、おとなしく犬に徹するよりあるまいか。

(2002年1月12日)

吐き気をおこさせるもの

既に言い尽くされていることだが、小泉の「いかがわしさ」とはその「分かりやすさ」だ。小学生並のナイーブな感性を語って(騙って?)、何らの相対化をもせずに、そこにとどまりつづける厚顔無恥さ。しかもそのようなナイーブな言葉を短くキャッチフレーズのごとくにしてしまう。テレビのテロップでタレントの言った「面白いはずの」言葉をいちいちテロップに流すたぐいの、押し付けがましい分かりやすさだ。

要はごまかしのテクニックが変わった、というだけのはなしかもしれない。かつては晦渋な言葉でごまかしていたのが、今は判りやすい言葉で事態をごまかす。もちろん自らの頭で少しでも判断しようという現れだとは言いうるわけで、その意味では前進なのかもしれない。しかし逆に、かつては「ごまかし」に対して、じっくり筋道立てて反論することが可能であったのに、いまや「ごまかし」の思考停止状態が「わかりやすさ」の美名の下に居直るという弊害もある。そしてこちらのほうが今は恐ろしい。

こういう危険な状態が「政治」の世界に蔓延する契機となっているのは、田原総一郎だろう。「YesかNoか!」という「分かりやすさ」至上主義のこのバカが自らの頭のボケ進行にあわせてこうした雰囲気を蔓延させた。田原の頭は今や3以上の数字は処理できないのかもしれない。能力の限界は致し方ないが、問題は政治屋どもがそのごまかしのテクニックを覚えてしまったことだ。一番の優等生が小泉であり、逆に必死でお勉強しても身につかない劣等生が鳩山である。

ニュースでもバラエティ番組でも雑誌でもテキストサイトでも、こういった「分かりやすさ」がひたすら求められるご時世、あえて「小難しい」哲学者のこの言葉を添えて締めくくろう。

一般の意見は、好んで二者択一を提示し、そのうちのどちらかを選択し、もう一方に×印をつけることを要求する。そんなふうにして、行政上の決議はしばしば提示された計画のイエスかノーへ還元される。こうした行政的思考がひそかに、なお自由だと自称している思考の待望される模範になってしまったのである。

しかし、哲学思想に課せられているのは、その本質的な状況において、そうした思考に関わらないことである。提示された二者択一は、既に立派な他律である。二者択一的要求の正当性は、決断の責任をあらかじめ道徳的に負わされているような意識によってはじめて判定さるべきものだろう。一つの立場を信奉することに固執せよということは、理論にまで延長された良心の強制である。こういった強制には、理論の粗大化が対応している。

Theodor W. Adorno Negative Dialektik
(2002年1月11日)

まったりしたフェミニズム

前のクールでは教育モノのドラマが三本あってネタにしたが、今クールはそういうのはない。ただ水野美紀、中谷美紀、菅野美穂、深津絵里がおのおの出ているドラマがあって、個人的には結構楽しい。菅野はちょい役なのがちょっと気に入らないが、中谷は相変わらず変だが、水野美紀は見るたびごつさを増しているが、いい。そして深津絵里。ますますいい味を出している。頑張り屋で、くそまじめで、結構いじけてて、おばさんやってて、かわいい。深津絵里の出ているドラマは少なくともここ数年ははずれがない。覚えているだけでも「彼女たちの時代」、「カバチタレ!」、「天気予報の恋人」、どれもよかった。どれもちょっといじけた頑張る女の話。

(2002年1月10日)

猪突猛進とも行かず

明石屋さんま司会のバラエティ番組を見ていたら、ドラマで台本をどの程度覚えていくか、ということが話題になっていた。完全に覚えていくタイプとあえて台本は見ずに場当たり的にこなすタイプ。本職の役者は前者が多く、お笑いは後者が多い、という雰囲気だった。ではいずれがすぐれた役者か、というとこれは一筋縄では行かない。

教師も同じだ。前もって授業準備をきちんとするタイプと、その場勝負のタイプ。いずれがいい授業をするか、は一概に言えない。私の場合、頑張って準備をしたときのほうが評判がよくないことが多い。そもそも準備をしなければいけない段階で力不足、という意味もあるかもしれない。なまじ準備をすると、あれこれやろうとしすぎて詰め込みすぎになるのかもしれない。

文章もそうで、練られた文章と場当たり的に書かれた文章のいずれがよい文章か、も好みの分かれるところである。準備をしたほうが「深い」はずだが、勢いがそがれるという意味もある。この深さと勢いのバランスに「よさ」はあるのかもしれない。これは芝居も授業も同じである。

私の好みは、少し勢いを殺し気味、ぐらいである。文章も授業もそうだ。しかし今はそんな文章を書ける時間の余裕がないのが恨めしい。なんと言っても昨夜から徹夜で頭の中はてんばっている。ちなみに今書いている文章は、勢いに任せた文章でないことも確かだが、「勢いを殺している」のではなく、単に元気がないだけである。

(2002年1月9日)

そして遠巻きに見守る観客

なんだかアクセスが微妙に多い。まじめに更新できないときに限って。。。水曜日締めの仕事を抱えてて、それが終われば今度は非常勤のレポートの採点があって、翌日には授業がある。ぜんぜん勉強が出来ない。

そしてそんなときに限ってどうでもいいほかの掲示板に張り付いていたりする。普段は適当にしか見ていないくせに、何か揉め事が起こるとついつい人間観察をしてしまう。エスノメソドロジストにはたまらないんじゃないかな。かなりリアルにけんかやらいじめやらが*起こる*様をみられる。私はマルキストのつもりだからどうしても「背後」を想定するけど、ネットでのやり取りは「表面」こそが面白い、と思う。文脈も脈絡もさしてない中で、文字のやり取りが進行していく。型どおりの対立。型どおりのあおり。そしてある人がキレる。後は袋叩き。そんなやり取りが生々しく観察できてしまう。あるいは言葉の力を感じられる絶好の場かもしれない。

(2002年1月7日)

だとすれば問題だ。

1月1日の日記に書いたジジェクの引用文を、通常の年賀状にも沿えて知り合いに出したら、一人からちょっとおびえたような返事が帰ってきた。何かのいやみに聞こえたのかな?もちろんあれは私が、儀礼的な年賀状を書いている様を表したものであって、送り手に対する皮肉など毛頭もない。でも私、普段から、自分ではなく他人をそういう目でみているように思われているのかな。

今日の二つの日記は10分程度で書いた。このぐらいなら楽だな。

(2002年1月6日)

ひたすら言い訳

新年早々忙しい。一年は年で動かず、年度で動くので、今は新年度の準備というのもある。それ以外の仕事も入る。師走は実は大して忙しくなかったが、一月はずっと忙しそうだ。

というのがいいわけである。更新はなるべくしようと思うが、ネタを取り措くとかそういう器用なことはしていないので、本を読まなければ、ネタはすぐ枯渇する。いわゆる日記ならいくらでも書けるし、たまにはそういうのもありだと思うが、そればかりではつまらない。

いつからのはやりか知らないが、サイトの内容に応じて「某サイト管理人に百の質問」というのが用意してあるサイトがあって、開設者がそれに自ら答えてプロフィールの代わりにする、というのをよく見かける。私も「テキストサイト管理人に・・・」というのを見てみたが、質問があまりに練られておらず、答えようもなかった。と、それはさておき、その質問の一つに「一回の更新にかける時間」というのがある。回答をいくつか見てみたが、数十分から一時間以内がほとんどだった。私は違う。実際に文字を書くのは30分から一時間ぐらいだが、ネタを探し、資料にあたり、などすると三時間ぐらいは平気でかかる。もちろんそれが「本業」につながるので惜しむつもりはないが、忙しくなるとそうもいかない。

というのでしばらくただの日記となることが多いと思う。

(2002年1月6日)

下ネタに共感できる、ということ

下のはなし、いくらなんでも話が飛躍しすぎだったと反省。まず、「写真集」の方向から。

両者の言明がなされる場は微妙に違っている。前者は購入の際の言い訳がその典型的な語りである。「実際には」それ以外の<使用価値>(=「欲望」の発露)を持っているにもかかわらず、そうではないと自分に言い聞かせるようなたぐいの言明である。ところが後者は違う。言い訳の場でも、もちろんありうるだろうが、それ以上に実際に購入してその満足度を自らで評価する場での言明である。<価値>があったのだ、と自らに納得させる類の言明である。

この話を題材にして、物象化とフェティシズムの概念の確認をしてみたまでである。語りえぬ欲望という「現実界」に「名」を与え、象徴秩序の中に位置付けるのが物象化。その際、欲望は「残余」となる。それに対して、与えられた「名」自体に見合った「欲望」を持つのが後者。同じ「欲望」でも後者は象徴化され、飼いならされた「欲望」である。そして本当に重要なことは、実際には両者は一度に起こる、ということだ。

もはや二つの写真集の話からは外れよう。二つのプロセスが同時に起こる、というこのことによって、「欲望」は、象徴化の産物でありながら、象徴化から逃れるという奇妙なものとなるのだ。そしてこうした物象化からフェティシズムという一連の「欲望」の飼いならしのプロセスがすぐれて男性的なセクシュアリティを形成する、というべきなのである。個別男は男性一般の「欲望」あるいはその発露、オーガズムを語れる。あるいは他者のそうした語りを、自らのものとして受け止めることが出来る。「下ネタ」の持つ一般性とはそれである。そしてそれは女性にとっては時に新鮮なものであるらしい。なぜ自分個別の「感覚」が一般的に了解可能だという確信をもてるのか?逆にいえば、そうした一般性が物象化とフェティシズムのプロセスによって可能になっているのだとすれば、それこそがラカンの「ファルス」を持つ存在としての男性創出のプロセスであるといえるのである。

(2002年1月4日)

現代用語辞典その1

汎なっち論
「全てモーニング娘。は安倍なつみのうちに在る、そして安倍なつみなしにはモーニング娘。は在りえずまた考えられない」
ラブマの屈辱
台頭しつつある世俗の王権と衰えを見せ始めた宗教権力が正面衝突した事件。この事件によっていわゆる実権は世俗的権力の側に移ることになる。それは安倍の威信を一時的に著しく低下させるものであったが、結果的に安倍が宗教的に純化されることによってその聖性を高める契機となった。
物象化
「後藤真希の写真集は芸術である」
フェティシズム
「安倍なつみの写真集は芸術である」
蛇足な註

後藤真希写真集は「健康的な」水着写真あり。安倍なつみ写真集は「芸術」指向で「よごれ」写真あり。「欲望」の喚起に「名」を与えるのが前者、所与の「名」に「欲望」を見るのが後者。

さらに蛇足な註

私は両方とも持っていません。あくまでネット上の評判からの類推。

(2002年1月4日)

八つ当たり

寝正月である。一日は別に体調は悪くなく、単にだらだら過ごしていただけだが、二日からは風邪で一日中寝転がっている。そうでなくても外は寒そうだ。中部地方など大雪だそうだ。大丈夫だろうか(謎)。

こう寒くてはたとえ風邪引いていなくても、初詣に行く気もなくしそうだ。まあ私は三一日に初詣を済ませたので、今年一年は無病息災と行くだろう。って全然あてになってないやん!しっかりしろ、菅原道真。

(2002年1月3日)

風邪ダウン中

風邪が原因でダウンしているのか、ダウンという状況につけられた「名」が風邪なのか、なんてのはさしあたりどうでもいい。

(2002年1月3日)

バーチャル検討会希望

Topページにも告知済みですが、「残骸」コーナーに新エッセイ「猥褻なる残余」をUPしました。深夜にUPして、その後少し修正を加えました(本当はよくないんだけど。16:30が最新です)。というわけで、興味のある方はぜひご覧いただければ、と思います。

ジジェクの『イデオロギーの崇高なる対象』の後半部分のそのまた一部で特に触発された部分を取り上げて、そこから話を勝手に展開させてます。理論的には、「言語化されざる対象」をいかに捉えるか、という議論で、それをレイプ、売春、ホモフォビアの問題を考える手がかりにしようというものです。

ジジェクの応用として、それなりの方向性は示しえているとは思うのですが、非常に散漫な論考となっています(最終節の変な構成も要は完全に手抜き)。要するに「残骸」です。上手くいけば論文にしたいのですが、お読みいただいた方で、「説明不足な点」、「議論の展開に飛躍がある点」そのほかさまざまなご批判・ご感想・ご質問を賜れば、と思っています。BBSでもメールででも検討会していただけませんか。

って、「何でお前の論文書きの手伝いをせなあかんねん、こっちのメリットはあるんかい」と突っ込まれると困るんですけど、というか多分突っ込みすら入らない気がするんですけど。でももしレスいただければ、双方にメリットとなるような展開になるだろうとは思うのですが。素朴な質問でもOKです。

(2002年1月1日)

新年のご挨拶を申し上げます

この純粋なふりの行為によって、主体は、主体に関わりなく起こっていることに参加せずに、その責任を引き受けるふりをするのである。かくして「物質が主体になる」。その時、空しい身振りによって、主体はかれの積極的介入から逃れた残滓をみずからに引き受けるのである。

Slavoj Zizek The Sublime Object of Ideology
(2002年1月1日)

★去った年

(-2001/12/31)



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