7月用に新しいページを作らなければならないけれど、あまりかすかすな内容のものしかないページを作りたくないので、6月分に続きを書く。
前期試験問題作成完了。
あとは明日の授業準備か。あ〜あ、憂鬱。
などという内容のないページを書いたり、「評論家」気取りで他者をくさしたりするようなサイトは「不毛」だ、そんな暇があったらデータベースとして使えるような情報をUPせよ、とかいうのを東なにがしとかいう評論家とか称する人間が書いている、とかいう話をさるサイトで知る。といっても今から一年ぐらい前の話で、いまさらながらなんだけれど、いまさらながら知り、かなりむかついたので書いておく。そんなことを言うんだったら自分だってくだらない駄文を自分のサイトに書かずにデリダ文献データベースでもせっせと作成したらよかろうに。版権全部買い取って、翻訳全部UPしたら、そりゃ役に立つだろうし、私も大いに使わせてもらうよ。自分はそういうことをろくにやりもせずに、いったい何様のつもりだ?
だいたいこの人、ネット文化に精通しているつもりらしくて、W3C-HTML4.01準拠のロゴなどを嬉しそうに自分のサイトのトップページにはっつけているが、そのくせその精神など全く知らないらしくて、
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なんて恥ずかしいスタイルの設定をやっている。お前は本当にHTML4.01を使う必要があったのかと問いたい。問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。お前、HTML4.01準拠って言ってみたかっただけちゃうんかと。
なんだか一気にたくさん書いたなあ。毎日少しずつ更新すれば、リピーターの訪問回数が増えてカウンターが回るとかそういう配慮は全くしていないので、思いついたときには一気に更新してしまい、ネタがなければ無理には更新しない、と。ここで書いているネタなんて一度取りおいてしまうと披露する気がなくなるものなので。
われわれはみな妄想の世界に生きているのである。それをもう少し「アカデミック」な方たちは象徴界とか上部構造とか「システム」とか呼んだりしている。そしてこの妄想の世界にがんじがらめになってしまっている状況に息苦しさとか空しさとか感じたりするわけだ。そこから逃れたーいという欲望は、一番安易には「現実」の回復という形で目指される。古くはショーペンハウエルだとかベルグソンだとか、ちょっと前だと中沢新一だとかがそういう志向を持った人で、ここでの文脈で言えば(非モテ)ドキュソというところだな。
しかし「奴ら」が決定的に見損なっているのは、妄想の世界は何らフィジカルなものを排除して成立しているわけではなくて、むしろ積極的に取り込んで成立しているということだ。「僕たち」がフェティッシュな妄想野郎なのは童貞であるか否かなんて関係がない。モテ君が生身の女と「ヤった」と言ってみても、彼が抱いたのは依然として虚構の女でしかないのだ。なまじ「現実」と触れたなどと妄想を膨らましているだけ、より妄想の世界に閉じ込められている、というべきなのだ。
厨房(ヲタ)ははじめから妄想の世界に公然と生きる。かれらは妄想の完結した美の世界にしばし酔いしれる。しかしもしかすると妄想の世界にはなにかしら重大な軋みが存在しているかもしれない。もしそうだとすると、厨房たちの幸せな時間はほどなく崩れ去ることになる。厨房たちは懸命に軋みを取り繕おうと頑張る。こうして無理を重ねたとき、もしかすると一気に破綻のときがくるかもしれない。この破綻こそが「現実界との邂逅」である。その先に待っているのは天国か地獄か。
私が93年に卒論を執筆していたあたりから95年の修論執筆にかけて、ずっと考えつづけていた問題というのは、実は「事後的な」原因、あるいは「遡及的な」全体性の問題であった。そのころはラカンも知らず(名前ぐらいは知ってたけど)、アルチュセールとジェイムソンで頑張っていたのだが、うまく言語化できなかった。ロジック自体が説明できていなかったし、またその意義(たとえば政治的含意)も説明できなかった。ただの言葉遊びのレベルになってしまっていた。その状態のまま大学院を終えた。
己のやろうとしていたことの意味が理解できるようになってきたのはごく最近のことである。ジジェクを通してラカンを知り(アルチュセールから知れよなと自己突っ込み)、「事後的」あるいは「遡及的」の持つロジックを自分なりに消化できるようになってきた。そしてその概念の持つ政治的効果も。
私の政治的な問題関心の出発点は「差別」問題にある。これと「遡及的」全体性の問題との関係がようやく読めてきた。ある個人の抱く「差別」心というのはどこまで問い詰めても個人的な好悪の問題としてしか存在していない。にもかかわらず、*われわれ*はそれをすぐれて政治的・社会的な問題として提示しなければならない。しかしまた、その政治性・社会性をアプリオリに措定して提出してしまうとスターリニズムに陥る。この矛盾をいかに止揚するか、ここに「遡及的」全体性のロジックが出てくる。個人的な好悪の*中に*既に存在している政治性・社会性を析出すること、それが遡及的全体性のロジックである。これをたとえばアルチュセールは「構造的因果律」と呼んだし、またF.ジェイムソンは「政治的無意識」の原理と呼んだ。そしてバトラーやジジェクの政治的な問題意識もここにあるのではないか、ということだ。
ついでに小泉の「感動した!」だとか、思考停止型プチウヨの「素朴な」日の丸・君が代肯定論などもここで戦わねばならぬ。まあ小泉はもう終わっているので、いまさらどうでもいいけど、思考停止型馬鹿プチウヨどもはネットの「テキストサイト」あたりでは跋扈しているらしいので、少し踏ん張らねばならない。
昔々あるところにちょっといなせなBという娘がいました。Bは頭が良くて、かっこよくて、おしゃれで、しかもさばけた感じだったのでとてももてました。その中でも特に仲が良かった青年が二人いました。
一人はL君といって、なかなかクールでかっこよく、スポーツなんかもやっていたりします。一方で政治にも関心があって、デモとか署名活動とかも熱心にやっていたりもします。とても活動的で、みなから慕われている好青年です。
もう一人はZ君といって、こちらはいつも下ネタを飛ばしたり、へ理屈ばかりこねまわしているので、なんとなくみなから敬遠されていたりします。込み入った冗談・下ネタを披露しては一人で笑っていたりするので結構不気味なのです。
BさんはL君とは、L君の運転する赤いスポーツカーに乗ってドライブに行ったり、一緒にデモに参加したりして、とてもいい関係に見えます。でもL君が時々まじめに口説いてくるのが実はBさんには少しうざったかったりします。Bさんは男は嫌いではありませんが、恋愛とかそういうややこしいことはあまり好きではないのです。
BさんはZ君とは特に連れ立ってどこかに行ったりしません。Z君はあまり外に出歩かないのです。またZ君はいつも下ネタばかり言っているし、L君よりも露骨にBさんを口説いたりします。なんだか全然とりえがないみたいですが、でもBさんはZ君のことがなぜか嫌いではありませんでした。Z君の口説きは、Z君の真意はどうあれ、Bさんには真剣に応えるべきものという気がしないのです。そういう意味でBさんはZ君といるときのほうが気楽にのびのびできたりするのです。そういうBさんの態度はもしかするとZ君を傷つけていたりするのかもしれませんが、そのあたりはBさんは結構無神経だったりします。
でもBさんにとってはL君もZ君も所詮お子様でしかありません。Bさんが一番尊敬し、あこがれているのは実はリアルヒッキーで、家庭内暴力が絶えないA先輩なのでしたとさ。
バーチャル読書会がちょっと面白い議論になりつつあります。遅れてきた青年さんと合わせてみていただければ、オタク論やら、カミュ・サルトル論などとても幅広い議論ができます。というわけでROMってる方、ご自分の得意分野でどんどん切り込んでくださいませ。特になにやら楽しげなオフ会参加者ご一同様いかが?
鬱だ。寝よう。
てな感じでだらだらすごしてたら、いつのまにかこんなに長い間更新していなかったなんて、、、。昨日は一日寝て過ごしていた。
というわけで、今日はこれから更新します。レスも何とか今日中に。
お仕事一覧
忙しいのでメモだけ。近いうち(といっても土曜日になるかも。。。)に内容を書く。
なるほど、「遅れてきた青年」さんの「構造化」を読んで、さらにアルチュセールとジジェクの問題がほぐれてきた気がした。アルチュセールの「妄想」は徹底的に構造化されている。だから理論上「残余」のモノ的な支えなど必要としない。他方ジジェクの「妄想」は不完全な部分をとり置いている。その不完全さの部分に「残余」が*事前に*埋め込まれるのだ。
「遅れてきた青年」さんが非常に明快に「モテ/非モテ」「ドキュソ/厨房」の対立をまとめてくれています。で、ひとつ補足というか、をしておくと似非非モテ(あるいは非モテ・ドキュソ)というのがありまして、妄想の世界を語るんだけれど、それは騙りにすぎず、一方でフィジカルなものをしっかり担保としてもっている、というもの。「大手」とか称するテキストサイトとか称するもののなかに多い、と書けばいちいち名前を挙げるまでもないだろう。で、個人的には「モテ・ドキュソ」なんてそもそも交錯すらしないからどうでも良くて、この「非モテ・ドキュソ」のほうがずっとうざったい。というわけで、「モテ/非モテ」よりも「ドキュソ/厨房」の対立を上位に置く「遅れてきた青年」さんに共感するわけだ。
で、ジジェクなんだけれど、ジジェクが「厨房」か、というと少し違う気がする。ラカンとアルチュセールの対立で言えば、フィジカルなものを肯定的に理論の中に取り込もうとしているのはラカンだと思う。「残余」あるいは「対象a」という概念で指示されているところのもの、それは究極的には身体的な感覚*によって*支えられているように読める。その意味でラカン・ジジェクの理論は、社会を妄想的なるものと身体的なるものとのハイブリッドなものとして措定しているのではないか。真に妄想的なる社会イメージとは、身体的なるものは妄想的なるものによって一方的に作られるのであり、そこには相互的なものはない、というものである。これこそがアルチュセールの「呼びかけ」の理論であり、ドラー・ジジェクのアルチュセール批判はそこからの後退であるように思えるのだ。
古い日記やら他の「テキストサイト」とやらをだらだら読んでいたら、「モテ/非モテ」の話を思い出した。そしてまた、それに対して冷淡な自分がいた。かつてならもう少し違った反応をしていたかもしれない、と思う。「モテ」を妬み、あるいは「非モテ」に強い共感を覚えていたかもしれない。しかし今はそういう感じではない。
そもそも「モテたい」というのは不思議な欲望だ。ある特定の異性(同性でもいいけれど)から好かれたい、というのはわかる。しかし「モテる」というのはそうではないだろう。不特定多数の異性からたぶんに性的な意味を含んだ興味をもたれる、というのが「モテる」という事態のはずだ。しかもさらに奇妙なことに、それは性的な関係に特化されてはならない。なんとなれば、そうであるならば単に性風俗店にでもいけばよいことだからだ。つまり「モテる」というのは、この両者の間の、どこの馬の骨とも知れぬ*任意の*異性と感情レベルの交歓を持ちたい、という極めて限定された欲望なのである。
私は、負け惜しみでなく、遠慮したい。(たとえば街中などで、あるいは合コンとかの場で)「偶然的」に出会いうる*任意の*女性と、もちろん女性に限らず男性でもだが、一定の関係を持続させるなんて拷問に近い。看護学校での私の苦行をプライベートでもやれ、というのか。金をもらいたいぐらいだ。逆援助交際、か。
たとえばこんな会話が一般的に成立しうるんだったら、モテてもいいかな、とは思うけれど。
私 あ、はじめまして。 相手 どうもはじめまして。(ちょっと省略)ところで好きなタレントとかいます? 私 結構モーニング娘。とか好きだったりするんですよ。 相手 へえ!そうなんだあ。私も加護とか好きですよ。あなたは誰押し? 私 私はねえ、安倍なつみがなんとなく気になりますねえ。 相手 へえ。なっちねえ。なっちのどんなところがいいんです? 私 中身というよりも、その存在がねえ。ユニットにも入らず、ソロもなく、リーダーでもなく、といってセンターでもない。そういう否定のシニフィアンとでも言うようなところがね。 相手 (ニヤリと笑って)なっち、「ファルス」説ですねって、うたばんの石橋か(笑)。 私 そうそう。でね、「平家みちよ」が「父の名」なの。 相手 わかるぅ。でも現実の平家みちよは駄目オヤジなのよね。
ま、ぜったいありえんわな。
いわゆる「サイトばれ」を恐れる管理人は結構多いようだ。むしろそちらのほうが多い、というべきか。私は恐れるも何も本名でこのサイトが検索できてしまうので、いまさらどうしようもない。一応論文もUPしているし、もともとは普通の「学術」サイトだったので、本名とは別にHNをつけようなんて思いもしなかった。
ところが日記をつけるようになって、結構言いたいことを書くようになって、少しまずいかなあ、と思うところも出てきだした。実際ここに書いていることを仕事関係その他のリアルな知り合いに完全に知られてしまうとかなり人間関係その他に支障をきたしかねない気はする。救いは、リアルな知り合いでわざわざこのサイトを見て私を「観察」するほど私に関心を持っている人はいない、ということだ。
唯一気になるのは学生さんがこのサイトをたまに見にきていることだ。そしてその場合に気になるのは下ネタ系だ。というわけで、言い訳をしておくが、本当の下ネタは普通にはわからないように書いています。逆に下ネタと一見して「わかる」ものは実は下ネタではありません。ここ2回書いている「会話」シリーズも一般的な下ネタではなく、選れて学術的な記述です。ちょっと嘘だけど。
マルクスの「資本論」の初版には奇妙なメタファーが出てくる。
動物界においてさまざまな類や種や亜種や科等々を形成しているライオンやトラやウサギやその他すべての実在する動物と並んで、またそのそれらの他に、なおも動物というものが、すなわち動物界全体の個体的な化身が、存在しているかのようなものである。
こうした「動物」なる抽象物を社会的にいかなる存在として位置付けるか。ここにバトラー・ラクラウ・ジジェクの違いが現れる。ライオンやトラのごとく、この「動物」は噛み付いたりするのだろうか。
バトラーはこの奇妙な「動物」は具体的なライオンに噛み付かれるし、また噛み付くこともできる、というだろう。「動物」とライオンとトラとウサギが全く同じ存在として争い、あるいはじゃれあえる世界がバトラーの描き出す世界である。
ラクラウはこの奇妙な「動物」は決してライオンからもトラからもウサギからも噛み付かれることはないというだろう。ただし「動物」はそれらを噛み付くことはできる。噛み付かれたライオンは噛み付き返そうとするが、それは果たせない。「動物」は幽霊のように、ちょっかいはかけられるが自らは安全な場所にいる。ライオンたちは「動物」に踊らされて、暴れまわるだろう。
ジジェクなら話は逆で、ライオンやトラが噛み付くのは「動物」のごときものである、というだろう。動物園に闊歩しているのはまずもって「動物」であって、ただそれを私たちがライオンだとかトラだとか誤認しているに過ぎないのだ。
「メロン記念日」なるグループを最近テレビで見かける。「なる」などという婉曲表現を使うのは、なんとなく直接名指すのは気恥ずかしい気がするからだ。藤本美貴までは直接名指せたのが「メロン記念日」はすこしそういうぼかしを入れたくなる。「半端者」と呼んでいただいて結構だ。そう、もちろん私は「メロン記念日」はずっと前からしっている。でもそんなのはひた隠しにしたい、という私を誰が責められようか。誰でも責められるな。
ただ4人が識別できるようになったのは今回の新曲からだ。普通にかわいいのが柴田さんで、茫洋とした感じなのが村田さん、色気振りまきキャラが斎藤さんで、私の好みが大谷さんか。なんのこっちゃ。というか、なんで全員「さん」付けなのだろう。
私は今、4種類のお仕事をしている。その中で一銭もお金をもらっていないものがあって、でもそれが「本業」だったりする。妙な話に聞こえるかもしれないが、たとえば売れないアイドル「歌手」がバラドルやったりしてて、でも自己紹介で「歌手です」といいつづけるようなものだ、といえばいいだろうか。では私のその「本業」は何か、というとそれがなかなかなんであるかぴったり来る言葉がなくて、本来は「社会学者」だとか言ったりするのかもしれないけれど、私は「学者」ではないし、「社会学」をやっている気もあまりしていない。強いて言えばcriticかなあ、などと思ったりするが、そう名乗るほど厚顔でもない。
なんにせよ、それはなにをやっているのか、というと、今のところお勉強したり(最近サボっているけれど)、文章を書いたり(発表する場は特にないけど)、議論したり(ほとんど仲間内でしかやっていないけど)、している。そして一応そうした「成果」は学会で発表しようと思っている。少なくとも毎年そうしてきた。もちろん今年もそうするつもりである。
久しぶりにちょっと時間がある。部屋が散らかっているので整理して、ちょっくらお勉強でもするべか、とおもって書類を整理していたら、、、なにこれ?「学会のご案内−研究発表の申し込み用紙」。締め切り6月14日。もうすぎてんじゃーん。
先日のネタ「モーニング娘。のCHU講座」はCHUを読んでいて、モーニング娘。の歴史を知っている人ならそれなりにあたるものがあると思うのだが、すこし絞り込みすぎなのかなあ。まあこのページのねらいがそうなのだから仕方がない。「あたる」というのは、私の記述の怪しいところを突っ込みながら、それなりに受けてくれる、というぐらいなのだが、なかなかねえ。
ねらいがピンポイント過ぎて、ここ以外では絶対に語れる場所がない。普段の授業ではCHUの話だってできないし、リアル読書会ではモーニング娘。はある程度ネタにはできるけれど、あまり細かな話はさすがに通じない。
本当はバトラー・ジジェクあたりをネタにメールで話を振りたい相手がいるのだけれど、「モーニング娘。」はさほど通じない相手なので、下の話では送れない。何とかモードを切り替えて話を作り直さなければならないのだけれど、なぜかいま頭がモーヲタモードになってしまっているんだよなあ。
モーニング娘。のCHU講座は「なっちの〜」だけ私が語っているので、バランスが大いに悪い。というか「加護の〜」にいたっては完全にバトラーを単純な脱構築論者と同一視していてとても始末が悪い。まあ、ネタだし。というわけでまともに読むに値する(のか?)のは「なっちの〜」だけである。
しかしさらに言えば「なっちの〜」が「ジジェク講座」なのかというとこれまた怪しい。むしろこれは「アルチュセール講座」というべきなのではないか、とも思う。「**からの排除」の「**」はもはや形式化されているただの「空白」でしかないからだ。ジジェクは「**」を完全に形式化することには抵抗しているように思う。つまりモーニング娘。の神話は「ロック・ヴォーカリスト・オーディション」でなければならない。ジジェクはこの原初の神話に密着しつづけようとする。しかしアルチュセールはその神話の内容は無化し、むしろそれが作動する場、およびそれが働きかける身体に照準を当てる。もはや「ロック・ヴォーカリスト・オーディション」はどうでもよい。問題なのはなっちのデブ化だ。
「平家みちよ」ってだ〜れ?
そりゃ、なっちに「モーニング・コーヒー」のメインを奪われたときはショックでしたよお、でもうちらは平家さんのようにグランプリに選ばれなかった時点で、センター争いをやりつづけるしかないんだって思いましたからね。でね、(以下省略)
なんでも言葉で確認しつづけなければ収まらない「私」はやはりどこか病んでいるのだ。
昨日はいい一日だった。
ある空白(不安)を補填しようと言葉が重なり、やがて身体を呼び込む。そうして「私」は主体になる。この「空白」の正体は何か。
モーニング娘。の<中心>は安倍なつみである、と主張する私は原理主義者だが、しかしだからといって「安倍なつみ原理主義者」ではない。私は「モーニング娘。原理主義者」なのである。こう主張すると、では飯田はどうなるのだ、という問が当然突きつけられることになるだろう。おまえの立場は飯田の排除によって成り立っている。「モーニング・コーヒー」のメイン争いの結果をおまえは永遠化・理念化しているのだ、と。
確かに誰がメインになり、誰が排除されるのかは常に偶発的な諸事情の結果に過ぎない。しかしモーニング娘。が究極の指示対象として前提としているのはまさに、ある実体的な魅力(顔かたち、歌のうまさ、提供される楽曲、踊り・パフォーマンス、衣装etc)ではなく、その地平そのもの、それを表す「空虚なシニフィアン」によって限界付けられた地平なのだ。この地平の本質がもっと原理的な排除(「平家みちよ」*からの*排除)によって構成されていなければならない。
この「平家みちよになれなかった」という基盤的な不可能性こそがモーニング娘。を印付けており、このトラウマ的モノ的な残余をソロにもなれずユニットにも組み入れられない(はたまたリーダーにもなれない)過剰という形で反復・再演しつづけているのが「安倍なつみ」なのである。
先日の「研究」の成果を全く言語化しないのももったいないので、書きとめておこう。
既にここで何回も書いてきたことだが、つくづく安倍なつみというのは捉えるのが難しい存在である。その存在を捉えようとすると、するりとその手をすり抜けていく、という感じなのだ。下記の目的によって、デビュー当初から今までの映像を見てみたのだが、顔立ちからキャラ付けから、一貫したものは何もない。ある時期の映像を見て、何故「それが安倍なつみである」と同定可能なのかがわからなくなってくるほどだ。ファンは安倍なつみの何を応援すればよいのか、何を支持しているのか。それは、その中身においてではなく、ただ形式においてである、というしかないのだ。モーニング娘。が各々のメンバーによって、さまざまに個別具体的な相貌を見せる中で、その指示不能な、空虚なアイデンティティを<身体化>したのが安倍なつみなのである。安倍の同一性はモーニング娘。によって指示されるが、モーニング娘。の同一性の<中身>は安倍である、というこのトートロジカルな構造の中に安倍なつみは<存在>しているのだ。
とそれはさておき、当初の目的、「なっち復活」はいつか、という話に戻る。ネットというのは便利なもので、私がいちいち過去の映像を見返すよりもずっと効率的な情報源があった。Yahoo掲示板「安倍なつみのデブ化考察」である。このトピックが作成されたのが2000年4月。ということはそれ以前から既に広く言われていたということである。しばらくはファンも含めて「デブ化」傾向を認める投稿が相次ぐ。しかし一方で「だいぶやせましたね」という投稿が同年の6月に早くも登場。ただしその後もこのトピックは「デブ化」の方向で盛り上がりをつづける。「痩せた」という投稿が目に見えて増えだすのが冬になったあたりから。それでも全体的にはそれとは逆の意見の方がいまだ圧倒的に多い。この傾向は年が明けてもしばらく続くが、徐々に「痩せた」論の比率が増え始め、「辻デブ化」などいわゆる「トピずれ」発言も目に付くようになる。そして2001年の夏になると次第にただのいわゆる「アンチ」投稿が中心になり、トピックの性格が変わり始める。このトピックの閉鎖提案が出始めるのもこのころ。秋には完全にただの「アンチ」トピックになり、当初の、ファンを含めた余計なお世話を語り合うというムードはなくなり、殺伐としたトピックに成り果て、そのまま現在にいたる。
以上の結果を要約し、モーニング娘。史の中に位置付けなおせば以下のようになる。「復活」の徴候は2000年の夏(第4期メンバー加入後)に出始め、2000年冬「恋愛レボリューション21」でのメイン復活が一つののろしとなって、2001年夏「ザ☆ピ〜ス!」で完全復活。このことは「うたばん」でも石橋貴明がこの時期に「なっちも復活してきた」と言っているところからも傍証されよう。
慌てて言い添えるけれど、ここで言っているのはいわゆる「復活」であって、私の価値観とは本質的には独立したものであって、私自身はかかる「ダイエットイデオロギー」に組するものではない、ということはあらためて宣言しておく。ただ、本人の自信とかそういう部分で落ち込んだ時期とそこからの復活は確かにあったわけで、そしてそれは結局、体型と連関してしまうわけで、言い訳がましいけれど、つまりそういうことだ。
藤本美貴をMUSIXで見る。結構堂々としていて悪くない。辻加護はやはりグループの中でおちゃらけているのが似合っているし、藤本美貴は質量感?があって、ソロでもそれなりに見栄えがする。適材適所というべきなのかもしれない。声とかは、なんとなく粘りつくような感じが残ってあまり好みではないが、それを言うなら別に安倍の歌声が好みというわけでもないので、たいした話ではない。
ただ松浦亜弥でも藤本美貴でもいいけど、そんなのよりも平家みちよの方が「いい」と思う私はやはり原理主義者なのだ。
看護学校の非常勤の後は、やはり、とても疲れる。なんと言うか、もう言語が違う、というしかない感じ。必死で頑張っても届かない。いっそかれらがもっと不真面目で、たとえば私語しまくりとかだったら、そのほうがどれだけ気が楽か、とさえ思う。かれらはかれらなりにまじめで、それなりに話を聞こうとする意志は感じられたりするだけに、余計に「言語の違い」を見せ付けられる気がする。
まあ、「言説による主体への呼びかけについて」みたいなテーマを看護学校でしゃべろうとする私がおかしいのだけれど。でも他にしゃべることなくなったし(粛清)。
それなりにやるべきことがあるときに限って実につまらないことに引っかかってしまう。「魚の小骨」ってやつだ。一日過ぎてしまえば何がそんなに大問題だったんだ、と思えるようなことを何かしら解明し、決着をつけなければ気がすまなくなる。
というので、W杯は試合中の二時間弱を見ていただけで、昨日一日は、あることを確認したくて、録画済のテレビを見返していた。1999年から昨年末までのビデオを何回も見返す。どうにもすっきりした回答が出てこない。ネットでもいろいろ情報をあさる。はっきりしない。ある時期を同定したいのだ。「昨年末だ」と主張するものがいる。しかし一昨年末にはすでに完了していたような印象もある。この場合の一年のブレは大きい。
もっとも物事の区切りというのはそういうものかも知れぬと思う。事態の推移はゆっくりと確実に、しかしひっそりとなされ、ある偶発的な契機によって、突然それが明らかになる。しかしそのときになって、いつ決定的な変化があったのか、を同定しようとしても、断絶はどこにも見出せない。われわれは事態の劇的な変化を経験しているが、しかしその変化がいつあったのかを知ることは出来ない。
私が知りたかったのは、「安倍なつみはいつ*復活*したのか」である。
昨日もなんだかんだいって日本−ロシア戦なんかを見ていた。全くもってつまらぬ小市民である。
サッカーというのは見るポイントとかがよくわからないのだが、それでも終了20分前ぐらいから見ていて力が入る。「惜しい!惜しい!」とロシアがなかなかゴールを決められないのにいらいらするのは、もはや理念などを超えた感性の次元なのであって、それ以上でも以下でもない。
それでも一応理屈付けておけば、「若者」の「何か騒ぎたーい」という如何ともしがたいフラストレーションだとかなんだかを「ニッポン」に糾合する、「茶髪だってオヤジだって、あばれんぼだって、みんなみんな応援しているんだ、友達なんだ」などという幻想、そうして「ニッポン」を経由して全世界とつながっているがごとき幻想を振りまくこのイデオロギー装置に少しでもきしみよ、あれかし、と願うのも、これまた、ありうべき心性というべきであろう。
暑さのあまり、酸素呼吸が出来ず、鰓呼吸をする日々が続いている(火炎瓶)。ここの更新もままならない。というので読書会掲示板に書いたものをこちらにもUPして、一回分の更新を稼ごう(ゲバ)。
ジジェクへの批判としてありうべきものとしては、彼の理論、とりわけ「現実界」概念が超歴史的・非実証的・形式的だ、というのがあって、バトラーもそういう批判をしている部分はあるし、東浩紀のジジェク批判もそうである。
ジジェクにとっては固有名の剰余もイデオロギーの<もの>性も、ともに「現実界」の対応物でしかない。したがってそこでは現実の水準の説明は、すべて本質的議論からは棄却されてしまう。・・・スターリニズムが機能する理由もその具体的な政治状況には依存しない。問題のイデオロギーが自由主義だろうが、共産主義だろうが、彼の分析は同型の構造を見出すのみなのだ。
しかし私はむしろ逆に、彼の「現実界」概念が十分に形式的でない、と批判したい。彼は「現実界」を常に例で、アレゴリーで語る。彼の「現実界」の把握は感性的なものである。しかしマルクスの徒である「われわれ」は超感性的、理論的に現実界を把捉せねばならない。
私がジジェクは「楽をしている」というとき、それが現実的諸事情を考慮していない、といっているのではなく(こういう「実証主義的」批判はもっともつまらない批判であると私は思っている)、ベタな現実に頼って理論をおろそかにしている、といっているのだ。
改めていうまでもなく、ナショナリズムは個人の身体を通じて、最も強力に作動するのである。
W杯における「日本代表」チームはまさにその形式においてナショナリズムを体現している。その応援はまず第一に「日本」チームに対してなされる。結果に対する喜びや無念さはおおよそ「日本」を媒介として、共有される。それはサッカーが「チーム」単位で争うものであり、W杯がそのチームを国別に組織する以上、当たり前のことだ。だからその「日本」にたいして天の邪鬼的な心性を持つものは比較的容易に、その感情の共有から逃れられる。
一方、マラソンの高橋尚子だとかスキーの里谷多英はまさに個人として表象され、その本人と直接感情を交歓できる幻想を多少なりとも抱かされてしまう。もちろん「応援していたのがたまたま日本人であった」わけはなく、日本人であるから応援しているわけで、改めていうまでもなく、サッカー応援団とその心性において違うところは何もない。
だからどうだというわけではなくて、もちろん里谷マンセーも日本ガンバレも何ら非難されるべきものではないんだけれど、W杯にだけ天の邪鬼な心情を持つ己の中途半端さを合理化しておこうか、と。
あかん。。。
なんかW杯なんか実況で見てるし、ベルギーを応援しているし。。。せめて「関心ない」ぐらいのスタンスになりたいものだ。やっぱりいまの私の精神状態ってのは、どう考えてもあまり「いい奴」ではないわなあ。
なんで「転向」しかかっているかというと、今日の非常勤先で、学生が日本のユニフォーム着て、顔にペイント入れたりしてて、それが結構似合ってて、その彼女が授業後にちょっとした質問なんかしてくれて、その人ががっかりするよりは喜んでくれたほうがいいかなあ、と。別に名前も知らないし、別に贔屓とかそういうんじゃなくて、ただやっぱり目の前にいる人が喜ぶさまを想像したほうが楽しいかなあ、と。だからもちろん、学生が授業そっちのけで、W杯万歳、みたいな感じだったら、私の態度は逆転するんだけれど、さしあたりその学生はとても感じがよかったもので。W杯ごときに、そこまで理念をかけるほどのこともなし、日本が勝って「奴ら」が喜んでも、まあ、いいか、とか。
しばしテレビを見る。
ベルギー、同点ゴオーール!!!!やったね。
駄目だ。。。
たとえば全くポルノグラフィのない世界、というのを想定してみよう。それは妄想をもつことも出来ず、全く艶っぽさ・エロティシズムのない、息苦しい世界だと思うかい?もしかすると、今では想像も出来ないぐらい素敵な妄想の世界が広がっているかもしれないよ。そう、ぼくたちはいまだって「現代思想」に萌えられているのだから。
昨日はさる読書会でキャサリン・マッキノンを読む。マッキノンというのはフェミニズムにおいてとりわけポルノグラフィ批判なんかで有名な人で、結構ガチガチのひとというイメージが流布している人。「言葉狩り」のポルノ版の権化みたいな感じのイメージで捉えられてしまっている。というか私も読まずしてそう思っていた。そういうので多分あまりいいイメージをもたれていない感じがするんだけれど、実際読んでみるとなかなかこれがラディカルな人。フェミニズムにおけるマルクス受容としてもかなりの水準だと思う。悪しきイメージを持っている人は、悪いことは言わないから、まず読むべし。もちろん低い水準で揚げ足を取ることは容易だけれど、またそういう隙も多そうな感じの文章を書くけれど、きちんとその議論の水準を踏まえて読みたい論者である。「表現の自由」と「差別」の問題、改めて考え直す契機として。
世間ではW杯だかなんだかが喧しい。別にサッカー自体にはさして嫌悪感とかないけれど、実況やらなんやらのあの絶叫がどうにも我慢ならない。それはオリンピックなどでの他の競技でもあるのだけれど、サッカーは90分間そのテンションでやりつづけてたりするから、近くでサッカーの実況をやっているのを聴いているだけでむかむかする。だいたいただ騒ぎたいだけのやからが俄ナショナリストに豹変するのが気持ち悪い。競技場での君が代の大合唱。気持ち悪い、気持ち悪い。君が代の薄ら暗いメロディーが低音で鳴り響く。気持ちが落ち込んでこないのかなあ。騒ぎたいだけならモームスのコンサートででも騒いでいたらいい。君が代なんかよりは「モーニングコーヒー」のほうがよほど聴いていて心地いい。
どうも「国民国家」が中心となってきたサッカー文化って奴はナショナリスティックで気に入らない。それならまだしも米帝中心のベースボールの擬似インターナショナリズムのほうが気持ちがよい。日米野球で巨人の投手が打たれれば大喜びする阪神ファン。美しき哉。
そんな私にとってはもちろん「ドーハ」は喜劇だったし、今年だって日本の予選敗退を信じて疑わない。予選敗退が決まって、意気消沈する俄ナショナリストども。ザマーミロ!悔い改めよ!とっとと絶滅しさらせ。って私、精神的にどこかゆがんでます?