全く興味なかった「ごまっとう」だが、テレビで見出すとそれなりに気になる。3人並んだ図はなんとなくしっくり来ないが、それだけに後藤の顔が大写しになるとなんとなく懐かしいようなほっとした気にさえなる。娘。加入当初はあれ程私を落ち着かない気分にさせたあの後藤の顔が、である。われながらキショヲタだとおもうが、何だか昔からの知合いをみているような安心感を感じるのだ。
曲や振付け、衣装が後藤にあっているということもあるかもしれない。松浦も藤本も全然似合っていない。あれはやはり後藤のユニットだったのだ、と再確認する。後藤が一番良く見えて当然なのかも知れない。
ただそれはそれとして、しかし、なんとなく気分的に応援しているのは藤本だったりするのもまた妙な感じだ。うたばんで石橋が後藤と藤本の間で「揺れて」見せているときに、なんとなく藤本の方を選んで欲しい、と感じていたりした。
松浦は、ええと、全然嫌いじゃありません。
もう分かっている人には分かり切ったことだが、今の社会では年寄り一般は決して弱者でないばかりか、既得権にすがりつき、他者をけ落としている輩で満ちているのだ。本人に悪気はなくとも社会制度がそのようなばかげた、不公正な状況をつくり出し、一部の年寄りどもはそこに付け込んで平然と旨味を吸い続ける。
失業保険およびそれにまつわる再教育訓練でその弊害が如実に出ている。若くて、それゆえ再教育の成果が期待できて、その方向での職を真剣に求めているものを年齢が若いがゆえに切捨て、もう定年でよい年齢の人間を引っ張ってきて、老後の暇つぶしにその機会をあてがう。職なんていまさら真剣に探す必要も気もない人間が、失業手当と無料の暇つぶしを目当てに押し寄せ、若いものの機会を奪う。そういう場にかかわっているものは誰もがその矛盾を分かっていて、何の手も打たない。年寄りどもは恬として恥じず、勝手に振舞う。
実は仕事で「暴走」をしてしまって、なんとなく寝つけない。なんというか、形式的な管理をすることしか能がない人間というのはどこの世界にもいて、そういう輩のつくり出す仕事というのは当り前のことながら形式的かつ発想が管理的で、「実」を押し進めたい立場からするといつもいつも足を引っ張られている気がしてしまう。もちろん「形」が大事な場所があるのは承知している。だったらその場所で頑張っていてくれよ、と思うのだけれど、「何故か」口をはさんで来る。それでついかっときて「あっち行け、しっし」みたいなことを言ってしまうのだ。
「教育」というのは教育者が極力「暇」、余力がある状態が望ましい、はずだ。余力があればこそ、幅広い知識を探求する余裕も生まれるし、何をどう伝えるかという当てのない問題を漠然と考え続けることも可能になるのだ。なのに形式主義者たちは教育者を形で縛れば教育効果が上がると信じている。いや、本当にそういう信念を持っているのであれば、それはそれできっと正しいし立派なのだが、そういうのではなくて単に答えなき問いを問い続ける不安に耐えられないから形式にすがっているだけ、というのが見えているとただただ腹だたしい。そういえば学生時代から、信念を持った管理主義的教師は実はそれほど嫌いではなく、単に自分が仕事をしている証明が欲しくてあれやこれやと従うべき「形式」をつくり出す教師ははっきり侮蔑していた。私が嫌いなのは、「形式」にこそ至上の価値を見出す類の由緒正しき「形式主義」ではなく、己の中にある(と信じたい)「情熱」だとか「熱意」だとかを「形式」として表現しなければ気が済まない形式依存症である。
エネルギーがすっかりなくなったと、昔を懐かしんで、半年ぐらい前のこのページの記述なんかを読み返したりしていたら、中谷美紀のドラマに毒づいている記述があった。ドラマで中谷が演じる役のつき合っている相手が下らなすぎる、と。今の田村正和主演の「おとうさん」も全く同じで、みていて実に腹だたしい。というか、何であんなありきたりのつまらない役に中谷を使うのだ?深田恭子も同時にやっている「リモート」という馬鹿番組の深田恭子の方がよほど可愛いし、飯島直子もあまりにも馬鹿役をやらされているし、広末のいじけた役柄が妙にはまっているのがせめてもの救いか。
それに比べて「アルジャーノン」の菅野はとてもいい。脚本の岡田恵和と菅野は実は結構絡んでいて、あの「イグアナの娘」も岡田作品なのだ。再放送でみて、川島なお美がいまいちだけれど、とても菅野ちゃんがかわいかった作品。映像は結構ちゃちだけれど、内容は案外真面目。
ハロモニをみていて、事務所の露骨なプッシュがあるというネットあたりの批評を頭に浮かべながら、そんなこととはお構いなくベタに高橋愛って可愛いなあ、と思うとき。
どんなに裏があろうが、ベタだろうが、普通に可愛いんだからいいじゃん。とりあえず目で愛でよう。それ以上あれこれ理屈を捻り出す程の思いいれもないし、そんなエネルギーは今はございません。安倍なつみももう普通にかわいいだけだし。それ以上のストーリー性みたいなのはもはや全然ないし。それで別にいいし。
一般人の生活に近似した生活を送っている。一日8時間労働。1時間昼食休憩があるので職場にいる時間は9時間。行き帰りに2時間ぐらいかかるから、家にいる時間は差引13時間。睡眠時間は8時間しっかりとって、朝夕の食事の時間を除いて菅野ちゃんの出ているドラマなんかみた日にはほとんど時間なんて残っていないわけで、ようやくビデオにとったMUSIXをみながらサイト更新をしているわけだ。
一方LINUXで文章を書くと、IMEがいまいちなので文章力がただでさえ落ちているわけで、それで時間なく、書くこともなく更新したりなんかするとそれはまあ、ひどい文章を書くことになるわけだ。というのでここ数日の文章はどう読んでも人様に読んで頂くような文章ではない、といまさらながら気づいたりするのだが、ここで更新を辞めると文章力低下に拍車がかかるのであきらめ悪く更新をしようとあがくわけだ。
今日の出来事。
ごまっとう、紅白出場ならず。ほお。
長く更新していませんでした。実は病に伏せっていました。今年で多分3回目の風邪です。ちょっとひきすぎです。まだ全然直っていません。掲示板には広松についての書き込みがありましたが、お返事できていません。でももう少し分かりやすく書いて欲しいなあ、という気もしますが。何かポエムを読んでいるみたいで、頭にはいって来ませんでした。
ひさびさに娘。さんたちをテレビでみました。はじめてごまっとうの曲も聞きました。1+1+1=1というのが良く分かりました。まあ後藤/松浦/藤本三人とも紅白に出すためだとかいう話もあるので、あれはあれでいいのでしょうが。
ふらふらになりながら看護学校のレポートの採点をする。全員70点、2,3人ちょっとだけ面白かったのを80点とかいう感じなのだが、それではあまりだから、頑張って75点を作る。それでも点数が3種類か。全く何かを伝えたい、というものがないから、やることなすこと全ておざなりだ。この仕事はそろそろ辞め時かな。
11/20の朝日新聞の夕刊に「帝国」のハート先生のインタビューがありますな。何かあの本、このインタビューの内容以上のことはいっていないんじゃないか、という疑いが読み進めて行くと感じたりするのですが、とりあえずインタビュー自体はとても読みやすく、まとまっているので、お勧め。それにしても来年の一月に翻訳が出るのか。聞いてはいたけれど、本当のもうすぐだな。英語で読み終る前に翻訳が出るのはほぼ確実。
先週の日曜日に愛知県に用事でいって、それから直通で水曜日まで沖縄で仕事。夜行で帰って朝から夜(夕方?)まで仕事。その日ようやく帰宅。翌日朝から仕事。土日は学会。月曜日は朝から仕事。火曜日午後から読書会。というので明日が本当に久しぶりのお休みです。まあ普通に仕事をしている人からすれば「そんなものでしょ」と言われるだけなのでしょうが、ずっと怠惰な「半学生」生活を送って来たので、かなり大変です。
去年はサイト更新もままならない状態になったとき、仕事の方を休止しようと思ったのですが、今はそんなこと、想像もつきません。そのころは「サイト更新」の背後には「研究」というのが頭にありました。今考えるのはこのサイトをどうするか、です。「研究」は今のところ全く頭にありません。それゆえ、このサイトも「学術系」ではありえません。もともとたいして「学術系」でもなかったかも知れませんが。モーニング娘。系になりたかったのですが、ここ数日娘。をテレビでみていないように、ちょっとそれを名乗るのはおこがましい感じになって来ています。あ、でも昨日夢に何故か娘。さんたちが出て来ました。自分がちょっとキモヲタになった気がして少し嬉しかったです。
今年は完全にお客さんと言うか、部外者の気分で学会に出た。今までは自分が報告するしないにかかわらず、やはり常にそこで聞いた話を何らかの形で自分の論考に役立てなければならないというような脅迫観念のようなものがあったし、それだけに自分に「関係のある」部会しか出なかったのだが、今年は別の意味の「当事者」、社会学者の観察対象としての当事者として社会学者どもがどう説明してくれるのか、おてなみ拝見というところだ。そういうので今日出たのが、午前中はインターネットとそれが紬出す「公共圏」をどうとらえるか、というような部会。一応サイト持ちでそこでのコミュニケーションに多少なりとも可能性を見出そうとしている立場から「社会学者」の議論を聞いてやろうという感じ。聞いた感想は可もなく不可も無し。ネットに多少なりとも肯定的な思い入れを持つ人とほとんど何も期待していない人に分かれる。多分とどのつまりは2ch的なるものをどう評価するか、という話だと思うが。ちなみに私は肯定派。ただし何かしら素晴らしい可能性が開けているのだ、というようなロマンティシズムではなくて、良かれ悪しかれ2ch的なものとしてしかコミュニケーションなんて存在しないでしょ、それを否定してより理性的なコミュニケーションを、なんて考える程のロマンティシズムは持てない、ということだ。
午後からは普段滅多にでないシンポジウムに出る。「非正規雇用者」の問題。まさに私の問題じゃん。「フリーター」そして可能性としての将来の「ホームレス」。割りと実感を持って聞けた。報告者および討論者、司会者の立場は完全に二分されていて、報告者はいずれも「非正規雇用者」の増大とその立場の問題について、社会のゆがみととらえ、そこから社会を照射しようと試みるのに対して、討論者、司会者は正常な社会における「自己責任」の問題としてとらえる。例えばホームレスを、「自立」「生産性」を第一と考える社会の矛盾ととらえる報告者に対して、それのどこが悪いの、「自立」はやっぱり価値があるんじゃないの、という討論者、司会者。
まあ、この両者の議論のないようには立ち入る気力はないが、しかし討論者はいいとして、司会者はあくまで司会者なんじゃないの?報告者が喋った後、チクリと厭味ったらしいことをいってさっさと話を前に進めるのはやめてくれない?私が報告者だったら机ひっくり返して帰ってるね。
社会学会のまともな感想は時間のあるときに、と思うのだが、そんなことをいっているとまた何も書かないことが分かっている。明日も学会出るなら朝早いので、あまりきちんとは書けないが、ごくごく簡単な感想を。
今日出た部会は午前中は「セクシュアルマイノリティ」部会。ゲイ研究でしられる河口和也さんが司会。司会が何かするわけでもないから、どうということは無いのだが、一応有名人をみた、ということで。
報告自体はそんなに詰まらないものは無くて、それなりに考えるところが多かった。無難に面白かったのが、生物学でショウジョウバエの遺伝子研究から派生した「同性愛」論の分析。私たちは「生物学の成果」といわれると、ちょっとひるむ程度には「理科系」の学問には権威がある。何かしらこちらの常識とは無関係に、とても客観的な方法論でものをいっているような気がするものだ。そしてそれを聞きかじった私たちは「生物学によると」とその成果を借用してものを語ろうとする。ところが生物学の叙述の中にはしっかり「常識」的カテゴリーが借用されていて、結局生物学と「常識」とが堂々巡りになっている、というオチ。結構無難にオチているのだが、この研究を生物学関係の学会でも報告して、その反応をみると報告者。それは多分すべる。どう滑べるか、というと、反発してもらえることはまず無くて、「そりゃそのとおりでしょ」と受け止められるのが精いっぱい、という気がする。というのは生物学者は別に本質的に人間の同性愛なんて興味は無くて、単にそれに無理でも言及した方が本が売れるからサービスで書いただけ、という話だろうからだ。
同様の難点は「性同一性障害」に纏わる医学のロジックを批判した報告にも当てはまる。この報告も医学が結局常識的な性別カテゴリーを援用している、と批判するものだが、それはそうだろうというしか無い。それは法学が所詮常識に即した判断を踏襲するのと同程度にあたりまえなのであり、逆にまたそうでなければ多分まずいものなのだ。常識を覆すなんて暢気なことをやっていられるのは「役に立たない」社会学ならではであって、「普通の」学問/科学は、常識に依拠する部分があるがゆえに高度にメタな研究成果をも実生活に役立てられる方向性を見出せるものなのだ。だから社会学が敢然と「お前たちは既存の常識を無批判に受け入れてそれを再生産している」と批判したところで、「そんなことは承知でやっていますが、何か?」と受け流されておしまいなのだ。
後の報告はとりわけ女性の「自己決定」にかかわる矛盾/ねじれを論じたもの。中絶にせよ、売買春にせよ、ポルノにせよ、女性の「権利」を主張したはずの議論が、しばしば家父長制的なロジックに回収されてしまう。この矛盾をどう捉えたらよいのか、ということをどの報告者も逡巡している、という感じ。私もこれはいまだに良くわからない。公娼の廃止とかは多分正しかったはず。ではそれ以外の売買春は?となるとわからない。
当サイト、「再建」してから一年が立ちました。再建一周年記念ということで何かやりたい気はあったのですが、あまりの忙しさに何も思い付きませんでした。というか、最近こんなのばっかだな。
私の環境は一年経って、結構いろいろ変わりました。学界という世界からはどんどん遠ざかっています。去年あたりから目論んではいた食い扶持をそれなりに確保しました。その代償として時間が無くなりました。当然「ものを考える」ということをしなくなります。妄想も半減している感じです。「お仕事」で表出欲みたいなのが相当部分満たされてしまうのです。資本主義に飼い慣らされています。
それでも今日は学会にいって来ました。数年ぶりにあった人がいたりして、その人が私のことを覚えてくれていたりして、なんだかとても不思議な気がしました。もともとはそんなに聞きたい報告があったわけでもなかったのですが、せっかく近くでやるのだからと無理気味に出てみたら結構それなりに面白く聞けました。好きな報告の方向性は年々「非専門的」な方向にシフトしていまして、かつては細かい理論研究なんかも面白く聞いていたのですが、最近は「で、結局何がいいたいの」か分からないような報告は聞く気にもなりません。どんどん自分が素人となっているのを感じます。でもそれは多分悪いことではありません。社会学なんて素人に通じなければ意味ないです。そしてそれだけの明晰さを持った報告もきちんとあります。社会学もまだまだ捨てたものではありません。逆にごちゃごちゃした理論紹介みたいなのは結構「で、結局何がいいたいの?」と突っ込まれていたりします。多分学会全体がそういう指向になって来ているのだと思います。
明日も学会があります。あまり興味を引く報告はなさそうで、どの部会に出ようかいまだ決めかねています。多分ブルデュー関係の報告がたくさんある部会に顔を出すと思います。ブルデュー自体は結構ラディカルな人だったのに、社会学会のブルデュー報告は思いきり制度化していて、毎年嫌になるのですが、それをまた確認しに行く、というのも一興かも知れません。
今回の沖縄行は、それでもいろいろ思うところ、学ぶところは多かった。沖縄自体の話とは別に、今回の沖縄行きを依頼してきた人が、もっとタフな人かと思っていたら、案外自分と同類であるということが分かったとか、私は旅先で人と接するときも相変わらず傲慢な気弱さをさらけだして、第三者的にみたら本当にどうにも扱いにくい奴だとか、そういうことを沖縄にまで行って考えたりしていた。
沖縄は結構住んでみたい場所だったりしたのだけれど、今回は「僻地」に押し込められていたので、あまり沖縄を満喫したという感じではなかった。そのなかで、しかし、若い人達が職を得るのがなかなか大変な状況なんだろうなと思うところがあったりして、そうした状況でたしかに職を生み出す基地に対する相矛盾した感情とか、そういうのは、なんとなく実感できた気がする。
ちなみに海はむちゃくちゃきれいでした。磯の匂いが全然しない。海水はとても澄んでいる。砂浜はゴミ一つ無い。
料理は、ホテルに監禁されていたので、あまり楽しめませんでした。泡盛はおいしい。アルコール度は高いけれど、後に残らない。昼食に出た弁当は、おかずの量が半端ではなく、また安い。ご飯の上にまであれやこれやとおかずがぶちまけてあって、500円らしい。ホテルの「流球料理」よりよほど沖縄らしかったのかも。
帰って来ました。京都は冬です。でも体は案外適応能力があるみたいです。すぐ冬だと認識を改めました。ちなみに沖縄は春でした。小学生は半袖だったりします。多分海で泳いでも風邪引きません。
なんて小学生の作文を書くぐらいしか気力が無い。一応今回の旅行で学んだこと。
家をしばらく空けるので、食べものは食べ尽くします。でもバタバタと出かけたので、洗いものは適当に残しておきます。数日後、家に夜ふけて帰ると、食べるものが何もありません。洗いものはしっかり残っています。とても悲しいです。
二日にいっぺんの更新になっているが、実はこれから数日更新できないのである。明日から4泊5日の旅に出かけるのである。行き先は愛知県から沖縄県、滋賀県なのである。何だかむちゃくちゃなのである。せっかく沖縄行くのに、全然遊ぶ暇が無いのである。本当は今日あたり沖縄行ってゆったりして来たら良かったんだけど、愛知県に妄想のかけらを拾いに行くことにしてしまったのである。木曜日は非常勤だから休めなくて、沖縄から直接行くのである。夜行で京都に朝ついて、そのまま授業するのである。無謀なのである。
で、沖縄に何しに行くか、というと「新婚旅行」なわけなくて、仕事なのである。時給1万円だと思っていたら日給1万円強なのである。というか、支払側は時給1万円払っているのだけれど、中間搾取がひどいのである。5公5民なんてものじゃないのである。つんく♂に搾取される娘。みたいな気分なのである。
「何だか電波を受信しているなあと思っているあなたに100の質問」というのを知って、なんとなくネタついでに答えてみたくなった。ただしHTMLにするのがめんどくさいので、別ファイル。ネタと言ったけどかなり馬鹿正直に答えていたりする。
久しぶりに出身大学に顔を出す。ネグリ「帝国」の読書会。「帝国」自体は、第二章まで進んでいるが、未だどこぞで聞いた話でまとめられた教科書。さして言及するところはない。
大学の空気を吸う。非常勤先も大学だが、流れる時間が違う。講師として行くのと学生気分でいるのとの違いか。読書会も時間通りには始まらない。いつ終るかも分からない。本の内容があまり盛り上がらないので、ほとんど雑談で時間が過ぎる。それでも一瞬昔の、といっても多分たった一年前の、気持ちに戻る気もする。でもどこかそれを懐かしく観察していることにも気づいている。今の自分がいない、どこか別の世界を観察している。
ついでに生協の書店を見る。特に興味を引く本はない。といって今どのような本がでていれば興味を引くのか。大学気分を久しぶりに味わいながら、しかし頭の片隅で別の仕事のことを考えている。かつては常に頭の片隅でアルチュセールやらなにやらを考えていたその脳ミソの場所が今はそんなことで塞がっている。
日本社会学会のプログラムを入手する。興味を引く報告がほとんど無い。面白い報告が無いのか、面白さを感じる私のセンサーが壊れてしまったのか。
去年だったら「こんな報告があるよ」と誘いのメールを出していたところだが、今はその気が無い。
前に「死」を前提とする議論の危険性について書いたことがあったが、敢えてそれを考えてみたくなる。
戦争になれば、「防衛力」とやらを持とうが何しようが人は死ぬのである。自分たちにせよ、相手方にせよ、人は理不尽に死ぬ。そうして理不尽に免れがたい死を迎えたとき、せめて後に何が残ればいいと思うか。要は対立はそこにあるのだと思う。
改憲論者は、後には国家が残らなければならない、という。護憲論者は後には理念が残らなければならない、という。人が死んでなお残る国家と言うのもとてつもなく理念的なものだから、双方ともに観念論なのであって、一方が「現実主義」を名乗るのは滑稽だ。しかも「己が死んでなお」何かを守ろうというのはいずれもばかばかしいヒロイズムだ。
同じ馬鹿なヒロイズムなら、より馬鹿な方を選ぼう。国家なる抽象概念に、「隣の爺ちゃんばあちゃん」だとか、自分の愛する人だとか、こざかしく具体化して、利口者を引き込もうとする姑息さ、少なくとも私はそういうのには組みしない。
いまさらながらなのだが、モーニング娘。の新曲、この振付けの特に最後の部分が実にいい。
曲が終りを迎え、娘。たちがそれぞれポーズを決めて静止している。辻と石川が先頭にいるのだが、しかしぽっかりと穴が空いている。この二人の間にいる矢口は少し後方にいて、*何か*を囲むように並んでいるのだが、しかしそこには照明の光しか無い。
と、そこにポンと安倍がとびこんで来る。ワンテンポ遅れて来て、腕を組んでちょっと生意気そうなポーズを決める。一瞬の空白、そこに安倍が呼び込まれることでモーニング娘。が完成する。
番組によっては、テレビカメラが遅れてとびこむ安倍の動きを追いかける所もあったが、それではせっかくの演出が台無しだ。なちヲタなら特にそこで安倍を目で追っていては駄目なのであって、安倍のいない一瞬のモーニング娘。の中にこそ、モーニング娘。の本質を読みとらなければならない。
そうして安倍がとびこんだ瞬間、曲は終り、画面は切り替わる。
今日は文化の日。日本国憲法公布日。まあ、昔の天皇の誕生日という説もあるようで、そこらへんが当時の姑息な輩の知恵でそうなったということだろうが、昔の天皇のことなんて誰も気にかけてはいないので、新聞各紙は憲法特集をやっているのだ。その中で朝日新聞の特集で大塚英志も寄稿していて案外ナイーブなことを書いている。
北朝鮮と米国の間で応酬の続く核開発問題に日本が割ってはいりうる根拠は、日本国憲法とこの国の歴史的体験の中にこそある。このように自国の歴史に責任を負い、それを出発点として他国とかかわることは外国に屈伏することでも国の誇りを損なうことでもない。
大塚の普段のものいいを実はさほど読んでいないので、もっとひねくれた物いいをする人かと思っていたので、ちょっと「おや?」と思った。もちろんこの手のナイーブさを私は嫌いではない。ちょっとは大塚も読んでみようか、などといまさらながら思ったりする。
EXCELの授業なんかではダミーの人名が一定数必要になることがある。テストの点数を集計しましょう、担当者ごとに集計しましょう、そういう課題作成用のデータに、何でもいい名前が必要になる。この「何でもいい」がくせもので、数値のように乱数にするわけにも行かないし、実在のデータからとった名前を並べるわけにもいかない。
そんなときに便利なのがモーニング娘。を始めとするハロプロメンバーの名前である。モーニング娘。だけで脱退者も含めて17人。後はメロン記念日あたりを足しておけば20人ぐらいの名字はすぐに揃う。というので残る最大の問題は名前の方をどうするか、である。適当に名前と名字を入れ換えれば済む、わけではなくて、全員が女の名前ではやっぱりまずいのです。だったら男の名前用にジャニーズを使う?やなこった。
先週見逃したMusic Stationを見る。つくづくモーニング娘。は良いなあ。やはりモーニング娘。は得がたいグループなのであって、ごまっとうなどとは別次元にあるのだ、と思う。それは別に藤本美貴がキスをしていただとか、松浦がサイボーグだとか、そういう問題とは無関係のことがらだ。
雑然と、玩具箱をひっくり返したような賑やかさが何とも楽しい。前に「いやらしさ」がない、と書いたが、このグループにはもはや「いやらしさ」なんていらないのかも知れない、と思い直す。人数が多すぎという声もあるが、この大人数の賑やかさが「モーニングセット」のおとく感を醸しているのであって、もはや個別メンバーを追いかけて見るグループではないのだ。