重層的非決定

モーニング娘。
L. Althusser
No.7
2002/03/01-2001/03/31

★年度始め

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わが「青春」

三月も末。年度の総決算で、私も今年度の仕事がようやく終わる。もういい加減来年度(って明日からだ)のことをいろいろ考えなければならない。感傷などに浸っているひまはない、のだが、懐かしい人をテレビで見かけた。関西テレビで11年の長寿番組だった「人間マンダラ」という番組が終わる、ということで、その初代アシスタントだった松本典子が久々にテレビに出てきていたのだ。少しあごあたりに肉がついてふっくらしていたけど、相変わらずきれいだった。スタジオでもみなから変わっていない、といわれていた。が、やはりなんというか、あたりまえの話だが「年をとった」と感じざるを得なかった。目に、なんとなく力がない。好奇心に満ちた、楽しげな、「何か」を見て取ろうという意志のようなものがなくなっていた。そういえば元モーニング娘。の市井を久しぶりに見たときに感じたのも同じ印象だった。「プロ」から離れる、というのはそういうことなのだ、と思う。今の私に、あの目の力はあるだろうか、などと思ったりもする。

なつかしのシーンで流れたのはこんな会話。

「え?沖縄?僕も行ってたよ。どこ?」

「ドコって・・・沖縄」

「ちがうよ、泊まったんはどこや、って」

「泊まったのは、ホテル」

ついでに思い出した彼女のデビュー当時のインタビューでの逸話。

「化粧はどこからしますか?」

「顔」

(2002年3月31日)

汚名回復

偶然同業の去る知り合いのサイトを発見。知り合いといってもここ数年ぐらいあっていない間にいつのまにか関東圏にいるらしくて、本業は半休業状態だったようで、副業に精を出しているようで、とそのサイトの日記を面白く読む。知り合いなんだから、日記を読んだんだからメールでも出せばいいのだが、なんとなく出さない。サイトをやっている立場からすれば、知り合いで見ている方は一言声をかけてくれれば、と思うけれど、みる立場になるとただ観察するだけのほうが気楽で、いい。そんなものかもしれない。

さて、そのサイト、大変面白く読んだのだけれど、ここの日記とはずいぶん趣が違っていて、まあいわゆる日記で、でもそれが楽に読めていい。その人の近況なんかもしっかりわかる。別にそんなこと知りたくもない、といってしまえばそうなのだけれど、他人のあたりまえの生活ぶりやら、感性やらを知るのも、案外面白いものだ、と思う。というか、普通の日記サイトというのはそういうものなのかもしれない。知り合いであるとかにかかわらず、そのサイトの運営者の人となりなどを読み手はそれなりに想像したりするがゆえに、共感したりするのではないだろうか、などと考えたりする。

などとわざわざ書くのは、要するにここの日記はそういう感じではないだろうな、ということだ。「生活者」としての感性といったものがたまにしか出ていない気がする。私を知らない人がこの日記を見て、何らかの人物像を描けるのだろうか。あるいは描くとして、どんな人物像なのだろうか。

あまり読者受けは考えていないと言いつつ、実はそれなりに気にしているのである。加護だ、なっちだって完全にロリコンか?とおもわれているんじゃないか、とか。というので、軌道修正しておくと、「女性」としての好みは宇多田ヒカルとか島谷ひとみとか、今はその辺です。その辺ってどの辺だ?というので軌道修正になりましたでしょうか???

(2002年3月29日)

近況

体力の減退を感じる。お仕事をした日は全く体力的に余裕がない。というわけで、更新できてません。明日でとりあえず終わるのでそれ以降にでも。

(2002年3月28日)

辻本さんの件について一言

私も名義貸しやりましたが、何か?

というか、大学関係者は大体やってるね。特に企業から金の出ない文系は。

(2002年3月26日)

反帝・反スタ

なんだかフランスではトロツキスト政党が台頭してきているらしい。

その主張は「大企業への増税」だとか「労働者による企業支配」だとかなんだそうな。それのどこがトロツキストなんだろう。なんだかただのひどく古典的な左翼政党でしかない、と思えるのだが。もっとも要約したやつが駄目なのか、この政党自体がそういう主張しかしていないのかが分からないのでなんともいえない。

確かにトロツキーは当時のボルシェビキの中心人物だったのだし、当然この手の主張をしていたのは明らかで、だったらかれらがトロツキストを名乗ってもよいだろうとも言えるだろうが、でもそれならかれらはスターリニストを名乗っても同じわけだ。トロツキストとはトロツキーの言っていたことを反復する存在ではない。そうではなくて、当時の彼の立場においてレーニンやスターリンと彼を隔てていたその差異のみに彼自身の中のトロツキー性というのが存在しているというべきであって、そこにこそトロツキストの意味があるというものだ。

ちなみにいまやスターリンなど既に悪者ですらないだろうが、しかしプチスターリニストというのは今なお社会のここそこに存在しているんだな。というか、何らかの正義を掲げるものはそのわなに陥る危険性が常に付きまとっている、というべきだ。もちろん私も、である。

(2002年3月25日)

可能性としての異議申し立て

このサイトにはトップページにメール送信フォームを置いている。このフォームは匿名メールが送れるので、どんどん感想などを送っていただきたいのだが、昨日それで質問メールをいただいた。感想メールは読んでおけばいいが、質問には答えたい。ところがメールアドレスがわからない。質問ならアドレスを書くか、掲示板とかでしてくださればいいのに。まあ、回答の必要な質問というよりは感想を質問形式で下さった、というだけのことなのだろうけれど。

メールくださったのはたぶん同業の方で、研究を続ける、ということの意義がよく分からなくなってこないか、という趣旨。はい。分かりません。それでも何か発言をしつづけることに可能性としての意味はあるだろう、あるいはそこにしか可能性はないだろう、と思っています。だからといって具体的な政策提言をするかどうかはまた別問題で、政策提言はそれはそれ独自の思考形態を必然的に持っているし、それはどうしても「YesかNoか」的な二項対立的思考になるだろうし、それとは別の言説を世に出したい、というのはある。二項対立的思考を一概にダメだとは言えないけれど、それだけになってしまった帰結がたとえば今のアメリカだろうし、日本だってもちろんそういう思考形態が基本的にはベースになっているわけで、それだけではまずいな、と。「安全か、自由か」「遺族の気持ちか、犯罪者の命か」というように、この思考を推し進めていったら、結構きな臭い話にもなるわけで。

まあ、自己満足といってしまえば、自己満足かも知れん。今は、そして常に、迷走しつづけているのは確かだが、しかしまたそれしかさしあたり道が見えないので。

さしあたり、今わたしが「理論」の力を必要としているテーマは、たとえばセクハラとか、あるいは従軍慰安婦とか、事実性の認識を巡って真っ向から対立する言い分があったとして、しかもその言い分のいずれが正しいかを完全に証明することが難しいとした場合、いかなる立場に立つべきか、というような問題。下手をすれば、「分からないのだから、どっちもどっち」みたいな「解決」をとりかねないわけで、セクハラがらみでそういう事例を最近目の当たりにして、上のような「解決」の効果も私なりに(改めて)実感して、そこをどう突破すべきか、と。かつては「弱者」の立場性を前面に押し出すという方法がとられていたのだけれど、今そこがすごく胡散臭くとられるようになっているので、もう一度そのあたりのロジックを鍛えなおさなければならない、と思うのだ。

(2002年3月24日)

資源の無駄遣い

二日もあいてしまった。

お仕事が忙しかったというわけではなくて、単にPC弄りに興じていた、というだけのことです。中古の1GHzのPentium!!!のシステムのパーツが手に入ったので、部品を継ぎ足してもう一台。その前に新調したのも中古のPentium!!!1GHzマシンだったので、なんだか、という感じだが、前のは弄れないSony製。今度のは「自作」なので、弄り放題だ、と。

新しく買ったのは60GBのHDDとキーボード・マウス・モニタの切り替え器。もらったパーツにはFDDはなかったのだけれど、94年に買って今はばらばらになったショップブランドPCのFDDを流用。サウンドカードがないので音はならない。買ってもスピーカの置き場所がないので、多分買わない。

さて、このPC何に使おうか、というので、最初はLinuxを入れるつもりだった。Linux入れて何をやるかというと、sambaいれてファイルサーバー。あ、ここ、笑うところね(注)。「それだったら最初からWindowsでいいやん」。

まあ、只だし、とか理由付けは適当にするとして、いそいそとLinuxのインストールCDを入れて立ち上げようとするが、ブートできない。いろいろディストリビューション変えてやってみるが、全部NG。どうも外付けのIDEカードを使っているのが問題なようで、そのカード、Windows用のドライバはあるがLinux用がないのでインストールしようがない。はぁ。

というわけで、Pentium!!!1GHz、メモリ640MB、HDD60GB、MatroxG400maxのマシンの使い出がないんですけど。

Sambaを笑っているのではないので、念のため。Sambaにしか使わないというのが、まあ、何だな、と。

(2002年3月24日)

#DIV/0!

このページの名前、「重層的非決定」というのは前から書いているようにいろいろな事象を同時に同じレベルで思考せよ、という指示に従ったものだ。モーニング娘。もアルチュセールも同じ文体で論じること。看板どおりにはいっていないが、それでもまずまずやれているのではないか、とは思っている。しかし実生活で同じ態度を貫くのはやはり難しい。

明日からパソコン教室のお仕事が入っていて、そちらに頭を持っていかなければならないのだけれど、一方このページに書こうと昨日あたりから思っているのは「マルクスとラカンについて」みたいなテーマで、とても同時になんて考えられない。大学の非常勤も一日でゼミと情報処理をやらなければならなかったりするので、いいかげんそういうことのできるマルチタスク人間にならなければならないのだけれど。

「えーと、EXCELにはオートフィルという機能がありましてぇ、"5月"と書いておいてマウスでドラッグすれば次のセルには自動的に"6月"、"7月"と入力されるんですねえ。ほかにもいろいろ応用できましてぇ、"Monday"と書けば次は"Tuesday"と入力されたりぃ、"現実界"と書けば自動的に"想像界"と入力されたり、しません」

(2002年3月21日)

それでも幻想としか戦えない

ジジェクからすれば「欲望」というのは現実界に位置付けられることになるだろう。そして人々はその現実界との対峙を回避すべく、そこにさまざまな空想を張り付かせるのだ、と。ここでは現実界がある特権的な位置、<不在の原因>という場所を占めることになる。しかしここのロジックは結構きわどくて、「不在」といいながらその存在を実感・感性レベルで読者に納得させようとする。ほら、ハードコアポルノを見たあと、なんともいえないあの感覚に陥るだろう。こうして現実界との出会いは、実にあっさりと果たされてしまうことになる。要するに恋愛ものにおいてインターコースの場面を赤裸々に見せ付ければ、そうした映画の「うまくいかなさ」の中に現実界の影が見える、ということだ。

マルクス主義では(もっぱらアルチュセールを想定しているが、マルクス本人のロジックからしても)、欲望は想像界に位置付けられるべきものだ。他者(異性)との函数によって、具体的な主体が析出される場において欲望ははじめて位置付けられるのであって、それ以前には欲望などというものは全く存在していない、ということである。しかしまた、「欲望」の呼びかけによって人は「性」を持つ。こうして象徴界(セックス)と想像界(欲望・セクシュアリティ)は相互補完的な構造を形成することになる。

それでは現実界(あるいは物質的なるもの)はというと、それは感性的な空間ではなくて、すぐれてロジカルな(知的な)空間として位置付けられるのである。ジジェク好きの人からすれば驚天動地かもしれないが、ジェンダー化作用こそが現実界の住人なのである。

そしてそのロジックはわれわれの感性的な主観(認識)とは無関係に存在している。たとえば私たちは資本制社会において「商品の等価交換」原則にのっとって経済行為を日常的に行うが、その際の商品同士の対話を商品所有者たちは知らずして、その手続きを行うし、逆にそのことを「知り」、批判する空想的社会主義者たちも、そのロジックからは少しも逃れられていないのである。田嶋先生だってしっかりビートたけしの「奥さん」役をやっているわけだ。現実界が今ある姿であるのは、「誤認」の存在を何ら前提とはしていない。ただ「誤認」はわれわれと現実界とのある関係を表象するのみである。

かつて或るけなげな男が、人間が水におぼれるのは彼らが重力の思想に取り付かれているからこそだ、と思い込んだ。重力などというものは迷信的な表象だ、宗教的な表象だ、と言明するといった仕方で重力の表象を人々が頭からたたき出しさえすれば、人間は一切の水難をまぬかれるはずだ。彼は一生涯をかけて重力という幻想と戦った

(2002年3月20日)

加護萌え

やる気のないときは無駄にPCを弄くる。WindowsXPを入れるといろいろみばを変えたくなって、というかXPの取り柄といえばそれぐらいしかなかったりするので、せっせといろいろなテーマを探し出してくる。デフォルトはAqua調にしているけれど、飽きてくるといろいろ変えたくなってくるのだ。そういうテーマ集みたいなサイトはもちろんアメリカのサイトが多いのだが、日本だけでやっているサイトもある。LOVE・Themeというサイトがそのひとつ。基本的には2ちゃんねる発で、スキンの変え方とかをいろいろ情報交換していく中で生まれたサイトだ。

で、その中の人気テーマのひとつに「ミニモニ。Visual Style」というのがあって、見てもらったら分かるけれど、壁紙にドカンと加護の写真が載っていて、全体の色使いもオレンジ調で派手で、なかなかよくできているのだ。本当によくできているので、しばらく常用してみようかと思ったほどだ。でもXP入れているのはノートだし、結構持ち歩くこともあるし、人に画面を見られることもあるし、というのでやめた。そういうのを見て、引かずにしゃれで笑ってくれる知り合いが最近いないのだ。

え?本当に「しゃれ」なのかって?まあ、その辺は、ごにょごにょ。

(2002年3月19日)

不調

不調だ。いいかげん一人でものを考えるのに飽きてきたかもしれない。

もろもろあって直接の付き合いというものが極小化していて、ここのところ一週間に一回しか研究会(読書会)に出ていない。毎週でなくても、月一とかの会でもあればいいのだが、あまり当てがない。

ネットで同趣向のサイトを読んで、ずいぶん気晴らしというか励みというかになった。巡回先も増えた。でもやはり自分が書いたものに対するレスなんてほとんどないし、こちらも読みっぱなしだ。それはそれでいいのだが、少し飽きてきた。ほかのサイトも、私の好意的巡回先・それ以外も含めて、いま少し小休止モードに入っている気が、なんとなくする。テキストサイト自体が飽和状態になりつつある、というのもあるだろうし、思想系でも一時盛り上がった(私は最初から盛り上がってないけど)東浩紀が少し飽きられつつあるというのもあるかもしれない。個人的にはジジェクには楽しませてもらったが、ジジェクもひとつ読めば後は割と同じことの繰り返しだし。というので、なんとなくぽっかり穴があいた感じなんだな。

もう一度最初に戻って、私は人に何を伝えたいのだろう、というところから考えなければならないのかもしれない。そういえばもうすぐ看護学校が始まるし、看護学生に伝えうるレベルでものを考え、伝えなければならない。「言説」がどうとか、「現実界」がなんだとか、そんなのではなくて、もっと具体的に、社会の何に異議申し立てをしたいのか。何かあるはずなのだが、今見失っている気がする。

(2002年3月18日)

ファンタズムとしてのムネオ

鈴木宗男の「声」が「恫喝」になり、さらにそれに人々(外務省)が従うべき「意味」を持ったのは、彼の存在が「国家」という文脈のなかで位置付けられ、キルティングされていたからである。もちろん他方で鈴木宗男は最初から下卑た、無教養な、強欲な存在であった。そして支持者はまさに彼のそうした存在に象徴的に同一化したのである。彼は「国家」に奉仕し、同時に私利私欲に走るという矛盾した存在として、そのまま同一化の対象として支持されたのである。

もちろんこの「矛盾」は危うい開口部を孕んでいる。その開口部は以下の問いで示される。「汝は我にかくのごとく語る。だがそれによって汝は何を欲するか」。そしてこの問いに対する解答の場所には「我」の「欲望」が位置付けられるのである。この問いが発せられるや、「我」はその解答への直面を回避するべく、その場所に別の存在を埋めようとするだろう。そうしてその別の存在として<他者>の欠如・矛盾のシニフィアンとしての「鈴木宗男」があてがわれたのである。こうして「私」と「公」の調停の不可能性、社会の不可能性は「我」においては回避される。今や鈴木宗男が「私」と「公」の矛盾、社会の不可能性の「原因」となったのである。

「鈴木宗男」は社会統合主義者にとっては、己自身の不可能性を計算に入れ、表象するための手段になるのである。したがって政治家の汚職が話題になるたびによく言われる「第二第三の鈴木宗男がこれからも出てくるであろう」という警告は「正しい」のである。社会が本質的に不可能である限り、その「原因」は常に備給されなければならないからである。さらにいえば鈴木宗男を真に敵対視し、激昂しているのは統合された社会、国家を希求する「右翼」の側であるのもまた当然である。なんといっても彼は私利私欲に走ってロシアに国を売った「売国奴」「国賊」なのだ。

(2002年3月16日)

妄想娘。

モーニング娘。の妹分とやらにまた新しい藤本美貴というのが出てきてて、うたばんとMusic Station、立て続けに見た。まあ平凡で、それなりに健康的で、ボーイッシュで、松浦亜弥みたいに灰汁がなくて、多分売れないだろう。ちなみにうたばんの石橋は「松浦よりはいい感じ」と実に微妙な、でも共感できてしまう評価をしていた。「なにがあ〜や〜や〜、だ!」とか怒りながら三人祭りの「チュ」はやってしまうあたりに石橋の嗜好が出ている。三人祭りには松浦もいるのだが、石橋には見えていないのだろう。「作りこみ」系という点で加護と松浦は同質ともいえそうなのだが、何が違うのか、どうも言語化できない。

それはさておき、藤本なのだが、四期増員時の落選メンバーだと聞いて、とたんに興味が湧く。まあ、辻加護石川吉澤と比較すれば一枚も二枚も落ちるのは明白で、落選は妥当なのだが、でももともとモーニング娘。って落選組というのがアイデンティティだったころもあったんだよね。落選組に入るためのオーディションに合格者が入り、落選者が改めてデビューというのも考えてみれば不思議な話だ。「落選組」というところに感情移入をしてきたファンは、では今はモーニング娘。よりも藤本を応援すべきなのだろうか、とか。まあ、そういうひねこびた心性の持ち主はとっとと別のB級アイドルを応援しているのだろうが。

でもここはあえて落選組にこだわって、合格者はソロデビューとかさせて、椛木?とか今度の藤本とかを増員メンバーにしていたら、と想像したりする。となると後藤も加護もいないのか。辻とか紺野はいてもいいだろう。これはこれでつかみ所がなくて、まったりしていていい面子だと思うけど、売れてないだろうなあ、やっぱり。

(2002年3月16日)

ムネオの声

ダメダメ妄想日記さんが鈴木宗男問題と「声」を話題にしていたのをヒントに考える。

まずラカン・ジジェクの「声」。「声」とは言説の残余の位置に置かれる。しかしだからといって仮にこれを言語の牢獄に先行するもの・そしてそこから逃れるユートピア的契機とみなすとすると、ラカン/ジジェクの主張とは全くずれてしまう。

現代思想に精通している読者は、おそらく「視線」や「声」を、デリダ的な脱構築作業の第一の標的とみなす傾向があるに違いない。視線とは、「物自体」をその形式の厳然の中で、あるいはその現前の形式の中で捉えるテオリアでなくして何であろう。声とは、話す主体の、それ自体−への−現前を可能にする純粋な「自己作用」の媒体でなくして何であろう。・・・脱構築は、声の自己現前がつねに・すでに書記の痕跡によって引き裂かれ/引き伸ばされていることを暴露する。しかしここで、われわれが注目しなければならないのは、ポスト構造主義的脱構築とラカンの間には何の共通点もないことである。ラカンは視線と声の機能を脱構築とはほとんど正反対の方法で説明する。ラカンにとって、これらの対象は主体の側ではなく対象の側にある。・・・声は・・・やはり一つの染みとして機能し、その染みは目立たない形で現前することによって、異物として介入し、私が自己同一性を確立するのを邪魔する。

S. Zizek, Looking Awry

声なるものを厳密にラカン的に捉えなければならない。すなわち、(デリダにおけるように)意味の充溢と自己現前の担い手としてではなく、意味のないオブジェ、つまり意味作用の物質的残滓、残り物として。声とは、意味を生み出す「キルティング」の遡及的作用をシニフィアンから引き去った後に残るものなのである。この声の物質的状態がもっとも明瞭活具体的に表現されたものが、催眠的な声である。同じ言葉が無限に反復されると、われわれは混乱し、言葉はその意味の最後の痕跡をもうしない、残っているものといったら、眠気を催させる一種の催眠力を発揮する。

S. Zizek, The Sableme Object of Ideology

もっとも(これは常にそうなのだが)ジジェクはデリダを過小評価している。デリダとてあの「声」を脱構築することによってジジェク・ラカンと同じ「声」を発見しているのである。要は、「意味」を欠いた単に物質的なる存在としての「声」を両者は引き出そうとしたのである。

さて、鈴木宗男だが、さしあたり彼が「悪である」のは、彼が「私」の欲望の鏡だからである。彼(=国会議員)は「そうであってはならない」。彼の行為は「国家」(=他者)という文脈において意味を持たなければならない。ところが彼の行為はその文脈からずれてしまった。このずれがひとつの問いを生み出す。「汝何を欲するか」。この問いの答えは、彼がそうであってはならないものとして(「私利私欲に走る私人」)、彼自身が回答できない形で既に解答は出ている。問いの答えはわかっているのに、彼は答えられない。そうであるがゆえに彼は悪なのである。

では、彼がケツをまくればどうなるか。彼が引きかぶったさまざまな「意味」を脱ぎ捨て、「解答」を叫べば彼へのヒステリー的な追求はやむか。おそらくそれ自体は止むであろう。ただし彼は救われない。そうした「意味」をすべて取り払ったあとには(そして彼が自ら脱ぎ捨てる以前に既に実質的には完全になくなってしまっている)、かつては「恫喝」ととられた同じ「声」がワイドショーでこっけいな「声」として延々と反復されつづけるだけだ。そしてこの「声」が今度はわれわれをして強迫神経症的に彼を責めさせる効果をもつだろう。要するに彼は「意味」と「声」、二重に責められているのである。

(2002年3月15日)

差別問題の二重性

「金八先生」が今は性同一性障害について扱っているようだ。「今は」というのは「前」は同性愛を扱っていたことがあったという含意だが、この二つをセットにして考えてしまうあたりが「私」の限界ではある。それはともかく(ともかくではないのだが)、ずっと見ていなかったので、流れはつかめていないのだが、見た限りではこちらのほうはかなり真摯に描いているようだ。周りの生徒の描き方は、このドラマは常に甘ったるいのだが、おそらくドラマで描かれているよりずっと「冷淡」なものであろうと思うが、それはドラマだからある意味仕方がない。登場人物が問題を大げさに受け止めなければドラマにならないのは確かだろう。少なくとも「真摯に受け止めよう」とする教師集団の戸惑いなどはかなりリアルに描かれていると思う。

さて、ここから本題なのだが、書いたように同性愛に対する描き方は、これとは対照的に及び腰だった。今も授業で「性」をやっているのだが、「セックス」「ジェンダー」はあつかうが「セクシュアリティ」は見事にすっ飛ばされていた。なぜか?というのがここでの問題だ。

おそらく理由は2点ある。ひとつは「セクシュアリティ」の問題は秘すべき性行為とかかわっており、「教育ドラマ」では扱いづらい、というのがあるだろう。もっとも「妊娠」問題なんかは扱っているのだが、「できちゃった」ものは避けられないから扱いやすいが、それ以前のセクシュアリティの問題は避けたい、と。

もうひとつは「性同一性障害」は「障害」だから避けがたいものであるがゆえに、周りがきちんと受け止めなければならない。ところが「セクシュアリティ」は「志向」の問題だから、回避可能である、と。

ここに差別問題の重層性があって、一方では「回避」不能とみなされたものは徹底的に「外」のものとして排除される。ところが「回避」可能とみなされたものは、可能であるにもかかわらず回避しないのは本人の責任である、とみなされ、その内面へ視線が注がれるのだ。「金八先生」がこの問題を扱い得なかったのは、生徒が性行為を考えること自体への恐れがあったからで、本人が「考えない」という回避をすることによる解決を呼び込むことだ。これを裏返せば、それを回避しない人間=同性愛者は「性行為を考える人間」であるということになる。「内面へ視線が注がれる」とはそういうことである。こうして同性愛者は「正常な」「性的」存在とされる。

フーコーっぽくいえば、前近代には排除の差別が主流であったのが、近代とともにこの監視型の差別が広まることになるということになるだろうか。差別がひとつの秩序現象であるといえば、差別のこの二つの型はおのおのの時代の秩序現象に即したものであるといえるだろう。身分社会における特定の存在の排除。資本制社会における主体化。もちろんこの区分は差別される対象の問題ではなくて、差別する様式の問題である。したがってひとつの差別現象のなかに両方のロジックが内在している、と考えるべきだ。

そしてさらに排除型の差別がなくなるといっているのではない。ただ監視型・主体動員型のこの差別様式はすぐれて近代的なものであるというのは確かだ。排除してその存在を消し去るのではなく、逆に徹底的に可視化し、「理解」し、飼いならす。そしてまたこうした型の差別問題への捉えかたが排除型のそれとは異なったものとならざるを得ないのもまた確かなのである。「彼らのことをもっと理解しましょう」。<われわれ>は既に<かれら>を十分に知っているのだ。<かれら>はそこにいるのだから。それゆえたとえば、カムアウトという戦略の有効性をも問い直さざるをえなくなる。「さあ、君のことを語りなさい」。この呼びかけは解放への道か、それとも見世物小屋への誘いかけか。

困難は、前に書いたように、ひとつの差別現象に二つの様式が混在することである。社会的に抹殺されていたものがその存在を語りだすやいなや、その存在は監視の対象になる。しかし存在が承認されない限り、抹殺されつづける。この背理に今の差別問題は常に立たされるのである。

上の記述はE.セジウィックの「本質主義/構築主義」批判を踏まえているが、この「本質主義/構築主義」という対立を単に差別を捉える枠組みとしてだけでなく、日常的な差別実践の場において捉えるべきであることがここでのオリジナリティである。そしてこのオリジナリティは私のオリジナルではない。オリジナルはいずれどこかで発表されるであろう。

(2002年3月14日)

バトラーとジジェク

二元論においては「サヨク」も「ウヨク」も同じ思考形式をとるもので、下の例では「価値」を「みえないもの」の側に置くものだったが、その逆もあって、「悪」もまたその「見えない」ものの側に置かれるのである。「サヨク」なら、「日帝」「米帝」「権力」。「ウヨク」なら「アカ」「精神の退廃」。こうして「見えない」ものの側に原因なり根拠なりを置いてしまえば、後はただひとつの問いを繰り返しておけばよいことになる。「真の・・・はなにか?」。この問いは永遠に答えられることはなく、ただ問いだけが反復され、その問いに対する答えがアドホックに代入される。これこそがイデオロギーの典型的な形態なのである。

もちろんジジェクの二元論はそうした誘惑から逃れようとしている。「原因(根拠)は不在だ」と宣言することによって。そうして「見えないもの」は原因ではなくて結果、存在ではなくて効果としてたち現れてくることになる。このあたり、ジジェクのうまさなのだが、その言説の効果として出現する「現実界」は「言説」ではないのか?というのがバトラー・ジジェク論争のさわりになる。バトラーはそれも「言説」として捉えうるし、そうすべきだ、と主張するのだが、ジジェクは「現実界」「効果」であるにもかかわらず「言説」に先行するというトリッキーな議論によって、「現実界」の「言説」との分離を主張するのである。

無責任な言い方をすれば、このあたり、ロジカルな決着はありえないように思う。なんとなれば、双方とも「構造的因果律」を認めており、ロジカルには両者は等価であるといいうるからだ。となれば、むしろこの同じロジックをどれほど有効に示しうるか、という議論の生産性に両者の評価はゆだねられるよりないように思われるのだ。

(2002年3月13日)

そしてパスティーシュに行き着く

「憂国の士」がだめなのは「私」と「国家」の間にある途方もない距離を一気にすっ飛ばして、すぐに向き合えるかのように振舞うことだ。要は小林よしのりの言う「純粋まっすぐ」君なのであり、それにどっぷり浸かっているのが彼自身だ、というのが笑い話だ。その裏返しはもちろん「サヨク」にもあって、こちらは反秩序的なるものが実在していてそこに直ちにアクセス可能だということを前提に議論を進める。もちろんその「反秩序的なるもの」は「純粋まっすぐ君」の預かり知らぬところで決定される。「労働者」かもしれないし、「被差別者」かもしれないし、「カオス」かも知れぬ。そういうものを措定してしまえば社会が「分かる」。

フーコーが対峙したのはこうした社会観であり、フーコーはこうした途方もない距離を、「言説」の働きを見ることで少しずつ埋めていこうとしたのである。言説は社会の幾つもの矛盾、亀裂を抱え込んで存在している。その亀裂の痕跡を手がかりに「社会」に迫ろうとするのである。言説一元論とは、二元論の平面的な社会観に対抗して、社会の重層性を押し出すものなのである。

こうした「言説」こそが社会を構築し、実在せしめているのだ、という立場にたったとき、そうした言説に如何に対抗しうるか、というのがフーコー以降の問いである。われわれが「言説」の外に逃れられないのであれば、そしてあらゆる言論が言説となるのであれば、われわれは完全に出口がなくなってしまうのではないか。これがフーコー自身が答えようとし、そして残した問いであった。この問いに真正面から答えようとしたのがデリダであり、その影響を受けたアメリカ批評理論である。

言説実践の外側に行為体や現実が存在する可能性はまったくなく、行為体や現実に理解可能性の資格を与えているのは、ただひとつ言説実践のみである。それゆえ課題は、反復すべきかどうかではなくて、どのように反復すべきかということである。

Judith Butler Gneder Trouble
(2002年3月12日)

いまさらのWindowsXPレビュー

前回の日記を書いて以降、ずっとWindowsXPをいじっていた。ちょっとはもの考えなきゃなあ、と自己嫌悪に駆られつつ、結局一日中WindowsXPと戯れていた。思ったよりいじり甲斐のあるOSなのだ。とにかく見かけがいじれるというのは結構はまるもので、前にこのサイトのデザインをいじっていたとき以来にはまってしまった。とりあえずAQUA調にしてみたのだが、これもいろいろなスキンがあって、一通り試してみるだけで時間を取る。

OS自体はそれ以前はWindows2000からのバージョンアップだったので、さほどたいしたことはない。思ったほど重くはなく、思ったよりも安定していた。Windows2000はPCカードとACPIがらみが多少不安定なところがあったが、それがすっかり改善されていて、よかった。UIもあちこちで酷評されているが、デフォルトの色使いはともかく(それは前述のようにさっさと変えてしまったので)、使い勝手自体はWindows2000からして、一応進化していると思う。たぶんパソコンをはじめて触るという人には旧来のUIより使いやすいと感じるのではないだろうか。意外と初心者がつまずきやすいところがうまく拾い上げられて手直しされているのだ。たとえばスタートメニュー。スタートボタンを押すと手がぶれて間違ってWindowsの終了画面が出てきて慌てる、という人が案外多いのだ。新しいスタートメニューでは終了の選択がずれたところにある。ブラウザーとメーラーがわかりやすい位置にあるのもいい。「どうせそれしか使わないのだ」。

ただそれならいっそスタートメニューなんかやめて、クイック起動をわかりやすくしたGnomeのパネルみたいなのにしたほうがよりわかりやすかった気がするのだけれど。となればLinuxだって一度セットアップさえしてしまえば(今のWindowsも設定済みで売られているのだ)、ブラウザとメーラを使うだけなら十分初心者にも使いやすい環境だ。「どうせそれしか使わないのだ」。

(2002年3月12日)

昨日の補足

さるPCショップの3月末日までの2000円商品券を使わなければならないというつまらない理由でWindowsXPアップグレードパッケージなるものを購入してしまい、また古いスキャナーのドライバーがないというくだらない理由で予定のデスクトップへの導入がならず、仕方ないのでThinkPadX20にインストール中。LAN経由でインストールしているので時間がかかる。X20もメモリが少ないし、さくさく動くとは思えず、何気に憂鬱。と、まあそんなわけでセットアップ中ひまなのでこのページを書く。内容はない。それではあまりなので昨日の続きというか補足ということで、長い引用。

教授たちは大学的特殊語を自身ありげに用いる。だがそうした言葉遣いは、意味論のかすみに対する学生たちの寛容と同様、偶然のものではない。言語的誤認を生じさせ、またこれを容認させる諸条件は制度そのものの中に刻み込まれているからである。教師たちの言語においては、分かりにくい、または未知の言葉は常に、どこかで聞いたことがあるという感情をもたらすことのできるステレオタイプ化された形態の下にあらわれるが、それだけではない。この言語はその十全な意味作用を、社会的、儀礼、間のリズムを含んだ教育的コミュニケーションの行われる状況に負っている。要するに、一個の正統的文化を押し付け、教え込む行為としての教育的働きかけを構成している可視の、ないし不可視のもろもろの拘束の全システムに負っているのだ。この制度は、伝達すべきものを伝達するのにふさわしい教え込みの任を託された人間をすべて指名し、聖別し、それゆえ保証つきの社会的賞罰によって受容を押し付け、その教え込みを統制することを権威付けることで、教授然たる言説に、地位に基づく権威を付与する。そしてこの権威は、コミュニケーションの伝達効率という問題を、とかく退けがちである。・・・学生と教師は、もっぱら、それが制度に対する義務だという理由で、教育的コミュニケーションの中に実際に流通している情報の量を過大評価するのを(それぞれに、相互的に)自分たちの義務と考えている。

Pierre Bourdieu La Reproduction

このあたりのリアルにシニカルな記述はブルデューの腕の見せ所で、解説の要もない。ただこれをリアルと感じる層は限定されるかもしれないが。

(2002年3月10日)

言語活動の世代論

昨日は飲み会に行ってきた。想像していたのとは違ってとても楽しい席であった。当初聞いていた面子とは違ってもっと若い人たち(と書く私は何歳だ?)が来ていて、楽しかった。何より「まっすぐ」話を聞いてくれ、「まっすぐ」話をしてくれる。「まっすぐ」というのは小林よしのりが悪意をこめていっているような含意ではなくて、くだらないもったいぶった物言いや抑圧的な沈黙などがない、儀礼的ではない会話だという意味においてである。

私は、長期的には、楽観主義者である。私は自分以降の世代の感性を本質的に信頼している。あるいは逆にある世代に対する絶対的な不信感があるのかもしれない。たとえば鈴木宗男という人間は「橋本派」、「自民党」、「政治家」・・・の悪しき表象のごとく言われるが、それはそれとして、ひとつの世代を代表した人間であるようにも思えるのだ。権威主義的な縄張り意識(派閥好き)、「何々してやったのは俺だ」という下卑た自負心(「俺が集めてきた税金だ」)、そして相手を威圧し、従わせようとするかの語り口。己の言葉に常に「誤認」の余地を残そうとするやり口。まあそんな人間はどの世代にもいるだろうが、なんとなくそれでも特定の世代に偏って存在しているような印象を持っている。もっとも世代の問題なのか、社会的地位の問題なのか(ある世代がその社会の中枢を担うから)、一概には言えないのだが。

語りの背後にさまざまなメタメッセージが存在しているような会話を私は嫌う。それならばその対極の、ただ言葉だけが表面的に反復される空間のほうがよほど気持ちいい。携帯での「無意味な」会話やネット上での言葉の垂れ流しを嫌う人間は往々にして言葉に過剰な期待、リアルな場での主体性など、を求めすぎているのだ。そしてそういう期待こそが言葉のイデオロギー性を産出するのである。

(2002年3月9日)

モモイカオリ

ねえ、世の中「憂国の士」が多くて疲れません?

(2002年3月8日)

私はイデオロギー的だ

いわゆるテキストサイト界隈ではなにやら「青少年を悪しき情報から保護しましょう」基本法とかいう法律案が国会に提出されたとか何とかで騒々しい。まああれですな、「ロリは社会のくずだから取り締まりましょう」法とか、「貧しい外国人は犯罪予備者だから締め出しましょう」法とか、「テロの危険を理由に自衛隊を晴れの舞台に出しましょう」法とかそんなのといっしょにドサクサ紛れにやりたいことをやっちゃおうってことですかね。まあ小泉人気の最後のご奉公って所ですか。まあいろいろやってくれるものです。

と、なんかテンションあがっていないんですが、まあ法案自体は全くばかばかしいものでこんなものがそのまま国会通るわけないだろ、という感じで、もう少し様子見モード。というか自民党、この期に及んで何をトチ狂っているんだ?そんなに今の社会状況が恐ろしいのかしらん。このままじゃあ社会が壊れる!みたいな。そんなにあせってもどうにもならんよ。元来「秩序大スキ!」という心性を持つべきプチウヨどもがなんだかんだ一番の秩序破壊者だったりするんだから、いまさらあわくって「精神」をどう弄くっても流れは止まらんだろう。宮台流にずるして言えば、要するに今の流れは社会システム論的に必然なのだから、それを押しとどめようとしてもそれは徒労に過ぎず、それよりも今の状況に添った形でより合理的な社会というものを構想しなおさなきゃ仕様がないというものだ。まあこちとらは「権力」どもの無駄なあがきによる闘争の激化を高みの見物と決め込もうか、という気分だ。もちろん反対の声はがんがんあげたらいいと思うけど、正直言ってそんなことしなくても、法案がとおるとおらない以前に「奴ら」の敗北は決定しているので、あまりしゃかりきになる気がしない。反対運動に水を差すつもりはもちろん全くない。熱くなるのは時に大切なことだと思っているし、ただ私は今回はそういうモードじゃない、というだけのことだ。

で、その絡みでキッズgooなる、心温まる、ほのぼのとした、殺伐としたネットのオアシスみたいなポータルサイトの存在を知った。こういうサイトを知ると、ギスギス社会をくさしている自分がいやになるよ。ああ、子どもは天使なんだ。私もそんな天使の心を取り戻さなきゃ。私がどれほど穢れた大人だったのか、よし自分のサイトを神様に判定してもらおう。

「ごめんね。ページがひょうじできませんでした。」

悔い改めません。

(2002年3月7日)

ただの愚痴日記

というので取り留めのない話をする。今唐突に、実践的・現実的そしてそれだけに切実に考えているのは、私が望んでいる「関係」とはいかなるものか、というようなことである。そんなことを考えるのは、あまり望んでいない関係というのがどうしてもあって、それがお金をもらえる仕事ならまあ仕方ないと思うのだけれど、そうではない場での望まざる関係というものを久しぶりに思い出したからだ。その場に出たところで話すことがない。話しても面白くない。話が生産的でない。そういう気分なのだが、なぜ、どういうたぐいの話がなされる場をそう思うのだろう、と考えている。あるいは逆にどういうたぐいの話なら面白いと思うのだろうか、と。

あたりまえの話だが、このサイトは自分が面白いと思う話を書いている。うまく書けているかどうかとは別に、うまくかければ面白い話を、である。もちろんネットという場自体の属性からしても、それは自己満足に過ぎないのだが、それでも痕跡の幻想ぐらいは見ることができる。しかしそういう幻想を抱くどころか、徒労感と自己嫌悪しか残らないコミュニケーションというのも存在するのだ。

別にアルチュセールだ、ジジェクだという話が通じる、通じないとか言っているのではない。話題の「次元」(メタかそうでないか)の問題ではないのだ。話題は外務省問題でも、阪神タイガース論でも、モーニング娘。批評でもなんでもいいのだ。そこに「面白がる」という程度でも当事者性を持って語れれば自己嫌悪など感じるはずもない。

そうではなくて、私が居たたまれなさを感じるのは、たとえば噂話、ゴシップめいた話、業界ネタの類である。要は内輪の、そのくせ当事者性をまるで持たないしゃべりである。思想なんてものをぶつける気などさらさらなくて、ただその場での己の居場所の確保に汲々とする会話。研究の話になっても、己のそしてその場の無難さを確保するためだけの会話。学会のあととかの懇親会で話されるのがこのたぐいの話ばかりなのだ。

そういう場から、ほとんど身体的な反応として距離をおいているのだが、そうしてその結果将来に何の展望もないのだが、そうしていても誘いが来るときには来る。まあ今回のは義務性のある話ではないし、私もその場を作る当事者なのだし、酒の勢いでも借りて暴走でもするか。でも気が乗らない。

(2002年3月6日)

J. バトラーに関する備忘録

「コラム」といえるようなまとまったものを書きたい、と書いたし、そう思っているけれど、備忘録あるいは一般的な日記代わりにもこのサイトは使いたいというのもあって、たまにはまとまりのない、散漫なことをかいておくのもいいだろう。そんなものを不特定の人に公開するというのも何ではあるけれど、あまり読者を意識する必要を感じていないので(意識していない、ということでは全くない)、かまわないことにする。

いまちょっと考えかけているのが、やはりフーコーとジジェク、アルチュセールの関係で、その手がかりにJ.バトラーを持ってきたらいいのではないか、と。『ジェンダー・トラブル』には詳細なフーコー言及があって、ジジェクのフーコー言及との同一性や差異を考える。思いつきだけで言うと、フーコーは閉ざされた「言説」空間にとどまったがゆえに議論のダイナミズムを失った(主体をアプリオリに措定せざるを得なくなった)とジジェクは批判する。言説の外部としての「現実界」をフーコーは軽視したのだ、と。バトラーもフーコーを、その主体概念のアプリオリ性において批判するのだけれど、ジジェクの批判とは方向を違える。むしろ言説(象徴界)・現実界の二分法こそ問題であって、フーコーは言説の外部を見なかったのがだめなのではなくて、言説の中に主体を位置付けられなかったのが問題なのだ、というのがバトラーのフーコー批判だろう。もちろん両者の「対立」はこんなに単純化してはまずくて、ジジェクは別にいわゆる二元論者ではないのは明白だが、それでもバトラーがすべてを「言説」に取り込む方向性を模索しているところからすれば、ジジェクは一元論者ではない。というより、バトラーが相当にラディカルな、しかも自覚的な一元論者なのである。

このバトラーの言説への主体の取り込みを可能にする手がかりを与えているのが、アルチュセールのイデオロギー論なのである。ただしバトラーはさらにアルチュセールを「徴候的に」読む。アルチュセールが、イデオロギーの原理を「呼びかけ」と「応答」のメタファーで説明したのに密着して、「応答する主体」が存在する場を追求していこうとするのだ。

(2002年3月6日)

徴候としての保守主義

経済学が見ないものは、それが見ているものである。それは経済学に欠けているものではなくて、反対にそれに欠けていないものである。それは経済学がしくじるものではなくて、反対に、それがしくじらないものである。見そこないとは、見ているものを見ないことであり、見そこないはもはや対象にかかわるのではなく、視覚にかかわる。見そこないは見るに関わる見そこないである。見ないことは見ることの内部にあり、それは見ることのひとつの形式であり、したがって見ることとの必然的関係の中にある。

Louis Althusser Lire le Capital

ジジェクの論考の中でもっとも「アルチュセール的」だなあ、と思うのが『快楽の転移』の第六章「オットー・ヴァイニンガーもしくは『女は存在しない』」である。「アルチュセール的」という物言いもずいぶん権威主義的な感じだが、そういうのではなくて、単に議論の進め方がアルチュセールっぽいなと思ったというだけである。

それは要は「徴候的読解」というやつで、あるテキストをそのロジックに従いながら、きっちり大まじめに読み解いていく。そのテキストは時流からすれば明らかに遅れたテキストだ。このテキストはある対象に実体的な属性が存在することを前提に、対象を読み解こうとするのである。それはマルクスにおける古典派のような存在である。ジジェクは、マルクスよろしく、それを中途半端に相対化せず、逆にそのテキストに密着していくのである。

そうしてその記述を最大限に、限界まで突き詰めていく中に、記述上の「空白」が浮かび上がる。テキストは安定した記述を提供しているのだが、それは「空白」を提示することで、別のロジックを「無意識のうち」に呼び込む。それによって開示されたロジックこそが、このテキストの読解によって生産された新たな「概念」である。これこそが科学的な作業である、とアルチュセール流に言えばそうなる。

しかし概念を生み出す契機としての「空白」を目に見えるようにする作業自体は実はさして革命的な作業ではない。なんとなればそれはテキストの中に「すでに」示されているからである。かれらは「自分でも気づかないうちに地盤を変更してしまって」いるのである。そしてそのことに自ら気づいてしまったヴァイニンガーは「そのことを知っていることが、どうしても耐えられなかった」。そうしてヴァイニンガーは死を選んだのだとジジェクはこの論考を締めくくっている。

(2002年3月5日)

科学的全体主義

語りの順序を反転することによって、徹底した宿命論が強調されることになる、と考えられるかもしれない。すべては最初から決まっているのに、登場人物たちは操り人形のように自分では何も知らず、すでに書かれた筋書きの中で最後まで自分の役を演じきるのだ、と。だが、もっと細かく分析してみると、出来事こうした逆配列によって与えられる戦慄の背後に、宿命論とは違うもうひとつ別の論理、すなわち「私はよく知っている、それでも・・・」という物神的な分裂の形が見えてくる。(中略)まさしく時間的配列の反転によって、われわれは物語の連鎖がまったく偶然的なものであること、すなわちすべての転機において物事は別の方向に進んだかもしれないという事実を、実感させられるのである。

Slavoj Zizek Looking Awry

こうした逆説をまさにジジェク自身が「よく知っている」地点から語る。彼はいつも「斜めから見」ているし、シニカルに「すべては誤読だ」などと言い切れるのである。だからといってジジェクが本質論に陥っている、ジジェクの議論は具体性・歴史性を欠いているのだなどと批判するつもりはない。こうした批判はまさにためにする批判の典型であり、あらゆる理論は具体性を欠いていると言いうるし、逆に十分に具体的な記述は理論ではない。ここで言いたいのは、そうではなくて、ジジェクのロジックの立て方の問題である。

もしジジェクのロジックどおりに「それでも・・・」を浮き立たせようとするのであれば、「よく知っている」事態を徹底的に描ききることが第一になすべきことのはずだ。「客観的」「科学的」記述を骨太に追及しつづけることによって、そこから必然的に記述上のある「空白」(それでも・・・)が浮かび上がってくる。ジジェクはロジカルには自らそう主張しながら、自身は最初から「それでも・・・」を語ってしまうのである。それは楽なのだ。

相対主義・多元主義を最初から唱えるのも同様の安易さを含んでいる。むしろいったん愚直に客観化、全体化を推し進める作業のほうがよほど誠実というべきではないか。そうした作業は確かに現代の思想風土においては周回遅れに見えるだろうが、その中に次なる発展の土壌が存在しているのではないか。パーソンズと有象無象の多元論者の「差」をみればいい。

枠組み全体の閉止=完結性からは、学ぶべきものは多い。たとえば開かれたものを、詳しく検討することもなく、ただ一方的に「自由」と決め付け、二項対立をなすもう一方の側つまり閉じられたものを「全体主義」と決め付けているような「多元論」がまかり通っている現代アメリカのイデオロギー風土の中では、この枠組みが示唆するものは大きい。(中略)現代の多元論がさまざまなイデオロギーを駆使しながら熱心に説いている解釈の多様化プログラムには、胡散臭さを感じている。そのようなプログラムは、解釈によって得られた結果を体系的に分節化したり、全体化したりする作業を封じ込めてしまい、その結果、解釈相互の関係をめぐる問題、またとりわけ歴史の占める位置、物語生産とテクスト生産の究極的根拠に関する問題が、手付かずのままかえって厄介な問題として取り残されてしまうからである。

Fredric Jameson The Political Unconscious
(2002年3月3日)

一般性と時代性

下でまとまりを持ったものを書きたいと書いた尻からやる気がない。頭が痛くて一日中ぼんやりしていた。

ビートたけし主演の「張り込み」を見た。ビートたけしは役者としては最高だ。じっくり抑えたいい演技をする。ついでに鶴田真由はつくづくきれいだ。鬱々とした夏の田舎に一瞬の輝きを放つ女。鶴田真由、いいなあ。

というのでいいドラマだった。ただ時代設定が違うんじゃないか。清張原作なので「戦後」の雰囲気、貧しさが前提になっている話なのに、現在の話としてドラマにしてしまうものだから、肝心の「鬱々とした」感覚がいまいちしっくりこない。けちでつまらぬ夫に黙って従う女、という設定にいまいち説得力を欠くのだ。

江戸川乱歩とか現代ドラマで再現しないんじゃないかなあ。清張ドラマも無理に現代仕立てにしなくても、時代物として扱ったほうがいいような気がする。もちろん作り手は清張の描いたところのものは現代でも通用する、という思いがあるのだと思う。それはそのとおりだが、そういう一般性こそ、逆にその時代に密着する形で具体的に描き出したほうがよいのだ。それにしても鶴田真由はいい。ふむ。

(2002年3月2日)

修行の場

月代わりに区切ると途中の話が区切れて不便だ。というか、一回の話はきちんとまとめて書くべきだ、という思いはある。本当は「残骸」程度のものを毎回書ければいいのだろうが、それでは更新頻度が下がりすぎる。だから長さとか内容的なボリュームとかはもっと絞って、小ネタひとつで400から800字程度のコラムを書く、というのがいいかもしれない。

ログは流れると思うけどニンジン戦線さんがそれなりにまとまった文章中心のコラム系サイトリンク集を作りたいといっていて、結構心引かれる。それぐらい「縛り」があったほうがかえってサイト間の個性が出るような気がする。「テキストサイトに文章力は必要か」論争なんてものがあったりするのだが、多くのサイトにおいて、モーニング娘。の曲に歌唱力が問題にならない程度に、無関係だというのが正解だろう。文章を垂れ流したいときもあるわけで、それはそれでいいが、短くてもきちんとまとまったものを定期的に書く、というのもトレーニングとしてはいい機会になるだろう。

こうして駄文をサイトとして不特定多数に公開するだけでもずいぶんトレーニングにはなっている。前はメールで送りつけたりしていたけれど、知り合い相手だと甘えが出て文章の体をなさなくなることが多い。このサイトでは多少気を使って書くようにはなっているのだ。その代わりサイトでは反応がほとんどない、というので良し悪しだ、というのはいささか負け惜しみが過ぎるか。

(2002年3月1日)

★想像どおりの二月

(-2002/02/28)



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