重層的非決定

モーニング娘。

L. Althusser

No.27
2004/05/01-2004/05/31

★梅雨入り

←Index →Logs


■過去は常に美しく、私を苦しめる

なぜかふと思うことがあって、2chでいまさらながらの松本典子関連のスレッドを読む。良くも悪くもなんでもネタにする2ch、流れは遅いがしっかりレスが付いている。

昔なつかしの、というそんな柔らかな気持ちにはなぜかなれず、何か心がざわめく。

たとえばなっちこと安倍なつみが2chで何を書かれようと、どうとも思わない。有名人は叩かれる、それだけのことだ。しかしすでに露出がなくなって久しい、最盛期だって大して売れなかったアイドルがいまさらながら叩かれているのはなんとも忍びない。いや、実際叩かれまくっているわけではまったくなく、ほとんどのレスは昔話をしているだけで、ほんの数パーセント叩きレスが入るだけで、やはりなっちこと安倍なつみの叩かれ具合とはまったくレベルが違うのだが、それでもなお、なぜか心がざわめく。

単に昔などを振り返りたい心境ではないだけなのかもしれない。一旦昔を思い起こせば、昔つながりで思い出したくない過去をいろいろ思い出す。「思い出したくない過去」とは、嫌な、つらい過去ではない。逆に何か勘違いしていたがゆえに、世界が輝いていた過去だ。

(2004年5月31日)

■不幸の記事

なっちこと安倍なつみの第二段シングル「だって生きてかなくちゃ」、6月2日発売。「仔犬のワルツ」の主題歌。この記事を読んだ人は一人5枚ずつ購入して、知り合いに配るように。

(2004年5月30日)

■ラウンドテーブル、など

気がつけば一週間放置。体力がない。体力がない。

体力さえあれば、時間は結構あるので、二束のわらじ計画は成就するはずなのに、ちょっと働いただけで息が切れる。まして先週の土日は学会に出席、休みが取れなかったので余計につらい。

貴重な休みだった水曜日も、非常勤の準備は予定通りだが、別の仕事のしょうもないゴタゴタに付き合って、休みきれない。付き合う義理もないのだから放置すればよかったのだが、馬鹿を放置できないこの性分、どうにもならない。

取引先の担当が男女1人ずつなのだが、女のほうがいちいち感情的にオロつくのを、これまた男がいちいち庇う。一見親切なようで、一番「彼女」を馬鹿にしているのは「彼」なのだ。

ややこしげだが、捉えようによってはチャンスを、ややこしさを厭う怠惰さを、慎重さという理論武装によって逃そうとする。何かをなすことより、面倒なことにならないことだけを優先する役所の論理でしか動かない、これでも「民間」企業の社員らしい。

結局その企業の「上」の人が出てきて事を収める。「若手」が一番保守的、とはこの会社、先行きはないだろう。

とそんなこんなで、学会から一週間、書くといった内容を放置していた。大分内容を忘れかかっている。

二日目、理論部会。「大物」吉田民人さんの報告。「構築主義の潜在的可能性」についての報告。これまでの構築主義の多くが「認識論的構築主義」にとどまっていると指摘し、「存在論的構築主義」の意義、可能性を主張する。報告要旨にも言及のあった、J.バトラーに通じる主張。お年なのに元気だな、と。主要な論点については午後からのランドテーブルと絡めて簡単にまとめる。

午後からはシンポジウムとラウンドテーブル、いずれに出ようか少し悩み、結局構築主義についてのラウンドテーブルに出る。

会場は広いホールに四角く配置されたテーブル席とそれを取り巻く席との二重構成。多くのものが遠慮してか、テーブル席には座らず、空のテーブル席を大勢の聴衆が取り巻く構図になる。司会者中河伸俊さんが「ラウンドテーブルをラウンドする会」と皮肉を飛ばす。

内容自体は「構築主義」というお題目で複数の討論者がいる際の話のかみ合わなさが見事に再現される。というのは一口に「構築主義」といってもその前提となる理論がバラバラだからだ。要するに午前中に吉田民人さんが触れた「認識論的構築主義」は、少なくともその論者は、それを「限界」とは認識していない。彼らが「存在論的構築主義」を知らないでいるのであれば、吉田さんの指摘は強力なのだが、もちろん彼らはそれを知っている。知っていて、それとは違うバックグラウンドで、違う意義を持って「認識論」を突き詰めようとしているのだ。だから話がかみ合わない。「認識論的構築主義」者はエスノメソドロジーは詳細にわたって調べるが、フーコー、バトラーなどはそれほど突っ込んでは調べない。興味の対象が違うからだ。一方、フーコーとかバトラーが好きな論者は「社会問題の構築主義(認識論的構築主義の代表的存在)」とかエスノメソドロジーは大して知らない。同じく興味の対象が違うのだ。

ただそれでは双方が、互いにわれ関せず、で「対等」かというとそうでもない。存在論派が、今回の吉田さんの報告のように、認識論派を叩き台として、揶揄気味にくさしながら言及をすることは結構あり、それに対して認識論派は己の領域の正当化、防御を専らとし、存在論への言及は積極的にはしない。そうなると、細かく議論を追えば、専門領域で「戦う」認識論派のほうがその限りでは「正しい」。しかし少し突き放して、距離を置いてみれば、認識論派の反論は重箱の隅をつつく感じがして、生産性に乏しい、とも感じられる。存在論派の、考えようによっては大人気ない「ちょっかい」に対して、なにやら躍起になっている、ように見えてしまう。そうして認識論派は、存在論派をはねつける理論構築をなそうとする。バージョンアップもしているのだろう。しかし傍から見ればどんどん「引きこもり」体質を強化しているだけにも思えてしまうのだ。

(2004年5月30日)

■それでも物語は続く

飯田圭織、モーニング娘。卒業。とうとう「オリメン」が全員卒業。淡々と一つの物語が完結する。石川も同時に卒業、と言うことだが、こちらにはさして感慨はない。本当はもはや卒業にかつて込められていた意味の付与システムは機能せず、ヲタすらも淡々とした配置換えとしか受け止めようもない。ただ原理主義者として、オリメン飯田さんの最後の物語を見守るよりない。しかし、いつもヲタの間では言われることだが、なぜまったく背負った物語の異なる二人を組み合わせて卒業というセレモニーを行うのか、飯田サイドから見ても石川サイドから見てももう一方が不純要素となってしまう。

物語(イデオロギー)と資本の蜜月関係は終わりを告げるとき、物語は解体され、埋葬され、資本もまた危機に陥る。

(2004年5月23日)

■関西社会学会二日目午前

二日目。「報告要旨」も入手済みだし、またまたピンと来る報告も見当たらなかったので、二日目はサボタージュしようかとも思ったが、己を奮い立たせて、参加することにする。参加したらしたで、またもや己の感性の鈍さを思い知らされることになる。

理論学説部会第一報告。パーソンズのカント受容について。なんと言うか、とても懐かしい感じの報告。ある意味若手の「理論」研究の王道を行く報告。「若手の」というのチャレンジングだという意味ではなく、むしろ逆にとても慎重なお勉強的報告である。斬新さとかはなく、教科書的な知識がしっかり復習でき、私個人としてはとても勉強になった。パーソンズもカントも、言説論とは分野が違うという意味も含めて、あまり積極的にコミットできていないが、しかし他人事としてとても好きなのだ。

第二報告はジェンダー部会に行く。現代の恋愛関係の変容を女性向け漫画を通して描き出そうという報告。漫画を素材とするのは結構好みだし、そこから描き出されている結論−ジェンダー秩序からのずらし−も多分妥当だと思うのだが、もう一ひねりが足りない。漫画を使う必然性が結論から感じられないのだ。あるいは漫画なり小説なりを漁ればその結論は容易に出せるだろう、と予測が付いてしまう。せっかく漫画という学問ディシプリンから微妙にずれた素材を使うのだから、結論に至る筋書きにも多少なりとも撹乱要因がほしい、というのは贅沢か。

次は理論部会に戻り、吉田民人さんの構築主義に関する報告を聞いたが、これは別途ラウンドテーブルの感想とあわせて書く。

最後はまたジェンダー部会に戻り、途中から田中美津の「とり乱し」論についての報告を聞く。このテーマの報告は他でも聞いたが、ごく狭い議論としては理解できるところもあるが、理念的な意義がいまだしっくり来ない。今回は最初から聞けなかったので、仕方がないとは思うが。

(2004年5月23日)

■関西社会学会初日

例によって「研究者」の*振り*をするために、関西社会学会に出席。いつものことながら、所属の記入を求められ、いつものことながら制度に屈服して「某大学非常勤講師」と記入する。

いつものことながら、報告要旨集を見てもあまりコミットできそうな報告がない。私の感性の減退か、とも思うが、たぶん個々の報告内容が細分化されていて、一昔前に良く見られた「世界」を論じる報告が少なくなっているからだろう。ほんの10年足らずの間なのに、学問潮流が明らかに変容している。こうした細分化、専門化はたぶん一般的には進歩なのかもしれないが、なんとなく学問(社会学)の持つ批評性が損なわれているようにも感じる。社会学はもはや社会批評ではなく、社会操作技術なのだ。

これなら先日の企業対象の研修のほうが、「暗黙知」だとか「集団的イデオロギー」だとか、技術的でありながら、一般性・批評性を兼ね備えていた気さえする。いたずらに大風呂敷を広げるのがよいとも思わないが、しかし一般性への志向が見られない「学」とは何か。そういう志向を持たないのなら「学」など捨てて、ひたすら実践に励めばよいことだ。

とプログラムをざっと見た段階で書いたのだが、実際に報告を聞いていくうちに、やはり最初にコミットできないという印象を持ったのは私の感性の問題であったことがわかった。確かに「理論」における流行のようなものが希薄で、あってもゴフマンのように比較的ミクロなものが主流っぽいので、一般性が前面に出ているわけではないが、それほど*かつて*と何かが変わったということもなかった。私が感じた最初の戸惑いは、ひとえに私の学問の世界に入る際の精神的な準備不足の結果に他ならない。それを再認できただけでも出た甲斐があったというものだ。

第一報告は他に興味を引く報告もなかったので、大学論とハバーマスの公共圏論を組み合わせたらしい報告を聞く。「らしい」というのはレジュメも配布せず、ぼそぼそと自分の原稿を読み上げるだけなので、何がなんだかさっぱり分からない。内容以前にプレゼンの仕方をもう少し考えてくれ。というか内容はそんなに技術論に走るのは好みではないが、プレゼンはもっと技術を鍛えないと、それこそこれからまったく通用しなくなるだろう。

第二報告。知り合いの報告を聞こうと最初は思っていたのだが、ふと気になる報告があり、そちらを聞くことにする。「当事者性と社会状況」。ブルデューだ何だと理論的な雰囲気が漂っていたので、引っかかったのだが、報告は割りと実践的な、アジテーションぽいものだった。現場の「当事者」が参画できるようなシステム作りを提唱するというその主張は、それ自体は共感できるものではあるが、「そんなことこの学会で主張したってどうにもならんやろ」という突っ込みを入れたくなったりする。もう少し現状認識・批判に力点を置いたほうが、「科学」としては価値があったように思う。

理論部会の第三報告はゴフマンの細かな理論研究のようで、あまり興味がもてず逃げ出し、「コミュニケーション部会」の音楽論の報告に行く。従来の音楽論では「音」の物質性への視座が足りないのではないか、というところから、「音」それ自体への体験から始まる「無化へのアイデンティフィケーション」概念を提示する。音それ自体の享受は想像的な自己同一性を呼び覚ますものではなく、肉体的な次元での脱秩序的な身体経験をもたらすものである。音楽享受とはこうした音それ自体の享受をも含みこんだ重層的な身体経験である、という主張。

モーニング娘。の大きな物語(もちろん歌詞の個別の意味も)とはべつに娘。たちのさまざまな声(ユニゾンであろうとハモリであろうと)の重なりの享受を織り込まずして娘。経験を語ることは出来ない、ということか。後はそれを「重層的」という言葉で済まさずに、その折重なりを構造的に開示していければ面白いかもしれない。

第四報告。引き続き「コミュニケーション部会」でネットでのCMC空間、とりわけ掲示板でのコミュニケーション空間における秩序形成をゴフマン・ルーマンを手がかりに読み解こうという報告。2chや個人サイトといった掲示板を掲示板の技術的な種別とともにルーマンの「意味の三次元」にしたがって区分していく。破綻なくまとめられてはいるのだが、読み解かれた内容がゴフマン・ルーマンなど振りかざさずとも、「当事者」が自覚的にやっているようなレベルなので、いまいち。理論の持つ意義は当事者の意識を超えた「構造」を析出するところにある、と私は理解しているので。単にこの「理論」はこの「現実」に当てはまるでしょ、というだけでは*私が*理論をお勉強したということ以外の意義は見出せない。

ついでにどうでもいいのだが、その報告の事例で「個人サイト」として某タレントのファンサイトが挙げられており、それについて「メディアでの登場が少ないため、それほど人気はないと思われる」と注釈がつけられていたが、その某タレントとは高橋由美子である。どうでもいいといいながら、ファンならずとも、この注釈、実にけしからんことだと思う。

(2004年5月22日)

■無題

昨日、夜に東京から帰宅。今日は2コマ目から授業。ただし午後から大学の都合で休講。ラッキー。授業自体はへなへなでかなり反省。

東京では某企業の新人社員研修の講師。朝9時から夜9時まで、ご飯の時間を除いて10時間ギチギチ。社員さんはその研修以外にも大量の課題を抱えているようで、ほぼ徹夜状態だとか。そんなにスパルタとか、宗教じみた精神論とか、そういう雰囲気の会社でもないのだが、それでもこの状態。会社人になるって厳しいね。

私にとっては社会ならぬ「会社」なるものの一端をまともに観察できて、結構興味深かった。その企業の担当者に実年齢より老けて見える、と言われた。ちょっと意外だった。モーヲタだし。

ついでに受講者の新人さんから「趣味は?」と言う質問を受けたが、さすがに「モーニング娘。批評です」とはいえなかった。

(2004年5月20日)

■凡庸さの反復

「モーニング娘。は言説的に過剰な存在だ」。言い換えれば数多くの言説が溢れんばかりにモーニング娘。を対象として生産されてきた。いったいそれは何故なのか、そこにこそ問うべき何物かが存在しているはずだ。

さしあたり二つの理由が想定できる。外在的なものと内在的なもの。

外在的な原因としてはメディア環境の変容、WWWの爆発的な隆盛に関わる。たとえばキャンディーズやピンクレディー、おにゃん子クラブなどと比して、何故モーニング娘。が書くも語られたのか、その最も簡単な説明はこれによって与えられる。誰もが、物理的に、語る場を持っている。雑誌への投稿やら、ファンクラブへの寄稿やら、ファン同士での手紙でのやり取りやら、我々は溢れんばかりの思いを語ろうとして、しかしその場の少なさに苛立ってきた。いまや語れる。好きなだけ語れる。どんな駄文でも、どんな批判的な内容も、*全世界*に向けて語れる。モーニング娘。はネットでの掲示板文化隆盛とともに生まれ(2chの前身の前身が立ち上がったところだ)、「テキストサイト」の隆盛とともにあった。我々が物理的に、そして文化的に、語る場を持ったとき、モーニング娘。がそこにあった。

しかし、上記だけでは、何故モーニング娘。が同じ時代のほかのアイドルに先んじて語られ、人気を博したのか、その*秘密*はまだ解けない。やはりモーニング娘。には内在的に人をして語らしめる物があったのではないか?

モーニング娘。には人が語るだけの魅力があったのだ、という回答はさしあたり十分ではない。それでは「過剰さ」が説明できない。モーニング娘。語りは既に大量に存在し、日々その動向が報告され、しかしいまだ語りは蓄積され続ける。初期の、テレビ出演も少なく、情報に「飢えて」いたころならともかく、いまだに寄って集って語り続けるだけの「中身」が果たしてあるのか?

人をして語りに向かわしめるもの、言説をおびき寄せるもの、それは「空白」である。言説が折り重なり、あふれ出していてなお、ある一点空白があれば、それを埋めようと言説は群がり寄る。しかしその「空白」を生めることは出来ない。その失敗がなお言説を呼び寄せようとする。

モーニング娘。には空白がある。一般的なものと、モーニング娘。固有のものと。

「空白」は性的なものとして現われる。性的なもの、たとえば「萌え」感情、の言語化は「失敗」する。モーニング娘。の「価値」がテクストに還元されるはずだとかの人はいうが、それは一般的な意味において必ず失敗する。モーニング娘。は大量のテクストに囲まれてなお、当たり前のごとく「性的」な存在であった。あるいは性的な存在であるがゆえにモーニング娘。は言説的に過剰な存在なのだ、といってもよい。

モーニング娘。は最初のその名において過剰だった。「。」が語尾に付くという、余計さ。しかしその中身は不足によって特徴付けられていた。オーディショングランプリの平家みちよがいない。「頂点」を欠いたグループ。その頂点の欠如が、グループ内での頂点争い、という物語を紡ぎだした。ファンは各々の「推し」を強いモチベーションとともに持った。自分の「推し」こそがその空白の頂点を埋めねばならない。煽られていることを承知で、その煽りに乗っていった。頂点を欠いたがゆえに成立したこの大きな物語、それがモーニング娘。の語りを支え続ける。まず第一にこの大きな物語を欠いた娘。批評は無効である。

もとより大きな物語とは、一般論において、凡庸で、紋切り型である。しかし*あらゆる*批評が、この凡庸で紋切り型の物語に支えられているのであって、その物語に対する態度としてさまざまな批評の方向性が規定されるというだけのことだ。その意味で、「モーニング娘。」なるものは、蓮実重彦なるものが凡庸であるのと同じ意味において凡庸であるし、しかし蓮実のテクストの中に光るものがあるのと同じ意味において、モーニング娘。にも光るものがある。それはどこまでも具体的なものとして現われるのであって、「外」から見ていて分かろうはずもなく、「読み」もしないで「見た」だけで何かを批評する奴は馬鹿か無責任だ、というだけのことだ。

モーニング娘。の持つ批評性とは、この批評一般の、とりわけ批評一般の持つ凡庸にして大きな物語の、雛形をほぼ完全とも言うべき形で備えている、ということだ。モーニング娘。の凡庸さは世界の凡庸さの反復である。そしてその凡庸さの反復の中にこそ、そこからの飛躍の契機がある。

その後の「議論」を読んでいると、語られているものは言語化可能だというとてつもなくナイーブな前提で話が進められているので、これは批評論の根幹でずれているとしか言いようがないので、多分それ以上は生産的なものにはならないように思う。

(2004年5月17日)

■わからない2

「わからない」のになぜ引っかかったかというと、たぶん一般的に好きでないものへの批評はそれこそ凡庸で価値がないものなのだが、しかし下のモーニング娘。評には確かに言い当てているものがある、というところからだ。「意味を過剰付与するゲームの一環として捉えられている」というのは実に的確な娘。評だと私は思った。しかしその後の

だとしたら、もっと渋いところ、裕木奈江とかの方が有効な気がします。あるいは、山瀬まみのアイドル時代にあえてスポットを当ててみるとかの方が、意味付与のしがいもあると思います

がそれこそあまりに「凡庸」な批評になっている。その落差に驚く。

あからさまに過剰な意味付与が求められている対象にことさらに過剰な意味付与をすることにいったい何の意味があるのか。それこそ批評のセンスに関わる問題だと思う。凡庸な視線で見れば凡庸にしか見えないモーニング娘。になぜかくも過剰な意味付与がなされるのか、その問を立てるところからしか、モーニング娘。の批評は始まるまい。

(2004年5月16日)

■わからない

明日あたりからしばらく更新できないところに、ちょっと気になるネタがあったので、とても無責任に、1人突っ込みをしておく。どうせ孤独なサイトだし。

「モーニング娘。は凡庸だ」という主張がごく一部かどうか分からないある界隈で騒がれている。まだ「凡庸だ」という主張がよく読み取れていないので、論評はまともには出来ないが、その主張の中にある「モーニング娘は他のアイドルなどに比べて言語化が進んでいる」というのには完全に同意する。ただ分からないのがその主張と「凡庸」という価値判断との整合性だ。徹底して言語化されたアイドル、それこそ批評的ではないのか。分からない。

で、挙句にモーニング娘。の曲の歌詞の批評?が来るのだが、これがもうまったく分からない。アイドルグループが言語的である、という認識の帰結が、だからそれが歌っている歌詞が重要ですって、まさかそんなこといっているわけではないのだろうが、そう読めてしまう。モーニング娘。が言語的である、というのは存在論においてそうなのであって、モーニング娘。が歌っている歌詞と言語的存在としてのモーニング娘。は別物だろうに。そんなことわざわざ言うまでもないことのはずだが。

(2004年5月15日)

■手紙は必ずあて先に届く

リアルな知り合いからはがきが届く。なっちこと安倍なつみのことが書いてあった。

かの人は誤解している。なっちこと安倍なつみがいいといっているのはバーチャルな私であって、リアルな私ではない。いや、そもそもリアルな私などというものは存在しないのだ。

となると、このはがき、誰に届いたものなのだ?

(2004年5月14日)

■くだらない

今一番くだらない話題。年金問題。

純然たる民間人の筑紫哲也が年金を支払っていなくて、何で出演見合せとかそういう話になるのか。年金払っていない人良くない人、はまあ、ともかく、年金払っていればいい人、なのか?もちろんそんなわけないのだが、こう年金未納者狩りみたいなのが続くと、年金を払っている人意外は物を言うな、みたいになりかねない気さえする。

(2004年5月13日)

■Winny

Winny関連については大いに思うところあるが、じっくり書く暇がない。といって書かずにいれば時を逸する。

さしあたりひとつはっきり宣言しておくべきことは、これは端的に不当逮捕である、ということだ。たぶん起訴にさえ持ち込めないだろう。

しかしでは私がWinnyコミュニティに好意的か、というとそうではない。作者の「著作権概念の変更を後押ししてやろう」という趣旨は、まあ、比較的私は好意的に受け止める。「著作権」については思うところ大。今は書く精神的余裕がないが、いずれ思うところはまとめたいとは思っている。さしあたりこのサイトの文章について言えば、前から言っているように、無断使用、無断配布、歓迎。銀座のど真ん中でビラにして撒いてください。ただしその結果の責任は私は当然、まったく負えませんので念のため。

話はさておき、しかし、ユーザの側、映画とかをいかにただで見ているかなんて「武勇伝」をしゃべるアホはたんに「浅ましい」としか思わない。そしてWinnyは、どういいつくろってもそうした「浅ましい」人たちに支えられてきたのだ。

(2004年5月13日)

■Just Joke

くそ忙しくて、まともにテレビも見てられない。ビデオがたまっているが、消化できない。とりあえず今日はリアルタイムにうたばんを見る。辻・加護が出てた。

非常勤、例によって情報処理のデータにモーニング娘。関連の名前を借用。脱退メンも含め、25人の血液型と身長のデータを集め、度数分布表作成の課題とする。

今回はごまかさず、加護なんて名前もそのまま置いておいたので、気づいた学生が結構いるようだ。しかし25人、なんか多い。静かに頭をひねっていたらしい学生がポツリとつぶやく。「メロンや」。

あ〜、そこの学生、授業後、前まで来なさい。単位上げるから。

(2004年5月13日)

■無題

ゴールデンウィーク、呆けていたら、突然仕事の山。必ずしも分かっていたことではなく、突然仕事が舞い込み、しかも締切が早い。この2週間、まともに休みがない状態になりそう。ゴールデンウィークの休みがもう少し散らばっていてくれたら、といまさら思っても時既に遅し。というので、断片的な更新を行う。そもそも更新なんて真面目にやっていないのだから、無理から更新しなくても良いのだが、逆に何か少しずつでも更新しないとひたすら時間に流されるだけで終わってしまいそうなのだ。

というので、東京で仕事の打ち合わせの帰り、新幹線車中で更新作業。電光ニュースで

<marquee>Winnyの作者である東大大学院助手逮捕。違法コピーを可能な状態にした容疑</marquee>

とか

<marquee>土井社会民主党党首、年金未払い期間があったことが発覚</marquee>

とか

<marquee>菅直人民主党代表、辞意表明。</marquee>

とか、気になるというか、ある意味くだらないニュースを知る。

(2004年5月10日)

■日本という国2

今頃ようやくまともなところに落ち着く。

松本智津夫被告の娘が大学に合格しながら、入学を拒否される。拒否した大学は和光大学と文教大学。しかし東京地裁がその行為を憲法違反と判断。文教大学も受け入れることにしたという。情けなや、大学。ドラマ版「砂の器」を今の日本でなぜ現実に反復しなければならないのか。司法にはまだ良心のかけらは残っていたのか。

(2004年5月6日)

■日本という国

あまりにひどい話。今頃知る。

自衛隊官舎に、ピザ屋のチラシと同様に郵便受けにビラをまいたら、逮捕、3ヶ月もの間拘留されつづける。これが日本の「民主主義」。

(2004年5月6日)

■リアリズムなきリアルさ

このドラマだけ*何故か*別扱い。

まずは朝日新聞の島崎今日子のドラマ評。

なぜ女達が、「冬のソナタ」にハマるのか。本当の理由が「仔犬のワルツ」の作り手にはわかってないとみえる。

これほど的外れな批評を見るのも珍しい。別に「仔犬のワルツ」が「冬のソナタ」にハマる「女たち」のためのドラマである必要もなかろうに、そして現につくり手の狙いがそんなところにないのは明白なのに。「仔犬」はライバルたちとの対決を軸にして、そこにミステリー要素を散りばめて、御伽噺にした、というはちゃめちゃな「男の子向け」劇画ドラマなのだから端から「冬のソナタ」などというメロドラマとは無関係なのだ。

およそリアリズムとか、登場人物への共感だとか、そんなものを放棄したドラマなのだが、しかし腐っても野島伸司、ところどころに「らしい」シーンを散りばめる。

第一話。安倍演じる盲目でしかも天涯孤独、職場で苛められ通し(まあ、華やかな設定)の葉音の唯一の心のよりどころはペットショップの仔犬。それを何とか自分のものにしようと、こつこつと金をため、値下がりするのを待つ。そしていざ買えるとなっていそいそとお金を取りに戻り、そのお金が盗まれたことに気づき、荒れまくる。いろいろあって、その仔犬を手に入れて、心の支えとして歩んでいく。と文字にすると、とてもありがちな、人間と動物の心のふれあいとかいうような心温まるエピソードのようにも見える。しかし実際に描かれているのは葉音の仔犬への異常とも見える執着、依存だ。仔犬は葉音の心を癒す道具(手段)ではない。仔犬は葉音にとって世界のすべてであって、これを奪われることは葉音にとって世界の崩壊を意味する。そういう非常に危うい状況を視聴者に突きつける。

サスペンスものであるだけに、今後葉音にではなく、仔犬に危険が訪れたとき、とても容易にクライマックスを迎えさせることが出来る。ある意味あざとい「仕込み」だが、一方である意味とてもリアルな精神の在り様を描き出している。

(2004年5月5日)

■ドラマ感想文

恒例の?今クールのドラマ批評。

オレンジデイズ
ドラマ好きの人になら通じるひとこと。いわゆるひとつの「北川」ドラマ。柴咲コウも妻夫木もいいし、微妙に過去の話となった学生時代を懐かしむ思いもあって悪くないのだが、どことなく「見飽きた」感じ。この先どうなるのか、というような期待感は特に持てない。特にどうということのない日常を淡々と描くある種「純文学」の域に達しているのか。
菊亭八百善の人びと
夏川結衣が出ていなければまず見ていなかったドラマ。しかしこれが望外に面白い。この手のドラマにしてはきっちり伏線が張ってあったりして、さすがNHK、しっかりつくってある。夏川結衣、特に演技うまいわけでもないのだけれど、いい加減芸暦も長いだろうに、というか結構年だろうに、なぜかいつ見ても初々しい。
愛し君へ
菅野美穂が出ているから見るのだけれど、いまいち乗れない。菅野の天然ボケな雰囲気がまったく生きていないし、いじらしい感じも出てこない。別に菅野のプロモーションドラマではないのだから、文句言う筋合いではないのだけれど、つまらない。
ワンダフルライフ
もういい加減見飽きた「反町」ドラマ。市川由衣が微妙なちょい役で出ているのが妙に気になる、それぐらい。
アットホームダッド
主夫も意外に面倒かも、と我が夢を冷めさせてくれるドラマ。阿部寛、篠原涼子という配役が良い。川島なお美は割と邪魔。
光とともに
篠原涼子、出すぎだろう、と。テーマの割りにあっけらかんとしているところが好評の秘訣か。
電池が切れるまで
「光とともに」と似たつくりのドラマなのに、視聴率は悪いらしい。悪くないのだが、さすがに「救い」がなさ過ぎか。
離婚弁護士
初回、竹之内豊出演にだまされて見たら、竹之内はそのまま海外逃亡。でも主演の天海祐希がはまり役で、一つ一つの話は陳腐なのに見続ける。
新しい風
題名の「新しい」が皮肉なのか、真面目なのかが図りかねる。与党の大物議員に口説かれた素人が政界に新しい風をもたらす、なんて話をまさか大真面目には作るまい、とは思うのだが。主演に吉田栄作を持ってきたところも、「皮肉」と「真面目」の判断を鈍らせる。彼の「全盛期」だったら大真面目にこの手のドラマをやりそうだが、もうそんな状況でもあるまい、でもなかなか正体を見せない。このまま最後まで突っ切ったら許さん。
ホームドラマ!
ジジェクが引用するジョーク、「パパはマンチェスターで、ママはブリストルで、ぼくはロンドンで生まれた。その三人が出会ったのは不思議だ」の逆を行くドラマ。とりあえず井上真央の「キッズウォー」からの変貌に驚く。
ドリーム
NHKの帯ドラマ。シングルマザーの水野美紀があれこれ金儲けに奔走する「今」も悪くないが、その幼少のころ、誘拐されたが、親が身代金を値切り倒した、というエピソードが一番の山場。

(2004年5月5日)

■安倍ヲタ日記

今クールのドラマもおおむね出揃った。その中でも安倍ヲタとして見逃せないのが「仔犬のワルツ」。

昔なつかしの「野島」ドラマの王道と2chあたりで言われるように、とてもリアリティの欠く大仰な状況設定のドラマ。出演者もいまいち地味で、視聴率も控えめ。

特に初回視聴率が10%を切ったこともあって、安倍ヲタとしてとてもいたたまれない。ついでに期待の主題歌もダサダサ、「役者としてはともかく、歌手は止めたほうが」というような物言いにも「ごめんなさい」とつぶやくしかない。安倍ソロアルバムにはもっといいのがいくらでもあるのに、よりによって安倍ソロで最悪の曲がここに来た、というのは安倍ヲタの言い逃れか。

ついでに安倍モーニング娘。卒業記念DVDが、そのDVDの監督が児童買収で逮捕で、発売延期。中止ではなさそう、というのが救いだが、明らかに時期を逸する。

東京じゃフジテレビで矢口、安倍がコンビを組んだコントが放送されるようなのだが、関西ではきれいに無視、ドラマの再放送なんぞをやっている。つくづくハロプロヲタに優しくない地方だ。

どうもソロ活動、ドラマ主演とか浮かれていたら、逆風が吹いてきたようで。

(2004年5月1日)

■近況

また間が空きつつあるので、少し無理気味に更新。

日々わずかでも思うことがあれば少しずつでも書き留めておいて、何らかの契機にしていこう、というのがそもそもの目的であったのに、思うことはあっても、それを書き留めるだけの気力・体力に欠く。

2chにおいて現在日本の精神状況の病み方を観察しつつ、一方で普通にテレビドラマ板などを読む。2chという場所は板の使い分けはそれなりに出来ていて、ここではウヨ病患者はたまにしか見かけない。ただいずれにせよ、言葉の浪費場所であるのは確かで、こんなのを読まずにその時間このサイトの更新をしたほうがよほど生産的であるはずなのだが、今は安きに流れてしまう。

仕事では、少しは物の道理が分かる人が担当になった。

仕事上のデータがばらばらに管理されていて、どれが一番新しく信頼できるものかが、さっぱり分からない。前々から指摘しているのに、誰も何もしない。*先端的*な「IT関連企業」のはずなのに。いい加減痺れを切らして、独断で必要なデータをすべてデータベースに落とし込んで、システム構築を始める。その作業の途中経過を見て、その人、「やっぱりデータは一元管理しないと」などと分かりきった「アドバイス」をしてきた。いまさら何を言うかと、今までいかにずさんな管理しかしていなかったかをやんわりと、しかし嫌みったらしく指摘したら、さすがに気恥ずかしそうにしていた。

とてもまともな人だ。

(2004年5月1日)

★ぴかぴかのN年生、だるだる〜

(-2004/04/30)



戻る