重層的非決定

モーニング娘。
L. Althusser
No.6
2002/02/02-2001/02/28

★年度末

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イデオロギー一般とイデオロギー的言説

下の議論の補足。

ジジェクのアルチュセール言及。

(アルチュセールは)突然、まったく思いもかけず、主体をイデオロギー的言説に引き戻し、それに限る。「科学の主体」とか「無意識の主体」といったものについて語れるのは、メタファーとしての意味においてだけだということを強調する。もちろんこの立場を受け入れたとたん、まさに「分割された主体」という観念を退けざるをえなくなる。アルチュセールの言い方からすると、分割された主体があるのではなく、主体プラス主体と言説の秩序との間に口を開く深い深淵があるだけだということになる。・・・

われわれのラカン的位置によって、ここでアルチュセールII(主体のイデオロギー的身分の立場)に対してアルチュセールI(4つの主体−の−効果の立場)に固執せざるをえない。アルチュセールの主体のイデオロギーへの限定は、理論的「後退」の分かりやすい事例である。

Slavoj Zizek The Metastases of Enjoyment

このまとめはおおよそ妥当なものと思うが、一点ジジェクが見過ごしていると思うのは、イデオロギー(一般)と(諸々の)イデオロギー的言説の差異である。イデオロギー一般はあらかじめそれに応える存在と同時に存在し、言説に先行する。そして諸々の言説を通じて/のなかで作動し、具体的な諸主体を構成する。しかし逆に言説はイデオロギーとは無関係に存在し、ただ主体が充填されるべき空白を持っている。そこに主体が充填されたとき、言説はイデオロギー的なふるまいをするのだ。

このようにイデオロギーによる主体生成における言説の役割の問題と、個別の言説がイデオロギー的であるか、科学的であるかの問題、あるいは言説のイデオロギーおよび主体に対する効果の問題は別の問題である。この二つの問題を同時に捉えようとするところにアルチュセールが決定論から逃れる鍵がある。

(2002年2月28日)

2chはイデオロギー的か

前にも触れさせていただいたダメダメ妄想日記さんに触発されて、アルチュセールとフーコーの差異についてつらつらと考える。

まずはジジェクのフーコー言及。

フーコーらの「構造主義者」とラカンは袂を分かっている。「構造主義者」にとっては、性は生来与えられたものではなく、雑多で散漫な現象を人工的に統一したブリコラージュである。一方、ラカンはこうした見方をせず、また素朴な実体論に回帰することもない。ラカンにとっては、性的な違いは、言説的で象徴的な構成物ではなく、象徴化が失敗したまさにその地点で出現するものなのである。

Slavoj Zizek The Metastases of Enjoyment

ハーバーマスに見出されるのは、壊れていないコミュニケーションの倫理であり、普遍的で透明な間主観的共同体という<理想>である。いうまでもなくこの背後にある主体概念は、超越的反省という古い主体の言語哲学的バージョンである。フーコーの場合はその普遍的倫理からの逸脱があり、その結果、いわば倫理の審美かが生じる。各主体は、いっさい普遍的規則からの支えなしに、自分なりの自己制御の様態を打ち立て、自分の内部のさまざまな権力の闘争を調和しなければならない。いわば自分自身を発明し、主体として生み出し、独自の生き方を見つけなければならない。・・・

・・・フーコーの主体概念はどちらかといえば古典的である。主体は、自己媒介と、対立する諸力の調和の力であり、自己イメージの回復を通じて「快感の使用」を制御する一方法である。この点ではハバーマスとフーコーは同じ一枚のコインの裏表である。真の断絶をもたらしたのはアルチュセール、すなわち、人間の条件を特徴付けているのはある裂け目・亀裂・誤認であるという事実の強調と、イデオロギーの可能な目的という観念こそがとりわけイデオロギー的な観念であるという彼のテーゼである。

Slavoj Zizek The Sublime Object of Ideology

ジジェクはフーコーを構造主義者というよりむしろいわゆる構築主義者としてとらえているようだ。いわゆる構築主義の枠組みでは「主体」の問題は捉えきれない。それだけにジジェクにおいては、「構築主義者」フーコーの主体概念はアプリオリな存在とみなされることになる。しかしこうした理解はあまりにも浅薄ではないのか。アルチュセールを経由してなおフーコーが単純な構築主義者であったとまとめるのは性急に過ぎる。フーコーはアルチュセールの枠組みのどこを引きつぎ、どこを修正していこうとしたのか、もう少し丁寧にフーコーとアルチュセールの差異を見ていかなくてはならない。

フーコーの議論から、アルチュセールのいくつかの概念はほぼその姿を消したし、一方で別の概念は存続し、あるいは新しい概念が現れていることを確認しよう。

姿を消したのはイデオロギーという用語である。

存続しているのは、主体、言説、プラチックという用語である。

新しく現れたのは、身体、規律訓練などの用語である。

こうした変化は、ごく一般的には見ている場所・レベルの違いからくる、というのもあながち間違いではない。アルチュセールはメタな議論を展開し、フーコーはより具体的な場所を見たのだ、と。アルチュセールが示唆したイデオロギー装置が具体的に作動する場をフーコーは見ていたのだ、と。そうなれば大文字の主体(イデオロギー)などは当然姿を消し、「呼びかけ」はより具体的な実践として、身体に働きかける規律訓練に置き換えられる。そしてその役割分担のもとでは両者の理論の本質的な枠組みはさしたる違いはない、といいうるかもしれない。

ただしそうはいっても、やはり舞台装置が変われば理論は変化する。フーコーがアルチュセールの理論からこぼれ落とし、懸命に拾おうとしたもの、それが主体のダイナミズムであったように思う。

フーコーの主体概念は、宿命論、運命論的だと批判され続けた。そして、その批判が的を得ていたかどうかはともかく、フーコーはその批判に答えようとしつづけた。その回答が「性の歴史」の後半部になるだろう。そしてその回答は、ジジェクが述べるがごとき古典的なものに回帰してしまったように思う。

問題はやはりイデオロギーと言説の、具体性のレベルとは違った、理論上の差異である。主体にかかわる両者の位置の差である。

言説はいったん主体とは切り離される。誰が誰に語ったかということは問われない。言説はどこからかやってきて、なぜか反復される。その意味ではたとえば2chは言説の典型的ともいうべき事例である。名無しの言葉の集積はすぐれて規範的な相貌を持つが、そしてそれは何らかの実効性を持つが、にもかかわらず語り手も読み手も名無しのままなのである。主体は言説の効果として現れるに過ぎない。

一方、イデオロギーは主体カテゴリーと密着している。

われわれは、主体というカテゴリーはあらゆるイデオロギーにとって構成的であると主張する。しかるに、同時かつ直ちに、われわれはあらゆるイデオロギーが具体的諸個人を主体として<構成する>ことを機能(この機能がイデオロギーを決定している)として持つ限りにおいてのみ、主体のカテゴリーはあらゆるイデオロギーにとって構成的なのだ、ということを付け加えておく。イデオロギーとは、その作用が存在する物質的諸形態の中での作用そのもののことであるならば、あらゆるイデオロギーが作用するのは、こうした二重の構成の働きの中においてである。

Louis Althusser Ideologie et appareils ideologiques d'Etat

この意味では2chはさしてイデオロギー的であるとはいえないと思う。2chよりもむしろ個人の日記サイトのほうがはるかにイデオロギー的であるというべきだ。さあ、かけがえのないあなたの思想を、生活を、誠実に赤裸々に語りなさい。

この「あなた」という存在、そして「誠実さ」は言説としては結果的に消去される。しかし重要なのはその前である。この呼びかけがなされるためには、あらかじめそれに応える存在が準備されていなければならないのだ。この「あらかじめそれに応える存在」をアルチュセールは取りおき、フーコーは消去した。その功罪を問わなければならないのである。

追記

上のイデオロギー概念はあくまでアルチュセールのそれに従っただけで、必ずしも一般的な用法ではありません。またアルチュセールのイデオロギー概念が「正しい」と私が主張しているわけでもありません。あくまでアルチュセールの理論を私なりに応用すればこんな感じになりました、という思考実験です。

(2002年2月28日)

モーオタ宣言

これまでのサイト論はサイト界を変革しようと意図してきた。しかし私はただ解釈し、御託を並べるだけである。

哲学者

ひとつの妖怪が娘。サイト界を席巻している−モーオタという妖怪が。

かつては掲示板がメインコンテンツのサイトが多く、またにぎわっていたのが、最近は掲示板への書き込みも減り、低調だという。そしてその代わりにいわゆるテキスト系あるいは日記系サイトが隆盛を極めているようだ。

この傾向には二つの理由が想定できる。

モーニング娘。は、すでに多くの人々に認知されるにいたったということ。そうしてメディアへの露出が増え、情報を探し回る必要が減じたということ。掲示板サイトの重要な役割として、最新の情報(たとえば出演情報など)を求めるというのがあったのだ。

サイト全体の傾向として、個人でサイトを持つのが常識化してきて、掲示板で書き込むよりも自分のサイトで思う存分書くようになったのだ、ということ。そしてそれを軌を一にして日記サイトの隆盛がはじまる。娘。ファン層内部、外部の要因いずれが主導してかはともかく、ファンサイトはファン同士が語り合う場であることを止め、己一人の感性、主張そして欲望を披露する孤独な場となった。

こうした状況とともに2chでは、ファンサイトの熱い幻想で覆われた妄想の変わりに、あらわな、恥知らずの、直接的な、あけすけな妄想が語られている。2chは、多くの通りすがりが、ごく少量の文を書き捨てる場だ。多くの人間が行き交うが、連続的な交流はなされない。

ここで生じていることは要はコミュニティの解体であり、己の内面を身内にではなく、神に差し出す「告白」の場と、名無しの個人がただ群れ集まる場に分解している、ということなのだ。それは前近代から近代への移行のモデルの反復である。掲示板サイトの凋落と娘。ファンの孤立化は、ともに避けられない。

モーオタは娘。ファン一般の孤立化に対してどのような関係にあるか?モーオタサイトが他の娘。サイトから区別されるのは、ただ、彼らが一方では、娘。ファンの種々の妄想の語りにおいて、そのこぎれいな幻想を剥ぎ取り、あからさまな欲望を語るということによって、他方では彼らが、マジファンとアンチとの間の闘争が激化する2chを横目に、常にモーオタの団結を図るということによってだけである。

モーオタは、自分の欲望を秘密にすることを恥とする。モーオタは、己の欲望の暴露において、世間体以外に失うものは何もない。モーオタが得るべきものは世界である。

ネットのモーオタよ、団結する?

(2002年2月26日)

モームス、その可能性の中心

リンク集でモーニング娘。と松浦亜弥が矛盾している、と書いた。松浦亜弥あるいは鈴木あみは下で書いたごとく「私」の欲望の言説的相関物として存在しているように思う。これは、表象形態の変化はあれ、天地真理などに連綿として連なるとされる女性アイドルの構造の反復に他ならない(このまとめの凡庸さは、要は私が彼女たちを余り好きではない、ということの必然である。興味のないものへの批評はえてして凡庸である)。

一方モーニング娘。はどうか。彼女たちがメジャーデビューを果たした「モーニングコーヒー」は、一見王道アイドルポップスであり、王道コスプレである。センターにいた安倍なつみは確かにその構造を体現していた。

しかし「モーニング娘。」が、当時同時期に出てきていたMissonなどといった諸々のアイドルグループと別次元で人目を引いたのは、むしろそこからはみ出さざるを得ないある種の異様さだ。いまどき時代錯誤としか思えない制服コスプレで出てきただけなら、ただのB級アイドルにすぎない。しかし「モーニング娘。」はそれにはとどまらないなにかしら異質なメッセージを発しつづけていたのだ。

その異様さを代表していたのが福田明日香である。なんでこいつがこんなところにいるの?という異様さ。つんくは「クラスに一人はいる」ような女の子集団と彼女たちを評していたようだが、それだけなら「おにゃん子クラブ」の反復・縮小再生産でしかない。むしろその構造を反復しながらも、それとはずれたメッセージ、「そこにいてはならないやつがいる」を発していたのが彼女たちなのだ。もちろんその<中心>は安倍なつみである。<それ以外>の落差を演出するという意味において。そしてそれだけに安倍なつみは空疎な存在でもあったのだ。モーニング娘。のアイデンティティを形作りながら、自らはその属性を持っていない存在として。

前期モーニング娘。は福田明日香脱退とともに終わる。そして異様さのかけらもないアイドルポップス「真夏の光線」をリリースするにいたる。安倍なつみは空疎さで勝負することを許されず、その中身で勝負を強いられる。その帰結が「そこ」=欲望の言説化装置にいるべくしている鈴木あみとの勝負であり、その無残な結果である。

(2002年2月25日)

「私の欲望はあなたである」

少し仕事が一段落ついて、いろいろ思考ができる状態になると逆に、あらぬことを考え出す。今は自宅のPC環境の整備をしようと思いつき、そちらに気分がいってしまっている。このところ物欲がなく、PC雑誌も買っていなかった。それで改めて情報集めをするとそれなりに時間を取られてしまう。

今のデスクトップは99年に買ったテレビ録画機能付きVAIO(デュアルモニタで使用)だが、これをそのままWindows2000(XP)環境にもっていきたい。ところがこの手のパソコンはOSのバージョンアップはあまりスムーズに行かないもので、何度も挑戦しては何らかの不具合があって挫折していた。それで新しいのを買う気になったのだが、そう思ってだめ元でWindows2000を入れてみて、いろいろ新しいドライバを突っ込んでみたら、見事いろんな不具合が解消されていて、あっさり移行できてしまった。

とはいえ、古いVAIOは人に譲る話になっているし、買い換える気にはなっているのだけれど、テレビ機能は今のまま、デュアルモニタもそのまま、で新しい機種で手ごろなのが案外見つからない。かつては物欲を抑えるほうが大変だったが、今はそれを維持するほうが難しい。こちらの気分の問題もあるし、いまのPC市場に「売り」がないのもある。なんにせよ買い替えのモチベーションが下がる一方で、それではならじと、今の状態の不具合を探そうと無理やり特に見たくもない番組を録画したりしている。

というのがやる気のない長い前ふりで、要はだらだらとテレビを見ていたら、「グラビアアイドルオーディション」なんてのをやっていて、カメラマンがグラビアアイドル候補にポーズ取らせてだめ出ししていたり、すでに写真集を出したアイドルが宣伝のために自ら街中で水着姿でビラ配りしたりしている映像を見ていた。

田島センセイではないが、「男の欲望」に自らを押し込めようとしているさまが、見ていてあまり愉快ではない。何が愉快でなかったのか。ひとつには気に入らぬ得意先やら上司やらに媚びへつらって仕事をしているサラリーマンを見せ付けられるのと同質の、そんなへつらいをわざわざテレビに流さなくても、という不快さがあるのかもしれないとも思った。

しかし「へつらい」自体はこういう「身につまされる」類の不快さの原因とは少し違う気がする。たとえばそれを身体化してしまっている松浦亜弥など見事に堂々としたものだ。立ち居振舞い、表情の作り、すべてをアイドルとして表現しきる松浦亜弥も、そして寒い札幌の街中で無意味に水着になって見せたかのグラビアアイドルも、英雄的なまでに「へつらい」を遂行しきっているというべきだ。むしろそうして彼女たちが表現して見せたものが*私たち*の言説的欲望の相関物となっているところに私の不快さの原因があったのかもしれない。「君の見たいのは女の子のこんな姿だろ」。「こんな女の子が好きなんでしょ」。

とここまで書いて、なるほど、「アイドルを見る」視線においては、私はいまだ疎外論にとらわれているのだと気づいた。私はそうした言説的構築物を離脱する可能性にどこかでいまだに賭けているのだろう。

(2002年2月24日)

トロトロのトロ

前に日記サイトにおけるトロツキスト系なんてものをしゃれで出したが、それをきちんと表看板にしているサイトが既にあった。どうもお見逸れしました。私もトロツキーは結構まじめにファンで、講談ででもトロツキー物語なんてあったら、「そこだ!やってまえ!」とか「ああ!!それじゃあだめなんだよ!」とかこぶしを振り回して叫びそうな、ゲームで「トロツキーの野望」なんてあったら、ぜひプレーヤーとして世界革命を目指したいような、そんな心性の持ち主である。そもそも左翼のくせにナショナリズムな奴が世の中に満ち満ちていて、里谷の銅メダルに本気で喜んでいたりする奴なんかが(オレだ)いてまったく始末が悪い。こういう能天気なやから(オレだ)を含めて、いま日記サイトには無邪気右翼ナショナリストが満ち満ちている。まじめにトロツキーを再読すべき時なのかも知れない。

そしてそんなこんなの間にワールドカップ、テロ対策なんかを口実にどさくさまぎれに、さりげなく入管法が改悪されていたりする。そういうことがニュースにすら段々ならなくなってきているのが現状なのだ。

(2002年2月22日)

空しい対話

「コミュニケーション」は常に、既に成立しているのである。そこに社会が成立しているのであれば。これは経験の問題ではなく、定義の問題である。社会とは何らかのコミュニケーションが成立している人間集団をいうのだ。

同じことを少し角度を変えて言おう。我々は社会の一員である、というとき、我々はその社会の一員としての位置を与えられ、それを承認している。このとき、我々はまさしく「社会」とコミュニケーションを行っている。我々が今ある場所にいるということ、それはコミュニケーションが成立していることと同義である。正しその承認は常に誤認である。我々が社会にある場所をしめるということは、具体的な諸属性を捨象するということと同義なのである。我々は「社会」とのコミュニケーションの結果主体になるが、この主体は空しい身振りを反復するだけの存在である。

つまり「コミュニケーションの失敗」とはコミュニケーションがうまくいかないこととして、コミュニケーションの外部に措定されるものではなく、コミュニケーション自体に必然的に伴う内容の空疎さをいうのだ。

「あなたと私は既に分かり合っている。しかし「何を」かは決して問うてはならない」

繰り返すが、こうした空疎さはコミュニケーション自体に内在している。しかしこうした必然的な「失敗」を塗り込める形で社会は表象され、そうした社会の幻想的な形態にこれまた幻想的な「真のコミュニケーション」なるものが対応することになるのだ。このようにして「失敗」はコミュニケーションの外部に置かれることになる。

「なぜ私では駄目なのか。この女はなにを欲しているのか」

上の話は実はある種の下ネタである。

(2002年2月20日)

グチグチグチグチ

私は戦後民主主義者のつもりである。

ある種の「平等主義」が戦後日本を駄目にした、という議論がある。順位、序列をつけるのを嫌うサヨク的平等主義が有能な人間(エリート)の登場を妨げたのだ。そうして競争が失われた結果、子どもはがんばる意欲、意義を見失った。こうして今の学力低下に帰結し、日本の技術的水準の危機が到来しているのだ。だから「エリート」教育をいまこそ復活させるべきだ、と。

ここには「戦後民主主義」の果たした役割についての認識の相違があるように思う。前にも書いたごとく「戦後民主主義」とは能力主義、知識中心主義であった。「学力の客観性」を主張し続けたのは日教組である。あるいは文部省の押し進めるカリキュラムの削減に反対したのも日教組である。

いま文部省が押し進めている「教育改革」とは、要は「馬鹿はがんばらなくていいから、馬鹿のままでいろ」という類のものである。金があって、やる気のあるものだけががんばりなさい、さすればあなたはエリートですよ、と。

かつて上のような考え方は「不平等」「階級格差」という点で、左翼から批判された。その批判は本質的には今でも有効であると思う。ただそれとは別に、左翼的価値観とは離れて、上のごとき進め方こそが「学力低下」を招いているように思えるのだ。「がんばらなくていい」という呼びかけがかつては不平等感をもたらした。ところが今はむしろそれが授業のレベルを落とす口実に使われているのだ。

「がんばらない」人間がいるのはかまわない(私もあまりがんばらない)。しかし授業のレベルをそこに合わせて引き下げるのはまったく馬鹿げている。分からないなら分からないなりに、がんばらないならがんばらないなりに、授業で求められる到達目標と己の距離は自分で判断しておくべきだ。その上で少しはがんばるなり、その分野は捨てるなり、戦略を立てる契機たりうるだろう。そこを教師が授業のレベルを下げてしまえばそうした契機すら失われてしまう。かれらは無戦略に「無能」にとどまる。授業内容の削減・レベル下げは、一見できないものに優しいように見えて、その実冷酷である。そしてこうした「がんばるもの」と「がんばらないもの」とのトラッキングは、社会的に効率的に見えて、その実社会の生産性を大きく下げてしまうように思えるのだ。とにかく問題だと思うのはとにかくレベルを下げておけば「落ちこぼれ」が出にくく、文句が出にくいであろう、という「教育者」側の怠慢である。今や授業が難しすぎるとけちを付けるやつの声は概して大きく、逆にレベルをあげろと「出る杭」になる声を発する人間はほとんどいないのだ。出来ないことは少しも恥じることではなく、逆に授業のレベルを決めさせる特権と化している状況がどうしても私には納得できないのだ。

という私は初等教育についてはなにも知らない。だからここでの主張はまったく的はずれかも知れない。ただ、「受験」をまじめにしなくなった高校生やその結果としての大学生の状況認識には妥当するものがあるだろうと思う。そしてさらに社会人教育の場においても。

本当は前回の続きの「コミュニケーション論」を書きたかったのだけど、どうしても我慢できないことがあってただの愚痴を書き散らしてしまった。近日中にコミュニケーション論の続きは書くつもり。どうかお見捨てなく。

(2002年2月19日)

リンネルと上着の語らい

マルクスは「真のコミュニケーション」の可能性を真正面から考察した。コミュニケーションが可能になる、というのは両者の間に何かしら共通の属性が含まれているということだ。両者は個別的・具体的な物質性の下に存在しており、そのかぎりにおいて両者はまったく別の存在である。双方が自分の言語を話すが、それらはそのままでは共訳不能である。だから真のコミュニケーションなどありえないのだ、コミュニケーションは誤解の産物なのだ、というのがアリストテレスの結論である。

しかし、それがなお可能である条件を問うたのがマルクスであった。それは個別具体的な、実践的な次元ではありえない。マルクスがその可能性を見出したのは、抽象度を上げた「理論」の世界においてである。そして同時に現実におけるその必然的な失敗も同じ「理論」の中で説明されねばならないのだ。そこから出発しない限り、「真のコミュニケーション」は「いつか到来する」か、「永遠に到来しない」か、「局所的に成立している」か、いずれにせよ、経験的・帰納的無限性の中に投げ込まれてしまうだけである。「可能性」を将来の時間の中に解消したり、「局所性」を個別性に還元してしまったりするのは、実は何も述べていないに等しいのだ。

「なぜ私では駄目なのか(この女はなにを欲しているのか)」。いくら問い詰めたところで埒はあかない。

(2002年2月17日)

コミュニケーションのエトセトラ

なにが間違っているといって、「真のコミュニケーション」は経験的・実際的なコミュニケーションの中にありのまま実現されうるし、またそうでなければ意味がない、とする考え方である。googleで偶然的にヒットしたサイトを流し見ることによって生じる「コミュニケーション」とメールで緊密に連絡を取り合い、互いの思想を語り合ったりする「コミュニケーション」と、直接会ってなされる「コミュニケーション」。もしいまの順序で「真のコミュニケーション」に近づくのだと主張する人がいれば、それはその人の好みか、思い込みだとしか言いようがない。個別の価値判断はいろいろ出来そうに思えるだろうが、それをやろうとするとおのおの「個別の事情」とやらが山のように出てきて、結局他人のやることに口をはさむな、という「価値相対主義」に陥るよりない。「いまどきの若者の携帯電話の会話は無価値だ」というおっさん、おばはんはいったいかれらの会話のなにを知っているというのだ?メールは失礼だ、手書きの手紙こそが「真のコミュニケーションだ」。電話は失礼だ、直接会って話をするべきだ、そういう反動主義的でしかない言説をいまだにバージョンを変えて撒き散らしている奴がいるかと思うと正直うんざりする。経験的に存在しているさまざまなコミュニケーションはいずれも「現実」に存在するがゆえにさまざまに攪乱性・偶然性を帯びているのであって、レベルとしては等価なはずなのだ。そしてその価値の多寡はおのおのの個別事情の中で評価されるよりどうしようもないものなのだ。「真のコミュニケーション」とはそうした個別事情にまとわり付かれた諸々のコミュニケーションの品評会の一等賞作品ではない。そんな品評会を開けるのはそれこそ「神」でしかない。そうではなくて、われわれは常にそうした個別的な攪乱性を経験することで、上手くいったり上手くいかなかったり、そうした事例を知ることで、こうした残余の集積として、「真のコミュニケーション」の存在の徴候を逆説的に知るだけなのだ。

(2002年2月16日)

野蛮な風習

過去のあらゆる歴史においてそうであったのと同じように、勝利者として登場するものは誰でも、敗者の累々たる屍体を今日の支配者たちが踏みしだいてゆく凱旋行列に加わっている。慣例によって、この凱旋行列では、戦利品がうやうやしく運ばれることになっている。戦利品は、ふつう・・・

Walter Benjamin Uber den Begriff der Geschichte
(2002年2月14日)

サイト運営の精神

昨日の続きだが、「可能性」というのを未来に対して開かれているものと考えるのも少し違っているような気がする。たとえばいつか「真のコミュニケーションが到来するのだ」というのは終末論だ。そうではなくて可能性は現在の中にある。私は、いま、「真の読者」と触れ合っているかもしれない。あるいはまったく蚊帳の外かもしれない。そのことを私は直接知ることは出来ない。

ふむ。ガルヴァンだな。しかしカルヴァンの神の声は決して聞けないものであっても、人はその声の痕跡を聞こうとしつづけた。その聞きえぬ神の声を聞かんとする「精神」の中に神は宿ったのだ。同様に。真の読者の存在の痕跡を追跡すること。わずかな「手がかり」を頼り、期待し、裏切られ、そうした一連の行為としてコミュニケーションは存在している。

「音信が途絶えている」というのも、コミュニケーションの一形態だ。

さるサイト経由で山形浩生のネットコミュニケーション論?を読んだけど、この人***(伏字)ですか?というか、いまだにべたべたな疎外論の枠組みに生きてはるんやろねえ。

(2002年2月13日)

宇宙と交信中

東浩紀って結構ナイーブなことを言うなあ。

私とあなたは絶対に分かりえない。したがって、私は私の内面を、あなたはあなたの内面を見つめることしかできない。しかし、にもかかわらず、私の内面に見えるものはひとつではない。つまり神はひとつではない。私のなかには、たくさんの「神々」が、コミュニケーションのモジュール(『未来にキスを』で言う「属性」)が詰め込まれていて、あなたのなかにもまたたくさんのモジュールがあり、それらが勝手に衝突しあうことで、「私」と「あなた」のコミュニケーションは成立している。

多神教だな。デリダといえばデリダなんだろうけれど、でもこれでは「コミュニケーションの可能性」については何も新たに語ったことにはなっていないだろう。だってこれって「現実」の描写でしょ?商品の交換の「可能性」について話しているときに、「商品にはいろいろな属性があって、そのときの必要性に照らして話がつけば交換される」って議論でしかない。そりゃ、現に商品は交換されているし、コミュニケーションだって成立しているわけだ。で、それは、現実には偶発的なものなわけだ。でも「可能性」をあえて問うってそういうことではないんだな。その中になお「必然的なるもの」があるのか、ないのか、それがコミュニケーションの「可能性」を問うってことなのだ。え?お前の問は形而上学だって?そりゃそうでしょう。「コミュニケーションの可能性」なんて問自体が形而上学なんだから。

(2002年2月12日)

リンク集作成

懸案のリンク集を作成。よろしければINDEXページからご覧あれ。

欲を言えばもう少しリンク先を増やしたい。ただ社会学的関心から「観察」しているサイトへのリンクはここには貼らないことにした。というので、「資料集」ではなく「参考文献」のつもり。「資料集」も作りたいのだが、そういうサイトはログが流れたり、一度UPした文章を削除してしまったりと安定しないことが多いので難しい。リンクフリーとか謳いながら、ごちゃごちゃ制約つけていたりするところもある。今回リンクを貼らせていただいたサイトはどれも「サイト運営」という点でも共感できるポリシーのサイトばかり。内容はモームス系あり、PC系あり、学術系ありと、リンク数が少ないわりに多彩。

(2002年2月11日)

私は戦後民主主義者です

前に非アカデミズム系のEXCEL講習、全然期待もしていない、と書いたが、実は期待をはるかに越えたものだった。最初はだらだらやっていたのだが、段々調子が上がり、大学とは力点は違えど、EXCEL自体の操作ということでは大学での講義をずっと上回るレベルにまで達する。かけている時間が違うからだが、考えてみれば大卒の社会人、大学生よりやる気、能力があってもまったく不思議ではない。そうなれば私もがんがん課題を作成し、そのやる気に応えたいと思う。それは大変だが、しかしとても楽しい作業だ。ただこうした志向は他方で「着いてこられていない人」を軽視しかねないことも確かだ。

一方で遅れがちな人のほうに焦点を当てる講義というのを志向する講師もいる。課題は少なめに、一つ一つの操作をゆっくり丁寧に教えていく。言われたとおりにやれば全員が一つの同じ作業を終えられる。ただしこちらは今度は「わかっている人」には退屈な時間になる。

私は「戦後民主主義」の価値を大切にしたいと思っている、そういう立場の人間である。教育の場における自由競争導入、という近年の一本調子な議論にはうんざりしている。さて、私の実践の場での志向は平等主義に反し、自由競争原理に則ったものなのであろうか。私の「理念」は「実践」によって裏切られているのだろうか。そうかもしれない、とは思う。少なくとも私の実践の場での志向を、例えば義務教育で突き進めて行けば必ずそうなるだろう。しかし、いささか手前味噌だが、ならばゆっくり、手取り足取り、丁寧に教えるのが「平等」性を実現することになるのか、というとまったくそうは思えないのだ。講義の進度を遅らせる。そうすれば最終的に到達できるレベルは限られたものになる。その講義だけで得られるものが足りない、となれば他の場が必要になる。それは受講者各自の自己責任で、ということになり、これこそ今盛んに論議されている「教育の自由化」の流れである。むしろいったん到達すべきレベルを提示し、そこに着いていけないものがいればそのフォローをどうするか、と話が進むのが「平等」の精神には適っているというべきだろう。逆に、講義のレベルを低くして「全員達成」を目指すというのは、マクロにみれば公教育の役割縮小という「自由競争」主義者の主張に良くかなっていてそれはそれで一貫しているのだが、個別の教師でそれを志向するのは単にサボりなだけである。制度としての役割縮小はひとつの理念たりうるが、己個人の役割縮小は自分が楽なだけである。大学でもいるのだが、学生に媚びてかどうかは知らぬが、勝手にカリキュラムを縮小して必要なことを教えない教師は、理念うんぬんの問題以前で、単に怠惰で迷惑な存在なのだ。

よく「誤解」されているようだが、戦後民主主義的教師集団(少し誉めすぎだが)、日教組の教師たちは、反能力主義者ではない。文部省が推し進めるカリキュラム削減にかれらは警鐘を鳴らしつづけているのだ。だからよく戦後民主主義教育を批判する人が例に出す「悪平等」主義、運動会のかけっこで全員を一位にするなどといったレベルの低いものに全員を合わせれば事足れりというやり方は、たぶんに誇張されたものであるし、少なくとも戦後民主主義とはズレたところにあるものなのだ。

蛇足な補注

上の文は、いわゆる「困難校」の教育が「レベルを低くして、『全員達成』を目指す」たぐいの教育だ、といっているのではまったくない。逆である。「困難校」における教育こそ、教師が提示したい(そして社会的に要請される)レベルと、実現可能なレベルとの差異に最も苦しむものなのである。困難校で教える教師には「レベルを低くする」余裕など最初から存在していない。そんな贅沢な余裕を持っているのは例えば高等教育機関の教師の方である。

(2002年2月10日)

政治的に中立なサイト

アクセスががんがん落ちている。だいたい休み時にはアクセスは少なくなるようだ。大学からのアクセスが多いので、大学が休みになるとどうにも仕方がない。自宅からわざわざアクセスする類のサイトではないのだろう。

事実このページは、とりわけ今は人畜無害の駄文を書き散らしているが、トップページは一応学術サイトの体裁をとっている。仮にいわゆる日記系ページから来た人がいれば、「なんだかよくわからない」という印象を持たれても仕方がない。さらにただ敷居が高げに見えるだけならともかく、政治的にナイーブな「一般人」が見に来れば、多少「引く」ところもあるかも知れない。実際問題、政治的に中立なサイトでないことは確かで、「一般人」にそうそう宣伝しづらい、という感覚も私自身多少はあるのだ。

非アカデミズムの仕事で、「インターネット」について触れることもある。その時ある講師が自分のサイトを紹介していた。ドメインもきちんと取得してある結構本格的なサイトだ。内容も至極「健全」で、誰に見せても明らかに問題がない。確かに無難なサイトとして紹介するにはうってつけかも知れない。ただちょっと意地悪くソースを見たらあまりにも汚い。WordのHTML作成機能を使っているようで、無意味なフォント指定などの嵐で見るに耐えない。というので、では「何だ、こんなサイト見せるぐらいなら私のサイトのほうが、」というのが冗談にしかならない私の感覚は、まだ「普通」の部分を残しているということだろうか。

でもなんだかんだ「サヨク」って奥ゆかしいよね。他のサイトも「自分は政治的に中立ではありませーん」というオーラをわざわざ漂わせているものだ。「ウヨク」はその点無邪気で馬鹿だ。

(2002年2月8日)

田中元外相の心境

本当は8日(午前3時)なのだが、まだ寝ていないので、私の中では7日ということにする。というか、本当は明日朝早いので、もうとっくに寝ていたいのだが、無責任なやつと仕事をくんだために寝られない。「その世界」ではベテランらしいが、単に無責任だ。(おそらく)悪意すら無く、己の責任を果たさず、人によけいな負担を押しつけて平然としているようなやつと一緒にくみたくはない。というので、もう年貢の納め時かも知れない。懸案のお仕事、やめる方に気持ちがますます傾く。ただ最後に屁をこくかどうか、決めかねている。立つ鳥跡を濁さず、と行くべきか。それとも膿は私なりに掃除を試みるか。まあやめる人間がなにを言ってもなにも変わらないだろうが。

(2002年2月7日)

たとえ「疎外」されようとも

「文中リンク」という言葉がある。リンク集などではなく、文章中に註のような形でリンクを張ることだ。もちろん書き手の主張の中で参照を求めているのだから、必ずしも好意的とは限らない。

それは大変神経を使わなくてはいけないものらしい。他人に言及する以上は、相当の覚悟を要するものらしい。もちろん一般論としてはその通りだと思う。でもリンクを張られた側が、それが好意的な文脈ではなかったなどと言ってごねるのは見苦しい。それこそ文章を他者にさらけ出す最低限の覚悟の問題である。論文ならば一度公開すればどのように言及され、さらされようと、そして「誤読」されようとそんなのは当たり前である。小説でもエッセイでもそうであろう。ただネット上の文章だけが「無断リンク禁止」などと甘ったれたことを言って、過保護に守られているのが可笑しい。その程度の覚悟で文章を書いてくれるな。

(2002年2月5日)

悲哀とは

このところろくなことがない。そしてそうであればこそ、それなりに思うこと、言いたいこと、あるいは私がすべきことというのがあるはずなのだが、一番の問題はそういう気分にすらならないことだ。「ろくなことがない」という状況に対して、理不尽さとか、あるいは己の不甲斐なさだとか、そういう感覚を持てれば救いがある。でもそんな感情すら持たず、ただただ「めんどくさ」というすさんだ心境になるだけなのだ。もういつのことかすらおぼろげになっているが、「他者」の「理不尽さ」とその裏返しの己の「不甲斐なさ」のような感情を持つことをあえて無くしてしまった時期があったように思う。それでもその後も思い出したように、激しい感情を沸きだたせることはあったのだが、今そのような感情をもてる気がしない。最も哀しむべきは悲しみさえ感じなくなったことだ。

今現在、笑うべきか、一番自分の中に残る「激しいもの」を出している場がこの日記である。それでも最近はくそのような文章を書きつづるようになってきている。文章に力がない。ただ生のままの己の心情とやらを無意味に吐き出しているだけである。

いま一度理論の世界に沈殿すべきなのかもしれない。文章の力を取り戻すにはそれしかない、ということは分かっている。ただそれをしてしまうとある収入源がたたれてしまう。それをする勇気がもてない。腰が定まらない。

(2002年2月5日)

たまには優雅に・・・

このサイト、アクセス数をはじめた日から今までの日数で割ったら、一日7アクセス足らず。というので、2ちゃんねるW2Cの「一日6hitだけれどアクセス解析を入れました」スレを読んでいる。2ちゃんねるというと便所の落書き呼ばわりされたりして、なにやらネットの恥部扱いだが、実際にはそんなことは全然なくて、結構面白いのである。すくなくともここにURLを貼る気すらしない1chTVとかいう西なんとか君の作った掲示板サイトとは比較にならない。もちろん書き捨てありの掲示板だからあほな奴もいる。差別ネタで煽って見せたりする奴もいる。でもそういうのは相手もしてもらえずあっさり放置されるものなのだ。アナーキーでもなんでもなく、良くも悪くも常識が通用する。ここはここなりに社会の体をなしているのである。

それで先ほどのスレだが、ここはとくにまったりした雰囲気で面白い。何とかアクセス数増やせないものか、とアクセス少ないもの同士で話し合っていて、全然話は進展しないのだけれど、そんなことは気にしてなくて、なんだかんだ楽しそうに雑談している。今は6hitサイトのバナーを作ろうと盛り上がっている。もともとアクセス少ないのだから、なかなか目に付かない定めなのだが、もし見かけたら連帯意識をもとう、なんて言ってて馬鹿馬鹿しくていいのだ。

同様の趣旨のスレは15hitから30hit、100hitなど各種あるのだが、ここのまったり感とは比較にならない。ちょっとしたブレイクタイム。ゆったりした気分になれる。私の今一番のひそかなお気に入り。

(2002年2月4日)

気まぐれなキューピッド

「出してもいない手紙が届く」。「不能」の男の妻が子どもを宿す。送った手紙が届かないのではなく、不可能な手紙が届く。こちらのほうが物質の偶然性を論じる上では、適切なように思われる。あるはずの手紙の<不在>ではなく、存在する根拠、必然性を持たぬただの物質としての手紙。それが「登場人物」を巻き込み、繋ぎ、一つの必然を上演Darstellungする。

「死者からの手紙」を題材にとった推理小説はしばしばこのプロットを採る。その場合は現実は既に存在していて、しかし抑圧されている。その現実を表に出し、縫合し、一つの物語を形作っていくのが「死者からの手紙」である。しかし推理小説の場合は、「死者からの手紙」を存在せしめる必然性が背後に隠れていて、その隠れているものはもとの物語をあらかじめ知っているのであって、つまり「手紙」は既存の物語を表象(再現前)representするにすぎない。ここではいまだ偶然性は見せかけにすぎず、最終的に回帰すべき「現実」が厳然と存在している。

そうした「解決編」を取っ払ってしまおう。手紙が物語とは無関係に、とにかく存在する。それでも手紙が存在する以上、それは「登場人物」を巻き込み、繋げ、ある物語を形作る。物語とは既に存在するものではなく、偶然的な物質群の偶然的な集積ということになる。そしてそれ以外には何らの「現実」も存在しないのだ、というのがアルチュセールの唯物論である。われわれの前に立ちはだかる巨大な運命と見える「現実」も、攪乱の可能性を秘めた「現実」も、ここに存する。「手紙」が偶然的な存在であることを暴露しても何の救いもないが、そこにしか可能性はない。あるいは、ユートピア的な共同性もここから紡ぎだされよう。

メールが途絶えている。せめてウィルスメールででも届かないものか。いまどきの偶然的メール送信システム。

(2002年2月3日)

藁か、神の導きか

自分では長くサイト運営をやっているつもりだが、考えてみれば「日記」ページを毎日更新するようになってまだ2ヶ月半にしかならない。それ以外のページはネットで公開する為に書いたわけではないものばかりで、いまだにネットに文章を公開するという構えが出来上がっていない。読者をどの程度意識し、どのような読者を想定するか、などがずいぶんぶれている。私の体調や気分の問題もある。軽めのネタを振るときは、書いたときはまずまずかな、と思ったりするが、あとで読み返すと少し嫌気がさす。微妙に読者に媚びているのを感じる。逆に、自分で会心と思うのは、自分以外に受ける人はまずいるまい、という類のものである。さらに私が一番書きたい文章は、ほとんどの読者がそれを読んでも全然ぴんとこないが、しかし理由なき不快感・不安感を掻き立てられる、そして一部の人が「やりやがったな」とにやりと笑ってくれる、そんな文章である。ここまでくれば「自己満足」の域は完全に突き抜ける。もちろん自分ではその境地には達しようもないので、引用でごまかしている。

普段からこのような嗜好でいるので、まともに付き合える相手は限定されてしまっている。授業でも、とても口に出せない冗談ばかりが頭に浮かぶ。義務教育はまだしも大学は自由になにを言っても良いと想像していたが、実際にはそうではなかった。学生は想像していたよりナイーヴだし、大学という制度が想像していたよりリジッドなものであった。教師が学生を不快がらせてはやっぱりまずいのである。当然である。

ネットでは、リンクを張ってくださる方がぽつぽつといらっしゃる。とても(文字通り)有り難い気がする。実生活で失ったものが少し埋められる気がする。とてもささやかな救い。

(2002年2月2日)

★惰性の一月

(-2002/01/31)



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