確定申告のシーズンだ。どうもお役所のマニュアルはよく分からないのだが、確定申告所作成コーナーという優れものがあった。早速試算。PowerBookが買えるほどは帰ってこない。というか最初からそんなに払っていないけど。
そういえばかつてお役所のバイトをしていたとき、そのバイトでの年収が95万円あったのに源泉徴収が4900円しか引かれていなかった。またえらく中途半端に源泉徴収したものだ。そのときは確定申告なんて思いもつかなかったけど、今計算してみるとしっかり脱税してました。お役所相手の仕事だからしっかり補足されていたと思うけど、脱税額4820円なんて見逃してくださるのかしら。
寒いと出て行く気力もなく、ひたすら家でお仕事と情報収集に励む。
今日の朝日新聞の夕刊の「論壇時評」とそこに付随する書評欄がよい。「時評」のほうは東大国際政治学の藤原帰一さんという人(知らない)の「敵か、味方か−言論を駆逐する「やつら」論 他者の「顔」が二分法を崩す」という論考。アメリカのイラクへの対応だとか、日本の北朝鮮に対する言論状況などにおいて、「自分たち=隣人でもありえた、当たり前の生活を送る、日常的な普通の人々」と「やつら=野蛮で非理性的で信用できない危険な存在」との二元論が支配してしまっていることへの警鐘を鳴らすもの。ジジェクならば「病んでいるのは『自分たち』だ」というだろう。かれらが危険で野蛮な存在なのはかれらが「やつら」、敵だからなのであり、藤原が提起するような「他者の中に人間の顔を発見」するという解決策がそもそも最初から閉ざされてしまっている。もちろん「奴ら」の「実情」を伝えるというのもメディアの使命だ。しかしそれ以上に「自分たち」の実情をこそ、メディアあるいは批評家は伝えるべきなのだ。
それに付随する書評にくしくも「女性・戦争・人権」収録のバトラー「説明と免責」という論文の紹介が載っている。フェミニズムの果たすべき仕事とは「私たち/彼ら」という枠組みを批判することだ、という趣旨らしい。田嶋陽子に読んで聞かせたい論文だ。早速入手して読みたいが、こう寒くては本屋に行く気がするだろうか。
著作権保護というのが最近しきりに話題になっていたりして、とても微妙というか、はっきり言ってうざったい。CCCDもそうだが、WWWでの無断リンクなんてものを「マナー」としてだけでなく、法的な問題にしようとする馬鹿もいるようだ。そういうサイトは頼むからパスワードかけて、その内輪でこっそりやってください。
著作権といえば、サイトの文章なりを印刷して配布するのも結構やばいものらしい。まあ、それはそうか。学校とかで参考になるページを印刷して配布、とかやっていそうだが、やはりまずいらしく、そのあたりをクリアにしようと「印刷フリー」とか何とかのバーナーを作ろうと国が言い出しているとか。これはまあ、微妙なところはたしかにあるし、教育用ならOKとか、何でもご自由にとか、はっきりさせておく、というのは、まあ、分かりやすい、とは思う。
ちなみに本サイトは、もちろん、印刷して街頭でばら撒いてもOKですよ。というか、誰かばら撒いてください。
女性アイドル独占禁止法に引っかかるほどの勢いもないくせに、生意気だ。
そういうわけで引越し作業に真夜中まで追われていました。2月分以降の更新はSo-netだけおこなうので、よろしゅうに。とはいえ、Justnetのどのページから入ってもさりげなくしつこくso-netのほうに誘導するようにしたので、頑張って告知しなくても、だらだらと移行は進むんじゃないかと。
ひそかに引越ししていたりする。
一息つけば、またすぐに仕事が波状的にやってくるのは分かっているのだが、それでも一つの仕事にめどがついたというのはずいぶん余裕が出る。となると、いろいろ忘れていたことを思い出す。土曜日には割と公的な研究会があって、その案内がきていたのだけれど、きれいにその存在を忘れていた。報告内容には興味があったけど、その研究会が「公的」かつ「内輪」で、その「内輪」から距離をおいていることもあって、ちょっと出にくかったというのもある。また一つ「世界」から遠ざかる。
私的な人間関係を何とかしようと、諦め悪く少しだけ動いてみるが、どうにもなりそうもない。私が今まともに動いているのは、ほとんど自分が機械の一部となっているような場面においてでしかなく、まさしく70年代的「疎外」概念があまりに今の自分にぴったりくるのに嫌気がさす。
そんなこんなの気晴らし(鬱憤晴らし)に、せめて私が使用する機械を買ってやろうなどと考えたりする。というのでMacのノート購入にますます気持ちが傾くのだが、話が具体化するとなぜか財布の紐は硬くなって、重量増もやむなし、iBookの一番安いやつにしようか、と考えたりする。メモリーその他諸々足して15万。誰か私の口座に振り込んでください。
なんとも長い間更新をしていなかった。
試験問題を作成して、試験をやって、その採点。延べ200人分の採点を一週間でやれ、とのお達し。酷過ぎる。と、そんなこんなで、この一週間はひたすら時間に終われていました。
もう終わった試験なので、問題の一部を公開しておこう。
- 情報処理
- 家庭内でADSLによるインターネット接続を複数台のパソコンで共有する方法について、以下の用語を用いて説明せよ。解答は学籍番号.htmlというファイルを作成し、それに対して行うこと。文書型はHTML4.01とする。
- IPマスカレード
- IPアドレス
- DHCP
- 英書購読
- 以下の用語の中から三つ以上の用語を用いて、400字程度の文章を作成せよ。
- superstructure
- cause
- semi-autonomous
- dialectics
- historicism
- totality
バトラーの「アンチゴネーの主張」を読んでいるのだけれど、ヘーゲルとラカンのアンチゴネー解釈に関する細かなテキストクリティークなので、いまいち乗れない。かつてならそういう細かな議論も楽しめたが、今はそれだけの余裕がない、もっと「今」の社会の事象を直接相手に出来るような議論でないとつらい。私自身がそうなってしまっているし、私が語るべき、あるいは語れる相手もそうなってしまっている。
では、いま己を奮い立たせるほどに「熱く」なれる具体的事象があるか、となると、そこが今弱いところで、私にそれが見えていないのに、人に聞かせることは出来ない。さりとて一人では対象を見つけ、あるいは対象への想いを持続させることは出来ない。悪循環である。
そいつは困った。
風邪で一週間棒に振り、たまっていた仕事を一つ一つ片付けていく。シラバスは提出完了。後期試験もようやくできた。その一つ、英書購読はF.ジェイムソンの紹介本を購読していたので、授業でも文化批評における「構造的因果律」の意義だとか、喋り散らしていた。ある(文化)現象に関して、その「本質」だとか「原因」だとかに回帰して説明しようとする「解釈学」ではなくて、さりとて現象を個別に完結させて説明するのでもなくて、現象それ自体の中に「構造」を見出さねばならぬ、そういう趣旨。そんな内容を「理解」しているかどうかを問うような試験問題、なんてのはまあ無理なので、訳出と用語説明。それでもまだ趣味に走りすぎかも。
なんにせよ、「覇気」というのが戻ると、欲というものも復活するようだ。
というので久々にピリッと来たのがAppleのPowerBook。12inch液晶のが欲しくなってきた。Windowsには遠に嫌気がさしているし、仕事でPostgreSQLが普段に使えると便利。それでもOfficeファイルはなんだかんだ読めないとつらい。というのですべてを完璧に満たすのがMacOSXなのだ。旧来のMacOSはWindowsに対する積極的なアドバンテージが私の使い方では全く見あたらなかったが、一転OSXは私のニーズにぴったりではないか。欲しい。それもデスクトップではなく、持ち歩けるノートで欲しい。
ただMacはOSはいいけどハードがね、というのがどうにもある。デスクトップはCubeが無くなって以来、部屋におきたい(あるいは実際における)ものがない。ノートはやたら高くてでかい。iBookは充分に安いが、液晶の大きさの割には重過ぎる。OSもCPUもいいのだろうが、ガワがだめ(私に合わない)なのだ、Macは。
新PowerBookも重さという点ではiBookとさほど差はない。でも全体的な雰囲気、つくりがよさそうなのだ。細かな不満(右クリックが出来ないとか、まだまだ重過ぎるとか、値段がちと高いとか)を押し返すだけの物欲を充分に刺激する。ただ、それでもやはり、重い。あれでDVD-ROM外付けで、1.7kgだったら今ごろ札束握り締めて買いに走っているかもしれないところなのだが。
正月。時間があったのと、他に思うところもあって、開店休業状態を脱するきっかけを持つ。休み明け。二束の草鞋状態が以外にうまくいく。順調、順調。
とおもった途端に強烈なのが来たからねえ。そのせいで来年度のシラバスの提出時期は忘れているわ、試験はまだ作成できていないわ、諸々の頼まれ仕事全然進んでいないわ、それもこれもひとえに風邪が悪いのだ。
売買春はなぜいけないか、あるいは果たして悪か、と問を立てると、今の大学生ならどう答えるだろうか。例えば看護学生にそういう話題を振ると、相当の割合で「別に悪くない」と答える。「別に誰に迷惑をかけるわけでもないし、個人の勝手」というのが主な理由。高校生ならその率は上がるだろうか。
中近世や途上国における「管理売春」は批判しながらも、現代日本における売買春に対してはフェミニズムは否定的な評価は下さないことが多い。売春批判とはまずもって「性」の神聖化=「よき」「清純な」娘像を背後にしていて、つまり売春批判によって「管理」されるのはまず持って女性の「性」なのである。
それならばこうしたフェミニズムの立場に立てば、上記の状況、若い世代の売春容認は喜ぶべき状況と見るべきだろうか。そうではない、とは思わない。しかし決定的に足りないものがそこにはあるように思う。
私が看護学生たちの物言いのなかにさして「新しさ」を感じられないのは、「別に悪くない。個人の勝手」の後に多くの場合何かが追加されているように感じるからである。「私はやらないけれど」。
もちろん何かある行動を肯定するとき、必ずその行動を己もする必要などない。また「別に悪くない」という主張をする彼・彼女は別に理念レベルの話をしているわけでもない。しかしそれでもなお、彼・彼女に見られるある種のシニシズム「個人の勝手」の中には価値観の変更に向かう萌芽よりも、旧来の規範に即した価値観「私(男)の妻・娘etcは売春などとは無縁の清純な存在であれ、しかし私は買春はする」との連続性を感じてしまうのだ。
売買春の問題を性道徳の問題に摩り替えようとする権力の策動に抵抗するには、「個人の勝手」に連なる「自己決定権」の連呼では全く足りないばかりか、むしろその権力を自ら呼び込むようにさえ思える。実際の行動が「自己決定」の問題であるのは自明だ、しかし理念レベルにおいては「私はしないけど」という追加部分に対して、「なぜ?」という問を執拗に付け加えつづけなければならない。
恒例といえば純ちゃんがノーベル平和賞に一歩近づく快挙をまたまたやってくれたようだ。おかげで北朝鮮と韓国が、日本の意向なぞ無視して、さらに交流を深めるかもしれない。もちろん、それはとてもいいことだ。
明日非常勤行ってぶり返さなければ、通常業務に戻る予定。とはいっても、咳がどうにも止まらないのだが。風邪で腹痛を起こすのはしょっちゅうだが、咳で腹筋が痛くなったのは初めてだ。
人間、這ってでも動かなければならないときがある。多くの仕事にはそこまでの価値も責任もないが、「講義」となるとどうにかせねばならない。大概の「行事」は黙殺してかまわないが、「増員」だけは見逃してはならない。
というわけで、恒例となった「増員」、もちろんモーニング娘。の第六期加入の話である。・・・といってもさして書くことがない。「ありえない!!!」と叫んでいるものがネットでは多数派のようにも見えるが、それも含めて恒例行事である。ルックスがどうとか言っているのがいるが、こちらが見慣れたメンバーはプロである、オーディションでの映像などド素人のものである、衣装も化粧も表情もすべて素人のものである、みすぼらしく見えて当たり前だ。増員のたびにいつも同じことを繰り返しつづけているだけだ。
そうはいっても、同じ増員でも、全く違った反応があったことが2回あった。一回は第三期増員の後藤真希、そしてもう一回はつい先日の藤本美貴である。それ以外の反応が、概して、娘。の足を引っ張るというものであるのに対して、この二人に関しては全く違って娘。が壊されてしまう、という恐れに由来する。思えば既にソロでやっている藤本はともかく、ド素人のはずの後藤がそのような恐れを誘ったというのは、たしかに後藤の力ではあった。もっともその「怪物」後藤も半年も経てばすっかり飼いならされてしまったのだが。もちろん藤本ごときも娘。の敵ではないことはいうまでもない。
だから加入候補者3人の顔を確認した時点では私は余裕しゃくしゃくだった。多少「ヤンキー」っぽい子がいても、でも後藤だって加護だってそんな感じだったしぃ、だいたいオリメンだって全然へんだったしぃ、と余裕をこいていた。しかし真の衝撃はその後にやってきた。
この項、続かず
いまだ風邪が治らない。一日休んでは一日お仕事、というようなことをやっていたのが悪かったか。もうすぐ一週間になる。仕事をするといっても、本腰は入らないので、試験の採点やらなにやらいろいろ進めなくてはならない貴重な時間をひたすら無駄に使う。
まともな仕事は出来ず、さりとてずっと床に入っているという状態でもないので、暇は暇だ。ただしサイトの更新は私にとっては「まともな仕事」の範疇にはいるので、更新はほとんど出来ない。今やっているのは小手先の仕事と、だらだらサイト巡り。サイト巡りと言ってもまじめに頭を使って読むようなのはほとんど頭に入らないので、モーニング娘。関連の掲示板が主であったりする。久々に2chの娘。掲示板も見る。Yahooも見る。その他諸々。
藤本加入。例によって賛否両論。ただし肯定派は歓迎というより、別にいいじゃん、ぐらいの消極的意見であるのに対して、否定派はやたらに熱い。「娘。」を壊される、とまでいう者が続出する。どうにも藤本美貴というのは秩序の破壊者のように見える振る舞いなり表情なりをするらしいのだ。
特に安倍ヲタが拒絶反応を示しているのは、ネットで流れた噂(作り)話、
紅白の時、安倍が藤本のバックダンサーをモーニング娘。がつとめたのに対して感謝の意を表さなかった藤本を叱りつけ、藤本がそれに反発した
が「いかにもありがちな話」と受け止められたということと符合する。この作り話のみそは叱りつけたのがリーダー飯田でも、実質的なしきり役などといわれる矢口でもなく、ヒラの「自己中」娘。の、しかし「オリメン」として誰よりも娘。を愛していると言われる安倍だ、という点にある。つまりここで争われているのは礼儀作法一般などではなく、娘。の存在自体なのである。辻加護がいくら傍若無人に振る舞おうが何ら娘。の権威は傷つけないが、藤本は娘。自体を挑発する。それに対する拒絶反応なのである。
私?とりあえず恒例となったヲタ論争を楽しんで見物してます。
風邪引きました。無理に非常勤に行ったが、へろへろでした。風邪の菌はしっかりばらまきました。学生さんには気の毒なことをしました。
明日も仕事です。しっかり風邪の菌をばらまきたいと思いますm(__)m。
コメントいただいている部分とか、藤本美貴の一件だとか、きちんと書くべきことについては明日。
冬眠、暁を覚えず、というのなになのか、眠くて仕方がない。今日も10時半まで寝てて、読書会から帰ってきたらもう眠たくて、さっさと寝ようと思っていたが、見るとアクセスがたくさんあって、しかも全然更新をしていない。なんだか駆り立てられるように更新することにする。
今日は出身大学に行って来て、本をいろいろ買い込んできた。久々に本を買った気がする。というので、ここにリストアップしておこう。なんのために?さあ?
今回購入のメインはバトラーの「アンティゴネー」。ただしバトラーの文体はあまり好きではない。というか私にとってはとても読みづらい。CHUでもバトラーだけはやたらてこずった。おまけに翻訳の竹村さん自身の書き物もバトラーに似てかどうか、妙に読みづらい。というので竹村さんの「愛について」も読みづらいのだが、こちらは「思想」などの論文をまとめたもの。どれを読んでどれを読んでいないのか忘れたので、とりあえず購入。
内田さんのは「フェミニズムは、その歴史的使命を果たし終えて」うんぬんという部分に引っかかって購入。アルチュセールのは、伝記ものとか自伝ものとかあまり興味はないが、アルチュセールに免じて(何様だ)購入。
「日記」なんだから、自分の為の記録をしておこう。
思いがけずテレビに松本典子が出ていた。同じ番組にミニモニ。も出ていたが、残念ながら両者の絡みはない。ただ同じ番組に一回り違う時代(年齢はもっとだけど)の、私が気になる「アイドル」が登場するというのはとても不思議な気がする。一般的にいえば、例えば今テレビで中森明菜と浜崎あゆみが共演しているのを見ても、全然不思議な感覚などないのだけれど。
さて松本典子。すましているときは昔のまま。しかし笑ったり何らかの表情が浮かぶと、微妙に違和感が生じてしまう。腹の底からは笑わず、なんとも微妙な表情を浮かべるあたりは昔のままなのだが、その「微妙」のなかに、かつては*そこ*には何もなかったのだが、今や何かしらの経験のようなものが具体的に織り込まれているように感じられる。様々な経験をする時間が経ったのだ。そういう当然あるに決まっている時間の断絶を、しかしことさらに思い知らされるようで、すこしきつかった。
いしのようこ(なぜか今はひらがならしい)のほうは、なんというか*きちんと*おばさんになっていて、かえって時間の流れがスムーズにつながる。クラス会なんかで「お、大分変わったな」と思いながら、しゃべりだすとすぐその時代の延長線上で会話が弾むような感覚。
そろそろ通常(=仕事)モードにも戻らなければならない。せっかく本とか読み出す気になったところなのに。
企業からアンケート分析の依頼がある。質問項目から全部こちらが作成したのだが、入力は向こうにお願いした。Excel形式で入力されたデータをいただく。
あの〜、なんで質問項目一個に付き、シート一枚使っているんですか?これでどうやって分析しろと?はい、私のミスです。このように入力してください、と雛型を渡しておかなければいけませんでした。本当は分かってはいたんですけどね。何も言わなければどんな入力の仕方をするものなのか、ちょっと好奇心から。そうやって分かっていながら自分の仕事を増やしつづける。我ながら病んでいる。
なるほど、と思ったことがあったので、唐突な言及。 flurryさんの「思い出し日記」の去年12月31日分の日記。
『無い袖は振れない』というのは、物理とか数学の法則のようなもので(だって言ってることって『無い=無い』なんだからね)、規範なんかじゃない。それなのに、それに過剰な意味を載せている人がいる。それって、どうよ?
いじめ論とか差別論の文脈でいえば(というかそうなんだけど)、構築主義じゃなくて唯物論。意味もへったくれでもなくて、当事者にとってはただひたすら理不尽に降りかかる「ない」という状況。その「ない」状況に言葉でどんな注釈をつけてもどうにもならん。といって、差別する側、いじめる奴らに言葉が届く、というのはそれはそれでとても絶望的なわけで。それでも*私*は言葉しかもっていないわけで。
答えなんてないのだけれど、それでも何かを語りつづけるしかないわけだが、せめて「奴ら」のことをこそ語りつづけてやろう。問題は常に「奴ら」のほうにあるのだから。既に観察の対象になっている被差別者のいる舞台に、せめて「奴ら」をも引きずり出してやろう。
ユダヤ人にたいする偏見は実際のユダヤ人とは何の関係もないのだ
私は待つ。ただ一通の葉書を、あるいはメールを。それが届けば、私はすべてを、世界を手に入れられるはずだ。私はそれが届く準備をして、待つ。机の上には本が積みあがる。世界を出迎える準備。アルチュセール、ジジェク、バトラー、ラカン。ここ数ヶ月手にすら取らなかった本を、久々に読む。
もちろん葉書もメールも届かない。届いたところで、それはなにものでもなかったであろう。ただ微かな、そして実現されないことによって延長されつづける期待が、私を主体にする。
サイトを運営するときに持つ期待とは、カウンタだとかアクセス解析だとか小ざかしい仕掛けを行う前は*無限の*読者との邂逅の可能性であったが、いまやそのような可能性を持つことは出来ない。そうであれば、量ではなく質を、つまり真の読者との邂逅をこそ心待ちにすることになる。私はじっと息を潜めてある特定の読者を待つ。しかしもとよりそこで出会うべき真の読者とは*私*があらかじめ期待する読者とは違った相手となるだろう。私の具体的な期待は常に裏切られ、ただ抽象的な可能性としての読者のみが、わずかにその痕跡を残す。
私が管理する、このサイトではない、某企業系サイト。アクセスするのはひたすらロボットのみ。そのサイトの真の読者は人間ではないのかもしれない。
今日は初神社見物に行ってきました。
というか、初散歩にも行きましたし、買い物初めもしました。というか「初・・・」と「・・・初め」の使い分けってどうなっているんだろう。
<大文字の主体からの電波年賀状をお届けしました!> ---------------------------------------------------- 大文字の主体があなた宛に送られた「電波年賀状」をお預かりしています! 注:このメールに返信しても、カードを送信した真の相手には届かず、 Agentに届きます。 携帯電話、メール専用端末などパソコンと同等のブラウザ機能をサポートしてい ない端末ではご覧いただけません。 今後365日以内であれば以下のアドレスをクリックすることで いつでもこのカードを見ることができます。 年賀状 (ただし、受けとった電波年賀状の「文面(イラストやメッセージ)」を見 るのは、2003年1月1日(水)午前0時からがいいとおもいます) もしカードを見られないときは、ブラウザの設定をどうにかしてください。 カードがうまく確認できないときはモニタの電源を入れてください。 それではお楽しみください! Gehoo! JAPAN ----------------- Gehoo!グリーティングは有料のサービスです。 Gehoo!グリーティングを送りたい時は プロバイダと契約して適当にやってください。